02 ジャズエイジカクテル
『ジャズエイジカクテル』
・1
「高橋の事が聞きたい? なぜ急にそんなことを? いいや、構いやしないがね。聞かれたところで私から言えることはそう多くはないよ。そもそもからして、私はなるべくなら生者と関わらないようにしているんだ。
まあ、高橋とは、他と比べれば、大いにかかわったのかもしれないが、相対的にはそうだとしても、他人について語るに十分かどうかといわれると疑問だな。それでも良ければ話すがいいかね?
……いいや、それは私の本分ではないからね、彼の話に対するお代はいらないよ。ロハでいい。だが、君の言うタカハシという人物は私が知っている高橋でいいのかね?
いや、わかってはいたさ。単に確認として聞いてみただけだ。話すとしよう」
ティロー・ナトリはずっと一人で話しを続けている。
灰色の空だ。吹きすさぶ北風のせいでコートを着込んだところで寒さが和らぐことはないと室内から窓の外を見ただけでわかってしまうような冬の灰色の空。その空の下、吹きさらしのコンクリートの塊の上に立って、僕は自分を抱きしめながら震えていた。寒さに打ちひしがれて『もう許してくれてもいいだろう? 頼むよ』と半ば祈りながら空を見上げるが、頭上に広がるのは見上げた人々を不安にさせるような分厚い雲に覆われた冬の暗い空で、雲は少し待てば日が出て温かくなるだろうなんてそんな希望を抱く隙のないほど色濃く空を支配していた。
ぽつん、と、ススキの群生に囲まれるようにしてある駅のホーム(と言っても路面電車の沿線につけられているような、人が二十人も乗ればどこに立てばいいのかと悩んでしまうような簡素なもの)その上に僕らはいた。あたり一面を囲む黄金色のススキも、いずれ降り出すだろう雪から逃れようとしているのか、地面にそうして伏せている方が幾らか温かいのか、吹き荒ぶ北風の中で背を低く保とうとしている。
ススキ野原に向けていた視線をまた隣へ向けると、ティロー・ナトリは呑気に煙草を吸っていた。ティロー・ナトリの喫煙シーン。彼とはもう五年以上の付き合いになるが、煙草を吸っている姿を見たのはそれが初めてだった。紫煙をくゆらすその姿はとても様になっているとは言いがたく、そもそも煙草の扱いに慣れていないのが容易に見て取れる。そのせいで『この人は何のために煙草なんてものを吸っているのだろう?』と、ほかの喫煙者に対して抱くことのないような疑問が僕の頭の中に浮かんでしまった。
「私が高橋に初めて会ったとき、彼はまだ大学生だった。外見にこれといった特徴があるわけではなかったが、内面は特異だった。高橋というのは対象が何であろうと関係なく、投げかけられた質問、疑問の何にでも正解を出せてしまう人間なんだ。いや、何であろうと、というのは間違いだな。ただ一つの物を対象にとった場合を除いて、彼はその気になれば全ての物事に対する正解を手に入れることが出来てしまう。
そんな人間を私は他には知らないのでね、だから私の中で彼という人間は異常なんだ」。
ティロー・ナトリは電車が来るのを待っているようだ。少なくとも彼自身がそう言っていた。しかし、本当に待っているのだろうか……僕がここにきてから1時間は経過しているはずだというのに電車は一本も来ておらず、ナトリ自身がそのことを気にしている素振りはない。
「そうだな、初めは私も羨ましいと思ったよ。当時の私にはどうしても探し当てたいものがあったんだ。詳細に関しては伏せるが、私の人生を前に進めるためにどうしても必要なものだった。持てる限り、つぎ込める限りの時間と労力を注いだのにそれを見つけることがどうしてもできなくてね、そのせいで私はボロボロだった。一歩何かを間違えたのなら自滅へと向かっていたのかもしれないような状況まで追い込まれていた。そんな私を救ってくれたのが高橋だった。私が一人で数えきれないほどの時間向き合って、それでも答えを出すことができなかった私の探し物問題に彼は一瞬で答えを出した。そしてそのたった一つの正解を口にすることで私を救ってみせた。
そう、私はそれを羨ましいと思っていたんだ。それと同時に彼に出会ったことで、目の前に何でも正解を導くことのできる人間なんかが現れたことで、自分の行ってきたことは間違っていたのではないか? いや間違っていたとは言わないまでもほかに選ぶことのできる道があったのでは? と、彼に出会ったことでそんな疑問が私の心の中に芽生えた……いや、これは高橋には関係のないことだ。 脱線したね」。
『彼の話が脱線しなかったことが過去に一度でもあったろうか?』頭の中でナトリさんの話に横やりを入れながら、僕は目の前の線路について考える。
『この路線は運行しているのだろうか? これから電車は来るのだろうか?』 と、客の来ない酒場の店員が暇をつぶすためだけにグラスを磨く間に考えるように、考える必要もない目の前にある疑問について考える。
電車を待っていると言うティロー・ナトリにずっと疑いの目を向けているのだ。彼はどんな状況だろうと平然と嘘をつく(誰もがすんなり受け入れられるような、つく必要のない嘘をついて、誰もが嘘だと疑うような自分の目で見てきた真実を他人に伝える)。そのことについて、そして僕をここに呼んだ目的について聞いておきたいと先ほどから視線を投げているのだが、ナトリさんは全く気が付いていないようで、何もない空間に向け一人で話を続けている。
「未だに正面から彼に向かって感謝の言葉を送れてはいない。
それを言えていないのは、私の問題というより彼自身の問題なんだ。
誇って然るべきことなのにも関わらず高橋はそれをよしとしていない、彼の特異性について褒めるようなことを言おうものなら『どう扱ったものか』と困ったような顔をする。本人がそんな調子なのにそれ以上掘り下げて礼を言うのもいかがなものかと、いつも話題を変える羽目になってしまう。
高橋を語るうえで大切になってくるのはそのあたりだろう……なんにでも正解を出せる高橋という男は、正解を出した瞬間に向き合っていたものの一切に興味を失ってしまう。いや、興味を失うというのは違うか? なんと例えるべきだろう」
ご機嫌で喋るティロー・ナトリは、煙草の先端についた灰を落とそうと煙草を持つ手を伸ばした。手間取りながら人差し指の腹を使って五度叩いたところで、ようやく灰は宙を舞いながら落ちてゆく。
「パズルを解くという行為自体は好きなのに、解いてしまったパズルそのものには価値がないと目を背けるような? いや、どうも違うな……高橋が解くのはいつもジグソーパズルではあるが、その表面にはいつでもひどく気に入らない絵画か写真でも印刷されている? そうだな、バラバラの間はそんな物など気にも留めずに組み上げるのだが、完成した瞬間、そこに現れる画像を見ていられなくなってしまう。そこに至ると目を背けて何が写っているのかを確かめようともしない。真実というものを恐れている。嫌っている」。
そう言ってナトリの吐き出した煙は肺を満たしはしなかったのだろう。SLの煙突から噴出される蒸気のように真っ白な煙が空へのぼっていった。
僕とティロー・ナトリは駅のホームに立っている。他に人影はない。
「優しい男だよ。優しい高橋君さ。彼は自身の導いた正解から誰かが真実を見つけて、それが原因で人が傷ついてしまうことに耐えきれない。耐えきれないが故、いつでも人を欺こうとする。自分の言った言葉なんてものは所詮、詭弁、もしくはただの推論でしかない、そんなものが正解であるはずがないと何が正しいのかを知っていながら嘘を吐く」
ティロー・ナトリと僕だけがいる場所。駅のホームとは言ったが見慣れた都会のそれとはまったく違う。屋根すらついていないようなただのコンクリートの塊で、通常の駅にあるような物が一つもない。駅名の書かれた看板もなければ、電光掲示板も時刻表すらない。
「そうだな、高橋について話すのならば、もう一人紹介しなければならない。
高橋は嘘を吐き、真実に行きつくことのできる正解をいつでも隠そうとするが。その嘘を暴けてしまう人間が一人だけいた。彼は高橋が大学時代に所属していた大道芸サークルの先輩で、名前は……長谷川といったか?
長谷川は高橋のような特異性を有しているわけではないが、行動力と好奇心という二点において他の追随を許さない。彼こそがそのジャンルの第一人者で代名詞だと言って差し支えないほどその二点において優秀だった。いいじゃないか、彼の存在も高橋を語るうえで重要な要素なんだ」。
ススキと、遠くに見える針葉樹林以外にあるのは足元にあるコンクリートのブロックとその前に敷かれた線路、少し離れた場所に真っ赤なコーラの看板が一つ、頭上には電線も屋根もない。電車を待っているのはティロー・ナトリだけ、もし線路が敷かれていなければこの場所を駅と呼ぼうとすら思わないだろう。
「高橋は臆病で、いつでも自己防衛策を講じていた。正解を言うくせに、言った後で所詮は詭弁だ、勝手な推論だと言い。末尾にはとってつけたような嘘を加える。
具体的な証拠なんてものが見つからないよう相手を煙に巻こうと嘘を重ねて、真実が見えなくなるように、嘘で作った金網を張り、壁を作り、正解を隠そうとする。
それこそが他人と自分自身を傷つけずに済む唯一の方法だと信じて。
だが、それを一瞬でぶち壊して真実に昇華することのできたのが彼の先輩で長谷川だ。彼は少しのヒントさえあればそれを推進力にどこまでも突き抜けていく! 高橋の築いた壁を破り、張った金網を切り裂き、ついた嘘すら真実の一部に挿げ替えてしまう!
二人でどんな真実でも暴いてしまうのさ、あの頃の高橋を特異たらしめていたのは長谷川という人間があっての事だろう」
誰もいない空間に向けてティロー・ナトリは心底楽しそうに話を続ける。何が楽しくてそんなことをしているのかわかりはしないが、彼の行動を正しく解明できる人間なんて世界中の学者をかき集めたところでいやしないだろう。納得のいく説明なんて誰もできやしない。
ティロー・ナトリは自分自身の死体を探していた。死体を見つけた彼は、巡礼の旅をしている。それが彼の現在地。
「それはもう愉快で痛快。二人はプリキュア。とてもいいコンビ。
ある意味では洗練されたコメディドラマ。
高橋は探偵役、先輩が刑事役。高橋はただの道化、通行人であることを望んでいる。
あるときに高橋がどこかで耳にした事件に関して、噂話を、それに関する自分の推論を友人と話していると、偶然、そこを通りがかった長谷川がその内容に興味を持つ。立ち止まり、聞き耳を立て、勝手にそれが正解と決めつける。決めつけて、刑事役の彼はその話を基にした捜査を始めて、挙句に事件を解決してしまうんだ。そして高橋のいる場所に来た長谷川は『解決したのは君のおかげだ、次回も頼むよ』と感謝をして、それに対して高橋はとても嫌な顔をする。
それを毎度毎度繰り返して高橋は望んでもないのに名探偵になっていく。そんなドラマだ」。
懐かしい人のもとや、懐かしい場所を巡ってくると言ってティロー・ナトリは旅立っていった。僕が知っているのはそれだけで、僕は確かに旅だったはずの彼を見送ったのだ。
それなのに、彼は僕の目の前にいて、僕は知らないどこかに立っている。
「不定期的に開演されるそのプログラムを私はとても気に入っていたのだがね、残念なことに高橋は大学生四年生の時に探偵としての性質を失ってしまった。
いいや惜しいとは全く思わないよ。それ以上そのドラマを見ることが出来ないのは残念に思ったがね。
だって、使う人間自体を不幸にするような可能性のある能力がこの世に存在する由はないだろう? 使うたび自分自身に牙をむくのだから、私としてはなくしたのが悪いことだなんて思えないんだ」
自分の胸の内、ふとした時に呼び起こされるこの懐かしさも、いま自分が見つめているティロー・ナトリという人物でさえも、全ては嘘なんじゃないかと疑いたくなることがある。
僕はただの精神病患者で彼は幻覚。幻覚の彼はいつだって僕に嘘を吹き込んでいるだけ。
彼が真実だと主張する出来事の中のたった一つだって僕の身の回りでは起きてはおらず。 懐かしいというその感情も、記憶の中でいたとされる人物も本当は存在しなかったのではないか? と。全てから目を背けてしまいたくなることがある。
「高橋という人間は一人では、ただ、真実から目を背けようとするんだ。背けようとして、嘘をつくんだ。嘘を吐くことは問題ないが、彼は初めに自分自身を欺く、それが大問題だ。
そのせいで彼は自分自身のことについてだけ、そのたった一つの存在を対象にとった事柄についてだけいつも間違える。
そのうえ、間違ったとして、少し立ち止まって考えれば袋小路からは抜けられるはずなのに、そうしないんだ。小型犬がいつまでも自分の尻尾を追いかけることをやめないみたく、間違いを追いかけ続けて、おんなじ所をぐるぐると回って、疲れをためて、やがては疲れ果てて、全てをやめてしまう。
君は正解を出せるはずだ、本当は間違いに気づいているんだろう? と。その光景を見るたびに問いかけたくなったがね。私はなるべくなら生者には口を出したくなくて、放っておいている」
『ティロー・ナトリは僕のイマジナリーフレンド』悪くない響きだ。彼を含めた僕の見ている世界が全て幻覚なら……と思案してみる。それはそれで悪くないな、と、僕は思う。
だが、その夢幻から覚めたあとで僕は新しい現実と向き合わなければならないのか? と、それに気が付いて絶望をする。なら、このままでいいか。今更、新しい現実と向き合って心身とも無事でいられるほど僕はタフじゃない。
それにしても僕は何を見せられているのだろうか?
