白
濃い緑の香りを運ぶ涼風が、大木の枝に座る小雪の髪をさらりと撫でていく。愛しさと悲しみの入り混じる白い風とは似ても似つかない優しく穏やかな風は、やはり小雪に鈍い痛みをもたらす。一年中、どの季節に吹く風も、たくさんの思い出に溢れていて。とくり、とくりと心が揺れる。
そんな人間染みた感傷に浸る自分を愚かしく思うのだが……その思い出を捨て去ることも出来ず、気がつけば溜息ばかり。
けれど、その想いに囚われてばかりいるわけにはいかなかった。時折小鳥の囀りが聞こえるだけの静かな森の中に、ガサガサと草の根を掻き分けてやってくる、忙しない足音がある。それに鋭く意識を向けた。
「姐さん、姐さん、大変だよぅ!」
丸坊主頭に十字絣の着物を着た豆太郎が、息を急き切って枝の上に飛び上がってきた。
「雪菜がまたあいつらに追われてるよぅ!」
「……またか」
薄い青の瞳に憂色を浮かべ、小さく溜息を漏らす。
「いつまでも妾が手を出していたのでは、あの子が成長せぬ。放っておけ」
「で、でも、大丈夫かな……今日は鴉天狗まで加わってたし……」
ぴくり、と小雪の形良い眉が釣り上がる。
「川に追い込んで、河童に尻子玉抜かれりゃいいって……ねえ、そんなことになったら大変だよぅ!」
「……それくらい回避出来なければ、立派な雪女になどなれん」
「でも、雪菜はまだちっちゃいし、半分人間だし……」
だから助けてやらないと、と豆太郎は小雪の袖をグイグイ引っ張る。しかし小雪は明後日の方向を見たまま動こうとしない。
「……もう分かったよ! オイラが助けてくるから!」
ぷくっと頬を膨らませた豆太郎は、怒りのためか丸い耳を頭に生えさせ、ぴょんと枝を下りて走っていった。去っていく豆太郎の足音を耳で追う小雪は、視線を動かすことなく、ぎゅっと拳を握り締める。緑の風に吹かれながら、今にも飛んでいきそうになる手足を押さえるように深く息を吐き出し、目を瞑る。けれど。
閉じた瞳の奥には、血気盛んな妖の若者たちに追い回され、傷をつけられる我が子と舎弟の姿が鮮明に浮かび上がった。
愛し子の悲鳴が耳を劈く。
「……ええい」
小雪はバッと立ち上がると、そよ風を足がかりに空へと舞い上がった。豆太郎の気配を追って飛んでいけば、眼下に数人の妖の群れを見つけた。
その群れが追うのは、白い着物を着た幼女。そして、その手を引いて懸命に走る坊主頭の舎弟だ。
「逃げ切れると思うなよぉ?」
ばさり、と黒い翼を羽ばたかせ、雪菜と豆太郎の目の前に一足飛びに降り立つ鴉天狗の子ども。
「この山は俺たちのものだ。お前のような人間風情が踏み込んでいい場所じゃ、ねぇんだよお!」
鴉天狗の頬が膨れたかと思ったら、その口から子ども二人を丸呑み出来そうなほどの大きな火の塊が飛び出してきた。
「わあああああー!」
襲い掛かる高熱に、豆太郎は慌てて雪菜の手を引いて後退する。しかし、そこには鴉天狗が引き連れていた子分たちが待ち構えていた。
ジリジリと囲まれる雪菜と豆太郎。
「ま、まめちゃん」
豆太郎の影に隠れ、怯える雪菜。普通の妖ならばここで一線を交えるところだが、ついこの間まで人の世に在った雪菜は妖としての自覚が薄く、『戦う』などということは頭の隅にもなかった
自分が鴉天狗をはじめとする『妖怪』というものの仲間であることを知った今も、幼い雪菜にはどうして良いのか解らない。
人の世界にいたころと同じように、ただ、周りの人たちと仲良くなりたい一心で。豆太郎の手を離し、鴉天狗に向かって両手を差し出した。
