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白幻夢  作者: 咲倉ゆら
6/7

 十月十日、おなかの中で育まれた命は、しんしんと雪の降る静かな夜に産声を上げる。


 名は雪菜、とつけられた。




「うわぁ、かわいいなぁ!」


 約束通りというか、宣言通りというか、狸の豆太郎が雪菜の誕生を嗅ぎ付けてやってきた。小雪に抱かれている雪菜を見て、小雪と草太の顔を見比べる。


「姐さん……よりは、草太の兄ちゃんに似てるかなぁ。まんまる目とか」


「ははは、そうかい?」


 豆太郎に大福を出してやりながら、草太は笑う。


「小雪に似た方が別嬪さんになるだろうに……」


 なんて言いながら、とろけそうな笑顔である。近所の人たちから似ていると言われるたびに、情けないくらいに顔が崩れている草太。それを呆れながら、しかし微笑ましく感じている小雪である。


「だけど、小雪にこんな小さな知り合いがいるとは思わなかったよ」


 と、坊主頭の少年を見下ろす草太。


「うん、オイラはね、姐さんに二度も命を助けてもらったんだよ。それ以来姐さんの舎弟さっ!」


「ちょ、豆太郎……!」


 余計なことを喋るんじゃない、と小雪が止めようとするも、無邪気な豆太郎はペラペラと語りだす。


「オイラ、小さくていじめられやすいからさぁ。鬼にも絡まれちゃって~」


「鬼みたいに怖い人かい?」


「うん、怖かったよ~! そこに小雪姐さんが現れてさ! 刀でバッサバッサ斬ってくれたんだよ!」


「へぇ、さすがだなぁ」


 草太は小雪が刀を振るっていたときの姿を思い出す。凛々しくて勇ましい姿もなかなか可愛かった、と。恋しい女房には盲目になるのである。


「……豆太郎。大福をお食べなさい?」


 にっこり笑みを浮かべた小雪の額には青筋が浮かんでいる。『黙れオラァ!』という殺気を放つも、年中寝惚けた頭の狸には通じていないらしい。無邪気な笑顔で大福に食らいつく狸。このままでは本当に余計なことまで話されそうだ。


「草太さん、そろそろ……」


 矛先を変え、草太を追い出す作戦に出る。少し雪の積もった外は、朝日に包まれてすっかり明るくなっている。仕事に行く時間だ。


「お、そうだな。それじゃ、行ってくるよ。何か困ったことがあったら、お花さんに言って助けてもらうんだよ」


 こちらは素直に腰を上げた。小雪はほっとする。


「ええ、分かっています。気をつけて行ってらっしゃい」


「小雪も気をつけるんだよ」


 何に? と疑問を浮かべつつも頷き、亭主を送り出すと。豆太郎がじいっと小雪を見ていた。


「……なんだ?」


「小雪姐さん、どうして草太兄ちゃんの前だと喋り方が違うの?」


「む? それは……」


 初めて接触したときに、様子見のために別人のフリをして前に出たから、その延長のようなものではあるが……。


「あの人は、淑やかなおなごの方が好きそうだからな……」


「へえー、そうなんだ! 草太兄ちゃんのためかぁ!」


「……べ、別にそういうわけではない! ただその方が都合が良かっただけだっ!」


 白い顔にほんのりと色が差す。そんな小雪が珍しくて。


「姐さん照れてるー! うわぁ、可愛いなぁ!」


 ただ素直に感想を言っただけなのに、凄まじい拳が飛んできて豆太郎は吹っ飛んだ。玄関の戸が派手な音をたてて吹き飛び、その音に驚いた雪菜が驚いて泣き出した。


「豆太郎! よくも雪菜を泣かせたな! お前はもうここへは出入り禁止だっ!」


「そ、そんなぁ~。泣かせたのは姐さんだよぅ~!」


 必死に弁明する豆太郎に、犬でも追い払うかのように手を振る。それを見た豆太郎は、哀しさのあまり丸い耳を頭に生えさせ、泣きべそをかきながら去っていった。


 その彼が家の敷居を跨いだ途端。ふう、とその姿が揺らめいて、薄れて消える。


「……」


 それを、小雪は静かに見つめた。恐らくただの人間が見ていれば姿が消えて見えることもないのだろうが。妖である小雪にはその異変を感じ取ることが出来た。


 この家の周りをすっぽりと覆い尽くす護りの結界。これを張っているのは小雪だが、そのための力を送り込んでいるのは草太である。


 家族を護る。その草太の想いが力となり、強靭な結界を創り上げた。それが小雪と雪菜に必要なものだからだ。豆太郎のような害のない妖には効かないが、もし2人に害なす者が現れた場合、この結界はどんな頑丈な城壁よりも強い護りの力を発揮し、どんな大砲にも負けない攻撃を繰り出すだろう。


