北方に贈る手紙
辺境伯領での視察を終え、王都へ戻る前日。
夕刻の城は、ひと仕事を終えた安堵と、出立前の慌ただしさが同居していた。
王子は、回廊の端で足を止める。
(……今しかないな)
将軍の娘は、ちょうど書類を辺境伯夫人に届け終えたところだった。
人の気配が途切れたのを見計らい、王子は静かに声をかける。
「……ごめん、ちょっといいかな」
彼女は驚いたように目を瞬かせ、それからきちんと向き直った。
「王子殿下」
一瞬、言葉が詰まる。
ここで何をどう言えばいいのか、頭では分かっていない。
だが、口は先に動いていた。
「君に……手紙を書いてもいい?」
彼女は、明らかに戸惑った表情を浮かべた。
「……手紙、ですか?」
王子は、慌てて続ける。
「いや、その……変な意味じゃなくて――この土地が、とてもいい場所だから、もう少し……話を聞きたいと思って」
我ながら、回りくどい。
言い訳めいた言葉だと、自分でも分かっている。
だが彼女は、ほんの一瞬、視線を伏せ――
そして、事務的な声で答えた。
「承知いたしました」
その声音は冷静だったが、
どこか、微かに熱を帯びていた。
「北方は、冬になると文の行き来が遅くなります……それでもよろしければ」
王子は、小さく息を吐いた。
「……もちろん」
その一言で、十分だった。
*
王都への帰還後、王子は少し意外な呼び出しを受けた。
「今日は、あなたに付き合ってもらいます」
そう言ったのは、王妃だった。
「……父上は?」
「政務ですよ。たまには、母と二人もいいでしょう?」
その言い方が、すでに怪しい。
王子は内心で警戒しつつも、断れずに頷いた。
城下の通りは、穏やかな昼下がりだった。
露店の香り、人々の笑い声。
お忍びとはいえ、王妃は自然にこの場に溶け込んでいる。
しばらく他愛もない話が続いたあと。
王妃は、ふと立ち止まった。
「北方は、いかがでしたか?」
「……防衛も行き届いていて、良い土地でした」
王妃は、にこやかに頷く。
「では……人は?」
王子は、歩調を少し乱した。
(来たな)
「……人とは?」
「辺境伯ご夫妻はもちろん将軍夫人も、ご令嬢も――とても立派な方々でしたでしょう?」
王子はしばらく黙った。
母は答えを急かさない。
ただ、隣で歩き続けている。
「……」
やがて王子は観念したように、口を開いた。
「手紙を……書いてもいいか、聞きました」
王妃は驚いた素振りも見せず、ただ静かに微笑んだ。
「そうですか」
「……それだけです」
王子は、少し強めに言った。
「それ以上でも、それ以下でもない――今は、まだ」
王妃は王子を見つめる。
その眼差しは、問いではなく――確信だった。
「十分ですよ」
「……え?」
「手紙を書きたいと思うほどの方に、出会えたのですもの……それだけで、立派な“はじまり”です」
王子は、思わず視線を逸らした。
(……この人)
(本当に、全部分かってるな)
「焦らなくていいのです。北方は……遠いようで、きちんと繋がっていますから」
王妃の言葉はやわらかく、けれど逃げ場を与えない。
王子は苦笑した。
「……敵わないな」
「ふふ」
その笑みは、どこか楽しそうだった。
夕暮れの城下を歩きながら、王子は思う。
(俺はまだ、この感情に名前を付けていない)
(でも)
北方へ向けて書く、あの手紙は――
確かに、自分の心から始まるものになる。
それだけは、もう否定できなかった。




