紅
其は、なないろの
夢幻の泡沫
こぽり、こぽりと浮かんでは
弾けて飛んで
消えてゆく
* * * * *
ビョオビョオと、白い風が山の中を吹き抜ける。
まだ陽の落ちぬ時間だというのに、空は冷たい真白な風に太陽の光を遮ぎられ、辺りはすっかり闇に包まれてしまった。
その闇の中。
背の高い木々が強風に呻りを上げ、ざあざあと雨のような音を響かせるその下を、蓑に包まりながら歩く樵たちの姿があった。
ひとりは老人、ひとりはまだ年若いその弟子で、山に入る前は澄み渡る青空が広がっていたというのに、さあ帰ろうという時分になって、突然天気が変わったのだった。
このまま陽が暮れれば凍死してしまう。そんな懸念が生まれ始めたとき、二人は猛吹雪の中に小さな掘っ立て小屋を見つけた。
「これ以上歩き回るのは危険だ。今晩はあの小屋で休むとしよう」
その師匠の言葉に弟子は頷き、叩きつけるような白い風から逃げるようにそこへ飛び込んだ。
夏の間に炭火小屋として使われていたらしいそこには、たくさんの墨が積んであった。
──助かった。
二人は囲炉裏で火を熾すと、ほっと息をついた。
「山の天気は変わりやすいとは言え、どうもおかしい。山の奥から雪女でも降りてきたのか……」
ほんのりと赤い明かりを灯す炭火に掌をあててそう言う師匠に、弟子はけらけらと声を上げて笑った。
「雪女? そのような妖の類が、この世に本当にいるとは思えませんが」
「さぁて、どうだかな? 妖怪というものは、人の思想から生まれると言うぞ? ほれ、こうしてワシらが話していることで、雪女はすでに生まれているのかもしれんなぁ……?」
深い皺を顔中に刻み、師匠は朗らかに笑う。その笑い声が終わらないうちに、どんどんどん、と木戸が激しく叩かれた。びくり、と弟子の肩が揺れる。
その様子を見て、師匠は更に皺を刻んだ。
「ほほほほ、風の悪戯じゃろうて。こんな吹雪の中、山を歩いておる者などありゃせんよ。あるとすれば……雪女、かのぅ」
「……茂吉さん」
弟子は師匠を睨み付けた。拗ねたように尖る口は、まだあどけない少年の顔だ。
「俺が怖がりなのを知ってて言ってるんでしょう。意地が悪いなぁ」
「ほほほほ、こうして笑うと身体が温まって良いと思っただけじゃよ。さて、こんな吹雪の中を歩いて疲れたわい。お前さんも、少し横になりなさい」
そう言うと師匠は囲炉裏の中に炭をいくつか投げ入れ、そして蓑を被って横になった。
いかに慣れているとはいえ、猛吹雪の中の山歩きは老体に堪えたのだろう。横になってすぐに師匠は寝息を立て始めた。
それを見て弟子も壁に背を預け、目を閉じてみる。
ビョオビョオと、風が呻る。
戸口がガタガタと震え、壁や屋根がギシギシと鳴く。
そのうち白い風に巻かれて小屋ごと吹き飛ばされるのではないか──そんな心配が胸の内に浮かぶほど、小屋は猛烈な風に体当たりされていた。
しかしそれでも、弟子も師匠と同じく疲れていた。小屋がみしみしと音を鳴らすたびにびくりと肩を震わせながらも、やがてうつらうつらと船を漕ぎ出す。
明日になればこの吹雪も収まるだろう──。そんなふうに、夢の中で思い始めたとき。
グオオオと呻る風の中に、高い女の悲鳴が聞こえたような気がして、はっと目を開けた。
「……なんだ?」
顔を上げ、耳を澄ます。
パチパチと小さく火の爆ぜる音に、呻る白い風の音。
その中に確かに、高い女の悲鳴が聞こえる。
(雪女?)
