other Episode 03:Fearful Shadow
これは本編より十年前のお話。
まだ仁井哉が幼稚園生だった頃。
特務処理機関の構成員《拳銃屋》、愛沢恋の物語。
暑さ寒さも彼岸まで。
摂氏三十度を超えた日々もようやく終わりを告げ、時は十月の半ば。一年のうちで一番人間が過ごしやすいと感じる秋である。
二ヶ月前、右腕圧迫骨折も回復に向かい順調に邁進し、ギブスも外れたのも丁度この頃である。完全復活――とまでは行かないものの普段の生活に差し障りがない程度に右腕が稼働するようになった。
質素なセーラ服に身を包み込んだ愛沢恋は、授業中にも拘わらずうららかな陽気に誘われうつらうつらと首をガックンガックンさせていた。授業などはあくまで学校に付随するいわばおまけのような存在。本来、学生の本分は勉学にあらず、級友との交友を深め合い信頼の地位を確立する事にある。恋はそんな固執的な考えを頑に振興し、将来の自分から目を逸らしていた。全く以て生粋ダメ人間である。
そのような貧相な思考でも、恋が普段の状態ならば「普通」の中学生として忙しくノートに板書はしているはずだ。今現在の恋はノートを板書したくとも出来ない状態。恋は心身ともに憔悴しきっていた。
原因として考えられるのは、先月から急遽同居する事となったアリアの存在が九分九厘を占めている。彼女が来てからは恋の悩み事は跡が立たず、口内炎のように完治したと思えばまた発症、時には治ってもいないのに二個目の口内炎発症、煩悶も矢継ぎ早に発症する。そして同居生活一ヶ月経った今でも消えない悩みが恋にはあった。
生活費だ。
主に食費のみで貯金は宇宙空間にでも吸い込まれるように無くなっていく。一日の学業を終え、帰宅を果たし、居候たるアリアと顔を合わせれば、腹が減った、空腹だ、などの飢餓感を訴える台詞オンリーだ。アリアの食物摂取量は常軌を逸していた。一日で米十合の浪費は当然の如く、その他総菜などの副食も含まれるので生活財政は早くも緊急事態。こっそり溜めて置いた貯財で上手くやりくりしても、そろそろ資金残量が底を尽きる。
ただでさえ追い込まれた恋に追い打ちを掛けるように、アリアは食器、壁、挙げ句の果てにドアノブまでを一捻りで破壊してくれた。頭を垂れて大家さんを懐柔することには成功したものの風来坊たるアリアが来てから恋は心休める日は訪れていない。
疲労困憊の恋には授業終了の鐘が鳴っている事態に気付かず、今だ首をガックンガックンさせていた。そこに光輝を身に纏った女子学生が光臨し、恋の比較的矮小な身体を小さく揺すった。
「恋ちゃん。もうお昼ご飯だよ」
ぐらぐらと感じる振動に恋は重い瞼をゆっくりと開け、セーラ服の袖口で目尻を擦る。
「ふわぁあ……。もうそんな時間でしたか。ご忠告恐れ入ります」
「なんか恋ちゃんって最近疲れてるの? いつも眠そうだけど……」
女性学生は長い髪を揺らしながら前席の机を反転させ、恋の机にくっつけ、椅子に腰を下ろした。
「さようでございます……わたしは疲労困憊です。エンゲル係数のコンバージェンスが続いている為、家計が火の車に追いやられたり、最近では家具が頻繁に破壊されたり大変なのです……」
「あれ? 恋ちゃんって一人暮らしじゃなかったっけ?」
「……一ヶ月前ほどから親戚の外国人留学生が住むことになったのです。そのお方は大学生なのですが、一人暮らしをするにも予算面の問題で色々と手厳しいということで、わたしの住まいに居候しているのです」
机上に可愛らしい小さなお弁当箱を広げられたのを見て、恋も椅子下にある鞄からお弁当箱を取り出した。
「へぇー、大変そうだねー。まさに骨が折れるって奴?」
「笑い事ではございません!」
恋は上品な笑みを湛える女子学生を一喝し、冷凍食品のミニハンバーグを頬張る。
「この歳で、エンゲル係数を気にするなどあってはならないの事態なのです! あぁ、一ヶ月前のわたしは校外の飲食店で羽振り良く五百円の日替わりランチAを頼んでいたというのに……通い続けて二年でやっと店長さまに顔を覚えていただきました。それがまるで十年前の出来事のようです……無駄な出費を重ねないためにはしょうがないのです……」
