03 スロウダンスとセンチメンタルバラード
『スロウダンスとセンチメンタルバラード』
ティロー・ナトリが何者なのか、僕はその答えを求めようとした。
土曜の朝刊に載っているクロスワードパズルを暇つぶしに解き始めるのと同じように、雨の降る休日に炬燵の上で始めるドーナツづくりのように、気楽に穏やかに、考えるまでもないくだらないことの一つとして僕はその答えを求めた。
とある日、僕の経営する店で酒を飲むティロー・ナトリに尋ねてみた。
「神様にでもなろうとしたんですか?」
「いいや、それは違うな、君には何度も言ったが、私はそんなもの信じないようにしている」
信じないようにしているという言い方はやはりどこか引っかかった。
「そうだな……高橋、科学で進める範囲では、人類が滅びるまでにこの宇宙を出ることができないと考えたことがあるかい?」
また、突然変なことを言い出す。彼とは話すたびに疑問が増える。
「ありませんね」
「この数十年で技術が飛躍的に進歩したと言ってもね、その歩みは遅すぎる。いつだったかな、どうあがいたって、人類にその先の景色を見ることはできないんだって私はふとそんなことを思ってしまったんだよ。残った時間と進むべき距離が釣り合っていない。人間という存在は物質的な限界を迎えてしまっているってね」
「物質的な限界ですか? それはまた、大層な話ですね、そんなことを考えだしたら疲れてきそうだ」
「大した話ではないよ、私は化学や物理の専門家ではないのだから。
仕事の休憩時勘や夜眠る前に誰しもが一度は考えるくだらないこととして話している。
くだらない妄想のはずだったんだ。ずっと昔に私はそこから抜け出そうとした。時間と進める距離のどちらかを伸ばす方法を頭の中で考えて、そのために私は一つの狂った妄想に取りつかれた。そしてその狂った妄想がいつしか現実の物になった。それだけだ。私自身は何者になろうともしていないし、私の身に一体なにが起きたのか私自身理解していないんだ」
「誰だったか、かつての哲学者は言いましたよ。超次元的なものについて考えることに意味はないと。どうあがいたって観測することはできないのだからと」
「そう思ってしまってはそこが限界なんだ。そんなに手前の段階で立ち止まっては意味がない。くだらないことと言って片づけてしまうものだから、いつまでも前に進むことができなくて、我々はいつまでも間違えたままなんだ」
・2
高橋は生まれ育った静岡の町で酒場を営んでいた。学生時代に知り合った人間から譲り受けたこぢんまりとした店で、日々自分の好きな音楽を聞きながら客に酒を出すだけの商売をしている。
場所が大通りを離れたホテルの地下という決して恵まれた立地ではないので売り上げも人入りも芳しくなく、生活は決して豊かではないのだが、それでも誰にも指図されず、自分が無理なく掌握できる範囲で仕事ができるというのは気楽でいい。
時刻は夜の十一時半、地方の早すぎる最終電車に乗って店内に一組だけいたサラリーマン風の男たちも去って行ってしまった。
静かな店内でグラスをみがきながら、あと十分経って新規の客が来なければ今日はもう店を閉めてしまうかとそんなことを考えているとドアベルがその高い音を鳴らした。
「いらっしゃいませ」落ち着いた声で高橋が入り口に向かって声をかけるとそこには見知った男が立っていた。
「あれ、おひさしぶりです」高橋は表情を崩してそこにいる男に声をかける。
「やあ、君と最後にあったのはいつだったかな」
「この店を譲り受けた時だから、もう三年前ですね」彼はティロー・ナトリという。元々この店のオーナーだった男で、ある時『僕にはもう必要のないものだから、必要なら君にあげよう』と当時ただの大学生だった高橋に店を譲り、譲るや否やあっさりとどこかへ消えてしまい、それ以来、ただの一度も姿を見せなかった。
