other Episode 05:Dande Lion
人によってはグロテスクと感じる表現が含まれています。
五感を研ぎ澄ませば、全ての動きがスローモーションに映る。
華凛が絶対無比の?能力?を備えていようが、身体は中学生そのもの……生身の肉体に一撃を浴びせれば華凛も悶絶するに違いない。勝機があるとすればそこだ。
つむじ風と化したアリアはあらゆる障害物を蹴散らしつつ華凛に一直線へと驀進した。
華凛は動かず、アリアを間合いに引き寄せる。
黒い霧が華凛の身体を羽衣のように包み込んだ。だが、そんなことは関係ない。アリアは停止することなく華凛へ突進し、腹部目掛けて拳を突き出した。
全身全霊で繰り出した拳は、本来の力を開放せずにあえなく羽衣に憚れ、無力化された。逡巡せずアリアは立て続けに身体を旋回させて回し蹴りを放つ。脊髄損傷は免れない蹴りを華凛は目の前にしても感情の揺らめきはなく、黒の羽衣で受け止める。わずかに体勢を崩したアリアの右手首に華凛はそっと手を伸ばした。その腕自体がひとつの生き物ようにアリアの手首をつかみ取り、一気に引き寄せて抱きついた。
「アリアさん……」
その呟きはアリアを戦慄させるに充分だった。全身が震え、まるで自分の身体ではないよういに硬直してしまっている。
「あたしの仲間になって」
得体の知れない恐怖。それが身体の内側で激しく暴れている。
言葉を発しようとしても口を開く動作さえ今のアリアには困難だ。ましてや華凛を突き飛ばす気力など身体中から捻出しても足りそうにない。
「恋ちゃんとどんな関係か知らないけど、そこまで献身的にならなくていいと思うよ」
黒い霧が華凛の全身から吹き出し、アリアの身体を包み込んだ。
何かが溶ける音と立ち込める白煙とともに強烈な痛みが襲い掛かった。消え去りそうな意識でアリアは視線を落とすと、自分の腕がじわじわと変色し始めている。指先からは爪が茶褐色……丁度土のような色合いに変色し、地に落下した。
身体が腐敗している。
この状況は打破しなければならないという焦りと思考を完全に停止したいというふたつの気持ちが錯綜するなか、アリアの視界に?土塊?に埋没する警察服がよぎった。それは抵抗せずに地獄へ身を委ねた末路なのだろう。このままでは数分も経たないうちにアリアも警察官と同じ運命を辿ることになる。
しかし、華奢な腕を引き剥がす力すら湧いてこない。
徐々に意識が朦朧となり、視界がぼやけてきた。アリアは残りある意識を総動員させて自我を保っているが、もはやそれも時間の問題だ。
――我は……ここで散るのか?
「アリアさんだって、恋ちゃんとどんなに親密でも……いつかは裏切られるんだから……」
「…………いつかは裏切られるだと?」
アリアは拳を強く握り閉めた。爪が肉に食い込み、その痛みで失いつつある現実味が、生命が、胸の中に溢れはじめた。
――我は何を諦めようとしている!
