第五話:最後の質問
翌日の昼過ぎ、食堂で昼食を摂った帰り道。
ふと視線を感じて振り返ると、白亜の柱越しに王女と目が合った。なぜか彼女は体を半分だけ出した状態のまま、恨みがましい目でつぶやいた。
「……婚約破棄」
もはや文章ですらない。単語のみだ。
これまで挨拶代わりに婚約破棄を突きつけてきた勢いは完全に削がれ、キノコが生えてきそうな鬱々とした雰囲気だ。
知らない間に、王女から闇魔法使いに転職したのだろうか。そんなバカな考えが一瞬思い浮かぶぐらい、さすがのアランも戸惑いを隠せなかった。
「ええと、王女様? ご体調が優れないのでしたら、早めに休んだほうが……」
心配になって顔を覗き込もうとすると、パシッと手を払いのけられた。
「いいから婚約破棄なさい。今すぐに!」
切羽詰まった様子は、まるで悲痛な叫びのようだった。
アランは行き場のない手をゆっくり下ろした。
「……王女様はなぜ、それほど婚約破棄にこだわるのでしょうか。俺のことが嫌いだから、結婚したくないということでしょうか?」
「ち、違うわ。嫌ってなんか、いない……っ」
「でしたら、他に理由があるのですね。それは、俺に改善できないことですか?」
王女は逡巡するようにアクアマリンの瞳を揺らし、唇を戦慄かせる。
アランは急かすでもなく、呆れるでもなく、静かに婚約者の答えを待った。やがて、王女は痺れを切らしたように口を開いた。
「わたくしは面倒な女でしょう? そんなの、わたくしが一番知っているわ。普通は嫌気が差して、あなたから婚約破棄する場面でしょう!」
「…………。理由はそれだけですか?」
「なんですって!? あなた、わたくしの話を聞いていて……!?」
「俺は納得できませんよ。他にもありますよね、隠していること。ちゃんと包み隠さず話してください」
「……どうして、そんなことが知りたいの」
まるで幼子のように頼りない声色に、アランは優しく微笑んだ。
「意見が衝突したときは、しっかり話し合うことが大切ですから。すれ違いは大抵、相手の思い込みや誤解をそのままにしたことが主な原因です。何が嫌で、どこを直してほしいのか、俺は王女様のお心を知りたいのです」
興奮した状態のままでは、売り言葉に買い言葉になることが多い。冷静さを失ってしまったときは、時間を置いたほうがいい場合もある。
(今日の王女様はとても不安定だ。目を離した隙に、どこか遠くに消えてしまいそうな危うさがある。一人きりにしないほうがいい。……幸いなことに、今は少し落ち着きを取り戻した様子だし、このまま引き留めるべきだ)
アランが慎重に次の言葉を考えていると、ぽつりと小さな声がもれた。
「……呼び方……」
「え? すみません、王女様。もう一度お願いします」
「だ、だから……! その他人行儀な呼び方よ」
「? 僭越ながら、あなたの身分にふさわしい呼び方だと思いますが。これ以外になんとお呼びすればよいのでしょうか」
「そうじゃなくて。アランは……わたくしの名前を呼ばないじゃない。親しい人は名前で呼び合うものでしょう。それなのに全然、ただの一度も、呼んでくれなかった」
「…………」
アランはとっさに自分の口元を片手で押さえた。そうでもしなければ、締まりのない口元を見られてしまっただろう。
(……そんなことで……? なんだこの、可愛い生き物は)
ぶわりと、彼女に対する恋情が膨れ上がる。
急加速する想いに、驚きを隠せない。心臓がひとりでに暴れ出したみたいだ。呼吸が浅くなる。胸が詰まったみたいに、息が苦しい。
けれど、そんなみっともない姿を彼女の前で曝したくはない。
アランは咳払いで誤魔化し、死刑宣告を待つような硬い表情の王女を見つめた。とっさに取り繕える程度に社会人経験を積んでいてよかった。
「俺が王女様の名前を呼んでもいいのですか? 立場上は婚約者となっていますが、会うたびに婚約破棄を迫られるほど嫌がられているのに……。不敬罪で斬首刑とかになったりしません?」