「……人の想いとは、凄いな」


 泣き止んでジッと母の顔を見上げるつぶらな瞳に表情を和らげ、ふわふわとした髪の毛を撫でてやる。


 草太に出会うまでは、この『力』を持つ意味が分からなかった。自分の思い通りには決してならない。他人の想いにのみ応える力。それが何になるのだろうと。この力を持って生きる意味はなんなのだろうと。


 ずっと模索しながら生きてきたが──その答えがやっと、自分の中で形づいてきたような気がする。


 母も、またその母も、同じような答えに辿り着いたのだろうか。だからこそこの血は、脈々と受け継がれてきたのだろうか……。


 それに対する明確な答えが得られたわけではない。けれどもこの腕の中にある我が子を、大切に、大切に包み込む。目を閉じて、ずしりと重みのあるあたたかな命を感じる。そうして胸の奥から溢れてくる想いを、この子にも教えてやりたいと思う。


 ──愛しい。


 愛しいのだと。


 伝えてやりたい。




 ああ、妾は。


 愛しいもののために、生きている。







 雪が融けて、何度目かの春が来て。豊穣を願う賑やかな祭りに、親子三人で手を繋いで出かけた。凄い人手で、小さな雪菜は人の足に蹴られそうになる。それに気づいて、草太は娘を肩車してやった。


 はじめはビクビクと父の頭にしがみついていた雪菜だが、母に声をかけられて顔を上げれば、連なる提灯の明かりの下、楽しそうに声をあげる人々の顔が見え、それを眺めているうちに自然と笑顔になった。


 そのうち高さにも慣れ、あれも欲しい、これも欲しいと舌足らずな声で父におねだり。娘に甘い草太は、仕方ないな、と出店を回って歩いた。




 夏の暑さには毎年、小雪と雪菜はぐったりとしていた。


「暑がりなところは小雪に似てしまったんだね」


 草太は苦笑いしながら、蚊帳の吊るされた布団の上にぐったりとして寝転がる妻と娘を団扇で扇いでやっていた。その風はとても心地よく、雪菜は小さな両手を団扇に向ける。


「とうさま、もっと、もっと」


 風に手を伸ばしてせがむ娘のために、ぱたぱたといつまで仰いでやった。仕事で疲れてはいるのだが、安らかに眠りにつくその愛らしい寝顔を見るだけで癒されるのだった。




 秋には美しく紅葉した木々を、船に乗せて見せてやった。紅葉を楽しむ客たちに混じり、楽しそうに声をあげる娘や女房を見ているだけで、草太は幸せな気分になる。


 長い長い冬も、家族三人で過ごせば退屈にはならなかった。


 長屋の狭い部屋の中は、いつも明るい笑い声に満たされていた。





 その中で、小雪はふと、不安になるときがある。


 もし草太が記憶を取り戻したら。自分が憎き親の敵だということを知ってしまったら……。


 しあわせの中に常につきまとう不安。それを表に出しているつもりはないのだが、そんな風に不安になるときは必ず草太が傍にいてくれた。優しい笑みを湛えて、大丈夫だ、というようにぎゅっと手を握ってくれる。