ぶるりと身震いして、弟子は蓑を頭から被った。
高い悲鳴はずうっと遠くから響いている。ビョオビョオと鳴く風音に混じり、断続的に、ずうっと……。
弟子は蓑から顔を出した。そしてよくよく耳を澄ませてみる。
物悲しげな女の悲鳴にも聞こえるそれは、風の音だ。ざあざあと揺れる木々の間を通り抜ける、白い風の音。
「……茂吉さんが変なこと言うから」
一人で怯えていたことに少し恥ずかしくなり、弟子はばさりと蓑を被った。
その悲鳴の響き渡る闇の中を、白いものが駆けてゆく。白い風すら呑み込む漆黒の闇の中に淡く光るそれは、人の形をしている。
女だった。
純白の着物を寒風に靡かせ、淡水色の長い髪を白い風に巻き上げながら、滑るように駆けていく。降り積もる雪に僅かな足跡も残さずに。
高い悲鳴を引き連れながら走る白い背の後方からは、獣のような咆哮が覆いかぶさってきた。
「チイッ」
舌打ちながら肩越しに振り返る。咄嗟に持ち上げようとした右腕は鉛のように重く、動かなかった。
一瞬の隙にグワアアと風が呻り、女の左側を掠めていった。白い着物の袖がビリビリに破れ、闇夜の中に赤い色がパッと飛び散る。
その痛みに顔を顰めながらも、更に足を前へと動かす。
『ヨコ……セェェェエ』
地の底から響くような低い声が、高い悲鳴を上げる風の音と混じり、女を包み込んだ。
『オマエノ、ソノ、チカラ……ヨコ、セェェェ……』
「……下衆が」
女は気性の激しそうな美しい顔を歪ませながら、血の滴る左手を掲げた。
ぽう、と白い光が掌に灯り、身を捻りながらそれを振り落とすと、鋭い氷の刃がいくつも飛び出していった。
その飛んでいった方角からは、ギャッと蛙が潰れたような声が重なり合うように聞こえてくる。その声を背に更に走った。
『ニガサンゾォォオッ』
白い輝きを放つ女を呑み込もうとする闇が、四方八方から飛び掛ってきた。宙に弧を描きながら、襲ってくる闇を右へ左へ飛んでかわす。
平時なら、なんでもない攻撃だった。軽やかに避けて、無事逃げおおせられただろう。
しかし女は手傷を負っていた。
神経が切れたかのようにだらりと垂れる右腕。鮮血の滴り落ちる左腕。ビリビリに破れた着物の袖、そして裾。そこから覗く白い足には、雷模様に裂傷が走っていた。
その足では逃げ続けることは難しく。
「っ!」
脹脛を闇に貫かれたのを皮切りに、次々と女の身体を闇が貫いていった。
それは刃のごとく、女の細い身体を串刺しにする。そして高く高く、天へと持ち上げられた。
「ぐうっ……」
呻きながらも見据えた闇の先から、バキバキと木々が倒れる音がする。その向こうから山のような影が飛び出してきた。
赤黒い、ゴツゴツとした肌の一つ目の鬼。
それは闇の中にあっても白い輝きを放つ女を見つけると、目を細めて嬉々とした表情を浮かべた。
『ツカマエタアアアア!』
そう叫び、更に女の体を高く持ち上げる。
女の体を貫いている闇は、その赤黒い鬼の髪の毛であった。鬼が吼えるたびに髪が揺れ、女の体も揺さぶられる。
ボタボタと、血が雪の上に落ちていった。
ビョオビョオと吹く白い風に晒された女は、十字架に貼り付けられたように両腕を横に伸ばし、頭を垂れて力なく宙に浮いている。
『サア、コレデオマエは俺ノモノ! ソノチカラ、ヨコセェエ!』
夜闇に響く耳障りな低い笑い声。
寒風に淡水色の長い髪を靡かせながらそれを聞いていた女は、うな垂れながらくつくつと笑い出した。その口元から、つっと鮮血が一筋流れ落ちていく。
「……救いようのない馬鹿だな」
その言葉に鬼は軽く苛立ちを覚え、更に闇色の髪を女の腹へ突き刺した。微かに漏れる女の呻き声に、鬼は満足げに一つ目を細める。
女は虚勢を張っているだけだ。五体を鬼の髪に貫かれ、女は身動きひとつ出来ない状態にあるのだ。主導権は完全にこちらにある。