「どんとまいんどだよ! 恋ちゃん! 頑張って!」
あくまで朗らかな笑みを湛える華凛を、恋はねっちょりした視線を浴びせる。
「……今のわたしは幸せなお方が妬ましく思える性分です」
「なんのこと?」
「……なんでもありません。可憐な美少女の戯言だと思って下さい」
女子学生は疑問符を頭上に浮かべつつ、持参水筒からふたつのカップに茶を注ぎ、ひとつを恋に差し出した。恋はそれを手に取り一気に口内へと流し込んだ。
「ありがとうございます」
「恋ちゃんって結構豪快だよね。言葉遣いはお嬢様っぽいのに」
「華凛さまのような深窓令嬢に言われてもわたしはちっとも嬉しく思いません」
唐突だがそろそろ恋と対話する女子学生の名を記しておきたいと思う。
彼女の名前は、望月華凛。恋とは中学入学以来3年近くに渡る付き合いでお互いに親友視しているほどの仲だ。彼女は恋のような偽りのお嬢様ではなく、正真正銘、血統書付きのお嬢様である。日本IT業界の重鎮と流布されている父親を持ち、母親に到っては数年前まで国民的アイドルを担っていた存在で、四十を過ぎてもその美貌に衰えはないのだという。その令嬢が華凛である。まさに人間サラブレッドといえよう。華凛は自分が資産家の娘であることを鼻に掛けたりはせず、クラスメイトからも評判が良い。根本的な構成はお嬢様なのだが、根っこの部分を見せることはほとんどなく、普段から朗らかな女子中学生を演じていた。
一方、お嬢様?らしい?と言う点では恋の方が一枚も二枚も上手だが、実際問題、エンゲル係数を気にするお嬢様などはいないだろう。
「ところで恋ちゃん……最近欠席の人数、増えているの、気付いた?」
「いいえ、わたしは逐一生徒数など数えませんので」
「クラスの状況ぐらい把握しとこうよ! ウチのクラスだけで小野君、矢部君、祐理ちゃん、藍ちゃん、岬ちゃん……5人もいないんだよ!」
「どうせ、欠席している方々は夏風邪を拗らせているのでしょう。心配するだけ損です」
「夏風邪かは知らないけど……どうも休んでいる人達は家にも帰っていないらしいんだよ……」
黙々と食事を堪能していた恋は意味深な台詞にピタリと箸を止め、秀眉を寄せた。
「帰っていない、とはどういうことでしょう?」
「……生徒に心配を掛けないように学校は素知らぬ顔しているけど、2学期に突入してからこの学校の生徒、行方不明者が続出しているみたい。けど、もう学校中に噂が広まちゃってるみたいだし、近いうちに新聞沙汰になるんじゃないかなぁ」
「何人ほど行方を眩まされられたのです?」
「うーんとね、一日一人の頻度で、行方不明なのはみんな3年生で、たぶん……30人ぐらい」
学習意欲ゼロの恋だったが、この手の問題については?職業柄?無意識的に聞き入ってしまう。
2学期の始めから、すなわち9月から10月に掛けて行方不明者が30人も勃発した。一度に30人が行方を眩ましたのならそこまで興味を示さなかっただろう。計画的な誘拐か友達同士で集団サボタージュでも理由はいくらでも考えられる。しかし一日一人、何の法則だ? 自発的に行方を眩ましたとは考えにくい。身代金目的の誘拐にしても一ヶ月経過した今でも表沙汰に出てこないのを見る限り、特定の目的があって誘拐したとはこじつけにしても無理がある。
だが、恐らく誘拐という線はあながち間違いではないだろう。その延長線上に事件はある。恋には心当たりがあった。目的も理由も無しに無意味に他人に危害を加える酔狂な存在を。
「ま、わたしには関係ありません。心配せずとも時間が全てを解決してくれます」
「う、うん。そうだよね。明日になったらみんなひょいって戻ってくるよね!」
思考を最大限に巡らせつつも恋は平静を装い、何事もなかったように食事に戻った。
――一ヶ月で三十人も行方不明……尋常ならざる頻度です。やはり……?能力者?が一枚咬んでいるのでしょうか?
?能力?
