碧
緑が濃くなり、しっとりとした空気に包まれだしたある初夏の日。二人の祝言は執り行われた。
特にこの日に、と決めていたわけではなかったのだが、突然船頭仲間たちが勝手に上がりこんできて、勝手に式の進行を始めたのだ。
小雪には船頭たちのおかみさんが角隠しだけ用意してくれて、それを被った小雪はそれはそれは綺麗で。見惚れているうちにただの宴会となり、迷惑なほどのどんちゃん騒ぎで祝言は終わった。
それから数日後、川岸の掘っ立て小屋では小雪がひとりのときに心配だと、市中にある長屋に住まいを移すことになった。
四畳半ほどの板間に、狭い土間があるだけの小さな空間。そこで、二人は正座をして向かい合った。
「ええと……不束者ですが、宜しくお願いします」
そう言って頭を下げる草太。普通逆だろうと小雪は思ったが、にこりと微笑んで、同じように頭を下げた。
「こちらこそ、末永く宜しくお願いいたします」
三つ指をついて挨拶をする新妻を見ながら、草太は遠慮がちに話を切り出した。
「それで、あの……これからは夫婦になるわけだし、いつまでも他人行儀な呼び方と喋り方はどうかと思うんですが……」
「はい」
「その……小雪、と呼んでも?」
「草太さんのお好きなように呼んでください。それに、貴方は旦那様なのですから、私に対してそんな風に畏まることもありませんよ」
微笑みながらそう答える小雪に、草太はくしゃりとした笑顔を作る。
「では、では……ええと、こゆ、小雪……」
照れて赤くなりながら名を呼ぶ草太に、小雪は「はい」と返事をする。
「小雪……」
「はい」
「小雪」
「はい、なんでしょう、草太さん」
正座をして向かい合ったまま、しばらくそのやり取りが続く。いい加減にしないか、とだんだん呆れてくる小雪。
(ああ、本当に面倒だな、この男)
そう思いながらも付き合ってやるのだから、満更でもないのかもしれない。
嬉しさを噛みしめるように小雪の名を言い続けた草太は、満足したのか一息ついて。
「そうだ、小雪。明日、一緒に行ってほしいところがあるんだ」
と言い出した。
「はい。どちらへ参るのですか?」
「……墓参りに」
草太は、少しだけ寂しそうな笑みを浮かべた。
濃い緑の木々に囲まれた寺の境内を行き、そこから小路を進んでいくと、盛り土に大きな石が乗せられただけの墓がいくつも並んでいる場所に出た。
「怖くないかい?」
「草太さんと一緒ですから」
「そ、そうか」
実はちょっと怖い草太。鬱蒼と木々が生い茂り、小さな木漏れ日がちらちらと踊る静かな空間は、昼間とはいえ少し薄暗い。その上たくさんの死者がここに眠っているのかと思うと、背筋に薄ら寒いものを感じるのだった。しかし頼られているようなので、背筋を伸ばして毅然としているように見せる。そんな風にしても顔が強張っているので、小雪には草太の怖がりはバレバレなのであるが。
その強張った顔が、ある石の前に来たとき、ふっと柔らかくなった。
まだ置かれて間もないのか、苔むしてもいない、つるんと丸みを帯びたねずみ色の墓石。
「……ここは、どなたの?」
「俺の師匠の墓だよ」
「お師匠様?」
「うん。まぁ……親代わりみたいなものかな。山に捨てられていた俺を見つけてくれて、寺で育ててくれるよう、和尚様に頼んでくれた人でね」
草太はそう言いながら、墓石の前にしゃがむ。
「俺、ずっと和尚様に育ててもらったんだけど、この茂吉さんは時々俺を心配して訪ねてきてくれてたんだ。竹とんぼとか、竹馬とか、一緒に作ったっけなぁ」
懐かしそうに語る草太の話を、小雪は小さく頷きながら聞く。
「樵の仕事に後継ぎがいないって知って、弟子にしてくださいって頼み込んで……まだ二年も経ってなかった」
「草太さん……」
「まだ、全然仕事、覚えきれてなかったのに」
愛おしそうにつるんとした墓石を撫でる日に焼けた大きな手。それを見る小雪も、何故だか少し胸が痛んだ。
「……お師匠様は、どうして?」
その質問に、草太は少しだけ間を空けた。ゆっくりと目を閉じれば、ビョオビョオと音を立てる白と黒の冷たい世界が蘇る。
「……雪山で、凍死しました」
小雪の目が僅かに見開かれた。
「俺は……なんであの日、気絶していたのか。そうでなかったら、ちゃんと火の番をして、茂吉さんに寒い思いをさせることもなかったのに……」
(……あの翁か)
小雪はあの夜を思い出した。
戦闘により消耗しすぎた体力、そして妖力。死が目の前をちらついて、殺してしまうと分かっていたのに、その精気を吸い上げてしまったやせ細った翁。
彼は草太の大事な人だった。そのことに少なからず衝撃を受けた。