演劇か? 映画か? ティロー・ナトリは冬のススキ野原、一人、コンクリートのブロックの上で喋り続けている。
「嗚呼、それにしても、あの二人を眺めていることのできた時間。
自分の死体を探し続けるしかなかったあの頃の私にとっては数少ない幸福な時間だったよ。
とにかく今の高橋は探偵でなくなった。
君が一体、誰から、何を、聞いたのか私には知りようがないが彼に期待しない方がいいさ」
そうだ。新しい現実と向き合いたくない以外に、僕にはティロー・ナトリを幻覚にしたくない理由がもう一つあった。僕は長谷川という人物のことを誰よりもよく知っているんだ。
先輩のことを知っている。ティロー・ナトリの『なつかしさ』がそこにあることを知っている。僕の学生時代の思い出がそこに含まれていることを知っている。
ティロー・ナトリの存在を否定するためだけに、僕の思い出まで壊したくはない。
自分自身の思い出を忘れないために、このふざけた名前の人物の周りで起こった出来事の一つだって僕は否定したりしない。
「いや? まあ、でも、探偵役を演じることはできず彼自身が道化であることを望もうとも。
本当に真実を暴かなければならないときがあれば彼は向き合うよ。
相手を傷つけるとわかっていても、なんであっても、暴いた真実を語ることだけがその場におけるただ一つの正解だという場面でならば、彼は絶対に間違わない。
なんだい? そうだな。
万が一にでもそういう場面があるのならば、ね。高橋は逃げずに真実を語るだろうさ。
つまり、高橋という人間の探偵としての機能は停止してしまっているけれど、それでも本当に必要な場面でならば彼は誰かのために真実を語る。必要なら、正解なら、自分が傷つく道を選んでまでもそれを語ることを完遂する。高橋はそういう人間だよ」
話すことにすっかり夢中になっているのか、ティロー・ナトリが手に持っている煙草の火はすっかり消えてしまっている。
「高橋に関して私が話すことが出来るのなんて、せいぜいそんなところだ。
満足かい? もっと簡単に真実を語らせる方法……か」
ティロー・ナトリは呟くようにそう言って、半分以上残る紙巻煙草の先端を揉み、シガーケースの中へと戻すと、自分は思案しているのだと周りに見せつけるようわざとらしく腕を組んだ。
「さあ、私にはわかりようがないな。そんなものは場面や内容によって違うだろうし、私に高橋の考えが読めるわけもない。ただ……高橋が真実を語るのなんて、そう珍しいことではないよ。毎年八月になれば一度は語る。夏に近所で催される盆踊り大会のように、誰に乞われているわけでもないのに毎年、律儀に、彼は自分の店の中で真実を語って聞かせる。
その話を聞きたいのかい? そうかそうか。
いいさ。まだ汽車が来るまでは時間もあることだし、君が望むのならば聞かせよう。
ちなみに料金は先払いになるが、何か……なるほど、悪くない」
そう言ってティロー・ナトリは手を伸し指先で宙をつまむと、マジシャンが何もない空間から物を取り出すパフォーマンスをしたかのように、それまでどこにもなかったはずの細く巻かれた葉巻煙草が彼の指の間に挟まれた。
「高橋はその件に関して語ることこそ自分の役目だと信じている節があってね。
『罪滅ぼしだ』と、いつだったか彼はそんな風に言っていたな、それが自分への慰めでしかないのだと気が付かないふりをして、毎年飽きもせずたった一つの真実を語る。
でも、まあ真実を語りはするが、結局は同じことなんだ。自分自身のことに関して、その一点において高橋はいつも間違える」。
・2
八月の深夜の静岡市内。高橋は自身の定めた閉店時間よりも少しだけ早く閉めた酒場の中で一人、読書に耽っている。
手にしている文庫本の表紙にカバーはついておらず。むき出しになった台紙もところどころすり切れていて印刷されていたはずのタイトルの文字を確認することは出来ない。近くで見たとしても、薄い赤色の台紙にめくれて見える白が斑点状に混ざっているのが見て取れるだけで傍から見ただけでは何の本を読んでいるのかわからない。
『彼が読んでいるのはJ・Dサリンジャー著ナイン・ストーリーズという短編集のバナナフィッシュにうってつけの日。物語はもう終盤で物語の中ではシーモア・グラスという言葉遊びのような名前をした男が、偶然エレベーターに乗り合わせた女性に難癖をつけている』。
灯りを絞った店内を薄暗い橙の電灯だけが照らすのをだけを頼りに、ページをめくって、文字を追っていく。大学四年生の春に初めて読んでからというもの、高橋は数えきれないほど何度もその本を読んだ。
だが、好きなのか? と問われれば彼は途端に言葉に詰まってしまうだろう。
何度も読んではいるものの高橋は好きか嫌いかでその物語を判断したことがない。初めてその本を開いたのは大学の先輩が彼にあてて書いた文章の中でその物語について触れていたことがきっかけなのだが、そのきっかけが絡んでくるせいで、物語の内容そのものに対する評価を正しく下すことが出来なくなってしまう『やがて物語は結末を迎える。ホテルの自室へと戻ったシーモアは、自分自身へと銃口を向け、引き金を引くんだ』読み進めた文章の果てで一人の男の人生がいやにあっさりと幕を閉じる。何度読んだところでこの結末は変わらないな、と高橋はそう思った。当たり前のことだ。
だが、高橋は『結末が変わっているのではないか?』と本を開くたびにそんな期待をしてしまう『いいじゃないかそれくらい。その方が面白いじゃないか。変わってくれればいいのに。頼むよ』と、居もしない誰かに祈ってしまう。
『たった一編の小説の結末が変わったところで、自分自身の容姿がましになったり、隠れた才能が開花したり、大金持ちになれるわけでもないのだがね。もし、そんな風に人生を変えるきっかけが望むくらいなら宝くじでも買った方が遥かに現実的だというのに』それでも高橋は他の何を望むこともなく、小説の結末が変わることだけを待ち望んでいる。
「これさえ違う結末だったなら」
それを期待してしまうのは、高橋の知り合いにいるティロー・ナトリというふざけた名前の人物のせいだ。彼の側では度々説明のつかないことが起こる。だからこそ、それくらいの事はいとも簡単に起こりえるのだと錯覚をしてしまう。もし原作者が生きていたとしても絶対にそんなことをしないとわかっていたとしても、高橋は期待をしてしまう。
『ティロー・ナトリが何者なのか? さあね。私にはわからないな』。
ただ。彼は高橋にとって複雑怪奇で支離滅裂な奇妙奇天烈の摩訶不思議そのものだ。
だからこそ、もしかしたら彼の傍にいればいつかはこの小説が書き換わって……書き換わった暁にはその結末と同じように、自分自身についてまわる過去も変わってくれるのではないか? と、高橋は本を開くたびそんな淡い期待をしてしまう。本来は考えなくてよいことに脳細胞をせっせと働かせる『そして、毎回、結末が変わっていないことだけを確認して、本を閉じるんだよ』。
変わってくれたなら「そしたら、少なくとも僕は救われるのに」もし、この話の結末がもし違うものだったのなら、自分の現在地も今とはがっていたのだろうか? と、そんなタラレバを、よせばよいのに高橋は考える。
ひとしきり考えてから、ちらりと腕時計に目をやると時刻は真夜中の十二時半をまわっていた。手にしている文庫本をそっと閉じ、カウンターの上へと置き入口の扉へと目をやった。そろそろだろうか? と、高橋が思うのとほぼ同時に店の扉が開く。扉はドアベルを揺らすこともなく、静かに開いて、その向こうから一人の客が入ってくる。
クルーカットに整えられた明るめの茶髪。背は高くはない、本人曰く173センチだったか。瞳が大きく眉は整えられていて細い、一目見て快活という印象を受ける、二十代前半の男性。彼が長谷川だ。学生時代に高橋が所属していたサークルの先輩。
「いらっしゃい、先輩。相変わらず元気そうですね」
その姿を見ると同時にそう声をかける。
「よう、高橋。そりゃ変わらねえさ一月会わない程度じゃ大きくは変われん」長谷川、先輩はそう言ってカカカと笑い「今日はナトリさんいないのか?」そう尋ねた。
「また、旅に出るらしいですよ」
「また? 死体探しの?」
「それはもう終わったみたいですね、今回は巡礼の旅だとか」
「ふーん。飽きたのかな? 死体探し。それで巡礼か。相変わらず言うことが難解だな」
誰もいないカウンターの中を一瞥して、先輩は顔をしかめる。
「いつも通り酒は好きに飲んでいいと言われていますが、先輩、何か飲みます?」
店はとっくに彼の物になっているというのに、高橋は嘘をつく。
「そうだなティロー・ナトリでも貰おうかな」
長谷川がそう答えると高橋は知っていた。営業時間中にカクテルは作りおいていた。
立ち上がって、私服姿のままカウンターの内側へと入ると、足もとにあるハーブやカットレモンを入れている小さな冷蔵庫の中から蛍光イエローの液体が注がれたカクテルグラスを取り出す。音もたてず先輩の前へナプキンとともにそれを置き、彼がどうするのかを見守った。
「ここ最近忙しかったからな、久しぶりの酒だ」
先輩はそう言いながらグラスを持ち上げ、何の迷いもなくティロー・ナトリを煽った。
「独特な味だよな、相変わらず。うまいのかまずいのかわからない」。
高橋は何も言わず、先輩の姿をカウンターの内側から眺めていた。
「何だよ? 見られていると飲みづらいのだけど」
その怪しく光る液体を当たり前のように口にし、それでもなおその場に居座り続ける彼の事を不思議に思いながら「いえ、たいしたことではありませんよ。口では文句の様な事を言うくせに美味しそうに飲むなとそう思っただけです」頭の中では『目の前にいる彼は一体どういう存在なのだろう』と、そればかりを考えながら、表面を取り繕うと同時に自分でも不自然とわかるぎこちない笑顔を先輩へと向ける。