 だから、大丈夫だと思えた。


 繋がれる彼のあたたかな手は、このままずっと、永久にこのしあわせが続いていくような錯覚の中にいさせてくれた。


 人間と妖。


 寿命が違うことは解っている。


 それでも、草太が死ぬまでずっと傍にいようと思った。それはもう揺ぎ無い想いとして小雪の胸の中にあった。


 けれど。


 儚くて危うげな夢には、必ず、終わりが来るものなのだ──。






 二人が出会って、五年目の冬が来た。


 この年は酷く雪の降る年だった。それに加え、この二、三日は嵐のように風が吹き、船頭の仕事もしばらく休業状態となってしまっていた。


 すっかり陽が沈み、家で休む草太は火鉢の前で背を丸めていた。その顔は強張り、青ざめている。


 ビョオビョオと吹き荒れる白い夜が、草太は苦手だ。あの雪山で遭難しかけたときのことが身体に染み付いているからなのだが……。


 何故だろう。


 もっと何か、恐ろしい目に遭った気がするのだ。師匠を凍えさせてしまったあの寒い夜に。女の悲鳴のように鳴る風の音の向こうから、何かがやってきて……。


 その先を視ようとすると、地の底から得体の知れない何かが這い上がってくるような感覚に襲われ、身体が震えて止まらなくなってしまう。


「……大丈夫ですか、草太さん」


 背を丸めて火鉢の前に座っていた草太の肩に、そっと手が乗せられる。はっとして見上げれば、気遣わしげな目をした小雪がいた。


「ああ……うん、大丈夫だよ。はは、情けないな、あれから何年経ったんだか……」


 無理に笑みを浮かべるその額には、じわりと汗が滲んでいる。外は猛烈な吹雪。いかに狭い家だとはいえ、こんな火鉢ひとつでは掌を暖める程度にしかならない。なのに。


「無理もありません」


 小雪は口元に笑みを浮かべながら、草太の背中を撫でてやる。


 そう、無理はない。親代わりを殺され、そして自分も命を落としかけたのだ。恐ろしい、異形の者に。例え記憶がなくとも、心の奥に染み込んだ恐怖はそう簡単に払拭出来るものではないだろう……。


 ゆっくりと背中を撫でる小雪の手に、草太は少し落ち着きを取り戻す。


「ありがとう」


 草太に礼を言われ、小雪の顔は泣きそうに歪む。それを見られないようにそっと草太から離れ、部屋の隅で俯き加減に針仕事を始めた。


 草太は長く息を吐き出して気持ちを落ち着けると、行灯の明かりの前で針仕事をする小雪を振り返った。彼女の手には、赤い布が握られている。それは先日、寺の住職の知り合いだという反物屋から貰ったものだった。


 草太の小雪への想いは留まることを知らず、小雪の力は惜しげもなく家族に『しあわせ』をもたらし続けていた。決して暮らしが豊かなわけではないのだが、特に困るようなことはなく、この家はいつもあたたかな空気に満たされていた。


「豊穣祭に着せてやろうか」


 布団の中で寝息をたてている雪菜を見やり、そう言う草太の顔には自然と笑みが零れていた。それを見て小雪も微笑んで頷く。


 春になれば、二人が出会った豊穣祭がやってくる。まだ桜も咲かない早春の少し肌寒い季節、田植えの前に今年の豊穣を願って神に祈りを捧げる祭。賑やかに鳴り響く囃子の中、ますますかわいらしくなっていく娘にこの赤い着物を着せて、三人で手を繋いで歩いて──。


「楽しみですね」


「ああ」


 針仕事をする手に目を落としながら微笑む小雪に草太も笑みを向けて──。


 ふっ、と。


 その笑みを消した。


 行灯の頼りなげな明かりが小雪の白い頬をゆらりと滑っていき、濃い陰影を一瞬浮かび上がらせる。


 その影の中に。淡水色に光る長い髪を、見たような気がした。


「……小雪?」


「はい?」


 静かな草太の声に、小雪が顔を上げる。それは黒い髪に黒い目の、白く美しい肌をした見慣れた女房の顔だった。


 けれど……けれど。


 なにかが、違う。ざわざわと胸の奥で何かが蠢いて、それが身体中を支配していく。


「……草太さん?」


 強張った顔のまま固まっている草太に、小雪は小首を傾げて訝しげな顔をする。その僅かな動きの中に閃光のように蘇る、淡水色の長い髪をした白い女の姿。ゆらゆらと揺れる黒曜の瞳は美しい女を捉えたまま放さず、そして徐々に畏れの色を表していく。


 それに気付いた小雪も、はっと顔を強張らせた。


「草太さん……!」


「……小雪、俺は……」


 声が掠れる。頭の中から何かを引きずり出そうとする手が、無意識のうちに自身の髪をぐしゃりと掴んだ。


「俺は、お前に……会った、ことが」


「草太さん、駄目です、駄目──!」


 思い出しては駄目。言葉にしては駄目。


 そう伝えようと、小雪は縫いかけの赤い着物を投げて立ち上がる。それを眺める草太の脳裏に、幽玄の美しさを放ちながら歩いてくる白い妖の姿が閃いた。


「小雪……お前は……あのときの……」



『雪女』



 草太の唇がそう模った瞬間。ヒョオオオと白い風が二人を取り巻いた。



(ああ、駄目だ──)