「お?」
雪菜の動作に、周りの者たちが一瞬警戒する。小さな白い手のひらに薄青の光が灯り、空気がパキパキと音をたてる。そうして出来てたのは、氷の器に盛られたかき氷であった。
「あ、あの……これ、あげるから……もう、けんか、しないよ?」
そう言って、おずおずとかき氷を差し出す雪菜。鴉天狗たちは一瞬だけ呆気に取られていたが、やがて大口を開けて笑い出した。
「あっははははは! コイツ馬鹿じゃねぇの!?」
ゲラゲラと笑われて、雪菜はまた豆太郎の後ろに隠れる。そんな仕草に堪らなく苛つく鴉天狗は、黒い翼をばさりと広げた。
「──やっちまえ!」
周りを取り囲む妖たちが、一斉に雪菜と豆太郎に飛び掛る。
「うわわわわ!」
豆太郎は震えながらも雪菜を護ろうと、彼女を背中におんぶしてから坊主頭に緑の葉っぱを乗せた。ぼうん、と白煙が上がり、豆太郎は巨大鳩に変化する。背に雪菜を乗せ、襲い掛かってくる妖たちの打撃や妖術をかわしながら空へと舞い上がった。
しかし慌てて変化したためか、鳩なのに尻尾が太くて丸い狸のものだ。当然うまく飛ぶことは出来ず、木の枝に引っかかりそうになりながら、ヨロヨロと進んでいく。
「フン、出来損ないの狸が」
鴉天狗は鼻で笑うと、自身の漆黒の翼を広げて飛び上がった。あっという間に豆太郎の背後につき、巨大な炎の塊を吐き出す。それは鳩豆太郎の胴体に直撃した。
「あぢぢっ!」
豆太郎は更によろける。
「まめちゃん、まめちゃん、だいじょうぶ?」
雪菜が後ろを振り返りながら、心配そうに声をかける。
「大丈夫だぁ! オイラ、雪菜を護るからね!」
と言いつつ、フラフラしている鳩は今にも地上に落下しそうだ。そこに容赦なく鴉天狗が襲い掛かる。豆太郎の遥か上空まで舞い上がり、そこから矢のように突っ込んできた。
「ま、まめちゃん!」
豆太郎は一生懸命に飛んでいるが、とても突っ込んでくる鴉天狗を避けられそうにない。おまけに、落下してきたところを袋にしようと、下では妖たちが卑しく笑って待っている。
自分がなんとかしなければ。そう思った雪菜は、着物の帯から白い扇子を取り出した。それを広げて両手で持ち、風を起こして豆太郎の飛行を手助けしようと扇ぎ始めた。
「えいっ、えいっ」
歯を食いしばりながらそよそよとした優しい冷風を巻き起こす雪菜を見て、鴉天狗は侮蔑の笑みを浮かべた。仮にも雪女であるのならば、それで吹雪でも喚ぶのが筋だろうに。
「やっぱりテメェはこの山に相応しくねぇ!」
焔色の炎を纏い、鴉天狗は雪菜と豆太郎に勢い良く突っ込んだ。
氷を一瞬にして気化させるほどの高熱を放って向かってくる鴉天狗。それを成す術もなく見るしかなかった雪菜は──。
突如として現れた猛吹雪に、豆太郎と一緒に包み込まれた。
「なっ!」
鴉天狗が慌てたように翼を止める。そこへ、丸太のように太い氷柱が雨のごとく襲い掛かってきた。避けようとする前に漆黒の翼がそれに貫かれ、後ろにあった木の幹に磔にされてしまった。
「随分と娘が世話になったようだ」
いつの間にか目の前に現れた雪女は、鴉天狗の頬にひやりとする指を這わせた。鴉天狗の顔が引きつる。
「今日のところは見逃してやる。さっさと塒に帰るのだな」
釣り上がる紅い唇に、鴉天狗は顔を真っ赤にした。
「ケッ、雪女風情が! 父ちゃんが言ってたぞ、お前なんか人間に絆された妖の恥さらしだっ……」