「なんだよ? 気持ち悪いな……」そんな高橋を先輩は気味悪がり「うまそうに飲み食いするってのさ、前にも高橋にそれ言われたけど、なんでかショックだったんだよな、なんだか俺の舌がバカみたいじゃないか? って思ってさ、俺は意外とグルメだからな?」
「知っていますよ。馬鹿にしているわけじゃなくて褒めているんですよ。わかりやすく反応してくれるものだから先輩相手だとなんでも作り甲斐があるって意味ですよ」。
『長々と話してもきっと意味なんてないんだろう。今更、先輩と本筋以外の言葉を交わすことに意味なんてないんだ。懐かしくなるだけ、むなしくなるだけ、ならさっさと始めてしまおう』と、高橋は腹をくくった。
「ときに、先輩は僕らがはじめてこの店に来た時のことを覚えていますか?」
「初めて来たときのこと? これを探していたときだろ? 俺が三年、お前が二年生の春の出来事だ」
先輩は目の前に置かれた蛍光色のカクテルを指し示しながらそう言った。
「そうですそうです」
「それがどうした?」
「それに関しての話を先輩としたのですが……まあ、何でしょう、ただ話すだけというのも芸がないので、ちょっとしたゲームをしませんか?」
キレがない。歯切れが悪い。まあ、気持ちを察せば仕方ないことだ。高橋はなるべくなら本当のことを語りたくないんだ。それでも語らなくてはならなくて、語らなくてはならないのに、正面からは向き合いたくなくて、ゲームなどと意味の分からないことを言って斜に構えようとする。
『くだらない』と私は思ってしまうがね。
でも、高橋は逃げたりしない。
そこまでするのならばひと思いに背中をみせて逃げた方が楽だろうに。
向き合うべきものが違うのだと、なぜかそこには気が付かない。
「唐突だな、いいぞ、どんなゲームだ?」
『思い出話をするだけだ』と『不都合があるわけではない。不利益を被るわけでもない。何も問題はない』と、高橋は自分に言い聞かせる。だが『本当にそうか?』と尋ねる誰かが彼には必要だったのだろう。
高橋は再びカウンターを出て、先輩の隣へとも戻る。
「間違い探しのようなものです。
僕はこれから先輩の知っている話と少しだけ違う思い出話をします。先輩とこの酒場に来た時の、カクテル探しの話ではあるのですが、僕がする話は先輩の知る現実と少しだけ細部が違うはずなんです。それには理由があります。先輩はなぜそれが違っているのかそこが違っているのか、何が起きたのかを、なぜ僕がその話をしているのか話を基に推察してみてください。
何か一つ間違いを見つけるたび、僕に一つ質問をしてもかまいません。それがヒントになります。間違いを探して、質問重ねてそれをヒントになぜこの話が先輩の知っているものと変わってしまっているのか、それを考えてください。なぜ僕がこの話を始めようと思ったのか、その理由となった事件が何なのか、先輩がこの話を終える前に先輩なりの正解を導いてみてください。間違いの中から真実を探す。そういう簡単な推理ゲームです」。
『なんとも心躍らない提案だな』と私は思う。 時間をつぶすのならばもっとましなゲームがいくつもある。どころか、小学生が授業の合間にする手遊びですらそんな意味の分からないゲームよりましに思える。こんなゲーム、私なら乗ったりしないだろう。
「なんか妙なゲームだな。そんな提案をわざわざするってことは何か、俺がそうする意味があるんだろ? それに、考えるのも正解を探すのも俺の領分ではない気がするが、面白そうだな、やろう」長谷川という男は高橋へ全幅の信頼をよせていた。彼は高橋のそんな提案になんの疑問も持たずに応じる。
『君が真実を探す意味はどこにもない』私はそのことを知っている。それなのに「いいぞ。いくらでも付き合ってやるよ」と、長谷川は高橋に何か考えがあるのだと疑いもしない。
「お願いします。思い出話をわざわざ持ち出すことになってしまった僕の周りで起きた出来事をできることなら先輩自身に見つけて欲しいんです」
高橋は語り始める。たったの一言で済むことなのに、彼に必要な助走、最初のハードルにたどり着くまでの四十五メートルと共に。
『でも、コメディっていうのは得てしてそういうものかもしれないな。登場人物の望んだ通りにならず彼らが真剣に苦悩するからこそ、観客は面白いと思うのかもしれない』いいや、そうだな、ただ私が毎年繰り返されるこの行為に飽きているだけなのかもな。
「おう、早く始めようぜ」
回りくどいことをして高橋は自分自身を傷つける。自分を守ろうとして、傷つける。世話はないさ。彼はいつだって自分を欺こうとする。欺いて、間違いを犯す。
『その姿を見て愉快だなんてできることなら私は言いたくないんだよ』。
それでも、他に自身を守るすべを知らないのだから、仕方のないことでもあるさ。
「では、始めましょうか」
そう言って高橋は一拍置く。それは何のための『間』なのか。
深呼吸をするためなのか、心の準備でもしていたのか、自分の中にある記憶を呼び起こそうとしたのか、どこから話始めるかを迷ったのか。
「回答は最後にまとめてお願いしますね。では始めましょう……始まりは、サークルの活動も終わりに近づきそろそろ帰ろうかという時に先輩の言った一言でした……」
腰かけた席の姿勢を正したその正面、カウンターに置かれた文庫本の表紙を一度だけなでてから、高橋は昔話を始める。最後にある彼が語らなくてはならない真実を目指して。
・3
茜色に染まっていた空は徐々に夜の闇に侵食されていって、先ほどまでの五月晴れのポカポカとした陽気は夕暮れと共にどこかへ行ってしまったようだ。開けっ放しの窓から飛び込んでくる太平洋の海風が少し肌寒い。
「高橋、お前ティロー・ナトリは知っているよな?」
大学敷地内の一番奥にあるサークル棟。その一階、角部屋。多目的教室の一つで行われていたサークル活動もいよいよ終わろうかという頃、先輩がそんなことを訊ねてくる。建物を取り囲む学生達もいつの間にか消え失せ、そのせいだろか、先輩の放った声が耳の奥で響くみたいにいやに大きく聞こえた。突然聞こえたその声ではっと我に返ったような気がして思わず辺りを認識する。気が付けば教室の中にいるのは僕と先輩の二人だけだった。教室の中を見渡しながら『いつの間に皆は帰ったんだ?』『それより、僕は今までどこで何をしていたんだっけ?』と、おかしな疑問が頭の中に浮かんだ。
「知っていますよ、カクテルの名前でしょう?」
表面では冷静を装いつつ先輩の質問に答えたけれど、頭の中は混乱していて。
『疲れているのだろうか。と、そればかり思っていました』。
ただ、大学の授業に出席をして、予定通りにサークル活動をしただけ、そのはずなのに長い距離を車で移動するような旅行をして、家に帰ってきた時に『やっと帰ってこられた』と、一息をついたその瞬間のような疲労感が僕の体を支配していた。
「そうだな、カクテルの名前だ」
「そうですよ。あれ? 違いましたっけ?」
『僕は何をしていたんだっけ?』と手元に目を落として『そうだ、もそろそろ帰ろうと、帰り支度を始めたところだ、ジャグリングの道具を一つずつ磨いて鞄の中へしまっている最中だった』と、作業の途中で投げ出されたままの卓上を見て自分が何をしていたかを思い出した違和感『僕が終わるのを待っていた先輩が暇つぶしに雑談を始めたんだ』と、デビルスティック、シガーボックス、クラブ、目の前に置かれたそれを順に一つずつ磨いているのだがどうも何かがおかしい。
「いや、俺もそうだと思っているんだけれどな……面白いことにな、高橋。誰も知らないんだよ。ティロー・ナトリなんてものは誰も知らないんだ」
「誰も知らないとは? 僕も先輩も知っているではないですか」
「いや正確にはある一部分の人間だけが知っていて、それ以外の人間は誰も知らないんだ」
先輩には僕が覚えているような違和感はかけらもないようで楽しそうに話を続けていた。
「ある一部の人間?」
「この大学の人間だけがその名前を知っているんだよ。高橋。ティロー・ナトリと聞いて何の逡巡もなくカクテルの名前だと答えるのはこの大学の人間だけだ」
既視感。
「なるほど」
「ティロー・ナトリ。名前だけ知っているのに一度も飲んだことがないからさ、飲んでみたくなって、先週末、静岡駅の周りで探してみることにした。実際に探しに行ってきた。繁華街の中で目についた居酒屋やバーに入っては、そのカクテルについて聞いて回った。だがな、全く見つからないんだよ。誰も知りやしない。
これくらいなら、普通に考えてもおかしなことじゃないぞ? カクテルリストに登録されているカクテルの数なんて毎年増え続けているはずだし、酒場で働いていたとして、全てを知っているわけがない。ましてや特定の店のオリジナルカクテルなんてそれこそ星の数ほどある。普段目にしないような種類のカクテルなら把握していなくたってそれは普通のことだ。だがな、俺ら、三保大の学生からしたら、とても奇妙なことだ、高橋。
ここの学内、俺の個人的に聞いて回った範囲において、このカクテルの認知度は、ほぼ百パーセントだった」。
確かに、僕もいつ知ったのかはわからないのにその名前を知っている。
「尋ねた誰もが名前を知っている。カシスオレンジとかスクリュードライバーとか、コンビニで缶チューハイの横で販売されていたところで何も疑問を抱かないレベルで学内の誰もが一般の常識だと思い込んでいる。
それなのに、学外、俺は廻った全ての店の中で『何を言っているのかわからない』って奇異の目を向けられた『聞いたこともない。偏った知識をどこかで得て好事家を気取る面倒な若者が来た』ってそんな顔をされた。
そりゃあ、さ、海外ではわりとメジャーなカクテルも日本ではあまり名を聞かないなんてこともあるぞ? 例として正しいかはわからないがブラッディ―・シーザーとかな。だが、そういった物なら置いている店が多くないってことくらいわかる。それに、名前を出したところで返ってくる反応が自分の予想と大きく違うなんてこともないだろ?