アリアにはまだ使命がある。恋に恩を返さなければならない。獅子に戻る方法を模索しなければならない。人間文化なども興味深い。なにより――もう少しだけ恋と笑い合い、助け合い、時には罵り合い……恋と幸せを共有したい。果たさなければならない使命を果たすまで死ぬわけにはいかない。
「お前が恋とともにどれほどの年を経て、どのように過ごしてきたかなど、我は知らない……だがな、恋は誰であろうが裏切らない人間だ! 優しい人間だ! たとえ、本気で殺しかかってこられようが、他人から苛まれようが、恋は全てを受け入れる強い人間だ!」
握りしめた右拳を振り上げ、華凛目掛けて打ち下ろす。
呆気を取られた華凛はその一撃に反応することが出来なかった。振り下ろされた拳は左肩に直撃し、左半身の組織は一瞬で死滅する。なおも勢いを失わない拳は小柄な身体を地面に叩きつけた。その余波で周りにある机の残骸は吹き飛ばされ、砂埃が捲き上がった。
仰臥する華凛は身体を小刻みに痙攣させている。戦闘はおろか立ち上がることすら今の華凛には不可能であろう。それだけの手応えがアリアは拳に感じ取っていた。
「恋が裏切ったのではない。お前が裏切ったのだ。恋の好意を無下にした弱いお前が裏切ったのだ」
「……違うよ」
赤く染まった髪の隙間から覗かせる瞳は恍惚な光が灯っていた。
「違う、違う、違う、違う! あたしは悪くない!」
狂乱する華凛の身体が、まるで見えない糸で引っ張られているように起き上がった。
「みんなお前が悪いんだ!」
華凛が叫びに釣られ、黒い《影》が一斉に沸きだした。地面に黒い頭部が生え、草木が生長するように頭部から上半身、上半身から下半身、そうして教室全体を埋め尽くすほどの《影》があらわれた。
「邪魔だッ!」
アリアは舌打ちし、型無しの無造作な攻撃を《影》に繰り出した。腕をひと振るいすれば《影》は数体消滅し、蹴りを繰り出せば十体近く霧散する。だが、仕留めるペースよりも圧倒的に《影》が沸き出るほうが速い。《影》個々の身体能力は大したものでなくとも、際限なく沸き出るとなれば長期戦になるほど状況が悪化するだけだ。
全ては《影》の禍根を倒せば終わる。
しかし華凛の姿は《影》たちが視界を阻み、視認することが出来ない。身を潜める作戦だろうか。
「……消えちゃえ!」
華凛のけたたましい咆哮とともに黒い衝撃波が巻き起こった。それは机の残骸はおろか味方である《影》までも飲み込み続ける。アリアの眼前にいる《影》は風化するように消滅した刹那、巨大なハンマーで殴り付けられたような衝撃が全身に襲い掛かった。170キログラム、超重量級のアリアは軽々と後方に吹っ飛ばされる。そのまま廊下を隔てる壁面に背中から叩きつけられ、アリアは血塊を吐き出した。
「お前が悪いんだぁあああッ!」
倒れそうになったアリアの身体は、瞬くまに襲い掛くる衝撃波に飲み込まれ壁面に叩きつけられた。
「消えちゃえッ!」
三度目の衝撃波がアリアを襲う。赤いバンダナが外れ、ヒラヒラと地に落ちた。
四度目。圧力に耐えられなくなった身体から鮮血を吹き出した。
五度目……
六度目…………
永遠とも思える衝撃波の強襲が収まり、アリアは前のめりに地面に倒れ込んだ。衣服は引き裂かれ、身体の内から破られたような傷が全身に刻まれている。それでもアリアの意識は繋ぎ止められていた。必死で立ち上がろうとするが、身体が命令を無視する。
「まだ生きてるんだ。見かけによらずタフだね」
「……」
悪態のひとつでもついてやろうかとするが、それすらもままならない。アリアは口をぱくぱくさせ、血塗れの形相で華凛を睨み付けた。
――我は終わりか。
見下ろす華凛、這い蹲り瀕死の怪我を負っているアリア。そんな絶望的な状況にアリアは死を実感していた。ここでさっそうと正義の味方が登場してくれるなどという希望的観測はアリアの思考には存在しない。一瞬、恋と健二のデコボココンビが脳裏によぎったが、それはふたりの身を案じてのことだ。
「あたしはあなたが一番キライ」
遅かれ早かれ、生ある者は平等にその命を費やす。
自分の悲観的考えにアリアは口元をほころばせた。
「じゃあね」
――すまない、恋。
最大級の衝撃とともにアリアの意識は途切れた。
無駄に広い体育館。
健二は少ない脳要領で脱出策を練っているのか、険しい表情で唸っている。
「脱出します」