 草太の“想い”は誰にも負けない強いもの。それが小雪にかかるまじないを解いてしまう。真実を見ようとする彼の心が、目の前に“現実”を映し出してしまう。どんなに抗おうとしても、もうヒトの姿を保っていられない──。


 雪に捲かれる黒髪が一瞬にして淡水色へと変わり、小豆色の小袖が真白に染め上げられる。


 浅黒い肌をした男の前に現れた、透き通るように真白な色の女。それはまさしく、あの吹雪の夜に現れた白い妖であった。


「……決して誰にも言うてはならんと、約束をしたな」


 月のような淡い光に包まれる白い妖に、草太の黒い瞳は零れ落ちそうなほど見開かれる。


「命はないと……言ったな」


 ゆらりと蜃気楼のように揺らめきながら草太に近づいていく『雪女』の薄い青の瞳は、闇の中にありながら鋭い光を湛えており、草太に威圧感を与えた。無意識にそれから逃れよとする草太は、ガタリ、と音をたてて後退る。それを見る小雪の瞳が哀しげに細められた。


(お前の親を、そして、お前をも殺そうとした化け物は、やはり恐ろしいか)



──映したくはなかった



 出来るのならばその美しい黒曜の瞳に、二度と白い妖の姿を映さずに時を過ごしていきたかった。妖からすれば酷く短命な人間の命を最期まで見届け、それからもずっと、彼だけを想って生きていこうと、そう心に決めていた。


 なのに……。


 交わるはずのなかったふたりの道は。やはり、夢幻でしかなかったのだ。


 後退りながらも立ち上がることはしない草太の、黒い瞳を覗き込む。この瞳があったから。迫る妖に畏怖しながらも、手傷を負った者を気遣う優しい眼があったから、小雪は草太を殺せなかった。


(ならば、覆い隠せ)


 小雪の白く冷たい手が、草太の両目をそっと覆う。


(今度こそ、殺してしまわなければ)


 彼に、憎まれる前に。


 初めて逢ったあの白い夜では、自分の居場所を知られないために殺してしまわなければならなかった。けれど、今は。憎まれたくないから。そんなことには耐えられないから。


 だから、この美しい黒曜の瞳に憎悪が現れる前に。


 殺してしまわなければ。



 白い頬の上を、薄い青の瞳から零れ落ちる光る粒が、ころころと転がっていく。


「夢は終いじゃ」


 冷えた暗闇に響く、微かに震えた声。それは空気を震わせ、黒い瞳を覆う白い手をも震わせた。古ぼけた木戸の隙間から舞ってきた白い雪が、くるくると踊りながら白い妖──小雪に降りかかる。


 粉雪は更に氷塊へと変化して木板の上に跳ね、炭琴のように高く小さい、儚げな音を奏でた。その音に包まれる静寂の闇ごと、時が凍りつく。目の前にいる男のすべてを、そこに閉じ込める。




 白く冷たい手に覆われ、視界を奪われた草太はまだ混乱の中にあった。


『雪女』


 あの白い嵐の夜に、小さな炭火小屋に侵入してきて、師匠を氷漬けにして殺してしまった女。白い風に捲かれ、バラバラに広がった淡水色の長い髪の隙間から、ギラついた飢えた獣のような目をしていた女。


 あれが、小雪だというのか。いつもたおやかに微笑んでいる、優しく儚げな女が。あの獣のように恐ろしい目をした女と同じだというのか。


(騙されていた?)


 ふと、そんな疑念が浮かび上がる。


『妾がここにいたことを、誰にも話してはならぬ。もし話せば……今度こそお前の命はないぞ』


 努々忘れるなと、念を押して吹雪の中に消えていった雪女。草太はあのとき、しっかりと頷いて誰にも話さないと約束をした。その約束を守っているのかどうか──監視していた?


(それで傍に?)