そういったカクテルなら珍しいものだってこっちもわかって確認するんだ。メニューを見て、店員に聞いて『まあ、なかったとしても仕方がないな』くらいのことしか思わないだろうよ。
だが、ティロー・ナトリとなると話は変わる。
この大学の人間にしているカクテルの名前を尋ねたのなら必ず名前が挙がるような代物なだぜ? こんな片田舎の大学生なんてそもそもカクテルの名前なんてろくに知りやしないせいぜい知っていて3つか4つか、その中に確実にティロー・ナトリという名前が入るんだ。
それが、この大学の関係者というコミュニティを外れた瞬間にそれは存在しない物になってしまう。おかしいだろう?」
僕は磨き上げたハンドスティックを鞄の上に置き、先輩の方へ向き直る。
「この大学の学生しか知らないってことは、この辺りの店のオリジナルカクテルとかでは?」
学校の近くの店の物ならばおかしくはないだろう。と、先輩にそう聞き返すも。
先輩の話それ自体よりも気になるのは『以前にもこの話をしたな』と、僕が感じていること。
「いや、そういうこともあるかもしれないと、俺も思っていた。だがお前はその酒を出す店に行ったことがあるか?」
「行った店のメニューなんてすべて覚えているわけではありませんが、確かに先輩が言うように名前は知っているはずなのになんでか一度も飲んだことはありませんね」
「先月の船舶実習の時。同期に聞いて回ってみたんだ。暇すぎてさ、他の学科のやつとか普段話さないやつに、そういうやつのところに近づいて『ティロー・ナトリを知ってるか? どこで飲めるかを知っているか?』って。そしたらみんな俺やお前と同じように『名前は知っている。知ってはいるが、飲んだことはない。飲める場所も知れない』とそう答えやがるんだ。
いや、もちろん個人によって細部は違うけれど、話を聞いたほぼ全員がそういった意味の回答をした『知らない』という人間も少しはいたが、本当に少しだ実習の欠席者のほうがまだ多かった。
だがな、高橋『知っている。飲んだことがある』って言った奴が誰もいないんだ。嘘とか見栄で飲んだって言いだす奴が一人くらいはいたっていいだろ。なのに、そういうやつすらいない」
何かが違う。既視感はあるが、頭の中に浮かんでくる内容とはどこか違っている。先輩の話を聞きながら、同時にその違和感についても僕は考えていた。先輩と二人、どこか知らない薄暗い飲食店のような場所で僕らは話をしていた。だが、どれだけ思い出そうとも先輩とティロー・ナトリについて話した覚えなどなかった。
ただのデジャヴュだろう。いつか見た夢の中に先輩が出てきたそれが引っかかっているだけだ。気にする必要はないだろう。と、僕はその違和感についてそれ以上は気にしないことにした。
「確かにそれだけの人間が知っているのに誰も飲んだことがないとはおかしいですね。学生のほとんどが利用するここらの食堂や定食屋で販売されているのなら、昼しか開いてない海岸沿いの食堂なら、そこになぜかおいてあるカクテルなら善良な学生が飲んでない上に一定数の学生が知っているっていうところまではあり得る話です。ですが」
「学内のほとんどの人間が知っているっていうのはな、食堂も学食も使わない奴らだっているし」
「それに先輩のような学生が飲んでいないっていう事の説明にはなりません」
「そうだよな。なにか妙だよな」
「他は、部活動内か何か閉ざされた場所で代々密かに受け継がれていてそれが何かの事件がきっかけで広まっているという可能性もありますが、どちらにせよ。飲んだことがある人間がいないのに大多数の人間が知っている理由に説明がつきませんね。知っていたとしてそこに所属している人間と、その周辺程度でしょう。
そもそも……。僕らは何故そのカクテルの名前を知ったのでしょうか? 言われて思い返してはいるのですが、思い当たる節がありません。以前から知っているはずなのに、今、初めてティロー・ナトリなんてものについて誰かと話している気がします」
ティロー・ナトリはカクテルだ。
だが、それ以外に何かあっただろうか?
いや、カクテルだ。それを僕は大学に来てから知った。
「そうだろ? どこかで飲んだ連中が口裏を合わせているのか何なのか知らないけど、俺は同じ学年の顔を合わせたことのある奴にはほとんど質問をしているんだ。同じ学年どころか暇つぶしの一つとして、大学構内で初対面の相手と話す機会を得たらこの質問をするようにしている。だが、具体的な情報ってやつは今のところ何も出てきていない」
いきなり知らない人間からそんな質問を出合い頭でされたら迷惑だな。と、僕は思った「ひょっとして今も、会話がないのに耐えきれなくて他に話すことがないからそんな話を始めたんですか?」顔をしかめながら、先輩にそう尋ねる。
「いや、今回は別だ。お前に聞けば何かわかるかもしないと思って聞いている」
先輩は真剣な顔つきでそんなことを言ってきた。
「僕はそんなに物を知っているわけではありませんよ?」
「物を知っているどうかはそれほど重要じゃない。前への進み方を思いつくかどうかだ」
前への進み方なんてものなら僕よりも先輩のほうが多くを知っているはずだ。
「いや、ずっと暇つぶしで他人に聞いて回るのに進展が全くなくてな、いい加減に飽きてきた。だからなんか高橋に適当な説を考えてもらおうと思った。俺一人じゃどうにもこれ以上の進展は見込めなくてな。とびきり妙な話だろ? これは。
なのに、今更、他の人間に妙だっていう事は出来ないんだよ。学内ではこれは常識で、常識だからこそ複雑なんだ。例えば『火ってなんだろうな?』とか『電気ってなんだ?』とか尋ねたとこで科学的にまともな説明をできる奴なんてのは限られていて、たいていの場合、その素朴な疑問をぶつけてもただ誤魔化されるだけ、俺が冗談を言っていると扱われるだけになってしまっているんだよ。
これはそこまで難しい、専門的な話にはならないはずなのに『ティロー・ナトリというのはどんな飲み物で、どこで飲めるんだ?』って俺が疑問を持ったところで『ティロー・ナトリはありふれた一般的なカクテルの名前で、そこら辺の店でそのカクテルが飲めるに決まっているだろ?』って、皆が口をそろえてそう言うんだ。
これだけおかしいのに誰も疑問を持たねえのが、それが一番おかしいんだよ。どうも納得いかない。
人間、知っているのに飲んだことがないものなら一度くらいは飲んでみたいってのが好奇心だろう? それが飲んでみようと探したって話すら聞かないんだ。いやさ、先駆者がいないからこそ、道は困難で、暇つぶしにもってこいなんだけどな」
いつものように、心底楽しそうに、子供のように不純な物なんて何もない笑顔でそんなことを言うものだから『だから、先輩とそうしてくだらないことを考えるのが僕は嫌いではありませんでした』。
「なにかみんなが探さない理由のようなものがあるのでしょうか、やはりどこでその名前を知ったのかが重要になってくる気がしますね」
「そうだな。この大学内では通説としてまかり通っている。まかり通っていながら、誰も飲んだことがない。それなのに、誰も疑問を持っていない。そこらへんから自分なりに足を使える範囲で調べて遊んでいたんだけどな。手詰まりだ。高橋、これ以上は俺の手に負えなかった。けど、この件に関しても、お前なら俺が納得いく話をしてくれるかもしれない。と、そんな期待があってお前に話してみた」
僕に何か適当な作り話を語ってほしいのだろう、と。先輩が僕に対してその話を始めた意図はそうくみとることが出来た。
「それなら先輩、こういうのはどうですか? 我々はそれを入学時から早い段階で教えられ、それからは無意識に何度も刷り込まれているんです。何か危険なものの名前として……」
先輩の方へ身を乗り出してそう言った頃には、僕はすっかりこの無意味な会話を楽しんでいた。
・4
いつの間にか雪が降り始めていた。僕は何も言わずに空を見上げている。
ススキたちも野兎の群れがそうするように、一様に降ってくる雪と冬の灰色の空を見上げている。背中を押してくれる北風が凪いでしまったせいで、寒さからも降り出した雪からも逃げることを諦めたようだ。揺れもせず、ただ駅のホームを静かに囲んでいる。
「高橋はカクテル探しの話を始めた。
始まりは些細な日常の疑問だった。他の人物なら気にも留めなかっただろう日常の疑問。
それを高橋の目の前に持ち出したのはこの長谷川という男だ」
ティロー・ナトリはどこから取り出したのか大きな黒い傘を差していた。僕とティロー・ナトリが二人で入ってもまだ余裕のある黒い大きな傘。
「長谷川がそんなくだらないことに興味をもたなければ、私が彼らに会うこともなかったろうな。彼はそういったことを、誰もが気に留めないような小さなことでも、おかしいことはおかしい。と、自立的にそう思うことが出来る人間だった。
とはいえ、だ。そんな風に彼らの通う海沿いの大学で噂が蔓延しているような事態になっていると、私は知らなかったんだ。何か原因があったとは思えないのだが。誰かが飲んだのか、飲んだ誰かがその大学の学生と親類縁者だったのか、それとも私と関わった死者の知り合いでもいたのか? それは未だに謎だが、ともかく彼らはその噂話から私を見つけ出した」
うっすらと駅のホームにも雪が積もってきた。うっすらと積もった雪は片栗粉のように真っ白だった。
ティロー・ナトリの横、誰もいないはずの場所、誰かの脱いだ靴でもおかれているかのような形に、雪がよける場所があった。
「本来ならたどり着けるはずもなかったんだがね、彼らはいいコンビだった。
ヒントなんて何もない。ただの噂話の中から僅かな残り香でもたどったみたいに、簡単に私の元へとたどりついた。きっと警察犬にだってそんなことはできないだろうし、警察官がいくら知恵を働かせたところで私は見つけられない。その自信はあったのだが、彼らはいとも簡単にそれをやってのけた」
都会では見ることのできない程に真っ白な雪だ。
きっと、なんの不純物も混ざっていないのだろう。
空気の汚れていない高原や山間の森の奥深く、そんな、人のほとんど立ち入らないような場所でだけ見ることのできるような、穢れのない純白の積雪。
「この話でもそれは同じだ。たいしたヒントはなかった。なのに、彼らは私の元にたどり着いた。まあ、これは二度目の出来事だから、一度目よりはいくらか簡単に探しているように見えるかもしれないけれどね。
人間というのは阿保ほど何かを繰り返し、手順を覚え学習する存在だ。一度目のことを忘れていても、無意識にそうしているのかもしれない。一度目の半分くらいの期間で彼らは私のことを見つけだした。
再訪した私の店のドアを開ける彼らの姿を見たとき。私は嬉しくも名残惜しくもあるような、妙な感情を覚えたよ。
もう少し時間をかけてもらいたかったところではあるけれど、そこで手を抜くことを許せなかったのだろうね。
なんだい?
