橙
凍傷を起こして倒れていた男が発見されたのは、それから二日後のことであった。
意識もなく熱に浮かされる日が続いたが、一週間ほどでそれは回復した。しかし何のせいなのか、しばらく床から起き上がることが出来なかった。
周りの者たちは、ずっと一緒に暮らしてきた師匠の死がよほど堪えたのだろうと気遣ってくれた。意識のない間、ずっと茂吉の名を呼んでいたそうだから。
けれども、それだけではないような。
良く分からないモノが胸の奥に痞えていた。
凍り付いて死んでいた師匠のこと。ビョオビョオと吹き荒れるあの白い風の音。それを思い出すと、どうにもこうにも震えが止まらなくなる。
何のせいだか分からない。
だが、何か恐ろしい目に遭った気がするのだ……。
厳しい寒さの冬が過ぎ、真っ白だった景色は次第に柔らかな色に包まれていく。
冬の間床に臥せっていた男は、だんだんと温かくなってくる陽気に誘われるように、徐々に起き上がれるようになっていった。
若い男はすぐに体力も回復し、さあ仕事を始めようというところまで来たのだが。
山へ向かおうとする足はどうしても竦んでしまい、動けなくなる。毎朝意を決して歩き始めるのだが、ざわざわと揺れる梢の音を聞くと、どうしてもそこから先へ進めなかった。
死にかけたのだから、当然と言えば当然だった。
男は泣く泣く樵の仕事を捨てる。
そして幼い頃に世話になった寺の住職の口利きで、川渡しの職につくことになった。
仕事の呑み込みが早い男は、すぐに一人で仕事を任されるようになった。
このあたりに橋はなく、それなりに忙しい毎日を送っていたのだが。
うららかな春のある日のこと。
どうしたことか、昼過ぎからぱったりと客足が途絶えてしまった。
この日は盛大な祭りが催されていて、ときどきふわりと吹く風に乗って囃子の音が聞こえてきていたから、人がそちらに集まっていて、そのせいなのかもしれない。
たまにはのんびりしていいか、と、ゆるやかで透き通った川の流れを、つくしの生い茂る川原に座りぼんやりとした目で眺める。
時間はあっという間に過ぎ、いつの間にか烏の鳴く空は燃えるような橙に色を変えていた。その橙の色に照らされた男の頬に、ふっと影が落ちる。
「あの、すみません」
細い女の声に、男は顔を上げた。
「船を出していただきたいのですが……」
そう遠慮がちに声をかけてきたのは、長い黒髪を後ろでひとつに束ね、夕刻と同じ色の花が描かれた着物を着た女だった。
男はその女に目を奪われる。
すっとした切れ長の瞳に、薄い紅い唇。顔の造形が美しいのはもちろんなのだが、何より目を惹いたのは、透き通るような肌の白さだった。その白に、視線を縫いとめられたかのように動けなくなる。
そんな風に呆けた顔をする男に、女は小首を傾げた。
「……あの、今日はもう、終わりでしょうか」
不安げに訊ねる女に、男ははっと我に返った。
「いえ! すぐに用意します!」
さっと視線を外し、微かに赤くなる頬を隠すように背を向ける。
──何をやっているんだ。
心の中でそう自分を叱責しながら、桟橋から小船に乗り移る女に手を貸してやる。
節くれだった大きな手にそっと乗せられた手は、ますます白さが際立って見えた。するりとした肌理細やかな肌にまた見惚れそうになり、本当に何をしているのだと目を逸らす。
女ひとりだけ乗せた小船は、ゆるやかな流れに乗って静かに岸を離れる。
船の舵を取る男の目は、知らず知らずのうちに女へ注がれていた。
武家の娘だろうか。
この辺りの百姓の娘は皆日に焼けている。名主のところの娘だって、この女のようには肌理細かくない。足の運びから手を上げる仕草、淑やかな立ち居振る舞いは庶民のものではなかった。
しかし、武家の娘が共も連れずに出歩くことなどあるだろうか……。そんな疑問を抱きながら船を漕ぐ。
風もない穏やかな日だ。燃えるような空を落としたゆるやかな流れの川面を、滑るように船は進んでいく。
その流れていく橙の川面に視線を落とす女の、伏し目がちな横顔もまた美しい。思わず見惚れそうになってはぱっと視線を外し、漕ぎ方に集中しろ、と気合を入れる。
「……あの」
女の細い声が川のせせらぎの中、静かに響く。
「はいっ!?」