セーラー服に二丁の機関拳銃姿の愛沢恋は泰然とした様子できっぱりと言った。自慢の黒髪ショートヘアも土まみれである。
「そうしたいのは山々なんだがね。出来ないのが現状なの。だいたい――」
言いかけて、健二は言葉を呑み込んだ。
恋は自分の親指を噛み千切った。ぶちりと耳障りな音を立て、瞬く間に親指は血塗れになる。その血痕を絶句する健二の顔面に問答無用で押し付けた。
健二のかわいそうな子を見るような視線が実に腹ただしいが、説明するのもおっくうもとい時間が無い。
「一応、確認です。健二さま、体重はおいくつでしょうか?」
「……ごじゅうご?」
「許容範囲内です」
恋は意識を扉の向こう側に集中させる。たとえ核爆弾に耐えられる鉄扉であろうが、恋の?能力?の前では無意味に等しい。
能力――発動。
次の瞬間、恋はコンクリートを踏んでいた。
校舎と体育館を繋ぐ渡り廊下。校舎の侵入経路である入口には重厚な鉄扉で封鎖されている。ダメもとで開けてみようと試みたが、がちゃがちゃ騒がしい音を立てるだけで開きそうにはない。
しかし思った通りだ。構造は通常の学校となんら変わりもないらしい。ここは昇降口の真逆に位置する校舎裏である。
「ふぅ……」
とりあえず無事に扉をすり抜けられたようだ。恋は額の汗を拭い、大きく肩を落とした。自分を転移させたためかなりの体力を浪費してしまった。だが、今度は健二を引き寄せなければならない。
手のひらを扉にかざし、意識を再び集中させる。
能力――発動。
「アイテッ!」
音もなく空中にあらわれた健二はそのまま自由落下。尻餅をついて女々しい悲鳴を上げた。
「いてぇよぉ……いてぇよぉ」
「急ぎますよ」
眼前の鉄扉を乗り越えるためだけに、再び?能力?を使用するとなると戦う体力さえ尽きてしまう。恋は遠回りながらも正面昇降口を目指すことにした。
「あ…………追いてくなよぉ!」
走り去る恋の背中を見て、健二はすぐさま立ち上がり追従する。
「落ち着けって! 急がば回れと言うだろ?」
「回っている猶予はありません! それに急げとは健二さまが言ったのです」
「確かに急がなきゃならん状況だけど、姉貴がどんなこそくな罠を仕掛けているか解ったもんじゃないのも事実なんだよ。焦って俺たちが再起不能になったら元も子もないだろ?」
「ですけど――きゃッ」
疾走する恋の襟首を健二は唐突に掴み我が身へと引き寄せた。
「な、なななぁ!」
反論しようとした瞬間、数瞬前まで恋がいた位置に巨大な熱線が降り注いだ。闇に満ちたグラウンドは一瞬、真昼のような明るさになったが、すぐさまもとの暗闇に戻った。そして……恋が先程までいた位置に巨大なクレーターが穿たれていた。
もしわたしが健二さまに引っ張られていなかったら――考えるだけで戦慄してしまう。
「愛沢も女の子らしく『きゃッ』なんて言うのか……俺の好感度がぐいぐい上昇中だぜ」
「ありがとうございます……ですが、さりげなく胸に手を寄せないで下さい」
恋は機関拳銃の銃身で健二の顔面を軽く殴り付けた。軽くと言ってもその威力はあなどれない。小気味よい金属音と女々しい悲鳴が夜空に響き渡った。
「……痛いじゃないかぁ」
「それより、健二さま。今の攻撃地点は補足できましたか?」
「それは――ほら、お出ましだ」
穿たれたクレーター。そこから這いずり出てくるように純白な手が伸びてきた。
「貞子と遊んでいる暇はないのです」
恋は別段驚きもせず淡泊に銃口をクレーターに向けた。狙いは『手』ではなくその『モノ』だ。正体不明だが華凛が差し出した罠にあることは違いない。『モノ』が顔をひょっこり出した瞬間を狙い撃ちで仕留め、手遅れになる前に全てを終わらせなければ……。
それは緩慢な動きでその身をさらけ出した。
同時に恋は機関拳銃を全自動で引き金を絞る。
銃声が鳴り響いた直後、緩慢だった『モノ』の動きは俊敏になり、クレーターから跳ね上がった。馬鹿げた跳躍力、『モノ』は四階作りの校舎の屋上まで浮き上がる。恋も人間離れした反射神経で目標を補足し、頭上に銃口を向けた。9ミリのゴム弾は『モノ』の至るところに当たるが、怯むことなく恋に突進してくる。
そして『モノ』が燐光し始め、落下速度が劇的に増した。
回避動作を取る猶予は……ない。だが、ここで?能力?を使えばこれからの体力は――コンマ数秒の間に恋は様々なパターンを予測した。
――出し惜しみして終われば、それこそ元も子もありません!