『生意気ヲ言ウと、許サンゾォ?』
ゲヘヘヘと、卑しい笑みを漏らす鬼であったが。
はっとして細めていた一つ目を見開いた。
うな垂れたままの女の身から、青白い炎にも似た“気”が、ゆらりと立ち上っていくのが見えた。それを目撃した途端、無意識に体が震えだしてきた。
「お前のような下賎な物の怪が、妾の『力』を欲するなど……笑止千万」
ぱあん、と乾いた音とともに、女を貫いていた闇色の髪が飛び散った。
女は自由になった左腕を横へ掲げる。その白い掌がパキパキと小さく音をたてて青白い炎のような光を発する。それはゆらりと揺れながら、徐々に形を成していった。
現れたのは刀。
薄青の柄、雪の結晶のような形の鍔、そして透明な刀身を持った刀は、白い雪の渦巻く闇の中で青白く輝く。
「何度言ったら解るのであろうなぁ……妾の『力』は、お前たちの望むものとは違うのだと……」
刀の柄をぐっと握り締め、女は顔を上げる。白い顎に鮮血を滴らせながら微笑む女は、ゆっくりと宙を歩き出した。
青白い刀を手に、しゃなり、しゃなりと歩く姿は、幽玄の美しさを放ち。
鬼に言いようのない畏れを抱かせた。
女を見上げる赤黒い鬼は、一歩、また一歩と後退りしていく。そのうち自分で押し倒した太い木の幹に足を取られ、雪の上にひっくり返った。
「まぁ……何にせよ。『対価』は払ってやるぞ。たっぷりと……な」
透明な刀身にちろりと舌を這わせた女は、ニィ……と微笑んだ。
『ヒイイイイッ……』
先程まで意気揚々と女を追い詰めていたはずの赤黒い鬼は、情けない声を上げて手足をバタつかせる。
その真上に辿り着いた女は。
愛らしく小首を傾げ、慈悲深い女神のように微笑んだ。
瞬間、青白い炎が走る。
舞うように女が身を翻すごとに、いくつもの赤黒い塊が闇の向こうへ飛んでいった。
それは、瞬きする間の出来事。悲鳴を上げることすら許されない、刹那の出来事。
山ほどもあった赤黒い鬼の身体は見る間に小さくなり、とうとう胴体と首だけになった。
もうひとつ、瞬きをする間に。
女は蝋人形のような温度のない笑みを浮かべながら、左手の刀を振るった。
ぽぉーんと、大きな丸いものが、また宙に飛んでいく。
それは雪の斜面に落ちると、鞠のように弾んでごろごろと、どこかへ転がっていってしまった。
「……哀れだな」
ぽつり、とそう呟いた女は、雪の上に残る岩のような鬼の残骸を見下ろした後、くるりと踵を返した。そうして雪風に弄られながら一歩、二歩、歩いたところで。
ぐらりと身体が傾いた。
真っ逆さまに落ちていった白い女の身体は、雪の上に叩きつけられ、跳ね返った。
「──っは」
呻きながら、雪上に横たわる身体を転がし、仰向けにする。
──身体が熱い。
掌に、腕に、胸に、腹に、足に。
闇色の髪に開けられた傷口から、とろけるような熱さの血が流れてゆく。
背の下にある痛いほどに冷たい雪原も、身体を撫で付けていく白い風も、どれも女の力と成り得るものであるのに。今はその風にすら、身体の細胞をほどかれてしまいそうだった。
渾身の力を込めて身を起こし、左手に握った刀を雪の中に突き刺す。それを軸に立ち上がろうとしたのだが、刀は青白い炎のような光をふわりと放ちながら、闇の中へと消え去ってしまった。
「……ふ、『六花』まで消えるか……」
血に濡れた唇をたわめた後、ギリ、と歯噛みする。
いかに幾百という鬼に襲われたとはいえ。この誇り高き妖である自分が、妖力を使い果たすほど弱り果ててしまうとは。
このままではもう、消えゆくだけだ。
(それもいいか)
一瞬だけ、そんな想いが過ぎる。
この忌まわしい『力』とともに滅びればいい。そうすればもう二度と追われることもなく、安らかな眠りの中で心地良い静寂に包まれていられる……。
