藍
それからも幾度となく草太には幸運が舞い込んだ。金であったり、物であったり、または親しい人からの嬉しい報せだったり。草太は訪れるその幸運を、決して独り占めにはしない。いつも小雪を優先し、一緒に喜び合い、そして周りの者たちと分け合う。ほんの少しの、ささやかな幸せを。
(そんな貴方をお慕いしております……か)
小雪は憮然とした表情で、とぼとぼと夜道を歩く。
(馬鹿な……妾が、人間などに)
小雪は草太への想いに気づいてからも、ずっとそれを認められずにいる。
残雪が道端に連なる、早春の夜更け。草太が寝てしまってからそっと閨を抜け出し、町を出て、初めて草太と出会った川の土手をゆっくりと歩いた。白い肌を撫でていく冷えた夜気に誘われるように顔を上げれば、見事な満月が藍色の空に浮かんでいた。
澄んだ闇を照らす美しい月を見つめていた小雪は、ちらりと後ろを見やる。懐かしい気配がしていた。
「……まだ狸鍋にはされてなかったか」
ニヤリと紅い唇を上げてみせると、がさりと川原の枯れ葉が揺れた。
「ひでぇや小雪姐さん! オイラなんか食べてもおいしくないんだからねっ!」
ぷう~と頬を膨らませて枯葉の影から出てきたのは、5、6歳の年頃の坊主だった。その尻には、太い茶色の尻尾が生えている。
「相変わらず変化が下手だな、豆太郎。そんなことでは本当に狸鍋にされてしまうぞ」
そう言うと、狸の坊主は慌てて自分の尻をまさぐり、はみ出しているそれをぎゅうぎゅうと着物の中へ押し込んだ。
「それより姐さん、探したよ。あれから姿が見えなくなったからさぁ。オイラ心配だったよ」
「ああ……そういえば、お前も一緒だったな」
あの白い嵐の夜。小雪はこの狸の豆太郎と一緒にいたところを、鬼の群集に襲われたのだった。豆太郎をかばって怪我をしたところから形勢が恐ろしく悪くなり──今に至る。
「無事で本当に良かったよ」
ぎゅう、と腰に抱きついてくる小さな豆狸。そのざらざらした頭に手を置き、小雪は笑った。
「お前もな」
柔らかく降ってくるその声に、豆太郎は顔を上げ、不思議そうに小雪を見た。
「小雪姐さん、人間の中にいたのかい? 随分匂いが変わって、オイラ姐さんだって、近づくまで分からなかったよ」
「……そうか?」
「うん。なんだか気配も少し違う気がするし……。何かあった?」
くんくん、と鼻を引くつかせる豆太郎。
「……そんなに違うか?」
「うん。姐さんには変わりないんだけど。なんだろうなぁ。別の妖の匂いがするみたいなんだよ」
「別の……?」
そう言われて辺りを警戒する。小雪以外の妖の気配はまったく感じないが……。
「どんな匂いだ」
狸に分かって自分に分からないなど、そんなことがあるはずがないと気を鋭くする。
「どんなって言われても~。うーんと、そうだなぁ、姐さんみたいな匂いだよ。でも、姐さんとは違う匂いだよ」
なんだそれは、と小雪は眉を顰める。そんな小雪の腰に纏わりついていた豆太郎は、何かに気づいたようにぱあっと顔を明るくした。
「姐さん、姐さん、もしかして、ややこがいるんじゃない?」
「……は?」
「ほら、ここに!」
豆太郎は小雪のおなかに頬ずりする。
(……子ども?)
この中に?
(誰の?)
それは聞かずもがな、小雪と、草太の子である。しかし聞かずにはいられないくらい、小雪の頭の中は真っ白になっていた。
「……豆」
「なにー?」
「確かに匂うのか」
「うん、匂う、匂う。犬ほど鼻は良くないけど、オイラ自信あるよ~」
キラキラと無邪気な笑顔を向けてくる豆太郎を見て、小雪の胸の内にはじわじわと暗雲が広がっていく。
(そんな……人間との子ども? 人間の血を半分引く子ども……。雪女として生まれるのか? それとも、人間として?)
豆太郎は妖の匂いと言った。ならば腹の子は妖だ。
「豆太郎、ありがとうな」
ぽん、と彼の頭を軽く叩き、小雪は再び歩き出す。
「姐さん、生まれたらオイラ遊びに行ってもいい? ちゃんと尻尾隠して行くからさぁ~!」
豆太郎のその声を背中で受けただけで、小雪はふらふらと歩いていった。
月明かりが照らす川原は、残る白い雪も手伝って、影が出来るほど明るい。けれど小雪の目の前は、夜空の藍よりももっと深い色に染まっていく。
(もしかしたら完全に雪女として……だが、人の血が半分……半分だけの力を引き継いだ子どもが、どうやって生きていくのだ)
歳神としての力を持つ者は、狙われる。よく力を理解しない愚かな闇の生き物に。この腹の子は、そんな獰猛な敵から身を守れるだけの妖力を持って生まれてくるだろうか?