能力――発――
「おっと、危ない」
またしても健二がセーラー服の襟首を引っ張った。恋の眼前に光源が降り注ぎ、辺り一面を照らし出す。やがてその光も収まると、光源が落下した位置には二つ目の巨大クレータが出来上がっていた。
呆然と恋はクレーターに目をやり、ひとりごちに呟いた。
「……あれはなんでしょう?」
予期せぬ事態に恋の集中力はぷつりと途切れ?能力?発動は失敗に終わっていた。
「姉貴の差し金だろうな」
「それはわかっています……それと、どさくさに紛れてお尻に手を伸ばさないで下さい」
恋は振り返り健二の両頬を銃身で挟み撃ちにした。
「一応、命の恩人なんだし、少しぐらい考慮するもんだろ。『ああ、健二さま……あなたはわたしの恩人です……未熟な身体ですが好きにしてください』までは期待してないけど、せめてワンタッチぐらいの見返りは欲しい……いや、冗談だ。気にするな。だから銃口を突きつけるのをやめんか」
「……急ぎますよ。くだらない諍いをしている暇はありません」
「…………だけど、そうもいかないらしいぜ」
健二の声音が変わったことに恋はめざとく気付いた。右手にしっかりとナイフの柄を握りしめている健二の視線にはすでに恋など眼中に含まれていない。
恋は背後に殺気を掠め取り振り向くと、巨大なクレーターの前に不思議なモノが佇んでいた。それは形こそ華凛の創り出した《影》よりも遥かに人間の形を酷似していた。肌質も日本人らしい黄褐色、背丈は恋よりも少し高くところどころ切り裂かれた薄汚れたカーテン生地のような布だけで身体を覆っている。すらりと伸びた手足は女性的雰囲気を醸し出しているが、それは人間ではなかった。
顔が、ない。顔も、頭髪さえ一本たりとも生えていない。
「B級ホラー映画に出てきそうな風貌です」
「とっつかまえれば懸賞金でそうだな」
じり、と『モノ』はすり足で一歩、近付いてきた。
「愛沢、先に行け」
「アレは……きっと冗談のような力を秘めてます」
「知ってるよ。だから、先行けって」
「ですけど――」
「俺なら平気。急がないと、アリアさん、きっと今ごろ大ピンチだぜ。加えて姉貴も大ピンチ。だけど俺は目的の教室に侵入できる手段を不保持。ところがどっこい、お前はそれを持っている。オーケー?」
健二は気取った笑みを浮かべ、恋の肩を数回叩いた。
「安心せえ。3分で追いつく」
確かに健二の言い分には一理ある。ここでふたりで留まり交戦をしていればアリアと華凛が手遅れになるかもしれない。だからと言って恋がここに留まり、健二が向かうとしても鉄壁に囲まれた教室の前で立ち往生するだけだ。
ちなみに恋が危惧しているのは健二の安否ではなく、曲がりなりにも一般人の健二にこの場を一任して平気だろうかということだった。
「……わかりました」
恋は生唾を飲み込み、勢いよく走り出した。モノの横を通り抜けようとした瞬間、モノは恋を進路を阻もうと鋭敏な動きで回り込もうとするが――
「こっちだ、236Cの必殺技を喰らえ」
モノの速さを凌駕する動きで健二はモノの前に立ち塞がった。健二は獰猛な切っ先をモノの頭部に突き刺し、腹部を手加減無用で蹴りつける。
モノは数歩後退り、立ち止まった。
「ダメージ無しか、この野郎」
悪態を吐き捨て、健二は身構える。すでに恋は校舎の角を曲がり、その姿を消していた。
「来いよ、変態が」
それを合図に健二とモノが衝突した。