人間……改め、この世に生を受けた者全てが備え持つ才能である。その才能を開花させた者だけが使用可能な人外の力――すなわち?能力?。ある者は空を羽ばたき、またある者は無から有を精製する。?能力?を持たぬ人間が代々培ってきた論理、法則を無視した超常現象。その?能力?を知る者は実際に?能力?を開花させた能力者を除いては極少人数に限られている。何故ならば?能力?についての情報は世界共通で箝口令が敷かれており、故意に?能力?を氾濫させようとする輩は無条件で存在を抹消させられる。
そのような処理を裏で行う組織――それが特務処理機関である。
常に二十四時間厳戒態勢で?能力?の無断行使、?能力?開花の経過を監視し、状況に応じた対処策を選出した上、構成員を現場に送り込む。現場に直接出向く構成員を派遣戦闘委員と呼び、それに所属する人間は例外無く?能力者?だ。
そして恋は生まれながらにして?能力?を開花させている先天性の能力者である。機関に選出された「派遣戦闘委員」兼「派遣監視委員」の称号を唯一持っている人材、それが恋だ。
バッドニュースにより変貌した暗澹たる空気を変えようと華凛は談笑らしき話題を切り出してきた。昨夜のテレビ番組の話、筋肉系お笑いタレントと国民的アイドルグループのリーダーが交際していること、オリコンチャートに波乱が起こったことなどなど。しかし多忙極まる恋にはそのような話題についていける訳もなく、どのみち暇が出来たとしても回転式拳銃の輝きを保つのに専念していることだろう。
恋は適当にあいづちを取りつつも、意識は他の話題に集中していた。
――いや、?能力者?が一枚咬んでいるとしたら、真っ先に機関に気付かれ取り締まられるのがオチです。一般人の手により行方不明者、一日一人……その情報が真実ならば、中途半端な?能力者?よりもよほど切れ者で危険な存在です。今日も級友のひとりが蒸発するのでしょうか? わたし自信である可能性も否めませんし……華凛さまの可能性だって……。
「恋ちゃーん。訊いてるぅ?」
機械的に頷くだけの恋に叱責の声が飛んだ。
「……ごめんあそばせ、です」
「……そこまで徹底して、お嬢様言葉を使うのはどうかと思うよ。3年間恋ちゃんと付き合ってきたけど、未だ違和感ありありなんだよねぇ」
「淑女たる条件は、まず何事も形から入ってみることなのです」
「……」
「……」
「……」
「……悪意を感じる沈黙です」
華凛の表情は熟れたトマトのように見る見る内に紅く染まってゆく。
「な、なんですか! 言いたい事がはっきりして下さい!」
「あっははぁッひぃはひぃひぃあははは! 恋ちゃんが淑女だってッ! あひゃははっはあ……ゴホッ……はあはぁ……はぁ……」
壁と反響するほど笑い声を上げ華凛は動悸息切れを起こしたように呼吸が荒い。
「はぁ、はぁ……恋ちゃんが淑女ならこの世にいる90パーセントの女性は淑女だよ」
「し、失礼です! わたしほど容姿端麗、頭脳明晰、才色兼備、深謀遠慮の人間はいません!」
「……う……ん、そ、うだね……」
「そのあからさまに笑いをこらえた返事をするのはやめて下さい! 非常に不愉快です!」
恋の叱咤に再び吹き出した華凛。
何事もない。ありふれた日常の1ページが記憶に刻み込まれる。そんな日々もいつかは終止符を打たれる日が来る。しかしそれはまだ先の話だ。少なくとも今日で別れではない。たとえ高校に入学し、お互い離ればなれになろうが、会おうとすればいつでも会える。
この時の恋は想像たりしなかった。
近い未来、華凛と未来永劫、別離することを。
一日の業務を終えた恋は寄り道はせずに一直線に自宅へ向かっていた。そもそも住まいとするアパートまで徒歩で5分も要しないので、寄り道をしたくとも出来ないのが実情だ。そのアパートの特徴はこれといって目を引くものは無く、それでも特徴を述べるなら貧相、倒壊作業直前、オンボロといった感じである。二階構成のアパートの二階、手前部分にある201号室が恋の拠点。一人暮らしにはやや贅沢な1LKも二人暮らしになると手狭に感じる微妙な構造だ。
「恋、我は嘗て味わったことのない飢餓感と奮闘中だ」
自室を隔たる扉を開き切っていない状態で内側からアルト声が響いた。もはや惰性化されたアリアの飢餓感を訴える台詞だ。恋は辟易しながら扉を押し開ける。
「お迎えの言葉ぐらい――って! ちょっと、何をやっているのです!」
家内に入れば、肌の露出部分が極端に多いアリアが片手倒立の状態、さらに人差し指のみで自重を支えつつ身体を上下させていた。
「鍛錬中だ」
「今すぐやめてください! アリアさまの体温のみで室内がサウナ化しています!」
「窓なら開けている。問題はない」