「三年か、すっかり時間の感覚が飛んで行ってしまっていてね、そうだな久しぶりだ」
昔から捻くれたというか、何を言っているのか理解のできないところの多い男で、彼と一つやり取りをするたび、二、三度はつまずく。高橋は彼のことが正直苦手だった。
「それで、どうしたんですか今日は?」ティロー・ナトリが自分の前に腰かけてから、高橋は問いかけた「客としてきたわけでもないでしょうに」
「もちろん違うさ、また少しの間旅に出てみようと思ってね」
「死体探しの?」高橋は渋面した。
死体探しの旅に出る。
高橋が学生時代この店に通っていた頃、ティロー・ナトリはよくそんな戯言を言っていた。冗談だと思って初めのことは茶化してみたりしたのだが、彼はどうやら本気で、自分の死体がこの世界の中のどこかにあると信じているらしく、昔から何度かそのための旅に出ていた。
反対にナトリがそれ以外の理由でどこかへと消えるのを見たことがない。
高橋は何度もその話を聞くたびに怪訝な顔をしていたのだが、ナトリは彼のその顔を見るたびに、高橋からすれば不確かとしか言いようのない根拠について滔々と語り、それを語り出されるたび高橋はウンザリしていた。
「いや、それはもういいんだ」
「もういい?」高橋の声が上ずる。
「今回のは個人的な旅行だということさ。いや、レジャーや景色を楽しむわけではなく、巡礼のような物かもしれない。巡礼と言っても万人にありがたがられているような場所に行くのではなく、自分の昔訪れた場所をいくつか回るだけだけれども」
「意外ですね。死体探し以外でナトリさんがどこかへ行くなんて」高橋の記憶している限り、理由を知っている限り、それは初めてのことだった。何も言わずに消えたような場合であっても後から聞けば結局それは同じことだった。だからナトリの言葉にひどく違和感を覚える。
「ああ、私の死体がね見つかったんだ」その言葉を聞いて全身の毛が逆立つのを感じた。
「は? ナトリさんの死体があったんですか?」
「そう言っているじゃないか、君が言ったとおりだった、日本にあったよ。私は君のように少ないヒントから理論立てて正解を導くという事は出来ないけれど、たどってきた道に関しては大きく間違っていなかったようだ。ここから県を2つまたいだ地方にあった」
「地方にあったって……死体が? え、それじゃあ、その死体は?」
どうしたというのだろうか、というより生きている人間の死体が存在するのだろうか? いや不思議な話ではない、ナトリという人間の周りでならあり得る。自分の死体を見てなぜこの人はこうも冷静なのだろうか? あったのだとしたら、どこに? どんな状態で? それは目の前にいるこの男と同じ容姿をしているのに死んでいるのか? 少なくともこのティロー・ナトリという人物とは五年以上の付き合いがある。その当時から探しているのだから、彼は五年前から死んでいるのか? ならば死体はとっくに白骨化しているはずだ。そもそも彼がくちにする死体とはなんだ? 今まで確認しなかったがなにかの隠語か? いくもの疑問が電気のように高橋の脳細胞を同時に刺激してゆく。
「いや、見つけただけでそのままにしてきたよ。まだ生きていたしね」
「は? 生きていた?」自分でもわかる程に間抜けな声が出たが、すべての疑問が消え去り、頭が真っ白になった。ここまで意味の分からないことを言われたら当然だ。
「ああ、私の死体は日本の小学校に通う純粋な少年だったよ。黒髪に黒目で何も目立つところのないような、好意的な意味で地味だと言える存在だったよ」
「黒髪に黒目の少年? それがナトリさんの死体だと?」この短い会話でわかる程に何の特徴も一致していないのに?そもそも死体ってなんだ?
