過去の日記から
王子はもともと、その場所に用はなかった。
王城のとある棟。
女官長の執務室に隣接する、小さな資料室。
整理の行き届いた棚を眺めながら、ふと視線が止まったのは、奥の一段――革表紙の帳面だった。
背表紙にあるのは、簡素な文字。
《――業務記録(私用)》
「……私用、って」
王子は一瞬だけ逡巡し、それから手に取ってしまった。
この王城で育った者特有の“見てはいけない気配”を嗅ぎ取る直感より、若さゆえの好奇心が勝ってしまった。
ぱらり。
開かれた最初の数頁は、確かに業務の記録だった。
人員配置、式典準備、胃薬の在庫数――
やけに多い数字に眉をひそめた、その次。
王子は固まった。
《本日、陛下と王妃陛下、新婚三日目。朝より私室の空気が甘い。原因:陛下が王妃陛下を離さない。対策:胃薬増量》
「………………」
さらに頁をめくる。
《陛下、王妃陛下に微笑まれた後、政務が三刻早く終わる。臣下一同、理由を問わぬことにした。私は問いたい。胃が――》
「……やめてくれ……」
王子は思わず額を押さえた。
そこから先は、もう地獄だった。
甘い。
甘すぎる。
しかもここに書かれていることすべてが“事実”だ。
自分が物心ついたときから父と母は、とにかく仲が良かった。
しかし、これほどまでのことを――いや、今も変わらないが――
第三者の筆で突きつけられる破壊力は、格別だった。
「……女官長……」
*
その日の午後。
女官長は王子から、応接間に呼び出された。
緊張した様子で控える女官長に、王子はいつも通りの爽やかな笑みを向ける。
しかしその表情には――どこか疲れが滲んでいた。
「今日は叱責じゃない。安心してくれ」
「……は、はい」
王子は一度咳払いをし、言葉を選ぶ。
「これまでの長年の奉仕、特に――我が両親に対する尽力を、正式に労いたい」
女官長の目が、わずかに見開かれた。
「王子殿下……そのようなお言葉をいただくほどのことでは」
「いや、ある」
王子は真顔だった。
「……あの二人を城が回る形で支え続けた功績は、計り知れない。胃薬の手配、空気の調整、見なかったことにする勇気……」
「お、お言葉ですが殿下!」
女官長の顔が赤くなる。
王子は一瞬だけ視線を逸らし、低く付け加えた。
「……すまない。日記を、読んだ」
沈黙が落ちる。
そして女官長はすべてを悟った顔になり、深々と頭を下げた。
「……失礼いたしました」
「謝るのは俺の方だ。ただ……本当に、ありがとう」
それは、形式ばらない――王子個人としての言葉だった。
*
その夜。
私室の窓辺で王子は一人、夜風に当たっていた。
足元には、自分と同じ色の瞳を持つ――一匹の黒猫。
遠く両親の私室の灯りが、まだ消えていないのが見える。
「……相変わらずだな」
呆れ混じりに呟きながら、胸の奥に静かな疑問が芽生えた。
――俺にも、あんな風に。誰かを想える日が来るのか――
理屈じゃなく立場でもなく。
ただ一人を選び、守り。甘くなってしまうほどの相手。
王子は、紫銀の瞳を細める。
「……来たら来たで、女官長に謝らないとな」
そのときはきっと。
自分もまた、誰かの胃を痛める側になるのだろう。
そう思いながら、王子は小さく笑った。