「それが更に問題なのです! ハレンチな格好をした外人女性がよもや人差し指だけで倒立腕立てをしている姿など目撃されたら、二日後にはどこぞのテレビ局が闖入してきます!」
「それは気にするに値する事態なのか?」
倒立腕立てを行うアリアの露出された褐色の肌からは汗が滲み出ており、顎を伝い水滴が滴り墜ちる。一滴、また一滴。ぽたぽたと垂れる汗の先には抜群の吸収力を見せたカーペットが、バケツに目一杯湛えた水をぶちかましたように色褪せていた。
「とにかくです! 早急にやめてください!」
「うむ。解った」
アリアは鷹揚に答えると、自重を支える指を力を込めカーペットから突き放し、上体を空中に持ち上げた。そのまま身体を縦に半回転させ、着地をした瞬間、床が軋む良からぬ音が聞こえたのは決して幻聴ではない。一見、官能的パーフェクトプロポーションを備えるアリアだが、その実体は170キログラムを超える超重量級だ。
「……アリアさま」
一瞬、床が開通する幻像が過ぎった恋は、恐る恐るアリアの足下を再確認して心底安心し、溜め息をついた。
「すまぬことをした。次からは部屋を下界から隔離したうえで鍛錬に励むようにする」
「そうではなくて……お願いですので、じっとしていて下さい……」
汗の染み込んだカーペットを目の当たりにした恋は、放心状態のまま靴を脱ぎ捨て、居間に入る。浴場を隔てる扉を開け、バスタオルを手に取り、湿ったカーペットを丹念に拭き取り始めた。
「一体、何時間続ければここまで汗を絞り出すことができるのでしょう?」
「明確には覚えていないが、おおよそ恋が中学校とやらに向かった直後からだ」
恋が家を出たのは八時。そして現在の時刻は十六時。バカです。
「……呆れを通り越して感心してしまいます」
「ならば、恋。我は今夜の晩餐は肉を所望する。米と言うのもなかなかオツな食物だが、やはり性に合わん。なに、我も贅沢は言わん。豚の生肉でよい」
「ダメです」
世俗的民衆なら目を背けざる終えない鋭い剣幕で恋は、アリアの懇願を迷うことなく棄却する。一円たりとも無駄に出来ない財政の中、肉などの高級食材を食卓に乗せるなど言語道断、破滅への一途を辿ることになる。機関の施しを受けたいぐらいだ。
無情な台詞にアリアは理想の曲線を描く頬をフグのようにふくらませた。二十歳程度の秀麗な異国女性がふくれっ面とは、無意識的に男性を引き付ける手立てを心得ている。
「我は定期的に肉を摂取しなければならない身体なのだ」
「安心してください」
恋は引き締まった表情を緩め、柔和な笑みを浮かべながら、
「死にはしません」
と、満面の笑みでアリアの懇願を突き放した。
「生肉……」
アリアはどこか遠い目で虚空を見詰め、己の指をいやらしく口内に突っ込んだ。
「いい年した大人が指をしゃぶらないで下さい! 意地汚いです!」
「何を言うか! 少なくとも我は恋より年下だ!」
「アリアさまこそ何を――」
言いかけて、恋は口を紡いだ。同居生活して一ヶ月、頻繁に勃発する家庭トラブルの所為でアリアの本来の正体を脳内から消し去っていた。
アリア・G・アンダーソンと名乗る異国の美女。彼女は人間ではない。
獅子だ。
アリアは人間以外の生物で?能力?を開花させた前代未聞の生物。腰まで靡くブロンドヘア、褐色の肌、翡翠色の双眸、官能的なまでに全女性の理想な曲線を描く肢体。どんなに見識の長けた生物でもアリアを獅子と見抜くことは不可能であろう。何故なら、彼女の風貌は二十歳前後の異国の女性としか見えないからだ。アリアは?能力?の開花と同時に肉体までもが変貌を始め、気が付けば人間の姿に成り下がっていた。未知の恐怖――アリアの精神は窮地に追い込まれ――
その時に現れた特務機関の派遣委員こそ恋であった。
「アリアさま……お歳はお幾つでしょうか?」
「人間の暦で言えば……我はまだ三歳たらずである」
何もかもが常識を逸脱した存在がアリアなのだから、齢三歳と訊かされて得に驚く要素などは……ありありだ。外見は二十歳前後の秀麗な大学生、口調は時代劇に感化されたような妙に古風でいかめしい、人間でないにも拘わらず順応力は人並み以上。
わたしが三歳だった頃は……と、恋は一瞬考えたが、思い出す場面は兄の名前を泣き叫ぶ姿。父母がいない恋にとっては兄が唯一の安らぎを与えてくれる人間だった。あの頃は一声兄を呼べば、どこからでも駆けつけてくれる。兄がいなければ何一つ出来ない、それが三歳の恋だ。
――アリアさまは人間ではないのです! 比較対象外です。
恋は頭を左右にブルンブルン振り、
「……お若いことで」
皮肉のつもりで言葉を吐き出したが、そもそもアリアには皮肉は通じない。もとい伝わらない。