重い足を引きずって歩いていた小雪は、気がついたら自分の住む長屋に帰ってきていた。みんな寝静まっていて、どこの家も真っ暗だ。遠くから犬の遠吠えが聞こえるだけの、静かな長屋。
そのうちの一軒の戸が、たん、と開いた。
自分の家だ。
戸を開けたのはもちろん草太で、月明かりに白く浮かぶ小雪の姿を見つけると、一目散に駆けてきた。
「小雪、良かった、目が覚めたらいないから、一体どこへ行ったのかと──」
駆け寄ってきて彼女の腕を掴んだ草太は、そこで言葉を切った。天から落ちる柔らかな月の光を受ける白い肌が、透き通るほど青白く見えた。濃い陰影が、更に顔色を悪く見せる。
「……小雪?」
顔を覗き込むようにすると、小雪はのろのろと視線を上げた。
「……眠れなくて、少し夜風に当たっていました。大丈夫です。何もありません」
穏やかにそう話す彼女を、草太はじっと見つめる。そして、優しく微笑んだ。
「分かった。おいで、中に入ろう。随分冷えてしまっているじゃないか」
氷のように冷たい小雪の手を引いて、草太は歩き出す。繋がれた手から伝わるあたたかさ。それはじんわりと身体中に伝わっていくようだった。
(人のぬくもりなど──)
いらない。
必要ない。
なのに何故、この手を離そうとはしないのだろう。
暗闇に包まれている家の中に入り、草太は小雪を座らせる。
「眠れないなら、温かいお茶でも淹れようか? それとも水の方がいいかな。小雪は冷たいものが好きだもんな」
そう言って柄杓を手にする草太。その動きを、小雪はぼんやりと見つめる。
妖力はもう、すっかり元に戻っている。これならば例え草太が雪女の存在をふれ回り、人間ばかりではなく悪しき者たちに居場所を知られて襲われたとしても、十分太刀打ち出来るだろう。それが出来ないなら、寒風に乗って遠くの地まで逃げ切ることも出来る。
もうここにいる必要はない。いつだって出て行ける。子どもが出来たというのなら尚更、ここを離れた方がいい。
この子は妖。
この腹の中にいる妖の子を連れて、妖としての力を開眼させることに心血を注がなくては。敵から身を守る術を教え込まねば。
だから早く、ここから出て行かなければ──。
「はい」
目の前に湯飲み茶碗を差し出され、ゆっくりと顔を上げる。そこには春の日差しのように温かい、草太の笑顔があった。薄暗い闇の中でさえ、その輝きは衰えない。どこまでもどこまでも、小雪を温かく包み込む。
「これを飲んで、少ししたら眠ろうか。ゆっくり寝たら疲れも取れるよ」
ぼんやりと草太を見つめたまま動こうとしない小雪の手に茶碗を掴ませる。それから隣に座り、静かな顔で小雪を見た。小雪はそんな草太を、やはりじっと見つめる。見つめたまま動かない。
しばらくそのまま視線を交わらせ──草太は少しだけ困ったような顔をした。
「……小雪は時々、そういう顔をするね」
え? と目で聞き返す。
「時々、とても哀しそうだ」
そう言う草太の顔も、哀しげな笑みに変わる。
「何か辛いことがあるなら、吐き出して欲しいけど……でも、吐き出すにも力がいるからね。無理にとは言わない。ただ、俺は……俺は、小雪の傍にいるから。何があっても小雪を護るから。そのことだけは、忘れないでいて欲しい」
(人のぬくもりなど──)
いらないと。
必要ないと。
そう思うのに。
どうして。
涙が、溢れるのだろう──。
「……小雪?」
草太は困ったように微笑むと、そっと小雪を抱きしめた。そして子どもを宥めるように、優しく背中を叩く。
人のぬくもりなどいらない。
人のぬくもりなど必要ない。
けれど。
けれど、草太のぬくもりだけは。
欲しい。
「草太さん、お話が……あります」
「ん?」
草太は小雪を抱きしめながら耳をそばだてる。
「子どもが出来ました」
小雪の背を叩く草太の手が止まった。
「貴方の子どもです」
その言葉を聞くが早いか、草太は小雪から少し身を離し、彼女を見つめた。
「本当に?」
小さく頷く小雪を見て、草太の顔にみるみる笑顔が広がった。
「そうか……そうだったのか。もしかしてそれで具合が悪く? すまない、気づいてやれなくて……そうか、子どもか」
草太は満面の笑みでもう一度小雪を抱きしめる。
「ありがとう、小雪」
そう言って、また離す。
「ああ、どうしよう。俺、父親になるのか。もっとしっかりしないといけないよな。子どもって、男かな、女かな。どっちでもいいや。どっちでもかわいいよ」
嬉しさを隠しきれない様子で、落ち着きなく喋る草太。
「草太さん……だから、あの……これからは私だけでなく……この子も、護ってやってください……」
おなかに手をやり、そう言う小雪。草太は力強く頷いた。
「ああ、護るよ。小雪と腹の子……ずっと護るから。安心して、小雪」
優しくも力強い黒曜の瞳は、無条件に安心感を与える。それなのに次の瞬間には。
「ああ~もう~! 嬉しい! 嬉しくて今日はもう眠れないかもしれない!」
と、子どものようにはしゃぐ。それを見て小雪にも笑みが戻った。
その笑顔が嬉しい。
この子は草太が望み、そして小雪が望んだからここにやってきた。
そう、思えた。