そうだと自信ありげな表情でナトリは頷いた。
「混乱してきました。何も一致しないじゃないですか? そもそも死体ってどういうことですか? その少年がナトリさんの死体っていうのは一体どういう意味で言っているんですか?」
「君は相変わらずこの手の話に疎いね、学生の時から少しも変わらない」
「常識なんて若いころに身に着けた偏見ですよ。そこからこうも外れられたら理解が追いつきません」
「まあ、それを分かってもらうために言葉を重ねるのもそれはそれで面白そうだけれどね、すまないが私は早急に旅に出たいんだ。できれば遠くに、そのために君の酒を飲みに来た」
「ああ、それで、今日はここに……」その言葉で高橋にはなぜナトリがこの場に来たのかだけは理解できた。
この店を譲り受けてから、ナトリは遠出をする際、高橋の酒を飲んで旅をするようになった。
「巡礼の旅っておっしゃっていましたが、具体的にどこに行くかは決めているんですか?」これ以上何を聞いたところで無駄だろうと、高橋はおとなしく酒をつくることにする。カウンターに背をむけ、棚に向かった。
「初めは寒いところがいいな、冬には一面を雪で覆われて、仕事も食べるものにも困るようなそんな寒いところがいい、できればそれが私の故郷の近くだったなら、なおいい」
「なるほど」
高橋は黙って、何種類かの瓶からカップを使って酒をシェイカーの中に入れていく。
シェイカーを振る音だけが店内に響く時間のあと、グラスに入れたクラッシュアイスの上から注いだ酒は白雪のように半透明で輝いていた。液体の中を泳ぐ氷の破片が細氷のように自由に揺蕩って、やがて底へと沈んでゆく。
「ほお、うまそうだな、これは何だい?」
「スノウホワイトをもっと貴方らしくしたものですよ。ミスターナトリ」ほかの客に接するのと同じように、不快感を与えないよう、それでいてわざとらしく丁寧な口調で話す。
「スノウホワイトね、知らないな、アレンジしたのか、名前はなんていうんだい?」
「さあ、名前なんてありませんよ。便宜上つけるならナトリの故郷?」
「君は私の故郷を知っているのかい?」
「これっぽっちも知りませんね」
「それはそうだ、私だって覚えていないのだから」
そう言って愉快そうに笑うと、ナトリは目の前に置かれたグラスを一口で飲み干した。
飲み干した瞬間、まるで初めからそこに何もなかったかのようにティロー・ナトリの姿はその一切の痕跡を残さず消えてしまった。
残された高橋は、再びグラスを磨き始める。今日はもう店を閉めようと決意をした。意味の分からない会話をして一気に疲れてしまった。
「白雪姫か」ティロー・ナトリという人間にぴったりだと思う。あの物語には少しネクロフィリアのような要素があって、通りすがった王子は死んでしまった白雪姫に恋をするのだ。死体に恋をする。
原典では王子はただ死体を欲しがっただけだったか。
「彼とは少し違うか?」彼がこの後、見つけたという自身の死体とどんな結末を迎えるのだろうかと高橋は薄暗い店内で一人そんなことを考え始めた。
・2-2
その日も客足はまばらで、夜の十一時を回る頃には高橋の店には彼のほかには誰もいなかった。グラスを磨きながら。なぜ北半球が夜の時に南半球は昼ではないのだろうそっちの方が楽しいのに、それでいて、なぜ北半球が夏の時に南半球は夏ではないのだろうそっちの方が楽しいのに、と、本当に何の価値もないことを考えていた。
シャラン。とドアベルが鳴る。
開いた扉から中肉中背のいかにも平均的な日本人だという男が入ってきた。
「いらっしゃいませ」と高橋が声をかけるもドアの前から動こうとしない。
「空いている所へどうぞ」空いている席しかないが。安心感を与えるように笑顔でそういうと、何かを警戒しているのか、男は一度店内を見渡した後で一番入り口に近い椅子の椅子に腰かけた。
「何を飲まれますか?」
「ビールをお願いします」ビールか、一緒にナッツでも出そうかな?と手元からナッツの小袋を取り出して、注いだビールと一緒に男の目の前に置いた。
「あの少しいいですか?」目の前から去ろうとする高橋を青年が呼び止める。
「ええ、何なりと申してくださいな」
「人を探しているのですが、ここによく出入りしていたと聞いて」穏やかでないことを言うな、面倒くさそうだ。と高橋はそう思った。