「うむ、我は若く瑞々(みずみず)しい肢体を得ている。それに年下を敬うのは人間の礼儀作法の一種であるのだろう? ならばここは礼儀に習い生肉を我に献上すべきではないか?」
「アリアさまに礼儀を尽くす理由などは毛頭ございません」
「……そこまで固執することなかろう? 我の為だと思い譲歩してくれ。一つ屋根の下に住まいを共有する者同士、仲良くやっていこうではないか! 我に肉を謙譲するのだ!」
駄々をこねる子供のように地団駄を踏むアリアを見て、恋は小さく嘆息した。放置してもいいのだが、それだと床に大穴が開通してしまう。
「解りました……お夕食は肉料理にします……ただし!」
恋はビシっと人差し指をアリアに向ける。
「その汗臭い身体をシャワーで流してきて下さい! 濡れた衣服はそこら辺に脱ぎ捨てて構いません」
「それで我の願いが叶うのであれば、何時間であろうが汗を流して続けて見せよう」
「十分程度で充分です! 着替えは脱衣所に置いときます。わたしは今晩の食材を購入してきますので、くれぐれも不祥事は起こさぬように用心してください」
そう言ったところで、恋は着替えもせずセーラー服のまま財布だけを持ち、自宅を後にした。
近場の大型スーパーマーケットまでは徒歩20分と少しばかり離れた位置にある。歩いて行くのは少々億劫だが交通手段が徒歩以外に選択肢が無いのだから、嫌でも徒歩になってしまう。
鼻歌交じりに歩を進めて行く内に恋は一組の親子とすれ違った。小学校低学年ぐらいの子供とまだ若さを残す壮麗な母親らしき人物だ。ふたりは手を繋ぎ合い、子供は無垢な笑顔で、母親は年相応の柔和な笑みでスーパーの袋を携えていた。
いつまでも、お幸せに――
恋は決して人の境遇を妬んだりはしない。他人の幸せそうな表情を見れば、その分恋も幸せになれたような気がする。親子の愛情を目にした時は心を洗われる。
「今夜は奮発しますか」
留守番を一任したアリアに向かって、恋はひとり呟いた。
今夜は肉を久しく堪能できる。
アリアは常人ならば火傷は確実な熱湯を全身に浴びつつ考えていた。
恋と同居を始めて、もう一ヶ月……肉が食べれない事柄を除けば、獅子時代よりも充実した日々を過ごせている。到底人間の生活に溶け込むなど不可能だと思っていた。しかし人間もそう悪くはない――恋は良い人間の代表例だ。多少可愛げに欠けるが。
恋の言い付け通りに10分が過ぎたところで蛇口を捻り、シャワーを止めた。浴場から脱衣所に戻り、濡れた肢体をバスタオルで拭き取りながら、己を映し出す虚像を見詰める。翡翠色の双眸、褐色の肌、癖がついたブロンドヘア。どう見ても人間である。
居心地良いとはいえ、いつまでも恋に迷惑掛ける訳にはいかない。
恋が用意してくれた木製の籠には、下着、クマのイラストがプリントされているノースリーブのカッターシャツ、黒のクォーターパンツ。それらを順に追い、身に付ける。着替えを終え、居間に戻ると寝床として活用しているソファに仰向けに寝る。
――全てが終われば、我はあるべき姿に戻るべきであろう。
アリアは虚空に手を伸ばし、己の指先をただただ見詰めていた。
奮発して豚肉を買い占めてしまいました……。
開き直りに精肉屋で豚肉2000グラムを購入した恋は意気揚々と自宅へ帰還を果たした。アリアの飢餓感を訴えてくる台詞を待ち構えつつ扉を引き開けた。
反応は、ない。
「アリアさま?」
玄関を一度開ければ大仏のように身構えているアリアの姿はない。恋は未知な焦燥感に駆られ靴を乱雑に脱ぎ捨て、直通している居間へと駆け込んだ。
ソファに仰臥し、寝息を立てるアリア姿があった。
「……安らかな寝顔なことです」
弛緩されたアリアの表情は愛くるしい幼気を感じさられほど幼い。万事厳然たる物腰を崩さないとはいえ、惰眠を貪る姿は見ているだけで抱きしめたくなってくる。
――アリアさまとの同居生活ももう一ヶ月近く……表情には出してきませんが、相当な心的ストレスを受けているに相違ないでしょう。
恋はアリアの身体に毛布を被せ、嘆息した。
「今日だけは特別です」
眠るアリアを一瞥し、調達してきた食材を手に台所へ向かう。
豚肉料理――買い物の最中、豚肉の調理方法を思案していた。王道ならばトンカツだろうが、あいにく調達した豚肉はバラ肉であり、トンカツを調理するには少々難易度の高い技術が強いられる。恋ほどの自炊経験者であれば、その技術も習得済であるが、無駄な手間は掛けたくないし、そもそも2キロをも肉を逐一手作業で調理するのが面倒以外の何物でもない。手軽に調理可能かつ大量生産かつ腹持ちの良い豚肉料理が求められる。
