第一章 ナルコレプシー
ナルコレプシー
「彼女、ナルコレプシーだと思う」白衣の彼女は診察をするようにそう言った。
「ナルコレプシー…?」
「睡眠障害のひとつ、とりあえずは寝かせておけば大丈夫だ」
涼風を運ぶための彼女の研究室は喫煙所の一番近くの棟の1階に設けられていた。おかげさまで、人の目に触れずに涼風を運ぶことができた。彼女は僕たちを研究室に入れ「そこのソファ使って」と、涼風をソファに寝かせるように指示をした。
研究室というよりは書斎のような部屋だった。右側に一畳分の天井まである本棚が2つ、左側に今は涼風を寝かせてある来客用のソファがある。その奥側に扉が正面を向くような位置で机が置かれ、その奥にシンクがある。シンクの隣にコーヒーメーカー、その隣に小さめの食器棚が置いてあった。他の研究室にも入ったことがあるが、彼女の研究室は他の人より一回り以上小さく感じられた。
僕が涼風をできるだけ丁寧にソファに寝かしている間に、コーヒーの香りがした。彼女がコーヒーメーカーの準備をしていた。あまりにも手際がよすぎて全く気付かなかった。
この空間で唯一座れるソファが使われているため、僕が立ちぼうけをくらっていた間、彼女は何も言わず涼風の手さげバッグを勝手に開け、中を漁りはじめた。普通は奇行ともとれるその行動を僕はなぜか必要な措置としてすんなりと受け入れることができた。
彼女がバッグから手に取ったものは手帳にしては重厚感がなく、子どもっぽい水色の小型ノート。それの中を見て彼女は「ナルコレプシー」と診断した。―――もっとも、診断したように見えた―――
僕はその小型のノートがお薬手帳であることに気付く。しかし、素人が病気の前後の行動と薬の種類を見ただけで診断ができるものなのか?
疑問の表情が彼女に伝わり、彼女は最も相手の信頼を得る方法でその疑問を取り除こうとした。
「自己紹介がまだだったね。私は今年度からこの大学に臨時講師として赴任してきた香だ。普段は医者をやっている。専門は精神科だが、内科・外科にもある程度知識の自信はある。」
「だから涼風の病気が分かったのですね」
「そうだ」そう言って、香さんはコーヒーを2人分カップに注いだ。1つは使用感はあるがとても綺麗で、細い波のような金の線の装飾がされたカップに、もう一つは見るからに来客用だが決して安くはないだろう白いティーカップに。
香さんは当然のように金の波の線の装飾がされたカップを机の上に置き、ソーサーと一緒に僕に白いカップを僕に渡した。僕の後ろに立てかけてあった椅子を開き、僕の横に置く。
「机がなくてすまん。来客はあまり来ないんだ。ここに座ってくれ」
この人が医者であるというのは間違いないだろう。言葉遣いは少々荒っぽさがあるが、この手際の良さ、そして相手への気遣い。大人でもこんな対応ができるのは中々いない。しかも、言葉遣いもクール系の容姿も相まって余計魅力的に映る。
さっきから香さんの容姿のことばかりを観察していることに失礼さと恥ずかしさを感じ、僕はコーヒーと椅子の礼を言ってから話題を振った。この研究室にきてから聞きたいことは既に3つに達していた。まず1つ。
「その、涼風のナルコレプシーってどういう病気なんですか?」僕は医療ドラマで知らない病名を診断された患者の親のようなテンションでそう言った
「簡単に言うと睡眠障害の一つ、睡眠障害はざっくり分けると不眠と過眠に分けられる。ナルコレプシーっていうのは過眠症のまた一つね。日中、自分の意志とは関係なしに眠りたくなる、耐えられない眠気が襲ってくるの」
「それは命に関わるとかは…」
「直接的には大丈夫。けど、これの怖いのは、いつ眠くなるか本人にも分からないうえに、眠ってはいけない場面で寝てしまうこと。授業中とかはまだ可愛いものだけど、例えば、階段を降ってる途中、横断歩道を渡ってる途中、この子は免許はまだだろうけど、運転中とかの場面なら2次災害が起きることは容易に想像できるでしょ?」