そうだよ。
二度目だよ」。
ティロー・ナトリがそう言うと、雪がよけていた場所から足跡が一つ生まれる。
「高橋がしているのはその二度目の話だ」
『誰かがそこにいるのだろうな』と、僕はすでに納得していて『僕はここに存在しているのだろうか?』とそんなことを考えてみる。気が付いたら知らない場所にいることなど、ティロー・ナトリと関わっていればそう珍しいことでもないが、今回が少しだけ特殊なのは、何度か会話を試みているのにナトリが一向に取り合わないことだ。普段なら避けようとしても勝手に話しかけてくるというのに。
頑なに僕とは話そうとしない。僕がここに来たその瞬間から一人で横にいるだろう誰かと話し続けており、こちらを見ようともしない。
「だが、毎年高橋の目の前に現れる『先輩を名乗る男』は二度目のカクテル探しがあったことなど全く覚えていないんだ。彼は毎年、記憶をなくして高橋の酒場へとやってくる。大学時代と何一つ変わらない見た目でね。それにも理由があるのだがね、それについても八月の高橋が解説してくれるだろう。二度目のカクテル探し、その初日を終えて『先輩を名乗る何か』は、ほどなくしてそこにある違和感に気が付いた」。
ナトリさんが構ってくれないので、僕はススキの上に降る雪を眺めることにした。
一度も生まれ故郷以外に住んだことのない僕の様な静岡県民にとって降雪というのはそれだけで特別な出来事で、見ているだけで心が躍る。小学生の頃なぞは、風花かみぞれが舞おうものなら学校の授業を中断してクラス全員で校庭へと出て遊ばせてもらえた。積もることのないみぞれが降ってくる様子を眺めながら、それが完全に止んでしまうまでの短い間クラスメートとはしゃいで回った。
県内でここまで白い雪を見ようとなると、富士山や赤石山脈の光岳や聖岳といった県北部にある山にでも登らなければ絶対に見ることはできない。退屈しのぎに眺めるにはちょうどいい。
「先にもいったが、私は探し物をしていたのだが、あてもなく探し続けるという行為にある時とうとう限界を迎えてね、藁にも縋る思いで高橋に私の探し物がどこにあるのかを尋ねたことがあった。私が自分自身の死体を探しているという行為にもその理由についても彼は何の理解も示していなかった。改めてその所在を尋ねた私に対してもそれは変わらなかったが『死者の話をそれだけ漁って見つかってないってことは、その死体はゾンビみたいに動き回っているのか巧妙に隠されているかのどちらかでしょうね。それにナトリさんがティロー・ナトリなんてふざけた名前を名乗っているという事は日本のどこかにあるのでしょう……』と彼は自分の考えを私に向けて話した。実際に日本の地方都市で私は自分の死体を見つけた。
そうだな、この話は今回重要でなかったんだ。また脱線してしまったね。
閑話休題。そろそろ話の続きへと戻ろうか?」。
・5
「刷り込まれているか、そうなると、やっぱりどこかで何度も目にしているってことか?」
先輩はそう言って首をひねる。
「そうだと思うのですがね、これだけ身に覚えがないっていうのはおかしいですよね。
サブリミナル広告のように何度も刹那的……いや、1/3000秒を5分ごとに繰り返し眺めているとまでは言いませんが。この大学の人間だけがそれを何かしらの形で何度も目にしているならそれだけで説明が付くはずなんですよ」
「サブリミナル効果ってのは、存在が不確かだって聞いたことあるけれど、同じ広告を何度も見て商品名を覚えるってのはある話だな、続けてくれ」先輩が僕に先を促す。
「例えば美術部が描いた絵画とか、壁に飾られる昔撮られた写真の中だとか、何気なく眺める食堂のメニュー表の端とか、そういったもののどこかに、それこそ背景のように自然に入り込んでいて、それがきっかけで人が覚えているってところまでは当たっていると思います。
それも、フィクションとしてではなく、しっかりとこの世界に存在するカクテルの一種類として覚えるような形で知っているという事になります。
時間を潰している時、目に留まって何気なく読み始める文章の中に……けれど、映画を観に行って、劇中で主人公が好物だと言いながら何度もカレーを食べているのを見てカレーがどうしようもなく食べたくなるみたいに、飲みたくなるでしょう」
「確かに、そうなったら余計に誰も飲んだことがないってのがどうしてもひっかかるよな。そこはどうなんだ?」
「そうですね……売っているとされている場所がすぐに行けるような距離ではないから現実に存在していたとしても簡単に飲めるものではないという共通の認識を得ているか、飲むことで、もしくは飲んでいると他人に知られることで自分にとって大きなマイナスになるものか。
前者ならずっと掲示され続けているどこか遠くの土地のレストランに関する雑誌の切り抜き、後者なら警察による近隣で流通している禁止薬物かそれに準ずるもの、又は全く別の例えば急性アルコール中毒に対する注意喚起のリストに一例として記載されているか、それか新聞記事に出てくる固有名詞を全員が覚えているか。そういったものの掲示の中にティロー・ナトリが存在するのなら、可能性はゼロではないのかもしれません。
ですが、掲示されたものの中でそうだとわかる文言なり画像があったところで、大多数の人間が記憶の中にとどめるほど目にしているなら、先輩が人から話を聞く中で誰か一人くらいは詳細について覚えていてもいいものですがね」
どうも中途半端だと感じた。全員がその名前を記憶しているならば、詳しく内容を知っている人間か簡単にでも詳細を覚えている人間が一人くらいは居てもおかしくないというのに。
「確かにな、でもいい線言ってるんじゃないか? 一蹴するには惜しい話だ。
思い浮かんだのは静岡のご当地キャラクターだ、高橋。富士山に気持ち悪くも人間の手足の生えたあのキャラクター。その名前を俺ら静岡県民だけが認知している。子供の頃から繰り返し社会科見学やイベントのパンフレットで名前を目にしているからだ。県外の人間は誰もあんなモンスターの存在を知らないし、教えたところで興味がないから覚えるわけがないだろ? 県民さえも名前を知っていたところでその詳細については誰も知らないじゃなねえか、あり得ない話じゃない。
冗談でもいいから、暇つぶしに確かめてみようと、そんな風には思える話だ。
だが、高橋。具体的な話ではなくてもいいが、どこでだ? ってもう少し絞ってみてくれないか? 大学構内ってなると確かめる物が多すぎる。俺は暇をつぶしたいけれども、もしこの件に正解があるのならできるだけ早く知りたいんだ。そのバランスは大事だ。
もしそのカクテルにつながる手掛かりがこの大学構内に存在するのならば、お前はどこにあると思うんだ?」
「どこでしょうね、大勢が利用する場所だとは思うのですが、人の往来なんか別段注意してみているわけではありませんし……多目的ホールとか、門の脇、または各研究棟の玄関……生協や学食、全ての学生が利用ってなると正門近くに貼られているとか、トイレの壁とか、無理ですね絞れません、どんな形でそれが存在するのかもわかりません」
「いや十分なヒントだ。高橋、知っているか? この学内に飾られている絵画は全部で7枚しかない」
先輩が突然、自慢気にそんなことを言い出した。
「いえ、知りませんでした。それがなにか?」
「俺は今年で三年生だからそれを知っているんだ。いや、お前の言った場所の全てを確認したところで時間も労力もそこまで消費しないってことだ。ちょうどいい暇つぶしで終われる。今、お前が口にした例の中、普段どこに人が多くいて、どこに掲示物が張られているのかを俺は知っている」
「学年は関係なく、そんなことを知っているのは先輩くらいだと思いますが。先輩の暇つぶしになるならよかったです。でも、暇つぶしといえば、全員が退屈している時に覚えるのかもしれませんね」
「何がだ?」
「初めはそういう状況で覚えるのかもなって。
ほら富士山の、ご当地キャラクタ―の名前を。なぜ僕がそれを知っているかと言えば、何度も見ているからと、それは退屈な場面で他に見る物がない機会が多かったからです」
「なるほど?」先輩はあまりピンと来てはいないようだった。
「覚える必要のないことなんですよ。あんな気味の悪いキャラクターの名前なんて。
それでも覚えているのは、社会科見学とか、市からの説明とか、退屈な行事の最中、それも上手な内職の仕方、さぼり方を知らない小学生の時に見る機会が多かったから、面白くもないのに何度も手元に在るパンフレットを眺めていたから、それで覚えている気がするんです」
「そうか? それはなんだか違う気がするがな、どうやって覚えたのかなんて言われても、もうわからないけれど、大学でそんな風に全員が話を聞く機会なんてあるか?」
「一年生時の入学直後なら学部説明会やコアカリキュラムの説明会があるので何度かに分けて全員が同じ内容の説明を聞くといった機会があります。
その中で、もらったパンフレットなのかプリントなのか、生協の説明なのかはわかりませんが、そういったものの中の目につきやすい場所で何かを見て『ああ、ティロー・ナトリってカクテルがこの世にはあるんだなって』それを何かしらの形で認識して、知らず知らずの間に、そこからさっき言ったような形で毎日のように反芻させられているのかもしれないと思っただけです。過去に一度目にしているから余計に目につきやすくなる」
そこまでを話し終えて独りよがりに満足をした僕は、また荷物をまとめ始めた。
「なるほど、この話をして、そんな風に考えるやつはいなかったよ。高橋。俺は満足だ」
「いえ、何の証拠もないので、ただの推論、詭弁、仮説ですよ?」
「それでいいんだ。少なくともこれで明日、俺は暇をつぶせる。何も特別なことなんて起きない大学生活の中、押し寄せる退屈で死なずに済む。本当に誰かの目につく場所にそんな情報があるのか気にしながら生きられる」
「大袈裟ですね」
『退屈で死なずにすむ』先輩はよくそんなことを言っていた。
その言葉について考えだしたところで『そういえば、この人も今年で三年生のはずだが、こんなことに時間を費やしていて就活や学業なぞは問題ないのだろうか?』という別の疑問が頭の中に浮かんだ。
「高橋、明日は……授業が終わった後は暇か?」
昔のことを思い出しながら宙を見つめる僕に、先輩は翌日の午後の予定を訪ねてくる。
「サークルもバイトも期限が迫った課題もないので何の予定もありませんが」
「明日、今話した内容について詳しく探ってみるから、経過報告ついでに飲みに行こうぜ。進捗を話してやるよ」
「いいですよ。一緒に探すのは面倒ですが、結果は気になります。実際不思議ですよね、なんだってそんなカクテルの名前を自分が知ったのか」
話を聞くために飲みに行くだけならば、それこそ体のいい暇つぶしだ。と、一度はそう思ったのだが言ったすぐ後で『明日になったら、先輩は一日だけ姿をくらませるのだから、きっと飲みに行くことはできないのだろうな』と、なぜかそんな予感がした。
僕が鞄のジッパーを閉じると同時に先輩は立ち上がり。僕らは使っていた教室に鍵をかけ、二人並んで帰路についた。
・6
「ちょっと待て、高橋」
初日の話を終え。一息つくこともせず話しを続けようとする高橋を先輩がここで止める。
「何がおかしいのかと話を聞きながら俺なりに考えていたんだがな。これは、細部が違うとかじゃない。人間の記憶なんて物がいい加減なものなんてことはわかっていることだし、どこがどう違うのか、具体的に説明できるわけじゃないが。違和感がずっとまとわりついて消えていかない。
何故だろうな? 初めのイントロだけを聞いて『自分の知っている曲だな』と。聞き始めたはずなのにイントロ以降、律動だけが同じで、ずっと半音ずれている感じがするんだ。全くの別物だ」
今年の長谷川は違和感を覚えていたようだ。顔をしかめながら表情で「何だこの話は?」と訴えかける。
「全くの別物だというのは正解です先輩。これは僕が二年生、先輩が三年生時の出来事ではありません。二度目のカクテル探しの話です」
高橋はさも当然のことであると毅然と言い放つが、先輩は高橋が何を言っているのかまるでわかっておらず「二度目?」とそれだけを繰り返し首をかしげる
「ええ、僕と先輩が二人とも四年生の年、その五月のことですね」
『もし、目の前にいる先輩がそのことを思い出してくれるのならば、小説の最後が書き換わるみたいに自分の過去が、全て変わるのではなないか?』とそんな期待が高橋の中で芽生えそうになるが、高橋はすぐに首を横に振った。
そんなことがあるはずがないのだと頭の中に浮かんだ馬鹿な考えを振り払った。
「四年生? 去年の? いや二人ともってことは今年の出来事か……五月? 高橋、今は一体何月なんだ? 今は四月じゃないのか?」
その答え一つで、やはり先輩は、高橋が大学を卒業したあの年の五月に到達していないのだと高橋は悟ることができた。
毎年同じやり取りを繰り替えしている高橋にとって、今更そんなことはわかり切っていた。
そんなことで感情に抑揚が生まれることはない。
「今は四月ではありませんよ。そもそも今が何月かはこの話の答えとは関係ありませんね」
「俺の認識とは違うってのはいいヒントだと思うがな。色々とおかしいのはわかるんだ。
俺とお前の話がどうにもかみ合っていない。お前がしている話どうこうじゃなくて、俺の認識している全てがどうもお前と大きくずれているような」
「それも、答えを知ればなぜかわかりますよ。さて、先へと進みましょうか?」
「いや、もうちょっと待ってくれ、もう一つ聞いてもいいか?」
「ええ、何なりと」
この時点で初めに言っていた『一つ間違いを見つけたら一つ質問をできる』というゲームのルールなんて破綻していたが、そんなものはただの方便だ。問題はない。この話を最後までする以外の目的なんて高橋には存在しない。
「これは現実にあった話なのか?」
「いいえ、これは夢のなかで起こった出来事です」この年の高橋は嘘をつかなかった。
高橋がそういうのを聞いて、先輩は何かを考えこむように動きをとめた。
その先輩の姿を見て、高橋はカクテル探しの話を再開した。
・7
先輩とティロー・ナトリというカクテルについて話をした翌日の朝、一限目の始まる前、僕は予定を確認するため先輩に短いメッセ―ジを送った「何時頃から飲みに行きます?」という短い確認のためのメッセージ。講義を受けている間に返信が来るだろうとただ送りっぱなしにしていたが、その日のカリキュラムが全て終わっても先輩から返信はなかった。
その時点で何かがおかしいという事は感じてはいた。
それは、何と言おうか、先輩らしくなかった。
群れの仲間が崖で立ちすくんでいようとその中をかき分けなんの逡巡もせず自ら進んで海に飛び込むペンギンのような人だが、礼儀はわきまえている。何かに向けて突き進んでいる場合を除けば周りに気配りのできる人間だ、何の連絡もなしに予定をすっぽかすほど付き合いづらい相手ではない。
その先輩から連絡が帰ってこないという事は何かが起きたのだろうとそんなことを思った。僕は先輩が連絡をできなくなっているいくつかの可能性について考えた。だが、そのどれもがしっくりこない。
先輩は暇人だ、自ら暇人を名乗る程には。暇人である先輩は、結局のところ大学が最も暇をつぶせる場所だといつも言っていた。おそらく、先輩は何か用事がない限り大学を休まない。ティロー・ナトリを探すのが目的なら確実に大学には来たはずだ。
体調不良や何かのアクシデントで大学に来ることができなかった。それに伴って連絡をすることができなかったというのとはどうも違う気がした。
だが、大学に来たとしてその後連絡をできなくなったというのはどういう状況だろう『一日中、ティロー・ナトリを探していて、その結果が出てから連絡をしようとしている間に、連絡が取れない状況に追い込まれた?』ただ構内の掲示物を確認するだけでそんなことになるだろうか? 用事を済ませるために生協や学生支援化を回り、いくつかの事務処理的な用事を済ませながら、そんな考えを巡らせる。
用事をすべて済ませ、生協のある場所から正門を目指しているとじサークルに所属する上級生と会った。軽く挨拶を交わし「今日、長谷川先輩をどこかでみましたか?」と何気なく尋ねてみた「さあ? 授業は午後の二つが被っていたはずだけれど出席していなかったな。教室全体を見渡したわけではないけど、休憩時間もいやに静かだったし、顔を見れば挨拶くらいするはずなのにそれもなかったから、欠席していたと思う」と彼は答えた。
いくつかの短い話をして、上級生と別れた。
先輩が単位を落としたという話は聞いたことがないし、僕よりもよほど熱心に授業やサークル活動に励んでいる。もし大学に来ていたとして、何事もなければ講義には出席しただろう。ならば午前の間に何かがあって僕に連絡が取れなくなり、講義も欠席した?