常連だとして、それを教えて面倒に巻き込まれるのはごめんだ。なんといって誤魔化そうかと頭の片隅で思案をはじめる。
「名前しか知らないのですが、ティロー・ナトリという人物です。何か知りませんか」
事情が変わった。教えたところで問題はない。むしろ事態はより複雑だ。それでいて高橋の好奇心をひどく刺激する。
「ティロー・ナトリかひどく懐かしい名前だなあ」
「ご存じですか?」
「知っているも何も、僕はこの店を彼から譲り受けたんです、あれはもう二十六年前だけれど」思えばずいぶんと時間がたったものだ。
「最近、彼はここに来ましたか?」
「いや、来ていませんね、最後に見たのは……二十年前だな。彼は急に現れてこの席に座って酒を一杯だけ飲んだ。そして旅に出て行った。それ以来姿を見ていません」
「どこに行くとは言っていましたか?」
さてどうしたものか、徐々に核心だ。
「君はいくつだい?」
「二か月前に三十歳になりました」
「なるほど」二十年前は十歳だな、黒髪黒目だ、当時は小学四年生か。
「なぜ、ティロー・ナトリを探しているんだい?」
「話を聞かせてもらったんです。半分だけの愛の話だと、最近になってその結末が妙に気になるんです。そして気になり始めたら、子供の時にこの話を聞かせてくれたティロー・ナトリという人間のことを思い出した。思い出したときに思ったんだ、僕はもう一度彼に会わなければならないと」さてどうしたものか、ジレンマだ。
ティロー・ナトリが自分の死体だと呼んでいたのが目の前の青年のことであると高橋は直感的に理解した。そして彼をティロー・ナトリに合わせるすべを彼は持っている。ただ酒を一杯飲ませればよい、それだけで彼は念願のティロー・ナトリと再会できるのだ。
会わせてよいものなのか?
本人が会いたがっているのだから、問題ないだろうと思う一方。
会わせた瞬間にこの青年の人生は大きく狂うだろうとも思う。
ジレンマだ、果たしてどちらが良いのか『もし人生があなたにジレンマを与えたなら、それでレモネードを作りなさい』そんなテロップが頭の中に流れる。全くだ。レモネードでも作って忘れてしまいたい。
「なぜ会いたい? 彼のする話にそこまでの価値があると私には思えないんだ」
「そうですね、なんといいましょうか、会わなくてはいけない気がしたんです。会わなくては前に進めないような気が」少年はそう言った『気が付いてしまったからにはね、その死体を見つけない限り、私は前には進めないんだよ。同じところで何も知らずにぐるぐると回り続けるしかない。それは袋小路に閉じ込められたのと同じだ』少年が言うと同時に、高橋の頭の中、ナトリの声がした。
ここで高橋の好奇心が全てに勝った。確実にこの青年がナトリに会うことのできる方法を高橋は知っている。今すぐにでも実行できる。
それを行うことでティロー・ナトリは自分の死体だというこの青年に対して話をするのか何かを試みるのか、いずれにしろ働きかけるはずだ。
そして彼の人生は大きく狂う。
確実に。
ティロー・ナトリに関わってしまった多くの人間がそうであるように。
高橋はその結末を知りたいと思ってしまった。おそらく、すべてが終わった後でティロー・ナトリはここにその顛末を語りに来るだろう。これはただの予感だが、そんな気がして仕方がない。
それを人生の楽しみの一つに据えることは実に魅力的だと、高橋はそう思ってしまった。
そう思った高橋は無言で青年の席に背を向けると、酒をシェイカーの中に次々と加えてゆく、このカクテルに正しい分量はない。そんなものはこれには存在しない。そもそもこのレシピで完成するカクテルなどこの世には存在しない。それを一つ一つ確認しながら、丹念に酒を混ぜ合わせてゆく、一つでも分量を間違えては完成しない。ならば、もうすでに何を入れたのかさえ覚えていないのだから、そもそも完成するはずがない。
それでも、カクテルは完成する。酒場の薄暗い灯りの中で蛍光イエローに光るなんとも怪しげな飲み物だ。高橋はこれを見るたびに、昔ニンテンドー64でプレイしたゲームの中に出てくるパワーアップアイテムを思い出す。
「サービスだ」完成したカクテルを青年の前にさしだす。
「なんですか、これは?」青年は突然のサービス品を訝しげに眺める。
「カクテルさ、ティロー・ナトリという名前の」
「彼と同じ名前ですね……カクテルを探しに来たわけではないのですが」