草太は僅かな間辛そうに顔を歪めただけで、あとは穏やかに微笑んでいた。けれどその背中は今にも震えて、泣いてしまいそうなほど弱々しく見えた。
(お前の『親』を殺したのは、妾だ)
小雪はひっそりと、その震えそうな背中に訴える。
(妾が──殺したのだ)
草太は墓石に向かって手を合わせると、小雪を振り返った。
「なんだか湿っぽくなってしまったけど……今日は茂吉さんに小雪を紹介したかったんだ」
少し照れたように笑う草太の頬に、梢から零れ落ちる木漏れ日がきらりと流れた。
それは、まるで涙のようで。
小雪は視線を墓石に落とすと、そっ……と両手を合わせた。
(すまぬ……)
それから少し時が経つ。
ジメジメした雨の季節が過ぎ去り、眩しい太陽がジリジリと肌を焦がす、暑い季節がやってきた。
今日も仕事に精を出している草太は、昼飯を食べようと休憩小屋に入った。入れ替わるように外に出て行く仲間たちを見送り、今朝家を出るときに小雪に持たされた笹の葉の包みを広げる。
中身は白い握り飯がみっつと沢庵。三角形に形良く握られた白いご飯に、板海苔を貼り付けたそれはなんとも美味しそうだ。草太はそれを手にもち、目の前まで持ち上げた。
「……うん、今日も冷たい」
うーん、と首を捻る。
今は真夏である。太陽の光が肌を刺すように降り注ぐ、茹だるような暑さが続いている。それなのに、半日も置いておいた握り飯が冷たいとはどういうことなのか。
ぱくりと口の中に入れれば、米がほろほろとほどけた。握り加減、塩加減、ともに絶妙だ。小雪が漬けてくれた沢庵、握り飯の中に入っている梅干だって、文句なしに美味しい。
けれど不思議だ。小雪はいつも、『凍らせた状態』で握り飯を持たせてくれる。それが半日経つと、このように丁度いい食べ加減になっているのだが。その技術がまったく解らない。
「……もしかして、お武家さんたちには食べものを傷ませない秘伝のようなものが伝わっているのかもしれないな」
小雪は凄いなぁ、凄い嫁さんを貰ったなぁ、と草太は感心しながら飯を平らげた。
そしてその夜。
更に凄いものを見てしまう。
「暑い……」
留守番中の小雪は、ぐったりして四畳半の板の間に寝転がっていた。雪女である小雪には、下界の暑さはまさに地獄の釜茹で状態である。自分の力で創り上げた氷の塊を傍に置いてもまだ辛かった。いつもならば涼しい山の奥の奥で冬が来るまでじっとしているのだが、今年はそうはいかない。草太を見張っていなければならないのだから。
(ああ、やっぱりあのとき殺してしまうべきだったのか……)
朦朧とした頭でそんな物騒なことを考えていると、障子戸の向こうが淡い橙に染まりだしたことに気づいた。
「む、そろそろ帰ってくる時間だな」
のそりと起き上がり、御髪を整える。そして着物の袖にたすきをかけた。
「今日は、氷飯が良いかな」
昨日も、そのまた昨日も氷飯──正式名称かき氷、であった。砂糖水をかけて食べると美味いのだ。人間の精気で生きる雪女も、かき氷だけは好物だった。
暑いせいか、草太は文句を言うどころか喜んでくれた。そのせいもあって、小雪は勘違いしたまま冬を迎える。
今冬、草太の腹が最大の危機に直面する。
「さて」
頭を左右に傾けて準備運動をした小雪は、ふーっと息を細く吐き出しながら右手を真横へ伸ばした。その掌が青白く光り、パキパキと音をたてて氷の結晶が集まりだした。それは瞬時に細長く形を創る。あの一つ目鬼を一刀両断にした刀、『六花』だ。
「氷は直前に削るとして、まずはこれだな」
愛刀の紺の柄を握り締め、桶の中でにゅるにゅる動く穴子を掴み取った。先程魚売りが来たので買っておいたものだが、最盛期を過ぎたせいか少し値が上がっていた。そこで得意のお色気を振りまいて半分の値にまけてもらった。ついでにご近所の分も安く仕入れてやったら感謝感激雨あられで、隣のお花には「お礼に一緒に焼いてやるよ~」と言われた。
(魚は生で食うものではないのか……)
人間というものは面倒だ、と小雪はいつも思う。握り飯を作るために米を炊くのだって、本当は死ぬ思いで火を熾しているのだ。火の苦手な雪女には、ついでに焼いてくれるという申し出は大変有難い。
(人付き合いも大事だということだな)
うんうん頷く小雪。
しかし。
いつの間にかすっかり人の世に馴染んでいることに気づいて。
(……べ、別に楽しんでいるわけではない! ただ草太には負い目があるから……そう、そうだ。負い目を感じたくないだけだ)
だから、彼が住み良いように環境を整えてやっているに過ぎないのだ。彼が失ったものを、少しでも埋めたくて。