勢い良く捲くし立てていた鴉天狗の頭上に、ドスリと太い氷柱が突き刺さった。鴉天狗の黒い髪が、ハラハラと下へ落ちていく。彼の頭は落ち武者のような情けない髪形になった。周りで見ていた妖の子どもたちが小さく悲鳴を上げて後退りしていく。
「ほう? お前の父は……このように禿頭にされただけでは飽き足らないらしいな。伝えておけ。くだらぬことを言う前に、一度でも妾に一太刀浴びせてみろとな。でなければただの負け犬の遠吠えになるぞ。分かったか、下郎が」
恐ろしいまでに美しい笑みで凄まれ、鴉天狗はただただ、震えるしかなかった。
汚い捨て台詞を吐きながら蜘蛛の子を散らすように逃げていく子どもたちを目で追うことなく、小雪は雪菜と豆太郎を振り返る。それだけで二人を包み込んでいた吹雪がさあっと収まった。
妖力がつきて変化の解けた豆太郎は、雪菜をおんぶしながら地面に落ちた。
「ぐえっ」
腹這いになって潰れた蛙のような声をあげる豆太郎。
「まめちゃん、だいじょぶ?」
その背から下りて、心配そうに豆太郎の顔を覗き込む雪菜。
「うん、だいじょぶ……」
それに情けない笑みを向けてから、豆太郎は身体を起こし、キラキラした目で小雪に駆け寄った。
「助かったよ、姐さん~! やっぱり姐さんはオイラの命の恩人だぁ~!」
半泣きの顔で飛びついてきた弟子の丸い頭を、無表情にぐいと横へ押しやる。そして雪菜へ視線をやった。
「ほら、帰るぞ」
「かぁさまぁー……」
母の顔を見て安心したのか、雪菜は眉尻を下げ、涙をぼろぼろ流す。
「情けない顔をして。教えただろう、妖力の現し方は」
「だって、だって、けんかしたら痛い痛いだもん……」
鼻をぐずぐず言わせながらそんなことを言う娘に、小雪は溜息をつく。
「何度も言うたではないか。妖の世界と人の世界とでは、繋がり方が違うのだと」
妖の世界では、力が全てだ。妖力を見せつけることで他を従え、認め合い、対等に渡り合うことが出来るようになる。しかし雪菜はつい半年前まで人の世で育っていたせいか、妖としての自覚が無いに等しかった。おまけに半分人間の血では、妖力が決定的に欠如していた。
とは言っても、化け狸である豆太郎などよりは、よほど強い妖力を有してはいる。それを具現化出来れば良いのだが、人間としての性質が邪魔をしているようだった。
感覚の掴み方が下手なのか、単に不器用なのか、まともに吹雪をおこすことも出来ない見事な落ち零れ。せいぜいかき氷を作るくらいしか出来ないのだ。
まだ幼いから──では、済まされない世界。いつまでも小雪が手出ししていては、雪菜は妖たちに一人前とは認められない。自分一人の力で、他を認めさせなければ。
それにはどうすれば良いのか。考えた末に出た結論は、妖力を“形”にして分け与える、だった。
「……六花」
右手を真横に伸ばすと、掌が青白く光り、空気が細かく振動した。そこに集まる粒子が氷塊へと変化し、刀へと姿を変えていく。
薄青の柄、雪の結晶のような形の鍔、そして透明な刀身を持った刀は、ふわりと舞う雪を纏わせながら小雪の手の中に収まる。
「雪菜、手を出せ」
「はい」
雪菜は言われるままに小さな両手を差し出す。小雪はその上に、青白く光る刀を置いた。すると氷刀六花は、ゆらりとその姿を変化させる。大太刀から、懐刀へと。
「りっちゃん、ちいさくなった」
ぼうっと青白い光を灯す六花を目の前まで持ち上げ、しげしげと眺める雪菜。その視線に応えるように、六花は青白い光を点滅させた。
「六花は今日からお前のものだ。それで襲ってくる者を斬り伏せろ。そうすれば、お前も認められよう」