「先輩のアパートを訪ねてみるか」それで何も見つからなければおとなしく家に帰ろうとまた歩き出した。
正門の横にあるバイク置場からドラッグスター400を引っ張ってくる。押しながら門をくぐり、敷地外へと出てからのんびりまたがり、エンジンをかけ、そのまま先輩のアパートへと向かった。大学の前に伸びる道から交わった県道を右へ曲がり、バイクで3分もかからないところに先輩のアパートがある。
先輩の部屋の窓を建物の正面から見てみるが、窓自それ自体もカーテンも閉まっていて中の様子はわからない。玄関扉の前へと行き、呼び鈴を何度かならし、しばらく待ってみるものの扉が開くことはなく、中で人が動いている気配すら感じられなかった。
先輩がそこにいないという事を確認した後で、再度メッセージを送る。
それでその日自分にできることはすべてやり切ったという気になった。
「明日になれば会えるだろう」
そんな気がした。今更捜したところでどうにもならない、彼が何かに巻き込まれていたとして、今更自分にできることなどないという気がした。先輩のアパートをあとにした僕はそれ以上何をすることもなくただ家路へとついた。
・8
「ここは俺の記憶とも矛盾しないな、お前が何を考えていたのかまでは知らないけれど、この日ティロー・ナトリを飲んだ俺が次に大学に帰ってくるまで4日かかる。しかし適当だな高橋、もっと心配してくれてもよかったろ?」
「先輩なら何かに巻き込まれていたとしても一人で無事に帰ってくるだろうと思ったので、そこまで心配しなくてもいいかと」
「だが、高橋、これは夢の中の話だと言ってたよな、それに俺とお前が四年生の出来事だと、この件にナトリさんはかかわっているのか?」
もちろん私は大いにかかわっている。
「それは当たり前じゃないですか、夢の中の話なんて言葉が出た時点で、あの怪人が大いに関わっているに決まっているじゃありませんか?」
「それはそうだな。ちなみにお前が俺の立場だったなら、もう答えは出せるか?」
「そうですね、答えを知らなかったとしても、一応の話の組み立てはできると思います。ただ、この話の中の僕はその答えを出すことができませんでした。今の僕や先輩とは違い、この話の中の僕はティロー・ナトリという人物のことを忘れていました」
「忘れていたか、知らなかったじゃなくて」そう言って先輩はしばらく黙って考えこむ「駄目だな。これはお前の夢の中でだけ起きた出来事で、今もまだお前はその夢の中にいるという事はないか?」
「あり得ませんね、これは現実とは少し違う場所で二人して経験をした出来事です。それを仕組んだのがティロー・ナトリだった」
「佐伯の時みたいに?」
「ええ佐伯奈乃香の時みたいに」
実際に二人して他人の夢の中で大立ち回りを演じた経験があったので、高橋はその例を出した。
「なぜ俺は覚えていないのだろう?」
「それは僕にもよくわかりません、先輩がなぜここを訪れるのか、なぜ僕は先輩に繰り返しこの話をするのか、なぜ先輩はいつもこの時のことを忘れてしまうのか」
いい感じだ。これは私の愛していたコメディドラマ、そのプロットに近い。
「俺がこの件に関する記憶を持たないのとお前がこの話をしていることの原因は同じか?」
「いえ、それは、近いような気もしますが別問題ですね。この時は4日間先輩がどこかを旅してくるという事はありませんでした。先輩は消えた翌日に大学に現れて、その夜に僕らはこの酒場にたどり着いてティロー・ナトリと再会をしました。そこで彼に種明かしをされて、すべてを思い出しました」そうして高橋は話を再開した。
・9
翌日、二時限目を終えた僕がサークル棟へ行くと、何事もなかったかのように先輩はそこにいた。サークル活動のために予約した教室でそれぞれの演目を練習する大道芸サークルのメンバ―を横目に僕は先輩へ近づいてゆく。
「どうも、昨日はどうしたんですか、全く連絡がつかなかったですけれど?」
「よう、高橋。ちょうど今そのことについて考えてたんだよ。俺には昼過ぎからの記憶がないんだが、その原因になるようなことが思いつかなくてな、わかりやすく体に不調でもあればまだわかりやすいんだが、健康そのものなんだなんの不調も傷の一つもない」
先輩は困惑した表情で話し始めた。
「昼間から深酒でもしていたんですか?」
端に寄せられたテーブルの上に道具の入ったバッグを置く。
「酒じゃなないな。自分の記憶が別のものになっているみたいなんだ」
「どういうことですか?」
「いやな、今日、会うやつ会うやつが『昨日は講義にいなかったけれどどうしたんだ?』と俺に尋ねてくるんだ。俺は当たり前のように『昨日は大学に来ていた。講義も受けた』と答えるのだけど、そいつらは、そんなわけがないと言いやがる。下手な冗談を言うなと俺のことを窘めてくる。それに対して、周りがみんなふざけていて、きっと俺はからかわれているんだと初めはそう思っていたんだけれどどうも違うんだよ。全員が真剣に俺が昨日いなかった理由を聞いている。それがおかしいんだよな。俺は昨日の朝大学に来て、ティロー・ナトリというカクテルについて調べていた。午後には講義に出席をして、アパートに帰って、お前と飲みに行く準備をしていた。そこから先の記憶がなくなっている自覚はあるんだが、どうもそれだけじゃない。そこに至るまでの記憶自体何かが違っているようなんだ」
確かに先輩の話はどこかおかしい。昨日先輩が大学に来ていたという事実は確認できなかった。本人に嘘をついている様子もないのだが、少なくとも午後の授業に彼は出席していなかったはずだ。
それに僕と飲みに行く準備をしていたというが先輩からその件に関する連絡はなかった。
「神隠しにでもあったんじゃないですか?」
「神隠しか、それならパラレルワールドにでも行っていたのかもな、だとしたら、どうも午前中までは正しくこの世界に存在していたようだ。ずれているのは昼過ぎ以降のことだ」
正午から先がずれていると確信できる出来事があるのか、彼はそう言った。
「なにかそうだと思う理由でも?」
「午前中に会ったやつとは話がかみ合うのに、午後から会うやつとはずれているみたいでな、ただカクテルに関する情報を集めて、昼飯を食いに一度学外に出たところまでの記憶は確かみたいだ」
「ティロー・ナトリに関しては結局わからず仕舞いですか?」
「いや、それに関してはいくつかわかった」
そう言うと先輩は横に置いていたプリントの束を僕の前へと差し出した。
右上をホッチキスで止めた冊子のようなものだった。
先輩の手から受け取り、パラパラとめくりながら目を通してみる。
「今年の春、説明会で新一年生に配られたものだ」
内容は大学での過ごし方に関するものだった。大学の説明、設立の理念と成り立ち、学内の地図、卒業までの必要単位について、単位の計算方法、成績によって受講できる授業の量が変わることやカリキュラムの組み方、学年別学科別の必修科目について、生協の活用方法そのあたりまで読んだところで先輩の顔を見る。
「もっと後ろの方だ、ちょっと貸せ」言った先輩が冊子の上の方をつまみページを進めていく「あった、ここだ」
飲酒や新入生歓迎のコンパ、ドラックや詐欺の受け子のアルバイトといった大学生活の中で周りと関わるうえで注意すべき事項がいくつか書かれてるページだった。
よくある注意喚起にすぎないと思いながら、斜めに目を通していくよ、とある文言で目が留まった『ティロー・ナトリというカクテルに気を付けましょう』と、そこにははっきりと昨日先輩と話したカクテルについて書かれていた。
『居酒屋などでティロー・ナトリと書かれたカクテルを見ても決して飲まないようにしましょう。静岡市内だけでも毎年十人ほどの学生がティロー・ナトリによって命を落としています。
たかだか年に十人と思うでしょうか? これは決して少ない数ではありません。
※ティロー・ナトリなどというカクテルはこの世に存在しません、見かけることがあっても、飲んでみようなどと思わないようにしましょう。
・ティロー・ナトリはあなたの時間を奪います。画像1
・ティロー・ナトリはあなたの存在を奪っていきます。画像2
もし上級生や見知らぬ相手からティロー・ナトリというカクテルを勧められることがあったとしても絶対に断るようにしてください。自分の身は自分で守りましょう。
命を大切にしてください。学生支援課より』。
「結果から言えば大学構内にティロー・ナトリに関する記述は全部で48ヵ所あった」
そう言って先輩はスマートフォンの画面上、掲示板に同じ内容のプリントが張り出されている写真を映しだし、手渡してくる。
「生協からの掲示物の文章内に8ヵ所、壁掛けの絵画の中に2か所、その絵画のタイトルとして1か所、各サークルが発行した掲示物の中に4か所、卒業生が海洋研究のフィールドワークをしていることを掲載している雑誌の切り抜きの中に2ヵ所、学食の中に2ヵ所、警察からの掲示物の中に6ヵ所、男子トイレに13ヵ所、女子トイレに8ヵ所、道路脇の看板広告で1か所、塀の落書きに1か所」
先輩は昨日の調査結果を僕に報告してゆく。女子トイレの内部をどうやって調べたのかは気になったが、先輩の様子がおかしいのでそれは聞かないことにした。大方その場にいた知り合いか誰かに頼んだだけだろう。
「高橋。お前の説は当たっていた。なんにせよティロー・ナトリというカクテルがあるという情報はこの大学に通っているならば、全く周りに注意を払わない人間でもない限りは確実に目にする」
写真の中には実に様々な形でティロー・ナトリというカクテルのことが書かれていた。文章の中に埋もれるようにして、注意深く読まなければわからないようなものや、昔の映画看板のようにデザインされた絵の中、ビーチにいる女性が手に持つメニューの中に書かれているもの、古い雑誌の切り抜きの中の広告など様々だ。写真を眺めては指で送る行為を繰り返した。すべて確認したようで画面の中にどこかの湖の風景が映ったところでスマートフォンを先輩へと返す
「それにしては、気が付かないものですね、これだけ目にしているのならもっと記憶に残っていてもよさそうなものですが」初めて先輩にこの話を振られてからというものそこが腑に落ちない。
「そうは言うけどMDMAについて名前と薬物だという事以外に詳しく知っている日本人がどれだけいる」何度も受けたはずの麻薬講習、マリファナなどのそこで教えられた薬物の名前だけは何となく覚えていても効果や副作用まで正確に言えるわけではない。それと一緒か?
