形なき器
冷たい灰色の雨が、朽ちた石造りの廃都を打ち据えていた。
かつては壮麗だったであろう大聖堂の軒下。
雨宿りをするために立ち寄った老人は、濡れた外套の雫を払い、深く息を吐いた。
深く刻まれた皺。鋭くも静かな双眸。腰には剣を帯びておらず、ただ一本の飾り気のない木の杖を握っている。
ふと、堂内の暗がりで何かが動いた。
瓦礫に紛れるように潜んでいたのは、一匹のスライムだった。
美しい水色ではなく、泥と埃にまみれ、まるで絵の具を濁らせたような暗褐色。世界の吹き溜まりのような姿をしていた。
「……人間」
スライムは身をすくませ、警戒の念を込めて震えた。
「私を殺しに来たのか。それとも、嘲笑いに来たのか」
「どちらでもない」
老人は静かに杖を置き、冷たい石畳の上に腰を下ろした。
「雨を凌ぎたいだけだ。お前の居場所を奪うつもりはない」
「嘘だ。人間は皆、私を見ると剣を抜くか、石を投げる。私はこの世界で最も底辺の、弱い魔物だからだ」
自嘲するような言葉に、老人は外套のポケットから古いパイプを取り出しながら尋ねた。
「底辺とは、誰が決めた」
「世界が決めたのだ」
スライムは表面を波立たせる。
「私には、ドラゴン族のような全てを焼き尽くす炎もない。獣人のような鋭い牙もない。ゴーレムのような硬い鋼の体もない。形すら保てず、誰の脅威にもならない。ただ這いつくばるだけの、泥の塊だ」
「炎も、牙も、鋼もない。だから、弱いと?」
「そうだ。戦う力を持たぬ者は、この世界では無価値だ」
老人は火のついていないパイプを咥え、堂内の奥に立つ、首から上が崩れ落ちた巨大な騎士の石像を見上げた。
「あの像を見ろ」
「……?」
「かつてはどんな剣をも弾き返すほど強固に造られていたのだろう。だが、強い衝撃を受け、自らの硬さに耐えきれず砕け散った。強固なものは、一度限界を超えれば元には戻らぬ」
老人は視線をスライムの濁った体へと戻す。
「対してお前は、形がない。押されれば凹み、引かれれば伸びる。それは欠落ではなく、性質だ」
スライムは答えなかった。慰めなど求めていないと言わんばかりに、堂内のさらに深い闇へと身を潜めようとした。
その時だった。
雨の重みに耐えかねたのか、大聖堂の天井の一部が凄まじい音を立てて崩落した。
轟音と共に巨大な石柱が倒れ込み、堂内の床を激しく打ち据える。
「……!」
舞い上がる土埃の中、微かな鳴き声が響いた。
倒れた石柱と床の間にできた、わずか数センチの隙間。そこに、雨宿りをしていたらしい一羽の青い小鳥が挟まれていた。
小鳥の体の上には、今にも崩れ落ちそうな鋭利な瓦礫が乗っている。
老人が立ち上がり、手を伸ばす。
しかし、老人の節くれだった大きな手は隙間に入らない。力任せに石柱を持ち上げようとすれば、バランスが崩れ、瓦礫が小鳥を完全に押し潰してしまうだろう。
「だめだ……人間の手では、救い出せん」
老人が呟いた瞬間、暗がりから暗褐色の塊が弾かれたように飛び出した。
スライムだった。
スライムは一切の躊躇なく、自らの体をその極小の隙間へと滑り込ませた。
骨も関節もない流動的な体を極限まで平らにし、瓦礫の重みを受け止める。鋭利な石の破片がスライムの体を貫くが、血が流れることはない。
スライムは自らの内圧を高め、柔らかなクッションとなって瓦礫をわずかに持ち上げると、そのまま小鳥を体内へと優しく取り込み、隙間からズルリと這い出てきた。
床に吐き出された小鳥は、怪我一つなく、パタパタと羽ばたいて老人の肩へと飛び移った。
スライムは元の丸い形に戻り、荒い息をつくように震えていた。
その体表の泥が先程の瓦礫との摩擦で剥がれ落ち、内側に秘めていた、雨上がりの空のような透明な瑠璃色が僅かに覗いていた。
「……なぜ動いた」
老人の問いに、スライムは戸惑うように答える。
「分からない。ただ、あの小さな命が潰れるのを、見過ごせなかった。……私には、硬い体がない。だから、隙間に入れただけだ。偶然だ」
老人は優しく目を細め、しゃがみ込んでスライムと視線を合わせた。
「牙を持つ者は、戦うことができる。鋼の体を持つ者は、耐えることができる。だが、形を持たぬ柔らかなお前だからこそ、壊れゆく小さな命の隙間に入り込み、包み込んで救うことができた」
雨音が少しずつ、遠ざかっていく。
雲の切れ間から差し込んだ夕陽の光が堂内を照らし、スライムの瑠璃色の体をステンドグラスのように美しく輝かせた。
「本当に弱い者とは、力を持たぬ者のことではない」
老人の深く、静かな声が響く。
「己が何者であるかを知らず、自らの本質に価値を見出せない者のことだ」
スライムは、自らの光を反射する体を見つめた。
誰かを傷つけることはできない。けれど、守り抜くことができる柔らかさ。
「私は……無価値では、なかったか」
「ああ。立派な器だ」
老人は立ち上がり、杖を手に取った。
雨はいつの間にか上がり、廃都は黄金色の夕日に包まれていた。
「行くのか」
「雨が止んだからな。旅の途中だ」
老人は一度だけ振り返り、微笑んだ。
「元気でな、瑠璃色の友よ」
背を向けて歩き出す老人の影を、スライムはいつまでも見送っていた。
その心はもう、泥のように濁ってはいなかった。