「ふんっ!」
小雪は穴子を宙に放り投げた。もちろん、刀で捌くために。
──何故刀で切ろうとしているのかといえば。
それは小雪が包丁の使い方が破壊的に下手だったからである。文字通り、破壊するのだ。包丁だと力加減が良く分からなくなり、初めての調理のときにまな板を粉砕してしまった。
針仕事も難なくこなし、うまい握り飯も綺麗に握れるのに。何故か刃物は刀しか扱えないという、ある意味器用な雪女であった。
にゅるーんと宙に舞った穴子の腹を、目に見えぬ速さで掻っ捌く。もう一振りして中骨を取り、更に尾ひれを取る。下に落ちてくる前にぱしっと身を掴み、ぱぱっと塩を振りかけてから冷水の中へどぼん。綺麗に洗った後は身を広げて、これで焼いてもらうための下準備完了。瞬き二回くらいの間の出来事である。
「どれ、後は沢庵でも切っておくか」
そう言うと、六花が鈍い光を放ったような気がした。
「文句を言うな。薄汚い鬼を斬るよりマシだろう」
六花がカタカタと震えたような気がしたが、無視。ぐっと薄青の柄を握り締め、腰を低く落として左手で沢庵を宙へ放り投げた。
「はあっ!」
ひゅひゅひゅ、と空気が高い音を上げ、黄色い沢庵が見事に等間隔に切られて空から落ちてきた。それを皿で受け止め、満足げに頷いたところで。目も口もまんまるに開けて玄関に立つ草太に気づいた。
びしり、と空気が凍りつく。
なんということだ。見られてしまった。刀で調理など、普通の人間はしないというのに。
(まずい、人外であることがバレたか!)
青白く輝く六花を背に隠す。ひやりと冷たいものが心臓を重く動かした。そうして驚きに目を丸くしている草太を恐々見つめていると、彼はこう言った。
「お武家さんの娘というのは、本当に凄いんだなぁ……」
「……え?」
小雪は顔を強張らせながらも聞き返した。
「そんな風に刀を操ってしまうのか……。いやぁ、凄い。俺は本当に凄い嫁さんを貰ったなぁ」
「え、あ、その」
珍しく動揺する小雪。そんな彼女には気づかずに、草太は言葉を続ける。
「でも庶民は刀を持ってはいけないことになっているんだ。外には出さないよう、気をつけるんだよ」
「は……はい」
小雪は背中に六花を隠したまま、こくこくと頷いた。それを見て草太はにこりと笑う。
「ただいま、小雪」
「あ……」
小雪は慌てて板間に上がり、三つ指をついて頭を下げた。
「お帰りなさいませ、旦那様」
冷や汗をかきながら、草太が世間知らずで良かったと、心の底からほっとする。もう世間知らずなどという言葉には当てはまらないくらいの天然ボケではあるが、なんとも好都合。
「今日はいつもよりお早いお帰りでしたね。すみません、夕餉の支度がまだ整っていませんで……」
「ああ、今日は早番だったからね」
そういえばそうだったな、と思いながら、小雪は空になった笹の葉を受け取る。
「夕餉の支度はゆっくりでいいよ。それより、見せたいものがあるんだ」
「はい、なんでしょう」
床に座りなおし、草太に向き直る。草太は懐から、白い紙の包みを差し出した。
「……これは?」
それを受け取り、草太を見上げる。
「実は、今日船に乗せた客の中に身分のあるお方が乗っていたみたいでね。気前良く賃金をはずんでくださったんだ。それで……いつも小雪には、世話になっているから……」
白い包みの中には、小さな赤い石のついた簪が入っていた。
「小雪はお武家さんの娘なのに、こんな貧乏な男に尽くしてくれて……本当にありがとう」
「……そんな」
小雪はふるふると頭を振った。夏の間、極端に体が弱くなる小雪のせいで、草太ひとりの収入しかないこの家は確かに貧乏だ。だからこそ、こんな臨時収入は草太が好きに使えばいいのに。
「いただいても宜しいのですか?」
「もちろん」
にっこりと笑うその顔は、いつもと変わらぬ、太陽のように眩しい笑顔。それに応えるように、小雪は髪に簪をさしてみる。赤い石の簪は、白い肌の小雪に良く似合っていた。そんな妻を見て、草太は嬉しそうに笑うのだ。
「こんな綺麗な嫁さんを貰って、俺は幸せ者だよ」
そう言う草太を見上げ、小雪もはにかんでみせる。締まりのない顔をして仕方のない男だな、と思いながら。
そしてふと気づいた。
(幸せ者……か)
そういえば、先日給金が上がったと言っていたばかりだった。仕事仲間にも恵まれているようで、家に帰ってきてからも草太の話すことは楽しいことばかり。愚痴を聞いたことなど一度もない。
もともと、そういう風に楽観的に生きている人間ではあるのだろうが──。
(まさか?)
