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北方に贈る手紙

辺境伯領での視察を終え、王都へ戻る前日。


夕刻の城は、ひと仕事を終えた安堵と、出立前の慌ただしさが同居していた。


王子は、回廊の端で足を止める。


(……今しかないな)


将軍の娘は、ちょうど書類を辺境伯夫人に届け終えたところだった。

人の気配が途切れたのを見計らい、王子は静かに声をかける。


「……ごめん、ちょっといいかな」


彼女は驚いたように目を瞬かせ、それからきちんと向き直った。


「王子殿下」


一瞬、言葉が詰まる。

ここで何をどう言えばいいのか、頭では分かっていない。


だが、口は先に動いていた。


「君に……手紙を書いてもいい?」


彼女は、明らかに戸惑った表情を浮かべた。


「……手紙、ですか?」


王子は、慌てて続ける。


「いや、その……変な意味じゃなくて――この土地が、とてもいい場所だから、もう少し……話を聞きたいと思って」


我ながら、回りくどい。

言い訳めいた言葉だと、自分でも分かっている。


だが彼女は、ほんの一瞬、視線を伏せ――

そして、事務的な声で答えた。


「承知いたしました」


その声音は冷静だったが、

どこか、微かに熱を帯びていた。


「北方は、冬になると文の行き来が遅くなります……それでもよろしければ」


王子は、小さく息を吐いた。


「……もちろん」


その一言で、十分だった。



王都への帰還後、王子は少し意外な呼び出しを受けた。


「今日は、あなたに付き合ってもらいます」


そう言ったのは、王妃だった。


「……父上は?」

「政務ですよ。たまには、母と二人もいいでしょう?」


その言い方が、すでに怪しい。

王子は内心で警戒しつつも、断れずに頷いた。


城下の通りは、穏やかな昼下がりだった。


露店の香り、人々の笑い声。

お忍びとはいえ、王妃は自然にこの場に溶け込んでいる。


しばらく他愛もない話が続いたあと。

王妃は、ふと立ち止まった。


「北方は、いかがでしたか?」

「……防衛も行き届いていて、良い土地でした」


王妃は、にこやかに頷く。


「では……人は?」


王子は、歩調を少し乱した。


(来たな)


「……人とは?」

「辺境伯ご夫妻はもちろん将軍夫人も、ご令嬢も――とても立派な方々でしたでしょう?」


王子はしばらく黙った。

母は答えを急かさない。


ただ、隣で歩き続けている。


「……」


やがて王子は観念したように、口を開いた。


「手紙を……書いてもいいか、聞きました」


王妃は驚いた素振りも見せず、ただ静かに微笑んだ。


「そうですか」

「……それだけです」


王子は、少し強めに言った。


「それ以上でも、それ以下でもない――今は、まだ」


王妃は王子を見つめる。

その眼差しは、問いではなく――確信だった。


「十分ですよ」

「……え?」

「手紙を書きたいと思うほどの方に、出会えたのですもの……それだけで、立派な“はじまり”です」


王子は、思わず視線を逸らした。


(……この人)

(本当に、全部分かってるな)


「焦らなくていいのです。北方は……遠いようで、きちんと繋がっていますから」


王妃の言葉はやわらかく、けれど逃げ場を与えない。


王子は苦笑した。


「……敵わないな」

「ふふ」


その笑みは、どこか楽しそうだった。


夕暮れの城下を歩きながら、王子は思う。


(俺はまだ、この感情に名前を付けていない)

(でも)


北方へ向けて書く、あの手紙は――

確かに、自分の心から始まるものになる。


それだけは、もう否定できなかった。

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