自分が初めてここに来たときはカクテルを探しに来たんだったな。と高橋は不意にそんなことを思い出したが、それは今どうでもよい。
「飲めば彼に会えるよ」
「えっと、どういうことでしょうか?」
「飲めばわかる」
「はあ?」何を言っているのか全く理解できないが、とにかく飲めばよいのだろうと言いたげな顔で青年はカクテルグラスを持ち上げた。
一口含んだだけなのか、一気にすべてを飲み干したのか、それを視認する前に青年は消えた。誰もいなくなったカウンターには空のグラスだけが残されていた。
「またこの店に来て結末でも教えてください。何がどうなったのか」その言葉が青年に向けられたのかティロ―・ナトリに向けられたのかは高橋自身にもわからない。
さて、物思いに戻ろう。高橋は自分が何を考えていたのかを考え始めた。
月の裏側に海があるのかどうかだったろうか?
ああ、きっとそうだ。
高橋はまたグラスを磨き始める。
・2-3
「ティロー・ナトリなんて名前に意味なんてありませんよ?」
店の名前の由来について客が尋ねると高橋はそう答えた。
「そうですね、適当な話なんです。まず、外国人が酒場で日本人相手に雑談をしていてこう言うんです『俺に何か日本的な名前を付けてくれ』って、ふざけてそう言うでしょ?
で、日本人は適当にそれに答えた、手元にあるつまみの袋に一瞥くれて『ナトリタロウっていうのはどうだ?よし!お前は今日からタロウ=ナトリだ!』って、言うわけですよ。
で、外国人は日本の名前の発音が上手ではなかった。だからそう言われた時、彼はゆっくりとタロウ=ナトリをテーロー・ナトリって反復したんです。
で、そこに慣れが加わって、つまりは彼が名乗り慣れた時から発音がティロー・ナトリになっただけっていう適当な理由を思いついて店名にしただけで、名前に意味なんてないんですよ」高橋は淡々と嘘の作り話をしていく。
「親が子供に名付けたのなら、絶対にそんな風にはならない。つまりは、存在しないはずの人の名前を店名にしただけなんですよ。単なる思い付きというか、遊び心ですよ」
自分でもなかなか、意味不明なことを言っているな。と内心、ほくそ笑みながら高橋は客に対して嘘の説明をした。
自分ででっち上げた話ながらも、もし、この話が本当ならば、ティロー・ナトリと名乗るあの男は、本当は何者なのだろうか?と高橋は接客をしながら暇つぶしにそんなことを考え始めた。
・3
ティロー・ナトリという人物は善人でも悪人でもない。多くの場合において彼は何もしないからだ。害もなければ、出会うことでの利があるわけでもない。ただ自分の死体を探すだけの存在だから。関わろうとすることも難しい。個人の目的のためにだけ存在しているくせに、個人の感情で動く存在ではないせいで善にも悪にもなろうとしない。
それでも僕にとっての彼はただの優しい大人でしかなかった。
そんな彼が誰かを罰するところを見たことがある「知って起こす罪よりも知らずに犯す罪の方が重いというのに私は賛成なんだ。しかしね、私はどうしても彼らの死の理由が知りたかっただけだ。私は何もしていないよ。彼自身が根底にあったはずの罪悪感を、自分の行いを『仕方のないことだった。向うにも悪いところがあった』と正当化して無かったことにししていただけ、私はその話を聞いただけだ。他には何もしていないよ」
そう言ったティロ―・ナトリの顔にいつもの笑みはなかった。
「ナトリさんが人のために動くなんて珍しいですね」
「私は人のためには動かないよ、高橋。私は自分のために死体を探して、そのための手がかりを集めているだけだ」
「それでも今回のナトリさんのしたことは彼女の無念を晴らした」
「人のためなんかではないさ。私自身、自分の死の理由を恨もうとは思えないんだ。高橋、私がすでに死んでしまっているということは、殺した何者かがあるんだよ。それはずっと遠くにあるものだ。世の中の理の外側にあって、誰も手出しのできないものだ。何が私を死体にしてしまったのか、私を殺したのは病気でもなければ人でもない。死そのものが私を殺したんだ。
生まれるよりもずっと前に決まっていることなんだ。運命なんて言葉を使いたくはないが、死に方なんてものは生まれた時からある程度は決まっていて、死ぬことそれ自体は生まれる前から決まっている。それを決めた誰かが私や彼女殺したんだ。そこには手が届かない。そんなものを恨んだところで意味なんてないだろう?