芽生えた疑念は、数日後に確信へと変わる。
ある日、草太は市中で暴れ馬に轢かれそうになっている子どもを助けた。草太の着物の袖は裂け、腕や頬に擦り傷を作ったものの、助けた子どもは無事だった。
その子どもというのが──なんと、国のお殿様の嫡男であった。お忍びで町に遊びに来ていたところを、草太に助けられたというわけだ。
仰々しい籠の行列が長屋の前までやってきたと思ったら、見るからに太っ腹そうなお殿様が下りてきて、草太は腰が抜けるほど驚いた。
長屋住民が大注目する中、お殿様は草太を褒めちぎり、家臣たちから褒美の小判を山ほど手渡された。
「そなたには本当に感謝しておる。何か困ったことがあれば、いつでも城に来るが良いぞ」
お殿様はそう言い、高らかに笑いながら、嵐のように去っていった。
「ど、どうしよう、小雪」
見たこともない山吹色の金子を持つ手を震わせながら、草太は困ったように小雪を振り返った。
「どうしましょう……」
困ったような二人を差し置き、周りは盛り上がる。
「草太さん、アンタはほんとに凄いお人だよ!」
「俺たちもその金のおこぼれに与りてぇなあ!」
「いやいやしかし、あんた小雪さんと一緒になってから、やたらとツイてるんじゃないかい?」
長屋住民たちに肩を叩かれ、揉まれる草太は、そうだなと頷いた。
「そうかもしれない。小雪と一緒になってから、いい事ばかりが起きる。小雪は俺の福の神だ」
草太の言葉に、住民たちもそうだそうだと頷いて盛り上がる。それを遠目に見ながら、小雪はそっと睫を伏せた。
(福の神か……あながち、間違いではないが)
草太に福をもたらしたのは、恐らく小雪の『力』だから。
(しかし、これは……)
信じがたいほどに大きな力が動いている。
住民たちに揉みくちゃにされながらも、笑顔を絶やさない草太。この福をもたらしたのは間違いなく彼自身だ。
(お前は、そんなに妾を想ってくれているのか)
小雪は雪女。
歳神としての性質を持つ、特殊な雪女。
闇に紛れて生きる者たちの中には、その力を手に入れようと小雪を襲ってくる者たちもいる。
しかし、それがそもそも間違いなのだ。小雪の歳神としての力は、大切に想われることで発揮される。神に捧げられる供物の、その対価を払う。それは人が親切を受け、その礼を返すのと同義。違うのは、それを『形』にしてやれるかどうかだ。
小雪を大切に想う者にはわけ隔てなく平等に、その想いに対する対価が支払われる。気づかないほどに小さいものだけれど、日常の中に確かに訪れる春の日差しのような幸福感。それをもたらすのが歳神。小雪の力は、そんな些細なものなのだ。
使いようによっては巨大な力となるため、一つ目鬼たちのように勘違いした者たちに狙われてしまうのだけれど。そんなに自由になる力ではない。小雪が望まない限りは。
(妾は……草太の想いに、応えているのか)
それは驚愕の事実。
身に余る福が舞い込むような大きな力を形にするには、草太の想いだけでは到底成しえない。ただ想われているだけではない。自分も彼を想っているのだ。その事実に、初めて気づいた。
草太が望めば、この国の天下を取ることも夢ではないだろう──。
そう、思ったのだが。
彼は実に欲のない男だった。お殿様から頂いた金は、長屋のみんなと一晩酒盛り出来るくらいのものだけ残し、後は全部養生所や寺に寄付してしまった。
「こんな大金、手元に置いておいたらおかしくなってしまいそうだから」
そう言って笑う草太は、しかしすぐに顔を曇らせて。
「あ、でも、小雪にはまた苦労をかけてしまうけど……」
申し訳なさそうに小雪に謝った。
「……いいえ」
小雪は首を振る。
「そんな草太さんを、私はお慕いしております」
微笑む小雪に、草太は顔を赤くして照れる。
金が舞い込んだということは、それを草太が望んだことだからなのだが──それを全て放棄したということは、金自体が欲しかったわけではないらしい。
困った人を助ける。幸せになる人を見て、自分が幸せになる。そういう男なのだ。
(まあ、それもいいだろう)
ほんの少しの、ささやかな幸せ。
それを草太が望むなら、小雪はそのささやかな幸せを叶えてやるだけだ。