予感が本物になる日
次の地方視察地を告げられたとき。
王子は一瞬、思考を止めた。
「……辺境伯領?」
魔王国は、守りを以て立つ国である。
――地底に眠る魔力を鎮める――という特異性ゆえに。
その防衛の要。
王都から一番近い、北方の盾。
そして、将軍の兄が治める土地。
脳裏に、即座に浮かぶ顔がある。
(……ああ、そうだ)
将軍の娘。
あの短い挨拶だけで、記憶に残ってしまった少女。
(これはもう、逃げ道がないな)
王子は資料に目を落としたまま、小さく息を吐いた。
そんな彼の内心を知ってか知らずか。
王子の執務室を訪れた王妃は、いつもと変わらぬやわらかな笑みで言った。
「ちょうどよかったです」
「……何がです?」
「辺境伯夫人と将軍夫人に。こちらをお渡しいただけますか?」
差し出されたのは丁寧に封をされた手紙と、いくつかの贈り物。
「それから……」
「ご令嬢にも。くれぐれも、よろしくお伝えくださいね」
王子は一瞬、視線を逸らした。
(……母上)
(絶対、分かっててやってるだろ)
だが断れるはずもなく、王子は静かに頷いた。
「……承りました」
内心で覚悟を決めながら。
*
辺境伯領は、空気が違った。
城壁は分厚く、兵の動きは無駄がない。
この地が“最前線”であることを、否応なく実感させる。
到着した王子一行を迎えたのは、辺境伯夫妻。
そして――その少し後ろに控える、将軍夫人と娘、息子だった。
「遠路お疲れさまでございます、王子殿下」
将軍夫人は、穏やかに礼をする。
その隣で娘もまた、完璧な所作で頭を下げた。
「お久しぶりにございます」
その声を聞いた瞬間、王子の胸がわずかに跳ねた。
(……ああ)
(やっぱり、覚えてた)
ただの挨拶。それだけなのに、なぜか心がざわつく。
形式ばった歓迎の後。
辺境伯の提案で、領内の案内役を将軍の娘が務めることになった。
「……よろしいのですか?」
王子が尋ねると、辺境伯は豪快に笑った。
その笑い方は、将軍とよく似ていた。
「この地のことなら、この子が一番よく知っております」
将軍夫人も、静かに頷いた。
逃げ道は、完全に塞がれた。
*
馬で巡る領地は、広く、厳しく、そして美しかった。
「こちらは見張り塔です。夜間は、交代で火を絶やしません」
娘は淡々と説明する。
だが、その横顔は誇りに満ちていた。
「……詳しいんだな」
「幼い頃から、この地で育ちましたから」
振り返った彼女と視線が合う。
一瞬。だが確かに、心臓が音を立てた。
(……ああ、そうか)
王子は、その瞬間に気づいてしまった。
令嬢たちのお茶会で、なぜ彼女の顔を思い出したのか。
なぜ、再会を無意識に避けようとしていたのか。
(俺は――)
(もう、始まってたんだ)
彼女は、王子の沈黙に首を傾げる。
「……なにか?」
「いや」
王子は苦笑した。
「ここは――いい場所だね」
それは嘘ではなかった。
だが同時に、自分の心に言い聞かせる言葉でもあった。
案内が終わり、城へ戻る途中。
風に揺れる草原を見つめながら、王子は思う。
(予感ってやつは)
(気づいたときには、もう“本物”なんだな)
横を歩く彼女は、何も知らない顔で前を見ている。
それが、なぜか――
どうしようもなく、愛おしく思えてしまった。
王子は、静かに息を整えた。
(……厄介だな)
(でも)
逃げるつもりは、もうなかった。
予感はこの日。
確かに、形を持ってしまったのだから。