人も動物も死ぬときには等しく生という尊厳を奪われている。だからこそ死者に対しては優しくすべきだと私は思っているし、彼らの尊厳がそれ以上けがされることはあってほしくないとは思うが、その無念を晴らそうなどと思ったことは一度もない。
だから、それはただの君の勘違いだ、高橋」。
「そうですか、でも、なんでしょうねナトリさんはその自身を死に至らしめたものを恨んでいるのだと思っていました」
「どうだろうな、かつてはそんな感情もあったのかもしれないがね。人が恨み続けることが出来るのは手の届く範囲にいる者に対してだけだ。人の作ったもの、人の起こした出来事、個人そのもの、長く続く恨みの対象には必ず誰かがいる。それ以外に対して情熱をもって恨み続けることはとても難しい」。
・4
「ナトリさんはコープスシンドローム、又はコタール症候群というものをご存じですか?」
「知っているよ。昔調べたことがある。精神病の一種だろう? それがどうかしたかい?」
「いえ、ナトリさんの話を初めて聞いたときその症状に似ているなって思ったんです」
「なるほど、よくそんな病気を知っていたね」
「もしそうなら簡単に説明がつくはずなんですよね。ナトリさんが長い年月を生きているというのは嘘で、死体を探しているという言動はコタール症候群からくるもので、人の死に積極的にかかわろうとするその姿勢もそうですし、治療法として自分の死体を見つけるっていうのも、過去の病気の症例なんかを見ると意外にも理にかなっているような気がしてしまうんです。でも、どうしても腑に落ちないんですよ」
「まあ、それで説明がついてしまうなら一番簡単だろうな、私がその病気だと証明できればすべてが妄想で片付けられるだろう」
「証明は出来ないですね。僕は精神科医でもなんでもないので、それにそれを証明したところで、妄想では片づけることのできない物事が現実としてあなたの周りで起きていることを知ってしまっている」
「コタール症候群になったせいでまだ誰も気が付いていない科学や物理の先というものに気が付いた人間という説もあるじゃないか?」
「なるほど一理ありますね。何か変なものでも見たんですか?」
「いろんなものを見たな、いろんな時代、いろいろな場所で」
「ナトリさんはもう死んでしまっているんですよね?」
「ああ、自分の死体をようやく見つけたんだ」
「なにか心境の変化はありましたか?」
「特にこれといったものはないな、君は精神科医か何かなのかい?」
「いいえ、聞いてみただけですね、なにか食べますか」
「セロリスティックをもらおうか、あとブラッディ・シーザーも」
「ちょっと待ってくださいね、クラマトまだあったかな?」
「多分ですけれど、その何かのせいでナトリさんは自分の病気を治す機会を永遠に失ってしまったんでしょうね」
「どうだろうな、違うとは思うがね、私は自分自身が精神の病にかかっていると思ったことはないよ。もっとも医師の診察なぞ受けたわけではないので実際のところはわからないが」
「そうだったのならしっくりくるんですよね、もう治すことのできないその精神の病を唯一治すことのできる方法がナトリさん自身の死体を探すことだったのなら、そこに含まれる言葉の意味というものが割とすんなりと僕の胸に落ちてきてくれるんですよ」
「こじつけだな、いい線をいっているとは思うが何かが決定的に違っている」
「なにが違うのでしょうか? もう一つあるとすれば『私の死体』という文言がナトリさん自身の体を指すものではなく、物を対象に所有をしめすための『私の』として使われている場合ですが、この場合はあまり考えたくありませんね、不気味です」
「それはないと断言しておこう。私は自分が死んだものだとして、自分がどこかに置き忘れたであろう自分の死体を探していた。だがなかなか見つからない中でどこかでとっくに朽ちてしまっているのかもしれないと、そんなことを思ったな」