「……みんなを、斬るの?」
不安げに見上げる雪菜の頭に、そっと手を乗せる。
「誰もが通る道だ。そうやって皆、生き抜いているのだ。お前がちゃんと一人前として認められれば、母は嬉しく思うぞ」
雪菜は母と、そして手にある六花を交互に見る。戸惑いに揺れていた薄青の瞳は、やがて強い決意を表す。
戦って勝利を手にし、そして名誉とも言える畏れを手に入れる。そうすれば母が喜んでくれる。そう感じた雪菜は、こくりと頷いて六花を抱いて駆けていった。
自らの妖力を具現化したもの、六花。あの懐刀があれば、多少の攻撃にはビクともしないし、好機があれば相手の急所を容赦なく突いてくれるだろう。
そう解ってはいるのだが、内心は穏やかでない小雪。
だが、この世界で生きていくにはこうするしかない。 半妖だとてお前たちに引けは取らないのだということを、しっかりと相手に伝えなければならない。そうしなければ生きていけないのだ。
さらさらと流れていく穏やかな風に吹かれながら、落ち着かない時を過ごすこと数刻。
雪菜が帰ってきた。
懐刀を着物の袖口で抱えるようにして帰ってきた雪菜は、纏う白い着物を真っ赤な鮮血で染め上げていた。
「雪っ……」
駆け寄って小さな肩を掴み、怪我を見る。白い頬は片方が大きく腫れ、反対の頬には一直線に紅い線が走っていた。六花を抱える袖はビリビリに破れ、そこから覗く白い腕にも裂傷があった。
しかし、浴びた血ほどの大きな怪我は見当たらない。白い着物を汚す大部分の血は娘のものではない。他の者の血だ。
「やったか……とうとう、やったのか!」
小雪は歓喜の表情で雪菜の小さな肩を掴んだ。
「これでお前も一人前だ。これまでのように馬鹿にされることもないぞ!」
しかし嬉しそうに笑みを浮かべる母を見上げる雪菜は、六花を抱えたまま、ぎゅっと唇を引き結び、睨みつけるような鋭い目だ。
「……かあさまは、どうして、うれしいですか?」
「……なに?」
「かあさまは、おともだちをきずつけて、うれしいですか?」
「雪菜……?」
「わたしは……いや」
「何を言うのだ。そなたは立派だ。立派な妖としての一歩を踏み出したのだぞ。もっと喜べ……」
「うれしくないもん!」
雪菜はぶんぶんと首を振った。
「りっちゃんがおともだちを斬った。おともだちから血が噴き出して、すごくいたそうに叫んでた。いたいって……いたいよぅ……」
「お前が痛いわけではなかろう……」
「……ここが、いたい」
雪菜は六花を抱える腕を、自分の小さな胸に押し付けた。
「たたかれるといたい。斬られるといたい。いたいのは、いや。でも……わたしじゃなくても、いや。みんなが傷ついてもいたいのです、かあさま。いたいの、いや。いやだよぅ……」
ぼろぼろと、いくつもの涙が雪菜の大きな目から零れ落ちていった。泣きながら、気弱な娘がいつになく強い瞳で。いたいのは嫌だと、誰かが傷つくのは自分も傷つくから嫌だと、必死に訴えてくる。
「……馬鹿が。それではお前が死んでしまうぞ!」
そんなことは絶対にさせないと声を荒げれば、雪菜は負けじと母を睨み上げた。
「いいのっ。おともだちがいたいより、わたしが死んだ方が、ずっとずっといいのっ!」
その言葉に、ぐらりと視界が回った。
(どうして──)
この娘は。
(どうして──)
こんなにも。
自らの命を取られようとしているその瞬間にも、深手を負った化け物の心配をするような、そんな愚かなまでに優しいところまで似てしまったのか。
