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過去の日記から

王子はもともと、その場所に用はなかった。


王城のとある棟。

女官長の執務室に隣接する、小さな資料室。


整理の行き届いた棚を眺めながら、ふと視線が止まったのは、奥の一段――革表紙の帳面だった。


背表紙にあるのは、簡素な文字。

《――業務記録(私用)》


「……私用、って」


王子は一瞬だけ逡巡し、それから手に取ってしまった。


この王城で育った者特有の“見てはいけない気配”を嗅ぎ取る直感より、若さゆえの好奇心が勝ってしまった。


ぱらり。


開かれた最初の数頁は、確かに業務の記録だった。


人員配置、式典準備、胃薬の在庫数――

やけに多い数字に眉をひそめた、その次。


王子は固まった。


《本日、陛下と王妃陛下、新婚三日目。朝より私室の空気が甘い。原因:陛下が王妃陛下を離さない。対策:胃薬増量》


「………………」


さらに頁をめくる。


《陛下、王妃陛下に微笑まれた後、政務が三刻早く終わる。臣下一同、理由を問わぬことにした。私は問いたい。胃が――》


「……やめてくれ……」


王子は思わず額を押さえた。

そこから先は、もう地獄だった。


甘い。

甘すぎる。


しかもここに書かれていることすべてが“事実”だ。


自分が物心ついたときから父と母は、とにかく仲が良かった。


しかし、これほどまでのことを――いや、今も変わらないが――

第三者の筆で突きつけられる破壊力は、格別だった。


「……女官長……」



その日の午後。

女官長は王子から、応接間に呼び出された。


緊張した様子で控える女官長に、王子はいつも通りの爽やかな笑みを向ける。

しかしその表情には――どこか疲れが滲んでいた。


「今日は叱責じゃない。安心してくれ」

「……は、はい」


王子は一度咳払いをし、言葉を選ぶ。


「これまでの長年の奉仕、特に――我が両親に対する尽力を、正式に労いたい」


女官長の目が、わずかに見開かれた。


「王子殿下……そのようなお言葉をいただくほどのことでは」

「いや、ある」


王子は真顔だった。


「……あの二人を城が回る形で支え続けた功績は、計り知れない。胃薬の手配、空気の調整、見なかったことにする勇気……」

「お、お言葉ですが殿下!」


女官長の顔が赤くなる。

王子は一瞬だけ視線を逸らし、低く付け加えた。


「……すまない。日記を、読んだ」


沈黙が落ちる。


そして女官長はすべてを悟った顔になり、深々と頭を下げた。


「……失礼いたしました」

「謝るのは俺の方だ。ただ……本当に、ありがとう」


それは、形式ばらない――王子個人としての言葉だった。



その夜。

私室の窓辺で王子は一人、夜風に当たっていた。

足元には、自分と同じ色の瞳を持つ――一匹の黒猫。


遠く両親の私室の灯りが、まだ消えていないのが見える。


「……相変わらずだな」


呆れ混じりに呟きながら、胸の奥に静かな疑問が芽生えた。


――俺にも、あんな風に。誰かを想える日が来るのか――


理屈じゃなく立場でもなく。

ただ一人を選び、守り。甘くなってしまうほどの相手。


王子は、紫銀の瞳を細める。


「……来たら来たで、女官長に謝らないとな」


そのときはきっと。

自分もまた、誰かの胃を痛める側になるのだろう。


そう思いながら、王子は小さく笑った。

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