「言われたらMDMAが何の略称なのかいまだ知りませんね、何度もみているはずなのに違法薬物ってこと以外何にも知りません。創作の中に名称が出てきてもなんとなくの想像で補うだけで本来の色や形がどうだとかそんなこと考えたこともありませんね」
「だからそんなものだ、なんなら姿かたちがわかるだけご当地キャラクターの方がよく知っている」
「でも、どちらにしろ、この文章とか統一感のない画像だけでは何もわかりませんね、どうやって学生たちがティロー・ナトリという名前をカクテルと認識しているのかはわかりましたが、どんな種類のカクテルでどこに行けば飲めるのか、いくつかの注意書きを見ていると飲まないほうがいいような気がしてきますが
とはいえ、どこでこのカクテルについて知るのかという目的は達成されたわけですが」
「いや、高橋、俺はこのカクテルがどこで飲めるかを探そうと思うんだ」
「それは止めておいた方がいい気がしますが、何か、関わらなくてもいいことに自ら首を突っ込むことのようなことの気がしてきます」
「そうかもな、でも、なぜだろうな、予感のようなものがするんだ」
「予感?」
「このカクテルを飲むことで、これを見つけることで、何かが一歩進むような」先輩はそういって窓の外に広がる寂れた三保の海を見つめた「なんだろうな、変な話なんだよ。願いが叶うっていう期待が現実に起こるかもしれないっていうその時の胸の高鳴りとは違ってひどく落ち着いた気持ちなんだがな、確かな予感なんだ。俺はこのカクテルを探さなくてはならない、これを見つけることでしか俺は前に進むことができないって、なぜだかそんなことを思ってしまうんだ」
・10
「毎年繰り返すのにはわけがあるんだ。いや、たいした理由ではないんだよ。
二人のうち片方が死んでしまっているだけだ。君はどちらだと思う?」
ティロー・ナトリはそう言って、誰もいない空間へと目を向ける。
「そうだね、簡単な話だ。何の面白みもない。
もし、これがただのサイエンスフィクションだったのならば、命を落としているのは高橋の方だったのかもしれない。と、私は時々そんなことを考える。
高橋に何か恨みがあるわけではないよ。でもね。その方がよかったのかもしれないな。と、ふと、そんな風に思う瞬間があるんだ」。
ティロー・ナトリは独り言ちるようにそう言うと、一瞬だけ遠い目をした。
「私はね、どれだけチープでもハッピーエンドが好きなんだよ。
悪役も含めて登場人物の全員が笑って結末を迎えられるような。都合のいいハッピーエンドがね」。
どれほど時間が流れたのだろう? 深々と降り続けた雪は全てをすっぽりと覆ってしまっていた。駅の周り、地面、線路、スキ野原や駅のホームでさえも真っ白な雪の下に埋まっていて、見える範囲に残っているのは、ティロー・ナトリと赤いコーラの看板だけだ。
「……いいや、誰も彼の死体は見つけていないさ。
そうだね、確かに彼が死んでいるかどうか、それを確認した人間はいないが。
それでも、彼は確実にこの世にはいないよ。
証拠なんて何一つない。ただ。私がそれを知っているんだ」。
一面を覆う白銀の雪原が真っ白な太平洋みたいに見えて。
そこに浮かんでいるみたいに、ティロー・ナトリは、雪に埋もれることも、自分自身の色を失うこともなく変わらずそこにあり続けた。
「高橋の話はいともたやすく結末にたどり着くよ。
そもそも、このカクテル探し自体がただの記念パレードみたいなものだからね。
高橋が語る思い出の中。簡単に周囲を一回りしたらそれで終わりだ。
この後、カクテル探しの最中、先輩は唐突に全てを思い出して、どうしてよいのかを悩むんだ」
それでもまだ降り続ける雪の中。ティロー・ナトリは、楽し気に、何を気にするでもなく、くるくると手に持った黒い傘を回しながら話を続けていて。
「悩んでいる間の彼は幸福だったよ。
そこから時間はあったんだ。すべてを高橋に語る時間はあった。
だから『どうしようか?』と長谷川は悩んで、結局、余計なことは何も言わず、自分が後輩に残したもの以上には何も語らず。黙って去る道を彼は選んだ。
長谷川は、なつかしさの一杯に詰まった静岡の街。ただ、何をするでもなく高橋と二人で歩いて……そして、遠くへ旅に出て行ったよ」。
そんな彼の話を聞きながら、僕は、また、先輩とのことを思い出していた。
・10-2
僕はことあるごとに先輩のことを思い出す。
思い出はいつも不意にやってくる。やってきて、一瞬で、僕の視界を、意識を、奪う。
例えば、静かな閉店後の店内で夏の恒例行事とばかりに学生時代の出来事を話す時にも。
遠く幼き日の記憶……ではない。春。学生時代。
僕の意識は一瞬でそこまで飛んで行った。
快晴の午後、春のあたたかな日差し、満開の桜と何に追われるでもない間延びした空気、僕と先輩は大学を抜け出して駿府城跡公園にきていた。
桜が満開だからと、そんな理由で講義をさぼった僕らは『花見だ』と、缶ビール片手におでんを食べていた。
「お前はいつも口で言うだけでそれが真実かどうかを確かめもしない。
いつでも正解を言い当てることができるのに、それを真実に昇華させないんだ。
恐れているようにすらみえる。証拠がないから、詭弁だ、推論だ、と、自身の言った説が事実であるはずがない、と、相手と自分を安心させようとして……」
突然吹いた強風で僕らの見ていた桜並木から一斉に花びらが空へ飛んでいく。
青空の中、それは、ぐるぐると、渦の様な思議な軌跡を描きながら舞い上がって。
不規則に動いては互いに進路をふさぎあい、ひらひらと、子猫の兄弟がじゃれあうみたく、楽しげに、青空の中を泳ぎながら、ゆっくりと降り注いでくる。
突然の春の桜吹雪。ピンク色の嵐にあって、僕の視界の半分はあっという間に桜の花びらで埋めつくされてゆく。
「処世術としては正解なのかもしれない。
でもな、真実を語らなければいけないときは来る。
確かに、相手を傷つけずに済むのならそれは正解なのかもしれない。
多くの場合。真実というのはただ相手を傷つけるだけかもしれない。
だが、それでも、な、お前は真実を語ることで誰にも救えないはずだった人間を、その心を、どうしようもなく救うことができるんだ」
そう言って、先輩がプラスチックの容器についた桜の花びらを指で払う。
昔懐かし駄菓子屋スタイルの串おでん。それをつまみながら、僕にそんな話をしている。
「本当のことを知らずにいるなんて結局、自分自身に嘘をつき続けなきゃいけなくなるだけだ。真実を知って、怒りでも悲しみでもそこに向かい合って得られる感情こそが本物のはずなのに、目を背けたところで、偽りの感情だとか、自分自身のついた都合のいい嘘だとかそんなくだらない物に囚われるだけだ。それじゃ逃げる事すらできない……高橋、誰かのただ一瞬の痛みなんて、受け止め切れない弱さなんて、お前が気にかける必要はないんだ。お前がそれをすることで救われる人間はきっとどこかにいる。もし、お前が誰かに対して真実を語ることが何よりも正しいのだと、そう信じることができたのなら、迷わずにそうしろ。お前はきっと間違えやしないさ」。
嬉しかったのか、悔しかったのか、その時の感情を僕は忘れてしまった。
僕が覚えているのは先輩の言葉だけ。
吹き荒ぶピンク色の花嵐の中、僕は静かに先輩の話を聞いていた。
思い出していたのはその日のこと。
先輩と二人、おでん粉のかかった黒はんぺんの向こう。
降り散る桜花を眺めた春の日のこと。
・11
昨日の出来事を順に追っていこうという話の流れになり、僕らはサークル棟を離れた。大学の敷地の角にある自動販売機で缶コーヒーを買い、それを片手に話をつづけた。
先輩は昨日午前中の出来事を順に語る。彼が大学の中でティロー・ナトリという文字列を探して練り歩いていたこと、構内のいたるところでそれを見つけたこと、連絡を取った新入生から入学説明会の配布物を受け取ってそれを確認したこと。
先輩は話を続ける。11時頃に捜査を切り上げて、午後の授業に出席する前に松原の近くの食堂へ行ったこと、そこで出会った背の高い外国人観光客の男と他愛のない話をしたこと、午後の生物環境統計学の講義の内容。そして酒を飲みに行く約束を果たすために僕に電話を入れ、その折り返しを待っていたこと、なぜかそこから先の記憶が途切れていること「アパートの自室にいたはずの俺は、今朝なぜか安東の実家で目を覚ました」。
大学の敷地の端から見える観光地としても海水浴場としてもなんの魅力もない、忘れ去られて錆びついてしまったかのような太平洋沿いの砂浜を眺めながら、半ばうわの空でその話を聞いていた。
「三保のアパートで床に就いたはずが、葵区にある生家で目を覚ましたと?」
「床に就いたかどうかも定かじゃないんだよな。まるで話のつながりが見えないよな」
「そうですね、意味が分かりません。それはいつ帰ったのかも覚えていないという事ですよね?」
「そうだ、おかしいのはそれだけだと思っていたんだがな。今日大学に来て周りの奴と話してみるとそもそも、昨日の午後の時点で何かがおかしいという事に気が付いた」
「なにか、そうなったことに関して思いつく理由はありませんか? 原因になりそうな出来事に心当たりは」
「欠片も思いつかん。目を覚ました時は、てっきり前の晩にお前と飲みに行ったんだと思ってな。お前と静岡の繁華街に飲みに行って、経験はないがその日は初めて記憶がなくなるほどに酒を飲んでそのせいで記憶がないのだと、長い時間飲んだせいで清水に帰ることのできる時間で無くなってしまったから、俺は歩いて安東の実家に向かったのだと、そんなことを思った。
けれど、それほど酒を飲んだにしては体の調子はどこも悪くないし、酒を飲みに行ってその途中から記憶が飛んでいるとかじゃなく、そもそも帰宅したところから先が思い出せないものだから、ますます意味が分からなくなってな。ベッドを抜け出た俺は、家族に昨晩のことで変わったことはなかったか聞いてみようとしたんだが、母さんと顔を合わせるなり『いつ帰ってきたの?』とか言われたものだから、これは聞いたところでどうにもならんと朝飯だけを食って何も聞かずに出てきた」
「昨日のことで覚えていのるはさっき話した内容で全部ですか?」
「ああ、それ以外には特に何もなかったな」
「先輩今日なんか風邪っぽかったりします? 熱っぽいとか、喉がイガイガするとか、鼻がむずむずするとか、頭が妙にボーッとするとか、風でなくてもどこかがひどく痛むとか」
「いいや別に、体には何の不調もないんだよな、それが逆に不気味だ」
「反対に今まで感じたことのないほどに頭が妙に冴えているとかは?」
「それもないな、好調でも不調でもない」
「覚えている限りでは講義の終わった後にはまっすぐアパートに帰ったと?」
「そのはずだ」
「袖をめくって掌見せてもらってもいいですか?」
「いいぞ」手首から上腕部にかけて特になんの痕跡もない。
「帰ってから何をしていたのかは覚えている範囲での最後の出来事は?」
「なんだろうな……どこで記憶が終わっているのか、終わりが曖昧だが、そうだ、高橋からの電話を待っている間は映画を観ていたんだ」
「なんてタイトルの映画ですか?」