緊張のあまり上擦った返事をする男。顔を上げた女の美しい黒い瞳と目が合い、更に心臓が跳ね上がった。
「宿屋は近くにありますでしょうか」
「あ……はい、道なりに真っ直ぐ行けば、何軒かあるはずですよ。……ああ、でも今日は祭りで……どうかな」
「ああ、どうりで賑やかな音が」
川からは見えないが、賑やかな笛の音だけは時折風に乗ってやってくる。その音に耳を傾けているのか、女の目がすうっと細まった。
それにまた見惚れてしまい、いかん、いかんと首を横に振る。何か落ち着けるような会話をしようと、男は真っ赤な空を見上げながら言葉を探す。
「祭りを見に来たわけではなさそうですが……ひとりで旅を?」
「はい。二親を亡くしまして……江戸の親戚の家へ参る途中なのです」
なんと、話題失敗である。男は焦った。
「す、すみません……」
何とか取り繕おうと忙しなく視線を動かす男を見て、女はくすりと笑った。
「いいえ……。誰かとこうして話していると、気が紛れます」
ちら、とこちらへ向いた視線は穏やかで、それに合わせるように赤い唇もたわんでいた。男はほっと胸を撫で下ろす。
女のことを訊ねて失敗してはいけないと、男は祭りについて話し始めた。
豊年を祈る祭りで、神社では氏子たちの田植えを模した愉快な舞を見ることが出来ること。町中に大きな市が建ち、その横を笛や太鼓が奏でる囃子を引き連れながら、賑やかに通り過ぎる大きな山車が見られること。
「夜中まで賑やかですよ。見ていかれるといい」
もしかしたらそんな気分ではないかもしれないとも思ったが、女は柔和に微笑んだ。
「それは楽しみです」
そう言う女の白い肌を淡く彩る夕日の色が、美しい微笑みを一層艶やかにした。
はは、と男は軽く笑い、女から視線を逸らす。
(駄目だこりゃあ。目を合わせないようにしないと)
女があまりにも美しいからか、視線ばかりか心まで惹き付けられていく。こんな感覚は初めてだった。
無事に川を渡り、小船から降りるのにまた女に手を貸してやる。女も自然にその手を取り、船を下りたところでよろりとふらつき、男にしがみつく格好になった。
「すみません……」
男の胸に白い手を置き、申し訳なさそうに謝る女の顔が触れそうなほど近くにある。
男の顔は見る間に赤くなり、ぱっと女の手を離した。
「い、いい、いえっ、こちらこそすみませんっっ!」
顔を硬直させながら後退りしていった男は、やがて小石に躓いて後ろにひっくり返った。
見事な尻餅をついた男を見て、初めはきょとんと目を丸くしていた女だったが、やがてころころと笑い出した。
「大丈夫ですか?」
と、白い手が差し出される。
おかしそうに口元を押さえながら差し出されたそれを見て、男は更に恥ずかしくなった。しかし、そのうち自分でもおかしくなってきて、頭を掻きながら一緒になって笑った。
一頻り笑いあった後、「それでは」と女は頭を下げ、背を向けて歩き出した。
その細い背中を見送り、男はほう、と溜息をついた。
「あんな別嬪さん、もう二度と見れないだろうなぁ……」
そう呟く瞳は、実に名残惜しそうであった。
男と別れて歩き出した女は、柔らかだった表情をがらりと変えた。穏やかな色を湛えていた瞳は、沈みゆく陽の光を一瞬で凍らせてしまいそうな冷たいものとなる。
その鋭い眼光は、冬山で淡水色の長い髪を靡かせていた白い妖のものだった。
あれから吹雪く山の中で、じっと傷が癒えるのを待っていた女は、男がもしも雪女がいたと誰かに喋っていたら……と、様子を見に山を下りてきたのだった。
しかし……。
「あの男、妾のことを忘れているのか」
女は髪色と瞳の色を変えてはいたが、顔の造りはそのままであった。顔を見ればそれ相応の反応があっていいはずだが、男は女の顔をまるで初めてみるかのような顔をしていた。
それはそれで好都合だ、と女は思う。
もし雪女の噂が広まったりしていたら、この辺り一帯の人間をすべて排除してしまわなければならないところだった。さしもの雪女も、それは骨が折れる。
今後も男の記憶が戻らなければいい。
そう願うも、不安は拭い去れない。
「……手を打っておくか」
山の向こうへと沈みゆく太陽は、徐々に暗い雲に覆われだしていた。