そう思い恋は手軽で一度で大量調理可能、さらに腹持ちの良い豚肉料理、しょうが焼きを今夜の晩餐と決定づけた。ちなみに恋の豚肉レシピのレパートリーは30種類にも及ぶ。その中でも店に出しても恥ずかしくない料理はスペアリブ。
と、恋の意外に家庭的な女の子である物語的にはさほど関係ない話を紹介したところで調理風景に戻りたいと思う。
矩形の大タッパーウェアに生姜を含めた漬け込みタレに豚肉を二十分浸すところから、恋クッキングの始まりだ。その間の時間も有効活用すべく、キャベツ一玉丸々を千切りにし、大皿の上に見栄え良く盛りつけた。タレが染み込んできた豚肉を菜箸でひとつひとつキッチンペーパーに移動させ、余分な水分は拭き取る。それに小麦粉をまんべんなく付着させてから、あらかじめ熱しておいたフライパンに油を敷き、豚肉を放り込む。肉の焼ける音が室内に反響し、死期の近い換気扇では処理できない量の煙が部屋に充満する。
その芳しい芳香を鋭敏に感じ取ったのはアリアだった。
「……恋」
「あ、起きちゃいましたか。もう少しで出来上がりますのでご辛抱を」
「それより何を調理しておるのだ? この匂い……肉とは若干異なる。だが、嘗て無いほどの食欲が喚起される匂い……一体なんなのだ?」
「なんなのだと言われましても、アリアさまのリクエストに応え豚肉のしょうが焼きです」
存分に豚肉に火が通った頃合いを見計らい、大皿に一気に移す。あとは最初に余った漬け込みタレを軽く水増した上で、フライパンで一煮立ちして出来たタレをしょうが焼きにかけて完成だ。
およそ二十人前はあるしょうが焼きとキャベツ盛りを足長テーブルに陳列させた。
テーブルから発せられる未知なる芳香にアリアは無意識的に釣られ、陳列されたしょうが焼きを恐る恐る覗き込む。
「恋、確認の意を込め訊ねるが、これは食べられるのであろうな?」
「邪推しないで下さい。正真正銘、人畜無害な豚肉料理です」
「ならば、咀嚼させて貰おう」
アリアは手掴みで肉を一切れつまみ、口内へ放り込んだ。
「む……この味は……なんだ? 生まれ、現在に到るまでこれほどまで上級な肉を食べたことはないぞ」
「手掴みなど女性あるまじき意地汚い行動はお控え下さい」
恋は片手には一般家庭で使われているノーマルスケールの茶碗、もう片方の手にはどんぶりに山のように盛られた白米を携えて、どんぶりをアリア専用席に置いた。
自席に腰を下ろした恋は、テーブルの裏側に付属されている収納スペースを開き、2膳の箸を取り出した。アリアも自席に腰を下ろし、どんぶり片手に恋お手製のしょうが焼きを貪るように食べ始める。
「毎度ながらことですが、もう少し落ち着きを以てお食べになったらいかがでしょう? ご飯粒を頬に付けるなどは公共の場ではマナー違反です」
と、アリアの行儀の悪さを否定しつつも、恋の表情は物静かに微笑んでいた。不作法な食べ方でも、手料理をおいしそうに食べてくれれば恋も丹精込めて調理したかいがあるものだ。
「肉の新天地開拓と言っても過言ではないこの旨さ……恋、前々から思っていたが、お前には料理に関して才能がある」
「大げさです……それはアリアさまがわたしの手料理以外食べた試しがございませんから、そんな軽薄な事が言えるのです」
「自信を持て、恋。悲観視する事は自分の腕を鈍らせるきっかけになりうるぞ。我は己の自尊心を死守することで成長してきた。これは料理に関しても言えることではないか?」
くちゃくちゃと不協和音を奏でながら何やら語るアリアを見て、恋は冷たい視線を浴びせつつ反駁する。
「そんな口にものを入れながら説かれても説得力の欠片もありません」
ゆうに二十人前はあったしょうが焼きとキャベツ盛りは跡形もなくふたりの胃袋に収まり、その内十九人前はアリアが消化したことは言うまでもないだろう。後片づけも済ました恋にとっては今日の業務は終わったようなもので、アリアと女二人でのお茶を嗜んでいた。忙しいが決して嫌悪感を感じない生活。アリアと同居を始めてからそんな毎日の繰り返しだ。恋の負傷を労ってか、あれからまだ一度も任務命令は下されて来ていない。それは機関の配慮だろうが、単に能力者が大人しくしているか、どちらにしろ一構成員の恋には知る余地のないこと。このまま任務など来ずに惰性のような毎日が続けばいい。
しかし無垢なる願いは誰も聞き届けてはくれなかった。
恋はまだ気付いていない。すでに己の身に魔の手が触れていることを。
そして、それは前触れも無くやって来た。
鳴らずの呼び鈴と称されている(恋が勝手にそう思い込んでいる)が猛々しく室内に響いた。電気、水道、ガス代、どれも払い済みの恋には招かざる来訪者に心当たりはない。家賃は機関の経理部が直接口座に振り込んでいるはず……もしや、家賃を未払いなのでしょうか?