「なかなか深刻な病気なんですね」
「薬を飲んでいれば大抵大丈夫だけど、薬の飲み忘れ、何かの影響で薬が効いてないとかだと危険なことになる。でも、ナルコレプシーの多くは中学高校生がなるのが多いんだけど、この子は異例だ。まぁ、医学に異例がないものの方が珍しいけどさ」
彼女は保護者に説明するように、丁寧で分かりやすい説明でそう言った。実際、医療知識のない人には十分な説明だった。そして彼女は続けた。
「なんにせよ、近くに助ける人がいないとこの子は大学生活は難しいね。どうやら君たちは恋人同士ではないみたいだし」
「実際そうなんですが、なぜ分かったんですか」
「色々あるけど、君の態度かな。こんなに可愛い歳の近い女の子を担いでるってのに表情一つ変えない、ソファに寝かせる時も丁寧に寝かせてはいたが、まるで薄いガラスを割らないようにしているみたいだった、つまり、その子の扱いが「人」じゃなくて「物」なんだよ。あと、彼女のバックが漁られているのに一切止めようとしない、普通彼氏ならその意味を聞くくらいするだろう。それが決め手かな」
香さんはコーヒーを一口すすった後、思い出したように続ける。
「あぁけど、倒れている彼女を支えている時の君は確実に人間だったな。あの絶対に助けてやるみたいな動揺と信頼感は目を見張るものがあったな。君は不思議な人間だ」
「恋愛に興味がないんですよ。だからじゃないですか。けど、自分の手の届く範囲で人命は助けたい、それはおかしなことじゃないでしょう。それだけの話です。それと涼風を可愛いとは思ったことありません」
「そういうことにしておこう。別に私は君の性格にいちゃもんをつけたいわけじゃない。けど、ナルコレプシーということを、涼風くんが他の人に話していなかった場合、君が唯一の理解者になる可能性がある。彼女が目覚めたら、親身になって相談を聞いてやってほしい」
「なんか、香さんの手の上で転がされた気がしますが、仕方ないです。助けて頂きましたし、病気による生活の助けはしますよ。しかし、涼風がそれを拒んだら、僕は身を引くしかありません。それ以上はストーカーですので」
「それでいい、で、他に聞きたいことは?あるんだろう、私の境遇、不思議に思わない方がおかしい」
僕が聞きたかった2つ目の質問、それは彼女も他の人から何回も聞かれているのか、質問の準備は既にしているようだった
「それでは、ご遠慮なく。なぜ医者のあなたがこの大学の講師に?うちの大学に医学部、薬学部を含め、医療系の学部は一つも存在していない。うちは今時珍しい完全文系の大学だからな」
「言葉が砕けたことから君は私をまだ怪しんでるようだね。まぁそれもそうか」
香さんはコーヒーのおかわりを自分のカップに注ぎ、僕に手の平をさしだし、おかわりの承諾を促した。僕はカップに目を移し、まだコーヒーはカップの半分ちょっと残っていたので首を横に振って断った。
「まず初めに、この大学に来た理由は医療関係じゃない。私は趣味で文化人類学、民俗学について研究をしていてな。せっかくまとめた研究だったのでそういった学会で発表したら学会のお偉いさんたちに気いられたらしい。そういう経緯で、是非、この大学で教鞭をとってほしいとお願いされたものだから、了承した。医者の方は土日含めて週4にして、講義は週に3日程度だから難しくはないな」
「それだけでしょうか」僕は言葉に被せるように再度、尋ねる。本業の医者と別の分野での講師の両立。充分すごいことをやっているし、この人なら誘われたという動機だけでやってしまう理由にも頷ける。だが、この人にしてはあまりにも普通過ぎる理由だと思った。
「うすうす気づいていたが、やっぱり君は勘が鋭いな。そうだな、それだけじゃない。この大学に来たのはある噂があるからだ。」
「噂」というオカルト研究会を連想する言葉に身構える。予感は的中する