「……何を言っているの? 婚約者が名前を呼んだくらいで、不敬罪になるわけがないでしょう。あなたとわたくしの仲だし、敬語を使う必要もないわ。それに、アランは世界を救った英雄の一人だもの」
至極当たり前といった風に説明され、アランは長いため息をついた。
「なんだ……。はは、そうだったのか」
「アラン?」
「すみません、王女様。恥ずかしい話なんですけど、実はこう見えて小心者でして。あなたの不興をこれ以上買わないように努めていて……だって俺、異世界人ですから」
「どういうこと?」
「価値観や常識が違うんですよ。俺の国は身分制度なんてなかったですし。何がセーフで何がアウトなのか、まだ見極められていないところもあって。命はひとつしかありませんからね。どうしても慎重になるというか」
本当は、彼女に少しでもよく思われたくて頑張っていただけだ。年上らしく大人ぶっていたなんて、言えるはずもない。
アランは取り繕った笑みを浮かべ、心の中の苦い思いを封じ込めた。
「俺の心配は杞憂だったとわかって、安心したのも本当なんですけど。この世界の常識に慣れるまで……しばらく敬語は続けさせてもらってもいいですか? 敬語を外したら、たぶん俺、失礼なことを言っちゃいそうで」
「仕方ないわね。そういうことなら、好きになさい」
「ありがとうございます」
腰を折って礼を述べると、王女が満更でもないように頷いた。板についた仕草は、さすが生まれながらの王女だと感心してしまう。
(まぁ、敬語をやめられない理由は、王女様への好意がダダ漏れになりそうだからってのが大きいんだけど。ぐいぐい踏み込んで、彼女に引かれるのだけは避けたいからね)
大人とは、本音と建前を使い分ける生き物である。
すっかり油断している様子の王女を微笑ましく見つめ、アランは軽い口調で問いかけた。
「では、最後の質問です。なぜ、好きな相手に婚約破棄を申し込もうと?」
「そ、それは…………。はっ!」
失言を悟ったのだろう。王女は口をあんぐり開けたまま、固まった。
アランは灰色の瞳を細めた。
「王女様、俺のことが好きですよね?」
「……うぅ」
「好きじゃなかったら、即座に否定するところですもんね」
「……っ……。…………」
王女はみるみるうちに頬を染め、うつむいてしまった。
(〜〜ああくそっ、可愛いすぎる)
アランは笑顔の下で密かに焦りを募らす。
ドッドッドッと心臓が早鐘を打つ。心拍数が尋常ではない。このまま死ぬのではないか、と一抹の不安が襲う。細く長く息を吐き出し、額に手を当てる。
(半信半疑だったが、王女様も俺を好きとか……マジかよ。どうすればいいんだ、これ)
初めて王女から婚約破棄の言葉を突きつけられたときは、耳を疑った。何の悪い冗談かと思った。けれど、アランが反論すると、王女はすぐに引き下がった。
そのときに、「あれ?」と思ったのだ。
同じことが二度、三度と続けば、彼女が本気で言っているわけではないことは、なんとなく察しがつく。何らかの思惑があるのだろうと見守ってきたが、状況は一向に変わらない。むしろ、悪化している気がする。
(もしかして照れ隠しかと思ったけど、微妙に違う気がするんだよな)
思い詰めた顔をした婚約者をこれ以上、放っておくことなどできない。たった今、両思いだと判明したのなら、尚のこと。
アランは逸る気持ちを抑え、口を開いた。
「……エルヴィ王女。もう一度、聞きます。なぜ俺と婚約破棄したいのですか? 呼び方や話し方に不満があるのは理解しました。ですが、それだけが原因とは思えないんですよね。どうか、その理由をお聞かせください」
できるだけ威圧感を与えないように、ゆっくり語りかけるように尋ねる。
わかりやすく目を泳がせる王女は唇を噛み、胸の前でぎゅっと片手を握りしめた。よほど言いたくないのだろう。だが、逃がすつもりはこれっぽっちもない。
「こ、この質問、…………答えないとだめなの?」
蚊の鳴くような声で問われ、アランは笑みを深めた。
「俺ともう会いたくないのなら、無理せず答えなくてもいいですよ。王女様の望み通り、婚約は解消して他人に戻るだけです。まあ、俺は二度とこの国には戻らないでしょうが」





