第一章 スモーキングルーム
スモーキングルーム
時間を充分にずらして、僕は図書館から出た。一応、近くに由美奈さん達がいないかを確認しながら喫煙所に向かう。木造の三角屋根、まるで山中のペンションを想像させる形状に換気用の窓が数個ある。換気扇もあるが小さくて微量しか煙を排出できていない。社会が禁煙を進めている中で、この大学はまだ喫煙所が用意されている。地方の大学だから仕方がない。
たまに教授も喫煙所にくる。教授と仲良く話してる学生が目に入る。上の人に取り入るのが上手い奴はそこで教授のご機嫌を取り、いい企業の斡旋にこぎつける。それを軽蔑するわけでもないが、別に褒めることでもないなと思いながら、タバコに火をつける。
しかし、こちらが興味なさそうにしていること自体が気に食わないという人もいる。相手に対して《《行動をしないという行動》》は無視されているような感覚を与え、相手側は不服そうにするものだ。
案の定、その学生は教授と話しながら目線をチラチラと僕の方に向け、睨みつけてくる。「どっか行けよ」と言わんばかりに。
仕方なく、喫煙所から少し出てタバコを吸う。元々、扉も窓も換気で開きっぱなしで、喫煙所の周囲も全て喫煙所みたいなものだ。タバコが苦手な学生はこの周辺を通らない。
自分で言うのもおかしいが、僕は頭のデキは良い方だ。大学の成績はトップとまではいかなくとも、上位には入っている。望めば、大学院に推薦合格に加え、学費の免除くらいはもらえるだろう。しかし、少なくとも僕にとって文系の大学院に進むのは必要ないと考え、就職を選んだ。
だから、上の人に取り入る奴の気持ちがイマイチ分からない。結果さえ出せば、上の人間は勝手に気に入るものだ。妬みがなければ。
「あ、やっぱり先輩じゃないですか」
タバコを半分まで吸ったところで隣から声をかけられた。やわらかい声
「ダメですよ、ちゃんと中で吸わないと。ルール守らないと喫煙所がなくなっちゃうかも」
そう下から覗き込むように上目づかいで注意してきたのは1年、竹下涼風。由美奈さんいわく、オカルト研究会のホープらしい。栗色のショートボブ、七分袖の白のブラウスにベージュのジャンパースカート、僕の胸くらいまでの身長で笑顔と動作から幼さを感じる。彼女のバニラの香水の匂いが微かに鼻腔をくすぐる。タバコの臭いと混ざり合っていい気持ちではない
「なぜここに?喫煙所に未成年がいる方がやばいと思うが」
「いるだけなら、犯罪じゃないですよ。それと私タバコの臭い大丈夫なので。でも、セブンスター吸ってる人は私苦手です」
「僕のタバコが何か知っててよく言えるな」
「まぁ、親戚のおじさんたちが吸ってるのをみて悪いイメージがついてるだけですからね。先輩は別に嫌いって訳でもないですよ」
涼風はそう言って、僕の隣に乗り出し喫煙所の中を覗き込む
「やっぱりいないや。金谷先輩」
どうやら、2年の金谷に用があったらしい。
「金谷は今日のオカルト研究会にも来てなかった。お前と同じくサボりかもな」
「ひどいです!私はちゃんと友達のレポートを手伝ってたんです!それと、お前じゃなくて涼風です。私に苗字で、呼ばれたいんですか?」
「あぁ、すまなかったな涼風」
涼風にも僕のことを名前で呼ぶように言ったら、由美奈さんと同じく、自分も名前で呼んでほしいと言い出してきた。女子っていうのは等価交換でもしないと気が済まないのだろうか。それともうちの研究会が変人なのか
名前で呼び合う関係なんて、下手をすれば周りに勘違いされてもおかしくない
「それにしても、金谷に何のようだ?もし会えたら伝えとくぞ」
「いやー、大丈夫です。金谷先輩、私と同じ学部なので仲良くなって過去問とかもらえたらなぁって思ったんですよね」
「お前も過去問か。美浦と一緒だな」
「わっ、美浦先輩と一緒は嫌ですね。でも、過去問は大学生の生命線ですよ。天才の縁先輩とは違うんですよ」
「天才じゃない。講義を聞いてれば大体わかる」
「大学の講義でそれを言えるなら一般的に天才というんですよ。高校までの授業とはレベルが違うんですから。まぁー、あとは金谷先輩、超イケメンじゃないですか。ちょっといいなぁって思ってるですよ」
「そうか」と僕は心底興味なさそうにタバコを最後まで吸った。その様子を見て涼風はまた僕の前に立って上目づかいをしてくる。
「縁先輩って恋愛とか興味なさそうって感じですよねー。まぁ、だから話しやすいんですけど。オカルト研究会の中で私的に4番目くらいの候補ですよ。縁先輩は」
「僕を含め、ちゃんと活動している男は3人だと思ったが、僕は美浦以下で、しかも顔も知らない幽霊部員以下のか?」
「そうかもですねー」と涼風は屈託のない表情で笑った。こいつは本当に楽しそうに笑う。その裏表のない笑顔は人を惹きつける。クラスでも多分気に入られているだろう
「まぁ冗談はさておき、縁先輩は来週の飲み会来ますか?」
「あぁ、1年の歓迎会だからな。といっても、今年の入部は、涼風だけだから、君の歓迎会だ―――というのは建前で本音は由美奈さんにどやされるから行く」