「この大学の生徒が「幽体離脱」をするそうだ。そして、それを引き起こすのは「白髪スーツの男」だという。私はオカルトが好きでね。せっかくの機会もあったし来ない手はないと思った」
「…」
「そして、君とそこの涼風くん、オカルト研究会だろ?大学の部活動・サークルサイトに載っている顔と同じだ。もっとも君たちは同好会止まりのようだが。オカルト研究会、一応調べてきてよかった。あぁ、会ったのはたまたまだ。見張っていたわけじゃない。警戒はしないでくれ」
香さんは、そう言っていたが、別に焦っている素振りは見せていない。いたって冷静だ。その冷静な態度と声で尋ねられる。
「現オカルト研究会の君は「幽体離脱」「白髪スーツの男」について何か知っているかい?」
僕は「知らないですね」と返したたうえで続けた。
「僕の『ネタ』は「死の観覧車」なんです。そして「幽体離脱の真相」はそこで寝てる涼風、「白髪スーツの男」は部長の隅田由美奈という人です」
「そうか、オカルト研究会では「噂」を『ネタ』とよんでいるのだな。でもやはり調査はしているのか。では、私もその調査に混ぜてほしい」
「それは由美奈さんに聞いてください。僕は平社員ならぬ平部員ですから権限はありません。」
「ほぅ、君は副部長くらいの立場はありそうだが、そうかそうかそれでは仕方ない。是非、その隅田由美奈くんと接触をしたい。連絡をとってくれないか」
「別にいいですけど、もう日が暗いし今日は来れませんよ」
あいつらは今頃カフェの帰りだろう。もしから来れるかもしれなかったが、それは黙っておいた。
「あぁ、後日でいい、よろしく頼む。君たちにもメリットはある。学生ではたどり着けない場所、学内の機密情報といった大学の内情を私が処分にならない範囲で伝えるよ。いい取引ではないか」
「まぁ、僕としてはどっちでもいいです。僕の「死の観覧車」の調査にはメリットなさそうですが」
「そう言うな、「死の観覧車」は調査はしていないがネットで知っている。私も今後は調べよう」
「それは助かります。よろしくお願いいたします」
話がまとまったと思ったタイミングで、ソファが軋む音がした。ソファに目を移すと涼風が大きなあくびをして右手を垂直にあげ、左手を直角に曲げ、右手をつかんで伸びをしていた。その後両手を下ろし、寝ぼけまなこで周囲を見渡し、自分がどういう状況かを確認しているようだった。
しばらくし、寝起きの行動を見られたのが嫌だったのか涼風は恥ずかしく気まずそうな顔をして体育座りの姿勢をとり、顔を隠しながら目を覗かせた。ベージュ系の髪と服のせいもあり、リスのようだ。
「あぁ、涼風君、目が覚めたか。今日はそこの先輩に送ってもらうといい。もう夜も遅いし、説明は彼から聞いてくれ」
涼風を送る流れになるのは、この長時間の話で日が暮れ始めたあたりから覚悟をしていた。そして、彼女の支えになってほしいという香さんのお願いもあり、ナルコレプシーについて知った経緯を説明することも覚悟はできていた。
まだ状況を呑み込めていなそうな涼風に説明する。
「涼風、君を介抱してくれたのはこの香さんだ。話はまぁ、そういうことだ。今日は僕が送っていく。香さんと話したいことがあるからちょっと扉の前で待っててくれ」
「あ、はい分かりました!か、香さん…?でしたっけ、ありがとうございました。失礼します!」
涼風は恥ずかしい顔をした状態で急いで扉を開いて外に出た。しかし、閉じる時はまるで面接の退出時のようにゆっくりと丁寧に閉めた。こいつの優しさが出てる。
「私の見立てでは質問は2つだと思ったが、まだ何かあるのかい?」扉が閉まったタイミングで香さんが口にする。
「はい、香さん、あなたの名前は研究室に入る時、扉の前の表札で知っていました。なぜ苗字を隠したのか。それは僕たちがオカルト研究会と知っていたと言ったところで気が付きました」
僕は一拍おく。
「金谷香さん、金谷欣二のお姉さんですね?金谷欣二とのつながりをバレるのは何かまずいのですか?」