身体が思うように動かない。身体の内から張り裂けたような傷から溢れる血はとっくに致死量に達していた。視界に入る右腕も本来なら曲がらない奇怪な方向に向いている。たとえ現代医学の粋を集めた治療でもこの怪我には諸手を挙げるしかないだろう。
だが、瀕死の負傷を負ったアリアは不思議と悪い気分ではなかった。
身体の内から溢れる昂揚感。血の海に浸っていると感情が不思議なまでに高まってきた。
裂けた傷口から白煙が昇り、全身が異常な熱を帯びる。麻痺した三半規管も徐々に感覚を取り戻してきた。
のっそりとアリアは立ち上がる。あれだけ深い傷口は完治しており、今では傷跡の判別すらできそうにない。
「……人間じゃないの?」
アリアの眼前には痛々しく肩を押さえる少女が信じられないという表情だ。
これは誰だ? アリアはその少女を見てふと思った。少女の表情は友好的なないところから分析すると少女と我は敵対しているのだろう。だが、どのような経緯があってこの状況に発展したのだろう? いや、そもそも『我』は誰だ?
思い出せない。
「粉々にしないとダメなのかな?」
苛ついた口調で呟いた少女は虚空に片手を差し出した。そうすると空中に黒い球体が構成されていく。
その球体に膨大な破壊エネルギーをアリアはひしひしと感じ取っていた。見たところによると眼前にいる少女はアリアを殺すつもりらしい。
「身体をはんぶんこすれば、さすがに立てないよね?」
少女はバレーボールほどの大きさまで膨らんだ球体をアリアの胸部に押し付ける要領で手を突き出し――
「えっ?」
当たる目前で黒い球体は文字通り霧のように霧散し、少女の一糸まとわぬ素手がアリアの胸部に触れた。
ただ、それだけだ。
「なんで……なんでよ……」
激しく狼狽する少女にアリアは無感動に蹴りつけた。今までのアリアからでは比較にならない速さの蹴りは霧の障壁を軽々と破り、少女の肝臓部位にねじ込まれる。少女は重力を失ったかのように横手の黒板に背中を叩きつけた。
蹴りつけた衝撃の余韻が足に響き渡る。少女が吹っ飛び、壊れていく姿はアリアに異様な興奮感をもたらしてくれた。少女の苦しむ表情がとても心地よい。記憶は曖昧だが、お互いに『この感覚』を求めて殺し合っているのだろう。
きっと少女を殺せば格別に気持ちいいに違いない。
アリアは『紅い』瞳で少女が悶絶する姿を見据えた。
「あっはははははははははあッ!」
最高だ。少女の恐怖に満ちた表情は心の空洞を満たしてくれる。
「こないでッ!」
少女の叫びに喚びだされたのは三十前後の《影》だ。地面から生えて出たようにたちまち《影》の軍団がアリアの視界を覆い尽くした。
おもしろい力だ。しかしアリアにとって数など問題ではなかった。
アリアは指を鳴らすと同時に三十体前後の《影》たちは頭部から蒸発するように消え去り、完全に霧散した。広がった視界が捉えたのは絶望を孕んだ少女。だが、彼女の瞳はまだ死んでいない。
「死んじゃえッ!」
少女が左腕を振るうと空気圧の変化と『未知な力』が生じ、黒い衝撃波が発生した。残骸を巻き上げ襲い来る衝撃波を不気味な笑いで見据えるアリア。今のアリアには衝撃波発生のシステムから少女の不思議な力まで、戦いにおける全ての仕組みを掌握していた。この衝撃波は軽い気圧の変化に少女自身が『未知な力』に一味加えたもに過ぎない。『未知な力』がなければ消しゴムすら倒せない微風で収まる。
衝撃波に飲み込まれる目前でアリアは?能力?を発動させた。