 人間のフリをして近づいて。約束を違えるようなことがあれば、すぐにその命を貰おうと──


(……違う)


 急激に下がっていく周りの温度に、カタカタと身体が震えだす。そうしながらも、草太は小雪の冷たい手に意識を集中させた。


 ……震えていた。


 雪女である小雪は、人間である草太のように冷気に弱いわけではなかろうに。それでも彼女は震えていた。すぐ近くに感じる吐息でさえ、何も見えない草太の世界を震わせる。


『お前を、殺したくはない──』


 そう言って殺さずに、ただ冷たい唇の感触だけを残して去っていった雪女。


「……そうか」


 目隠しをされたまま、草太は微笑んだ。


 小雪はちゃんと、草太を愛していた。でなければ、あんなにも哀しげな顔をするはずがない。触れる指先が震えるはずがない。喉が潰れたかのような悲痛な声は出さない。走馬灯のように蘇る小雪と過ごした日々は、つつましくも幸せで、あたたかな笑顔で溢れていた。


 触れる冷たくともあたたかな手も。時折見せる、今にも消えそうな儚げな微笑みも。二人で抱いた、小さな愛しい命も。


 記憶の中にある思い出が、小雪の想いが決して嘘ではなかったと教えてくれる。夢のような偽りの世界の中には、ちゃんと“想い”がカタチとして残されている。


 それを壊したのは自分だ。“約束”を破ってしまったのは、他ならぬ自分なのだ。だから──仕方ない。


「あのときの……約束、だったな……」


 目を覆う白い手の上に、浅黒い大きな手をふたつ重ねる。そこからゆっくりと畏れていたはずの白い肌の上に掌を滑らせていき、雪女の温度のない白い頬をあたたかく包み込んだ。


 その上をころころと冷たいものが転がっていくのを感じ、草太は更に小雪を愛しく想った。


「解った」



 ──殺して、いいよ


 それで君が、楽になるのなら。




 ゆるやかにたわむ唇から静かに吐き出される白い息が、キラキラ輝いて凍り付いていく。それを見る小雪の瞳からは、更に透明な粒が転がり落ちていった。


 キン、コン、と。


 高く儚げな音が群青の闇の中に融け入り。


「っ……」


 赤い唇から漏れる吐息が、冷たい闇を淡く揺らす。


「かあさま? とうさま?」


 小さなその声に、はっと我に返る。ふと視線を巡らせれば、布団から起き上がり、目を擦る幼い娘の姿があった。


 その姿を目にした途端。小雪は弾けるように草太から手を引いた。そして布団の中から這い出てきた娘を抱き上げる。


「──出来ぬ」


 幼子を腕にきつく抱きしめ、小雪は呟いた。


「妾には……出来ぬ」


 小雪の周りを白い吹雪が包む。ゴウゴウと鳴る風はどんどん強くなっていき、小雪と雪菜の姿をすっかり隠してしまった。


「小雪っ……雪菜っ!」


 草太は手を伸ばし、女房と娘の名を叫んだ。だがその声は吹雪の中に掻き消え、二人に届くことはなかった。


 静寂が戻った後には、二人の姿は忽然と消えていて。春に雪菜に着せるはずだった赤い着物だけが、行灯の明かりが消えてしまった群青の闇の中にぽつりと浮かび上がって見えた。


 ──何故


 何故、殺していかなかった?


 何故、去っていった?


 草太には解らない。


 殺せないほど愛しいと想ってくれるのならば、ただここにいてくれれば良かったのに。


 妖でもなんでもいい。ただ小雪と雪菜がここにいてくれるだけで。それだけで、しあわせだったのに──。


 届かなかった想いとともに、草太は残された赤い着物を掻き抱く。もう二度と見えることはない者たちを想いながら。






 女の悲鳴のように高い音を上げて吹き荒ぶ寒風に乗り、小雪は空を飛ぶ。


 憎まれ、畏れられることは、妖にとって自らの力の糧になる最高の餌だ。けれど、草太にだけは。草太にだけは憎まれたくない。草太に憎まれながら生きるくらいなら、死んだほうがマシだ。


 そう思えど。


 この腕の中の愛しい娘を放って死ぬことなど、出来ない。


「かあさま……?」


 腕の中の娘は、大きな瞳をきょとりとさせ、母を見上げている。小雪はその愛しいモノを、歯を食いしばりながら抱きしめた。



 漏れる哀しみの声も、溢れる涙も、後ろ髪引かれる想いも、すべて呑み込む白い風は。ビョオビョオと泣きながら、迷い子たちを運んでいく。ずっと、ずうっと、遠くへ……。






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