小雪はきつく娘を抱きしめた。こんな優しい娘を、妖として育てるのは無理かもしれない。かといって、自分が死んだ後にも生きるであろうこの娘を、自分の身ひとつ護れないような弱者にすることは出来ない。いつ何時、不逞の輩に襲われるか分からない力を持った娘だ。
小雪は選択を迫られた。
この娘を妖として生かすのか、それとも、人に混じらせて生かすのか。そして、誰かを傷つけるのは嫌だと言う娘を、どうやって護り続けていくのか。
人里離れた森の中でひっそりと暮らしながら、考えた。ときどき里に下り、人と僅かな関わりを持ちながら考えた。
雪菜の気性は人向きだ。太陽のようにあたたかな想いを人に届けることが出来る子だ。だがしかし。幼さゆえに妖力を抑えきることが出来ず、ときどき人前で発動してしまう。そして畏れられる。望まぬままに、追い出される。人の世界を。
泣きながら寝入る娘は、身体を小さく丸めて呟く。
「とう、さまー……」
そうして、また泣く。ころころと光る粒を、布団の上に転がす。
愛しい父と無理に引き離してしまった。最初の頃こそ、父に会いたい、会いたいとせがんでいた娘は、やがてまったくその名を口にすることはなくなった。まるで父のことを忘れたかのように。
けれどきっと、忘れたわけではない。ただ小雪が、哀しそうな顔をしてしまうから。こんな幼子の前でさえ、感情を押し殺すことが出来なかったから。だから雪菜は夢の中でだけ父を呼ぶ。
小雪は、その頭をそっと撫でてやるしかない。なんと不甲斐ないことかと、情けなくなるのだけれど。
どんなに時間が経っても、草太のことを忘れることは出来ないだろう。草太に良く似たこの子がいる限り。
(これ以上は、傷つけたくない……)
雪菜の頭を撫でながら、小雪は決意する。
「妾たちはこれから、結界の中で眠ることにする」
すうすうと眠る雪菜を抱き上げた小雪は、山中を歩きながら豆太郎にそう告げた。背の高い草を掻き分けながらちょこちょこ早足でついてきていた豆太郎は、驚きの表情で小雪を見上げる。
「結界って……どれくらい? 二、三年?」
「さあな……この世が変わるまで、だな」
ざくざくと草を掻き分けながら歩いていくと、少し開けたところに出た。人里から離れ、妖たちのどの縄張りにも属さず、なおかつ、『良い』風の通り抜ける場所。
小雪のような雪女は、自然の力に依存するところが大きい。ひやりとした風にざわざわと木々が揺れ、空に輝く上限の月からは銀の雫が零れ落ちてくるような澄んだ空気に包まれたこの場所でなら、長く力を発揮出来る。
「姐さん……この世が変わるまでって、どういうこと?」
「……時が経てば、妖と人との間に隔たりがなくなるやもしれぬ。それまで、この子は眠らせておく」
「そんな時がくるかな……?」
「……来ることを祈ろう」
「……もし、来なかったら? それに、そう簡単に世の中変わったりしないよ? すごくすごく時間がかかると思うよ? そんなに姐さんだって結界張っていられないでしょ? そんなことしたら、姐さんがっ……」
早口に捲くし立てる舎弟の坊主頭に、白くて冷たい手が乗せられる。豆太郎はまだ言い募ろうとしていたが、それで言葉を切った。
「妾の責任じゃ」
小雪の薄い青の瞳が、哀しげに歪んだ。
「妾のせいで、この子は辛い想いをする。あの人にも、辛い想いをさせた。全て、妾の責任じゃ。だからせめて……この子が生きられる世界へ、妾が連れて行く。この命をかけても」
「姐さん……」
豆太郎は止めようとした。けれども、出来なかった。