不可解な力だがあくまでそのシステムはこの世の原理に乗っ取った法則。たとえ目に見えぬ衝撃波だろうが元を辿れば原子分子で構成されている。なら、全てを単独の存在に『分解』させれば良い。先程の球体を『分解』したように。
アリアまで数センチのところで黒の衝撃波は消滅し、わずかに残った微風がブロンドヘアを靡かせた。
「……あ、ああ」
今度こそ少女の表情は絶望に歪んだ。
それはアリアにとって甘美で至福の時であった。
調理は完了した。あとは絶望したまま少女を引きちぎるだけだ。一体それはどれだけ気持ちいいことだろうか? 抵抗するだけした挙げ句、それが無意味と悟った者をいたぶりつつ、じわじわと食べるのは一体どれだけ――
「き、来て! ケンジ!」
叫びとともに空中から重々しいモノが落下してきた。そのモノは人間でもなければ生物でもなさそうだ。黄褐色の肌は日本人を彷彿とさせるが、なにより形があまりにも不完全すぎる。両手、両足は身体から完全に分離しているうえに首もとは半分以上切り裂かれている。文字通り存在しない顔は刃物類で抉られたような傷跡があった。
そのモノは動く気配がない。生命活動は途絶えられているようだ。
「……なんで……誰にやられたの……?」
アリアは涙ぐむ少女の頬を握り潰す勢いで掴み、空中に持ち上げた。アリアの片腕に少女は両手掛かりで抵抗を試みるが、十五歳たらずの少女の膂力では抵抗は無意味に等しい。
「やっ……」
一瞬、黒い霞が少女の周囲に漂ったが、すぐに霧散してしまった。
「…………」
アリアは少女の頭を握り潰そうと片手に力を込める。
ぎしぎしと頭蓋骨が軋む音、少女の苦痛に嘆く声。
少女は必死に手足をばたつかせるが――木材がへし折れたような音とともに少女の抵抗がピタリと止んだ。
その瞬間、残骸だらけの教室が点滅し始めた。それは明かりの具合ではなく、空間その物が点滅し、歪んできている。残骸だらけの教室とは違った情景が、点滅するつど入れ替わりに映りだし数秒後、残骸や血など皆無の古びた教室になった。等間隔に机が配置されており、アリアの真正面にある黒板には筆記体の英語が綴られていた。
不可解な状況にアリアが懊悩していると、引き戸が勢いよく開放された。
また少女だ。着衣しているセーラー服はところどころ裂けているうえ、ショートヘアまでも土まみれである。それ以上に両手に携える二丁の機関拳銃が少女の存在感を顕著にしていた。
その少女はま表情を引き締め、声を張り上げた。
「アリアさま! そこまでです!」
「……」
少女の叫びはアリアに謎の感情が呼び起こされた。郷愁を感じる……とても心が癒される……人間をいたぶることよりも幸せに思える……不思議な感情。
しかし目の前にいる少女のことは覚えがない。いや、忘れているのだろうか。
考えれば考えるほど、答えは遠ざかっていく。頭が割れるような痛みが、心臓が裂けるような痛みが、目の前にいる少女を考えると意識が途切れそうになる。
「……ああ……ぁぁあああ……」
アリアは持ち上げていた少女を地上に落とし、両手で頭を抱え始めた。
まるで理解できない感情の起伏。
「ぁ…………ぁああああああああああああああああッ!」
アリアは咆哮を挙げた。鼓膜が破れそうな轟音が轟く。
そして、その瞳が『紅』から『緑』に遷移し、アリアの意識は闇に途切れた。