「恋、今の音はなんだ?」
音が響いたと同時にアリアは脊髄反射のように警戒態勢を敷いた。
「ただの呼び鈴です。そこでじっとしていて下さい」
恋はくつろぎのひとときをやむえなく中断し、扉を押し開ける。
「どちらさま――」
「恋ちゃん!」
腰の入ったタックルが恋の胸腔部分にクリーンヒット。淑女らしからぬ嗚咽を漏らし、一歩だけ後退する。
「恋ちゃん! 恋ちゃん! 大変なんだよ!」
叫びながら恋の胸に顔を埋没させる少女――望月華凛は酷く動揺した様子である。しかし恋には予想以上に華凛の体当たりが身体に衝撃を与え、苦痛に悶えていた。それでも恋は親友の動揺に不安感を覚え、必死に声を絞り出した。
「まず落ち着いて下さい……華凛さま……何がどのように大変なのかを事細かに説明してくれなければ、わたしにはどうしようもありません……あと、離れてくれたら、わたしは嬉しいです」
「ご、ごめん!」
対極した電極のように華凛は後退る。相当慌てていたのか、彼女の身なりは恋と同じセーラー服のままだ。
「そ、それで、恋ちゃん! 大変なんだよ!」
「だから、落ち着いて下さい!」
恋は喚く華凛の腕を引っ張り、家中に招き入れた。そのまま引きずるように居間に向かいソファに無理やり座らせる。
「む、何やつだ?」
もちろん、居間にはアリアがいる。アリアは華凛の正体を推し量るような、戦慄物の目つきで見据えていた。
「彼女は無害です」
総毛立つアリアを一喝し、華凛と向き直る。
「それで……何があったのです?」
「け、健二が、健二が、まだ帰ってこないの!」
半泣き状態で華凛は動揺気味に叫んだ。
健二とは誰でしょう、と本気で考え、記憶を喚起すべく瞑目した。思い出すのに十秒も要しなかったことが幸甚だ。
望月健二――たしか華凛の双子の弟だ。双子だけあって容姿は類似点が多いが、性格はまるで別物。朗らかな雰囲気でクラスを和ます華凛に比べ、弟の健二は傲岸不遜な態度を崩さない尻軽男子である。容姿端麗の女子に狙いを付けては遊ぶ約束を取り付け女をたぶらかす遊び人。
一度思い出すと健二に対しての記憶が溢れ出しとまらない。
思い返せば、恋自身も健二に執拗に迫られた被害者のひとりである。断固として健二の要求を拒み続けたら、「キミの身体はヴィーナスより美しく、キミの双眼はこの世にある全ての鉱石よりも燦然と美しく、キミの髪一本一本は最高級カシミヤよりも希少価値がある」と意図の読めない台詞で愛の告白らしき事柄を伝えられたものだ。
「ああ、健二さまが帰っていないというのですか? どこかの女性と遊びになられているのでしょう」
恋は揶揄の響きを込めて言う。
「違うよ! いつもなら夕食にも帰ってくるもん! 誘拐されたんだよ……!」
消え去りそうな声で呟いた華凛。
午餐時に華凛の話した行方不明者続出事件……一日一人、生徒が蒸発していく不可思議な現象。その犠牲者に華凛の弟――健二が選ばれた。その可能性も否めないが、やはり恋の脳裏に焼き付いた健二のイメージは最悪なもので、一朝一夕で拭いきれるレベルではない。それに華凛は気さくで朗らかな親友だが、少々、もといかなり弟バカな一面がある。
「誘拐、ですか……たとえそうだとしても、わたしたちには為す術がありません。警察に連絡を取り合うことが一番だと思います」
「も、もう連絡したよ! だけどお姉ちゃんとしてあたしも今すぐ助けに行かなくちゃ!」
「助けにって……心当たりがあるのですか?」
「た、たぶんまだ学校にいるんだよ! さっき連絡があって、それで、それで――」
「連絡? 詳しくお願いします」
恋は華凛の言葉を遮り、目の端を吊り上げ問いつめる。
「少し前に家に健二から電話があったんだよ! ひどく脅えた声で……とぎれとぎれにしか聞き取れなかったけど……「学校、助けてくれ」って言ってたんだよ! だ、だから助けに行かなくちゃ!」
「……それは何時頃の話です?」
「9時30分頃! 早く行かなきゃ!」
恋はテーブルに立て掛けた時計を伺う。
9時50分……連絡後約二十分が経過している。
警察に連絡したのならば今頃は校内で捜索が行われているはずだ。健二が校内に逗留していればもう保護されている頃合いである。
「お願い、恋ちゃん! 一緒に来て欲しいの!」
「そんなことだと思いました……」
話の途中から薄々勘づいていたが、やはりそういうことだった。