けれど、そんな寂滅への希求を無理に断ち切り、歯を食いしばって手を伸ばした。
まだ見出していない。
逃げ続けながらも、今まで生きてきた『理由』を。
そして、この『力』を持って生きる意味を。
忌まわしくも愛しいはずの、この『力』に。
(翻弄されてなるか)
降り積もったばかりで柔らかい雪の上に爪をたて、顔を苦痛に歪めながら身体をずるずると這わせた。右腕は完全に動かない。足も動かない。左腕一本だけで身体を前へ、前へと進める。
深雪の上に赤い痕を残しながら、生へとしがみつく。
「妾は、まだ……」
“いきたい”
生への強い渇望を抱きながら雪の上を這っていく女の肌を、一瞬だけ甘く芳しい気配が撫でていった。女の薄い青の瞳が見開かれる。
「に、んげん……!」
──ヒトの、気配がする。
高い悲鳴を上げながら森をすり抜けてきた白い風が。
心が震えるほど渇望している、甘い香りを放つ極上の『餌』の在り処を、教えてくれている。
深雪に突き立てる爪に力が篭る。
ああ、生きられる。
人間が妾を生かしてくれる……。
女の目が、ギラリと輝いた。
横殴りの暴風雪に晒され、白く化粧された小さな炭火小屋。
そこから漏れ出でる『香り』に手を伸ばし、それを遮る木戸を力任せに剥ぎ取った。バキバキと激しい音を立てながら木戸は雪の上を転がっていく。
遮るものは無くなった。
女はフラフラと身体を揺さぶりながら小屋の中へ足を踏み入れ、ギラリと輝く薄青の瞳を下へ向けた。
ここに。
この傷を、痛みを、妖力を、命を、癒してくれるモノが。
獲物を狙う獰猛な捕食者の瞳に映る蓑。その下から香る、芳しい精気。それに飛び掛るように覆いかぶさった。
仰向けに寝転がるそれは、深い皺をいくつも顔に刻んだ老翁だった。だがまだ十分に精気が満ち溢れている。弱り果てた妖の理性を簡単に吹き飛ばすくらいには。
血塗れの手で老翁の顔を挟み込むと、女は目を爛々とさせながら顔を近づけていった。
老翁の薄っすら開いた口から白い糸のようなものが細く立ち上り、女の紅い唇の中へと吸い込まれていった。
立ち上がる白い糸は、徐々に量を増していく。女はそれに貪りつく。ひとつも零すまいと、紅い唇で吸い上げる。
(……いかん)
頭の奥で警鐘が鳴った。
(殺してしまう)
そう、解ってはいるのだが、止まらなかった。
あまりにも力を失いすぎていた。それを補おうとする動物的本能が、貪欲に老翁の精気を吸い上げていく。
足りない。
もっと。
もっと……!
「何をしている!」
身体の中に駆け巡っていたあたたかな精気の供給が、急に遮られた。どん、と身体に硬いものが当たり、小屋の入り口まで跳ね飛ばされる。
女を突き飛ばしたのは、この小屋に泊まっていたもうひとりの人間。樵の弟子であった。風の音に怯えながらも、疲れに負けて深い眠りについていた彼は、激しい物音に目を覚ましたのだった。
蓑から顔を出してみれば、何故か師匠に馬乗りになっている女がいる。寝ぼけ眼でその光景を目撃した男には、女が師匠の首を絞めているように見えたのだ。
頭で考えるより早く、身体が動いていた。
女を突き飛ばした男は、女が入り口付近に転がるのを目の端に捉えながら、老翁の顔を覗き込んだ。
「茂吉さん!」
名を呼びながら覗き込んだ細面は真っ青になっていた。眉や閉じられた瞼に生える睫は霜がついたように真っ白で、唇は紫に染まっている。
「茂吉……さん?」
恐る恐るその顔に触れてみて、驚くほどの冷たさ、そして硬さに咄嗟に手を引っ込めた。
「凍って、る?」
まさか。
信じられない思いで男は師匠を眺める。
確かに寒かった。炭火があるとはいえ、吹雪の夜は凍えるほどに寒い。