「みんなのヒーロー、望月健二の登場だい。いや、遅くなってすまん。思ったよりあのヘンタイくんがすばしっこくて、手間取っちまった。だが、俺の華麗なる剣舞でしゅしゅしゅっと痛めつけたら見事に蒸発して全速力で駆けつけてきたんだけど……って、もう終わっちゃったか」
アリアが気を失い数分後、飄々とした健二が教室に踏み込んできた。
教室には腐臭や残骸など一切無い、普段から慣れしたんでいる外装と雰囲気を取り戻していた。華凛が気を失ったことで?能力?の効果が切れたのだろう。ここは華凛の能力下から離れた現実世界に違いない。
「健二さま…………」
瞑目し、脂汗を浮かべている華凛は苦しそうに唸っている。隣にはアリアが死んだように眠っていた。
その傍らに体育座りをする恋は裏返り気味の声で呟いた。
「ごめんなさい……華凛さまが……」
「お前の所為じゃないし、姉貴はまだ生きてるだろう。息してるし。そんな心配するな」
「……頭蓋陥没、肋骨も数本折れています。脊髄損傷している可能性もあります」
「それでも生きてる」
「……」
「それより、アリアさんは――まあ、この調子だと平気なんだろうな。良かった良かった」
健二は唸る華凛の身体をお姫様のように持ち上げた。それが身体に響いたのか、華凛は大きめな声を漏らすが、健二は「大丈夫だ」と耳元で優しく呟き窓側に近寄っていく。
「どちらへ行くのです?」
「……愛沢、お前が何者かなんとなく想像は出来る。だから、これから姉貴がどうなるのかもなんとなく想像出来る。こんな姉貴だけどさ、一応、大事な……姉ちゃんだからな」
「……そうです、か」
恋は顔を伏せた。
「今日起こったことは全てわたしの夢です。華凛さまの暴走も、健二さまも。わたしは夢の中まで仕事をこなすつもりは毛頭ございません。なので、わたしは今日の出来事は自分の胸の内に秘めときたいと思います。夢の戦いを上の人達に報告するほど、わたしはバカではありません。どうぞご自由に健二さま。あなたがどこに蒸発しようが、あなたの勝手です」
「そうだな……じゃあ、夢ついでにひとつ。明日っからしばらく望月姉弟は旅に出る。学校にも来なくなると思うけど、心配すんな。どこかで元気にやってるさ。あと……姉貴のこと、あんま恨まないでくれ」
顔を伏せる恋の視界に銀光が煌めくナイフが滑り込んできた。
恋は顔を上げると窓に足をかける健二が不敵に笑っていた。
「餞別だ」
「……餞別を送る立場が逆です」
ふたりは無言で見つめ合いはにかむような笑顔を浮かべた。
「またな」
「ええ」
挨拶を交わし、健二は窓から飛び降りた。
ここは三階だが、重傷な華凛を背負って飛び降りて平気だろうかという心配はなかった。それよりあの姉弟に寄る辺があるのだろうか? いや、それ以前に華凛を治療するには、それなりの施設が整った病院で療養する必要がある。
「なるようになります。健二さまもバカではありません……たぶん、きっと……」
翌日、学校はいつもの賑わいを取り戻していた。行方不明の生徒達全員が『自宅』で発見され、学校に顔を出していた。行方不明期間の記憶は不明瞭で「目が覚めたらベッドで寝ていた」という証言がほとんどだ。
しかし生徒の大部分が喜んでいる最中、愛沢恋だけが沈鬱な気分に浸っていた。三十人近くの生徒の代償に素の自分をぶつけられる親友――華凛が消えてしまった。
華凛暴動の真相は結局、闇のベールに閉じられたままだ。暴動に到った理由、?能力?の繊細。何が華凛の琴線に触れ、あのような事件が起こったのだろう? 恋には想像がつかなかった。