要約すると、華凛は警察連絡したが心配が絶えない、姉としての責任感から自ら調査に立ち向かわなければならないと勝手に思い込む、しかし一人は何かと心細い、そこで親友である恋の存在に気付き、同行を求める、ふたりなら万が一の事態にも対処が出来そう、こんな感じであろう。
華凛さまの心配も杞憂に終わることでしょう――恋は親友の頼みを無下に断れない性格だ。
「解りました……一緒に行きましょう」
「待て、恋」
それまで沈思していたアリアが物憂げに口を開いた。
「……我も同行しよう。学校と言う建造物にも少々興味がある。それになんだ……不届き物と遭遇したときのことを考え、我のような逞しい存在が側にいたほうがよいだろう?」
アリアは壁に引っ掻けてある赤バンダナを頭部に巻き付け、ニヤリと微笑んだ。確かにアリアのような?能力?無しに能力者並の実力を発揮できる戦闘能力を持った人物がいれば心強い。拒む理由はなかった。
しかし今のアリアの発言に恋は冷や汗を掻いていた。「学校という建造物に少々興味がある」……アリアの存在を留学生と華凛には伝え済みだ。どう誤魔化すか恋は思案に入る。
「あ、ありがとうございます!」
気が動転している華凛は今の矛盾点に気付いていない。
「……それでは一分だけ外でお待ち下さいますか? 下準備があるのです」
「う、うん! なるべく早くお願い!」
華凛は立ち上がりから玄関に向かうまでを俊敏な動きを見せ、数秒で居間から姿を消した。恋は任務時に身に付ける漆黒のロングコートを質素なセーラ服の上に重ね着する。冬になれば機関お手製のコートも恒常性を保つ衣類として一役買ってくれる。
「武装はしないのか?」
そう言ったアリアは何故かカッターシャツを脱ぎ捨て、替わりにタンスから取り出した白のペアトップを身に付けた。
「任務じゃありませんし、一般人ならば素手で充分です。万が一にもわたしはいつでも武器を取り寄せることができます……とゆうよりアリアさまは何故着替えているのです?」
「こちら方が動きやすいからだ。さぁ! 時は一刻を要する! 早急に現場に赴くのだ!」
妙に上機嫌に玄関に向かうアリアを、恋は引き留める。
「待って下さい」
アリアは一顧した。
「なんだ?」
「何度もいいますがこれは任務ではありません。?能力?の使用及び、人間離れした行動を慎んで下さい。特に華凛さまの前では不用意な発言も控えて下さい」
「解っている」
不敵に笑うアリアに釣られ、恋も微笑してしまう。
今頃健二さまは警察に保護され、己の醜態を晒しているに違いありません――名目上は華凛の弟捜索ということになっているが、恋にとっては健二の醜態を観察し、侮辱すべきため同行しているようなものだ。助けを呼ぶ電話も姉を心配させるタチの悪いイタズラに決まっている。
恋は任務専門のブーツではなく、通学用のスニーカーを履き、玄関を開けた。待ちわびたと言わんばかりの表情をした華凛が寒さで歯をカチカチと鳴らしている。その一方、肌の八割以上を露出しているアリアは毅然としていた。
やはり、不安の残るメンバーだ。
「……では、いざ学校へ、です」
と、今回のお話はこんな感じです。
久しぶりに自分の成長を自覚できた話でした。すみません。調子に乗りました(笑)。後半かなり飛ばしてて書いたので誤字があるかもー……。
まあ、そんなこんなで二つ目の番外編。通算4話目となりました。5〜7話で終わりますといつしか記しましたが、それはもう不可能です。どうやら私には文章を纏める能力が激しく欠落しているようで、1話1話がとてつもなく長くなってしまいました……。長い目でよろしくおねがいします……。
私はなるべく先の読めないJOJO的な展開を目標としていますが今回の番外編はバレバレですね。と、見せかけて期待を裏切るのが私の流儀。もはやなにを記しているのか解りません。
余談。
そろそろ息抜きに短編作品でもひとつ書いてみようかなと思う今日この頃。短編と思い浮かべるとネタが恋愛しか浮かびません。しかもライトユーザ(男性)向けの。とういことでただいまはラヴコメ要素無の生真面目な作品を頑張って書いています(笑)。完成する可能性は10パーセント。多分一生完成しません(笑)
ちなみに次話は恋以外にも《蒲公英》たるアリアの視点にもちょくちょく変わる予定。混乱しないように頑張ります(笑)
では、また近い内に。