「言わなかったら分からなかったのに、なんで言うんですか?いえ、縁先輩はそういう人でしたね」
「そういうことだ。嘘がバレそうな相手には嘘はつかない方がいい。先輩からのアドバイスだ、受け取っておけ」
「了解です。できれば覚えておきますね。それよりも、その飲み会で私、金谷先輩と少しお近づきになりたいので、ご協力お願いしますね。縁先輩にしか頼めません」
「あぁ、金谷の隣には座らないようにするよ。けど、あくまで主役は涼風だから2人きりで話すのは難しいと思うぞ」
「大丈夫ですよ、当日の目的は連絡先のゲットです。グループチャットから登録はできるんですが、なんかストーカーみたいなので」
「その気持ちは理解できなくもないな」
「では、そういうことで。改めてご協力お願いします」
僕はやっと会話が終わったと思い、ボックスタイプの箱から新しいタバコを取り出して口に咥えた。火をつけようと思った矢先、一瞬の違和感を覚え、ライターを点けた。一口吸って、空に煙を吐き、その違和感の正体に気付いて口にする。
「あれ、今2年の金谷ってもしかして未成年じゃないか?」
「あ…、たしかに」
僕らは何か重要な真実を見つけてしまったように顔を向かい合わせた。
「い、いや、きっとあれですよ、4月中に誕生日を迎えたか、それかろ、浪人ですよ!」
「まぁ、浪人の線で考えるのが妥当か。しかし、金谷がタバコを吸ってる姿を見たことも、もちろん喫煙所でも会ったことはない。逆に涼風はなぜ金谷が喫煙者だと知ってるんだ?」
「あれ?今年1回目の顔合わせのせオカルト研究会が終わった時、そのまま喫煙所で見かけましたよ。その時に皆さん、自己紹介はしましたが、1回だけじゃまだ皆さんの顔と名前が一致してなかったので、あ、イケメンの先輩だー、くらいにしか思ってなかったんですけど」
「なるほどね。その日、僕は特に用事もなく帰ったから合わなかったか。そもそもだが、あんまり吸う奴じゃないのかもしれないが。どちらにせよ今年に入って吸い始めのか。春休み期間中に二十歳の誕生日を迎えて、堂々と吸えるようになったってわけか」
「なんか、金谷先輩が二十歳になる前から吸ってたみたいな言い方ですね」
「二十歳迎えた瞬間に吸う奴はいないさ。喫煙者のほとんどは未成年の時に最低1回は吸ってるもんだ。僕もそうだったから。何かきっかけがないとタバコは吸わないもんだよ」
「そうなんですね。私は今は絶対吸わないと思ってますが、もしかしたら先輩たちのせいで吸っちゃうかもですね」
「まぁ、吸わないにこしたことはない」
「あ、親戚のおじさんと同じこと言ってます。よく吸う人ほどその台詞言います」
「…まぁ、とにかく歓迎会には出るし、君と金谷の手助けはする。」
「はい!よろしくおねがい…し…」
涼風がそう言いかけた時、彼女は僕の方に倒れ込んできた。まるで糸が切れた人形のように彼女を支える全ての筋肉が無くなったかに感じられた。僕の上半身を沿って胸元、みぞおち、腹部の順で彼女の頭が滑り落ちていく。反射で持っていたタバコを地面に投げ捨て、彼女の頭がベルトの少し上まで来た時、僕は両腕を出し彼女の両肩を掴んで支えた。
「おい、大丈夫か?」僕は焦った様子で彼女に問いかける。もしかしたら彼女のいたずらの可能性を考えたが、1秒も経たずにその考えは捨てた。彼女はそういう無意味ないたずらはしない、ましては悪質ないたずらならなおさらだ。
「あれ?あぁ、そっか。先輩、ごめんなさい、ちょっと肩を貸してもらってもいいですか?」
身長の体格差的に僕の肩に彼女の腕は届かない。言葉の綾だと思い、僕は彼女の肩に腕を置き、彼女の右腕を僕の腰に回す。意識が朦朧として足に力が入っていない涼風は僕に体の全てを委ねているようだった。
今日の天気は春日和、暑くはないが少し肌寒さを感じられる気候だ。熱中症というわけではないだろう。しかし、「あぁ、そっか」っと言ったことから涼風本人は原因を知っているようだった。どちらにせよ、このままというわけにはいかない。救急車か―――。
「その子、大丈夫?」
考えがまとまらないうちに、声をかけられた。涼風に見下ろしていた視線を声の方向に向ける。僕と同じくらいの背丈をした白衣の女性がそこに立っていた。
「大丈夫…ではなさそうだね」
言い、多分これから吸うつもりだったであろう人差し指と薬指で挟んで持っていたタバコをソフトタイプの箱にしまった。
彼女は涼風に近づき、額に手のひらをあて、次に首を手の甲でゆっくりさすり、最後に涼風の顎をまるで卵を持つような手の形、繊細な力加減で涼風の顎を持ち上げ、顔色をジッと見つめた。
僕が彼女を目視して、タバコをしまってからのその一連の流れにどことなく艶めかしさを感じてしまう。首までかからない黒髪のショートカット、天然のくせっけをした彼女は身長のせいもあり顔を見なければ男性とも勘違いしてしまいそうになる。ドラマのイケメン俳優のワンシーンが重なり投影される。
「あぁ、どうやら寝ているだけだね。これなら問題ない。君、私の研究室まで彼女を運んでくれるかな」
僕は態勢を変え涼風を背中に担ぎ、白衣の彼女の後につづいた。