生まれる前から
夜の書庫は、昼とは違う顔をしている。
灯りは控えめで、紙の匂いと沈黙がゆっくりと時間を沈めていた。
王子は一人、机に肘をつき思考の波に身を任せていた。
――まただ。
あの女官長の日記。
読み返したわけではない。ただ、不意に思い出しただけだ。
母が、自分を腹に宿したと知った日の記述。
それは――父の誕生日だったという。
祝宴が進む中、母が突然倒れ。城は一瞬で騒然となった。
父はもちろん、医師、女官、騎士――
王城の者誰もが息を呑み、走り、祈った。
そして。
それが『命を授かった兆し』だと分かった瞬間。
日記には、簡潔に。
しかし確かな熱をもって記されていた。
《王城はこの上ない歓喜に包まれた。陛下は王妃陛下の手を取り、頑なに離さなかった。》
王子は、ふっと息を吐く。
「……なんだかんだ、愛されてるんだよな。俺」
独り言は、静かな書庫に溶けて消えた。
誕生日に、未来を贈られた父。
倒れながらも、何より先に夫と子を想った母。
自分はそんな日の延長線上に生まれた。
机の傍らで、やわらかな気配が動く。
――黒猫だ。
艶やかな毛並み、そして――紫銀の瞳。
灯りを映して、静かに揺れている。
王子が指を伸ばすと、黒猫は当然のように身を預けた。
「お前は、全部知ってるんだろ」
黒猫は鳴かない。ただ、瞳を細める。
王子は思う。
生まれる前から、自分は望まれていた。
生まれる前から、守られていた。
それは重圧ではなく、不思議と背中を押す感覚に近い。
「……悪くないな」
黒猫が、ゆっくりと瞬きをした。
書庫の外では、王城が眠っている。
その中心には、今も変わらず寄り添う両親がいて。
その時間の積み重ねの上に、王子は立っている。
生まれる前から。
そして、これからも。
王子は灯りを落とし、静かに席を立った。
黒猫は影のように――そっと王子の後を追った。