「それで見つけたのが少年ですか、もしもの話があるのなら、ナトリさんがずっと昔の人間で、あほみたいに長い時間を過ごしているとするのなら、その少年がナトリさんの子孫だという可能性ですね」
「そんなことは考えたことなかったな、私は結婚していたのだろうか?」
「知りません、でもナトリさんは何かしらのつながりを彼と感じたんですよね?」
「私の生が終わったという実感を得たんだ」
「生が終わった実感ね、なぜでしょうか、何かに満足したのか絶望したのか」
「やり遂げたという感覚に近いな、それがなぜかは私にもわからない」
「なぜナトリさんがそう思ったのか、なぜその少年がナトリさんの死体だったのか、その理由がわからないと、何を言ったところで結局ただの創作で終わってしまうんですよね」
「君はいま、大学の先輩のことを考えているな」
「そうですね、先輩がいたのならきっとそこにつながる何かをあっさりどこかから見つけ出してくるのだろうなとそんなことを思っていました。先輩に頼みさえすれば僕がどうやって見つければいいのかわからない、今欲しいいくつかの資料をどこから取ってくるのだろうなと。よくわかりましたね」
「これでも、君との付き合いは長いんだ」
「そうですね」
「いいじゃないか、ただの創作でも。私自身が覚えていないその答えなんかを暴いたところで君にとって何かいいことがあるわけでもないだろうに」
「まあ、そう思うのですがね、なぜでしょうか? 何がこんなにも引っかかっているのでしょうね」
「君がそんな風に悩むという事は何か君にとって必要な事柄と関係があるのだろうな、君が今何を考えているのか私にはわかりようがないがね。
君はこんな酒場を継ぐべきではなかったんだよ。先輩の死を乗り越えて、過去に引っ張られる後ろ髪を刈り上げて、そのまま内定をもらっていた会社に就職をして、そこでたった一度の恋をするはずだったんだ。おそらく相手は年上の女性だろうな、君に仕事を教えてくれる1つ2つ年上の誰かと君は恋をするはずだった」
「まあ、色々と思う事はありますが、ここをもらったことに後悔はありませんよ。この町を出て会社員として都会で働くという選択肢は確かにあったけれど、僕は今の自分が好きです」
「ここは君にとって懐かしい思い出が多すぎる」
「そうですね、でも自ら選んでこんなところにいるからには何か理由があるのだと思います」
「私が自分の命を永遠に失ってしまったのと同じように、君はここに残ることを選んだ。そのせいで、自分の過去から逃げる機会を永遠に失ってしまったのかもしれないね」
「それが悪いことだとは思いませんがね、僕自身がまだ答えを出せていない問題について考え続けることができるというのは悪いことではないと思うのですよ」
「大抵はみなどこかで区切りをつけるものなんだよ。考えても仕方ないことだと」
「そんな風に乗り越えてしまったらそこで終わってしまうではないですか」
「年をいくつ重ねても不器用だね、君は、自分で自分を捕らえ続けているのかい?」
「言ってしまえばそうですね、でも、いつか僕はここを出ますよ」
「どこまで後ろ向きなことをしているように見えるのに、物事に対する答えを出すすべの半分をなくしたのに、自分を欺いているのに、昔に比べて強くはなっているんだね」
「なくしたからです。それに、ただ無為に生きているわけではありませんので」
「なら、せいぜい頑張ることだな、私に手伝えることは何もありはしないが、それでも私はいつか君がそんな思い出の中から抜け出してくれることを願っているよ」
「ええ、旅が終わったらまた酒でも飲みに来てくださいな」。
・5
「私はよくすすき野原によく行きつく。人それぞれ思う風景というものは違うのだと思っているけれどね、十人に一人かそれくらいの割合で行きつくのがすすき野原だな」