そしてもうひとり――望月健二という存在。
健二もまた華凛と一緒に蒸発してしまったひとりだ。意味深な言動、ある意味では泰然自若とした佇まい、そして素人とは思えぬ戦闘能力。まるで全てを見過ごしている傍観者のような存在だった。
結局、何も解決していない。いや、始まってもいない。今回の事件は特務機関には報告せずに、胸の内だけに秘めている。稀有で第二級近くの空間創造能力者――望月華凛、能力者すら定かではないが常人を遥かに超える身体能力を備えている望月健二。そして……華凛をねじ伏せたアリアの力。所属期間だけならベテランにも勝る経歴を持つ恋だが、機関を揺るがしかねない事件を報告しないなど自分自身を信じられなかった。
まるで白昼夢を見てたようだ。
ただ、健二が残してくれたナイフだけがあの事件を彷彿とさせてくれた。
そしてアリアだが、自分が華凛を撃退したことを覚えていないらしい。
替えのセーラー服に身を包む恋は帰宅後にアリアと自宅で話し合いをしていた。
「……我が華凛を倒しただと? 不甲斐ない話だが……我はあやつに意識を途切れるまでなぶられたのだ……。確かに気を失う前に一撃を負わせたが……致命傷ではなかった。気を失った我にはあやつに引導を渡すことはできん……」
そう証言するアリアに恋は曖昧に相づちを打つことではぐらかしたのだ。
見間違えるはずがない。あの時のアリアの瞳は翡翠色ではなく『紅』だった。紅玉色はアリアが自我を失い破壊者になる間の双眸だ。何かの反動で暴走状態に切り替わったアリアが、華凛をねじ伏せた――しかし、いくら暴走状態とはいえど、あの華凛を追い詰めることが可能だろうか? それに紅い瞳になる原因は獅子から人間に変化するときだけに見られる限定の症状ではないのか?
様々の謎が恋ひとりの中で渦巻いていた。
「それにしても……恋。お前は平気なのか?」
「……えっ? なんのことです?」
恋は回転式拳銃の弾倉を専用ブラシで磨いている。悩みがあるときは銃器の整備をする習性がついていた。
「いや……あやつ――望月華凛は親友……なのだろう」
「そのことです、か。大丈夫……と言えばちょっとした強がりになりますけど……華凛さまにもきっと事情があったのでしょう」
「……恨んではないのか?」
「罪を憎んで人を憎まず――異国の偉人さんが言った言葉です。わたしが華凛さまを恨んだり憎むようなことはありません。それに……今回の華凛さまの暴動はわたしを決別したわけではなさそうです。ですが……今度、華凛さまと相見えるときは――」
整備が終わった回転式拳銃を恋は構え、「バーン」とイタズラっぽく言った。
「そのときは……笑顔で一発、撃たせて頂きます」
番外編2回目、やっと終わりました……。疲れました。毎回言っていると想いますが、もうめちゃくちゃです。シリアスは半年ぐらい遠慮したいです(笑) 早く本編書きたいですよ。
というわけで本来なら次話から本編のコメディー?なのですが……あれです。しばらく小説更新を休止したいと想います。すみません、という言葉は便宜上のため書いただけです(笑)
諸事情より、次の更新は十月〜辺りだと。それともちみちみ更新はやめて一気に最終話まで投稿するとか……とりあえず休載します(笑) この「ぽーかーふぇいす」を気に掛けている方がいるとは思えませんが、一応、この場を借りて宣言しときます(笑)
では、失礼しました。