しかし外で吹雪に巻かれるならともかく、この小屋はほんのりと温もりに満ちていた。凍りつくなど有り得ない……。
ガタン、と背後で音がして、男ははっとして振り返った。木戸のなくなった入り口から舞い込む雪。その下に女が蹲っていた。この暗闇の中、何故か滲んだ月のような淡い光に包まれた、淡水色の長い髪の女が。
──妖は人の想いが作り出すもの。
こうして話している間にも、生まれているかもしれんのぅ……。
朗らかに笑いながらそう話していた師匠の声が、頭の中に響いた。
(あれは冗談だ)
男は否定する。
(これは夢だ)
その存在を、否定する。
しかし男の脳内にはその名前が鮮明に浮かび上がっていた。
『雪女』
その、名前が。
白い風に巻かれ、バラバラに踊る淡水色の長い髪。その乱れた髪の隙間から覗く飢えた獣のような瞳と視線がかち合い、男は思わず飛び退いた。
すっかり冷えてしまった囲炉裏の炭を散らしながら後退り、壁に背を思い切り打ち付けた男を眺めていた女は。
薄青の瞳に、狂気にも似た光を灯した。
──なんだ。こちらの方が、旨そうだ。
幽鬼のごとく生気のない顔色で、しかし薄青の瞳だけは爛々と輝かせて。ゆらりと立ち上がった女は、一歩、一歩、男へと近づいていく。
男は命の危機を感じ、必死に床を蹴って更に壁に背を押し付けた。その先に逃げ道がないことくらい、解っているのに。
このままでは殺される。そう気が急くのか、どうすれば逃げられるのか算段がつけられないのだ。
夢の中を彷徨うようなゆらゆらとした動きの女は、決して俊敏ではない。しかしそう広くない小屋の中だ。男がまごまごしている間に、すぐ眼前にまで淡い光が迫っていた。
「ひっ……」
息を呑んだ喉から高い音が漏れた。それを嘲笑うかのように、女の紅い唇の端が釣り上がる。
もう駄目だ、と思ったとき、女の身体がぐらりと傾き、今さっき男が薪散らかした墨の上に横倒しになった。どうやら師匠の身体に足をとられたらしい。
(今だ!)
倒れた女の細い身体を飛び越えて、外へと駆け出せば……と、男は立ち上がろうとする。
だが、どうしたことか足腰に力が入らない。なんとも情けない話だが、腰が抜けてしまっていた。
(……もう駄目だ)
本当に絶望的な状況に陥ると、人は笑いたくなるらしい。男は引きつった笑みを浮かべ、ふっと息を吐き出した。
(殺される……)
そう思いながらも笑みが零れてくるものだから、自分でも気が触れたとしか思えなかった。
倒れた女は、またゆっくりとした動きで起き上がる。それに合わせ、淡い光を放つ白い袖が、淡水色の長い髪が、そっと床から離れていく様を震えながら見つめていた男は。
ぱちりと、瞬きをした。
身を起こし、立ち上がる女。上から見下ろしてくるその瞳は、一瞬で凍らされてしまいそうな冷たさを含んでいる。
けれど──けれど。
男は噛み合わないほどに鳴る歯を一度ぐっと食いしばると、恐る恐る、女に話しかけた。
「お前さん……怪我を、しているのか……?」
何故気づかなかったのだろう。女は淡い光を放ち、闇の中でも輝いていたのに。
片方の袖は肩から引き千切られ、腕は赤く爛れていた。滴る血は白い指先を伝い、床にぴたん、ぴたんと弾けて飛んでいる。白い着物は胸、腹、そして足に至るまでどす黒い紅に染まっていた。
(ああ、そうか)
気づかなかった理由に、男は気づく。
(月みたいに、輝いているから)
だから白いと思った。
禍々しいほどに紅く染められている着物の色に気づかないほど、女は神々しく輝いていたのだ。
でも気づけたのは、死を前にしておかしいくらいに力が抜けてしまったからだろう。おかげで女を正面からしっかりと捉えられた。
男はまだ身体を震わせていた。この畏れを前にしては、震えは止まりそうにもない。
だが、男はこう呟いていた。