「今回は何の話ですか?」
「死後の世界の話だ。君は知っておいた方がいい」
「知ったところで役立てることのできる機会は一生来ないような気がしますが」
「知識としてだ。いや、私が話したいだけだな。せっかく気が付いた日常の中のそんな小さな発見を誰にもいう事ができないというのはつらいじゃないか、目にシャボン液が入ってしまった時のように、痛みと暗闇の中でもがいている間に不安と悲しさに見舞われるように、やるせない気分になってしまう前に誰かに話したいんだ」
「話したいことを話せなかったくらいでそんな気持ちになることありますかね?」
「状況によるだろうな」
「例えばどんな?」
「昨日までいた友がもうどこにもいないと悟ったときだろうか」
「ナトリさんにはそんな経験があるんですか?」
「さあ、どうだったかな? それよりも話したいのはすすき野原についてだ」
「そんなことよりもナトリさんの昔の経験の方が気になります」
「旅に出たいと、私はそのときに願ったんだよ。無線機の向こうで徐々に小さくなっていく同じ部隊の友人の声を聞きながら必死に叫んだんだ『こんなくそみたいな戦争もいつか終わる。そしたらまた平和が戻ってくる。何にも囚われない自由がそこにまっているんだ』ってそんなことを言っていた。そして自分の声を少し離れたところで聞いているような感覚になった『どこへだっていける。硝煙に覆われた灰色の空じゃなくて、誰もが生まれ故郷の思い出と一緒に思い出すような笑っちまうくらいの青空のもと、どこにだって歩いていける』その言葉が誰にも届いていないと知りながら叫んで、その時に初めて旅に出てみたいとそう思ったんだ」
「それはナトリさんの記憶ですか?」
「どうだったろうな。多くの人の思い出に触れすぎたせいでどれが自分のものでどれが人からもらったものなのかもう判別がつかなくなってしまった。本当の私という人間は、そういう人々の想いの中に沈んでいったんだ」
いつかの時代の戦争を経験したティロー・ナトリは思ったのだろう。兵役を終えた彼の町にはもう何も残っていなかった。友や家族を亡くし、何もかもをなくしてしまった彼はなぜ自分は死んでいないのだろうかとそんなことを考えた。なぜ皆がいなくなってそれでも自分だけが生きているのだろうかと。そんなことを考えている間に彼は気を病んで、自分は確かに死んだはずだとそんな妄想に囚われることとなった。
人並みの生活を取り戻し、生まれ故郷の近くに新設された紡績工場で働いていたある日の彼は、自分が死んでしまったということの証明が欲しくて死体を探し始めた。それさえ見つけることができたのならば自分の立てた仮説が本当になるのだと、それさえ見つけることができたのならばもう一度かつての友や妻、自分の両親、兄弟、いなくなってしまったすべての人々に会える気がした。
なぜか死体を探し始めたときから彼は歳を取らなくなった。
旅路の果てに彼が見つけたのは自分自身の死体ではなく、自分がかつて救った少年によく似た日本の少年だった。ティロー・ナトリはその姿を見て、自分の周りで消えていった多くの命の他に、自分がつなげた命があったのだという事を知った。かつて自分がした行いが、長い時を超えてその場所で根付いているということをその少年の姿を見た瞬間に悟った。
その最後を彼は見つめることにした。自分が何をしたのか、かつて生前の自分がしたことがどんな結果を生んだのか、その生末を彼は見守ることにした。
そこに訪れた最後を見届けた彼は、やはり自分自身がずっと昔に終わってしまっているのだという事を理解した。
全てが終わったことを見届けたティロー・ナトリは月を見上げ、これから自分はどこに向かうのか、自分の行く先について彼は改めて考えた。