小雪が微笑んだから。儚げに、哀しげに。けれども、美しく微笑んだから。
豆太郎はボロボロと涙を流しながら、固く口を引き結んだ。
「妾はお前を一番信用しておる。このことはお前とだけの秘密じゃ。絶対に他言をするでないぞ」
豆太郎はこくこくと頷いた。
「オイラ……姐さんと雪菜の寝床、ずっと護ってあげるからね。誰もこの場所に近づけないように、頑張るよ」
「ありがとうな、豆」
ざらざらとした頭の感触を手のひらに覚えさせるように、小雪は豆太郎の頭を撫でた。
実のところ、豆太郎の力など微塵も当てにはしていなかった。命を助けてやったことを恩に着て、小雪のことを自分の親よりも慕ってくれていることは知っていたので、一番信用しているのは本当だ。
だが、ただの化け狸に防人のような仕事が出来るとは思っていない。小雪は自分ひとりの力だけを信じて、ここに完璧な結界を張り巡らせようとしていた。
それでも──。
豆太郎の気持ちを、嬉しく思う。純粋で優しい想いが力になるということを、小雪は知っていた。豆太郎の想いは、きっと力になってくれる。そのことに感謝をしながら豆太郎の頭を撫でていた小雪は、そっと手を離し、彼を草原の隅へと手を振って追いやった。
ぐるりと木々に囲まれた草原の中心に立つ小雪と雪菜は、銀の三日月から零れ落ちる弱々しい光に照らされる。その光で青銀色に染まる娘の髪をそっと撫でてから、その手をぎゅっと握り締めた。
そこに力を込める。この子を護るための力、ここに集え、と。
白い妖の身体から、ゆらり、と青白い光が立ち上る。それはさらさらと、清らかな水の流れのように小雪の身体の回りをたゆたった後、一気に放射状に広がっていった。
銀の月の弱い光だけに包まれていた草原が、一瞬だけ真昼のように明るくなる。あまりの眩しさに、豆太郎は腕を掲げてぎゅっと目を閉じた。
だが、それもすぐに収まり。
再び豆太郎が顔を上げたときには、辺りは元の静かな闇に包まれていた。ただ緑の風に乗って、花びらのように白い雪が舞っていただけだった。
極光のように、ふわり、ふわりと揺れる蒼の世界。その中に落ちた二人は、穏やかであたたかな海の中に包まれているようだった。ゆるやかな波を漂う小雪は、雪菜を抱きながら薄く目を開ける。
目の前にある優しい蒼は、萌えいずる、新緑の蒼。大地を覆う、力強い蒼。太陽の光を受ける、眩しい、蒼──。
(……草太)
小雪の瞳から、はらりと涙が零れる。
この護りの結界を創り上げた力は、小雪だけのものではない。娘を護ろうとする小雪に同調するように現れた、もうひとつの力。
草太の力。
(まだ、妾たちのことを、想ってくれているのか……)
まだ共に暮らしていた頃に、強靭に張られていたあの結界と同じ力が、この空間には働いていた。もしかしたら気づかなかっただけで、この半年の間、ずっと草太の力は──想いは、傍にあったのかもしれない。
だから強力な妖に狙われることもなく、雪菜もあの程度の怪我で済むような争いにしか巻き込まれなかったのかもしれない。
小雪が草太を想うように、草太も。
想ってくれているのかもしれない。
(ありがとう──)
はらり、はらりと零れていった涙は、優しい蒼にとけていく。
とけて、交じり合って。
泡沫ではなく、夢幻でもない、強い想いとなって、二人をそっと包み込む。
そうして小雪と草太の想いがとけた蒼の海は、白い妖たちを望んだ世界へ。ゆらり、ゆらりと、優しく、運んでいく──。
(了)