「大丈夫かい……?」
驚いたのは女の方。
匂い立つ餌を前に、すっかり獣と化していた心が、すうっと落ち着いてくるのを感じた。
薄青の瞳が、戸惑いに揺れる。
(この男……)
この男は、なんだ。
霧が晴れるように冴え渡ってくる意識の中に聞こえてくるのは、震えながらも真っ直ぐに見つめてくる瞳の声。
恐ろしいと。
殺されると。
そう畏れ、絶望という名の闇の深淵に立つその瞳は。その一方で、大丈夫かと、心配りをしている。
女は一歩足を踏み出し、血に濡れた左手を男へと伸ばした。
男の黒曜の瞳には、更に畏れが募る。
けれどその奥からは、女を気遣うあたたかなものが、今にも零れ落ちそうなほど溢れていた。
(愚かな男)
いまいまに命を奪われようとしているのに、暢気に妖の心配か……。
(哀れな男)
常であれば、命を奪うことまではしなかっただろう。安らかな眠りについている間に、ただ少しの精気を分けてもらえればそれで良かった。
しかし今は状況が違った。
負った手傷は命に関わるものであるということは火を見るより明らかで、それを目撃してしまったこの男を、生かして人の世に帰すことは出来なかった。
人の口に戸は立てられぬ。この男を生かして帰せば、女の所在が人ばかりでなく、一つ目鬼のような悪しき者たちに知れ渡るかもしれない。それは避けたかった。しばらく身動きできない状態の今は。
(逃がすわけにはいかぬ)
このような寒い時期だというのに、雪焼けのせいで男の肌は浅黒い。女はその頬に指先を滑らせた。男の肩が跳ねるのに構わず、指を耳の下へ這わせ紅い痕を残す。
それでも男は女から目を逸らさなかった。
カタカタと小刻みに震えながら、抵抗する素振りすらみせない。それどころか、女の白い顔や首にもに散る紅い痕を見て、更に憐れみ濃く、黒曜の瞳を揺らした。
(……やめろ)
そんな目で。
(妾を見るな)
──それは、良心の呵責というものであったのか。
女にも解らない。
ただ吸い込まれるように黒曜の瞳に近づいていくと、死を覚悟した男がぎゅっと目を閉じた。それを見て、何故か残念に思ったのだ。
(妾はお前を殺す──殺す──)
そんな想いとは裏腹に。
氷よりも冷たい女の紅い唇が、あたたかな男の唇と重なった。
そっと、ただ触れるだけのくちづけ。
それだけで唇は離された。それ以上深くすると、また理性を失って底が突くまで精気を吸い上げてしまいそうだったから。
(何故だ……)
自分で自分の行動が解らない。女は戸惑いながらも男から顔を離す。
突然のくちづけに驚き、そして何事もなく離れていった女に、男はぱちり、と目を開いた。目の前の白い女を見つめる瞳はゆっくりと見開かれていく。
(その瞳は、口よりも達者だな)
女は一瞬だけ口角を吊り上げると、女の血で染まった男の唇を親指で拭ってやった。
「……お前のことは、生かしておいてあげよう。その、美しい瞳に免じて」
男の目が更に見開かれる。黒曜の瞳が今にも零れ落ちそうだ。その輝きに薄青の瞳を細めた女は、血を拭った指先に僅かに力を込めた。
「だがひとつだけ、約束をせよ」
少しだけ声を低くする。
「妾がここにいたことを、誰にも話してはならぬ。もし話せば……今度こそお前の命はないぞ」
解ったか、と目で問えば、男は震えながらも小さく頷いた。それを見て、女はゆっくりと立ち上がる。緩慢な動きで男に背を向けると、左右に身体を揺らしながら小屋の入り口まで歩いていった。
そこで肩越しに振り返る。ふわりと淡水色の長い髪が風に靡いた。
「良いか……努々、忘れるでないぞ……」
お前を、殺したくはないからな──
その声は、女の姿とともに吹雪の中へと消えていった。
それを眺めていた男は緊張の糸が切れたのか、ずるずると床に倒れ、そのまま意識を失った。