「それは覚えていない」
「内容は?」
「なんだかぼんやりとした映画だったよ。序破急に沿った細かいストーリーのある映画じゃなかったんだ。懐かしさに訴えかけてくるようなシーンがいくつも続いて、それがだんだんと前に進んでいくような青春映画のようなものと言おうか、退屈な映画だったような気もするが、なぜだか面白くもない登場人物たちのやり取りについ顔がほころんじまうそんな映画だった。途中に目が覚めるような、胸躍るような驚きの展開があるわけじゃない。ただダラダラと続く時間の流れの中で二人の若者がすこしずつ変わっていく、その二人が楽しそうに謎を解いていく」
「青春映画ですか」
「そう、緊迫した雰囲気なんか全くない……主題として一つの大きな謎があるというよりか、ただ時間が流れてくヒューマンドラマというか、気楽なものだった。無駄に長い映画だったな」
「本編が三時間とかあるような? そうなると内容次第では絞り込めそうですが」
「三時間、どうだろう? 再生時間なんて気にしてみていたわけじゃないから、実際の長さがどれくらいだったのかはわからないけど、とても長く感じたな、いや、思い返せばあっという間なんだけど、俺は流れる場面の一つ一つに一喜一憂して観てた……ああ、でも最後がな」
「最後?」
「そう、ラストシーンに納得することが出来なかったんだよ。
メインで出てくる若者は二人とも大学生なんだがな、その片方の男が大学を卒業する日が近づいてきたある日に日本の地方都市にあるホテルの地下、スピークイージーみたいな隠し酒場で話しをしていたんだ……ああ、その映画は基本的にその酒場の中から物語が展開していくんだけれど、最後のシーン、メインの若者が二人きりで話していて、片方がもう片方を何かに誘うんだ、なんだったのか具体的な内容は忘れてしまったけれど『大人になってもこの青春をずっと続けていたい』って噛み砕けばそんな事を言う。それに対して、誘われた方は、すぐには何も言えなかったんだ。先のことを具体的に考えることも、答えを出すこともせず、結局、中身のない沈黙とその場しのぎの言葉でごまかしながら、そんな誘いなど何もなかったかのようにいつも通りの話をしながら夜を過ごしていく。いつも通りの酒場の中で夜が更けていく。そんなラストシーンで映画は幕を閉じる」
「青春の終わりを迎えたくない、社会に出ることを考えることの出来ない若者の痛みみたいなエンドですか?」
「さあ作り手の気持ちなんて俺は知らんが、色々な解釈の仕方ができるものだった。そのラストを思い出すとあんまりいい気分にはないんだよ。そういうのを考えるのは苦手なんだ。だが、もう少しだけ続きが欲しかったというか、なんか、心の隅に引っかかって素直に奥まで落ちていってくれない。昨日のことを思い出そうとして脳みそ働かせるとな、いつの間にかその映画のことを繰り返し考えちまう。高橋、この映画の内容は俺の異常を考えるうえで重要か?」
「直接関係があるのかはわかりませんね、その映画の中で他に気になることはありましたか?」
「気になることね……そうだ、蛍光イエローの飲み物を飲んでいた」
「蛍光イエローですか?」
「そう、酒場を一人で営んでいる男がいるのだけれど、その男が蛍光イエローのカクテルを作るんだ」
「その酒がなにか?」
「いや、そのカクテルの名前がティロー・ナトリだったんだ」
「えーと……どうやって映画を観たのか覚えていますか? 動画サイトを開いたとか、テレビで放映されていたとか、DVD借りたとか」
「そこらへんも曖昧なんだ、観たってことと内容は覚えてるんだがな」
「それは本当に映画だったんですか? 寝ている間に見た夢という事は?」
実際にはそんな映画は観ていないのかもしれない。先輩の話からそんなことを思った。
単に夢として見たか、そうでなければなにか別の外的要因からくるもの、酒を飲みすぎたか、変な薬でもやったか、頭でも打ったか外的要因のせいで記憶の保存がうまくいっていない欠片として散らばっている頭の中のパーツがちぐはぐに混ざって組みあがった仮の記憶か、だが夢でないのだとすればそういう形跡や症状が何もないというのは妙だ。
「映画のはずだがな、昨日の夕方だったか夜だったか家の中でぼんやりとテレビの画面に映るその映像を観ていたんだ。
だがそういわれると自信がなくなってくるな、思い出そうとすればするほどに妙な感覚になってくる。改めて考えると、もしかしたらこれは夢の話かもしれない、たまに見る映画みたいな夢の話。授業が終わってアパートに帰った俺は高いびきで寝込んでしまって、夕方の変な時間に寝たものだから浅い眠りの中で変な夢を見てって言うような気もしてくる。 なんだろうな、どうも家に帰ってからの記憶が曖昧なんだよな。そこが不安定だ、どこをどうしたらあの状態から意識をなくして、実家に行くのか」
先輩は楽しそうにそんなことを言う。
「そうだな思い出してみると全部が妙だ、その劇中で語られるんだ。その飲み物がティロー・ナトリというカクテルであるという事と……そうだ。なぜか酒場の経営をしている男の顔は俺が昨日の昼に定食屋で会った男と同じ顔だった。その酒場のオーナーの名前もティロー・ナトリだった。若者たちは彼をその名前で呼んでいた」
昼間に出会った外国人観光客? その男が何か関係があるのだろうか? その男に何かを渡されたのだろうか? 学内の人間も利用する食堂で出会ったというその男がティロー・ナトリと名乗ったというのならば、色々と説明もつくが……先輩はどこかにある隠し酒場に行き、そこで誰かと青春についての話をした? または二人の若者たちの話を聞いた?
「なんか変に記憶が混ざっているんですかね? その定食屋で会った外国人とはどんなはなしをしたんですか?」
「特におかしなことはなかったな」
そう言って先輩はその前後のことを語った。一年生の後輩から冊子を受け取ったあと、喫煙所で会った教授と無駄話ついでにティロー・ナトリについての話をし、図書館で酒についての本をいくつか開いて調べようともしたらしいが特に進展はなく、昼時を迎えた先輩は午後の講義に出席する前に、大学の敷地を出て昼食をとることにしたと。
「昼頃になって、俺は松原近くの食堂へ行った。そこで、異様に背の高い外国人と会話をした。日系人だという流ちょうな日本語を話す男で、このあたりの事について聞きたいと話しかけてきた『少し観光をしていきたいんだがどこか面白いところはあるか?』 と。俺も別に清水には詳しくはないけれど、住んで二年以上になるし、わかる範囲でいくつか教えて、それから富士山までの行き方と伊豆の観光地について聞かれたな。
今にして思えば、観光客というにはどこかおかしいよな、こんなところまで目的もなく来るなんてこともないだろうし、何かの仕事で来た人間だったのかもな、その帰りに観光に行こうと俺にそんなことを聞いたのかもしれん。
で、その話もひと段落して、俺は『ティロー・ナトリっていうカクテルを知っているか? 澄んでいる国でそういうカクテルの名前を聞いたことがあるかと』と尋ねてみたんだ。もしかしたら海外から来た人間だったら知っているかもしれないと思ったんだ。
外人は『そんな名前のカクテルはこの世に存在しないな』と答えた。それを聞いて妙な言い回しだなと思った。随分はっきり言い切るなと。唯一引っかかったのはそこだな。
そこで会話に区切りがついたと俺に礼を言ってそいつは店から出て行った。
話した内容はそれだけだ。
それからすぐに俺も会計を済ませて、店を出た。それからはさっきの通り、大学に戻って喫煙所で適当に時間をつぶしてから、午後の講義に出席した。授業の終わりと同時に帰って、アパートの自室で暇をつぶす」
「なるほど、それでその男と同じ顔をした人間が映画の中に出てきて、その人物が周りからティロー・ナトリと呼ばれていたと」
「基本的にはナトリさんとか呼ばれてたがな、フルネームがそうだ、ティロー・ナトリだった。それを聞いて初めはひどく驚いたんだ」
「もう、どれが本当の出来事なのかいよいよわからなくなってきましたね、先輩の話していることを信じればいいのか、それとも全く別のことが起きたか」
「記憶がな、混濁してるんだろうな。
ところで高橋、覚えている昨日のことは全部が嘘で、昨日観たその映画の内容こそが本当に俺が経験したことなんじゃないか? って気がしているのだけれど、それはおかしいことかな?」
「おかしいですね、とても」
先輩が灰色の海岸線の向うに広がる太平洋を眺めている。
その視線を追うように僕も海を眺めた。
子供の頃はこの海に連れてこられるのが好きだった。何も考えず姉と一緒に波打ち際、貝殻を拾って遊んだ。それもいつからかこの海を眺めると、故郷に囚われているような気になって、早くどこか遠くへ行こうと、余裕なくそんなことを考えていた気がする。この寂れた海岸線が、僕の燻った感情と故郷のメタファーだと海を眺めてそんなことを考えるようになっていた。
進学先を選んだ特別な理由はない、市内にあって、全国的に名の通る私立大学だったから、国公立大を受ける滑り止めとして受験をし、ここにきた。学部は海洋学部を選択したが所属しているが船舶も海洋生物にも興味はない。大学の名前と大卒の資格だけあればいいとそう思っていた。あとは県内でも県外でもどこか自分の納得することのできる企業をみつけて就職活動をするだけだ。僕は今からどこにでも行くことが出来る。
今、改めてこの海を眺めて思うのは、季節が変わろうとしているとか、ああ今日は天気がいいなとか、そんなくだらないことばかりだ。
「本当は、なんとなくわかっているんだ」
「何を? ティロー・ナトリという名前のカクテルのことですか?」
「そうだなカクテルのことも思い出したぞ、俺らが見つけたのは黄色い半透明のカクテルだ。黄色と言っても絵具を塗りつぶしたような色じゃない。目に刺さるような蛍光のイエローで、それは店の薄暗い照明の中でもはっきりとわかる。初めてオーダーをして、目の前にそれが置かれた時、グラスの中で飲み物自体が淡く発光しているような錯覚を覚えた。
例えようもないくらい爽やかな味がするんだ。部活動で喉がカラカラになるまで走った後に飲んだレモネードの様に、一息で飲まずにはいられないような、その味を凝縮して、その後にいつまでも続く爽快感が、喉の奥から消えていかずずっと残って、飲み干したとたんに幸福が一気に脳天を抜けていって、そのまま目をつむる。
目をつむると自分の意識をとても遠くに感じるんだ、布団の中、夢に入りこむみたいに、自分の体を離れてどこかへ浮かんでいるみたいな、妙な感覚を味わって……そしてまた意識がつながった時にはまったく身に覚えのないどこかにいる。それが始まりだった。
旅をしたんだ。旅をつづけた。お前と、三年間。ささやかな謎を、目に映る全ての真実を二人で追いかけ続けた。
随分と前に、店主……彼の名前こそティロー・ナトリなんだが、そのナトリさんにカクテルのことを聞いた『この世に存在しないはずのものを、君は飲んだんだ。だから存在が少しだけ変わったんだよ』と、彼はそう説明をしてくれたな。
そうして、ついこの前、俺は目的があってティロー・ナトリを飲んだ。飲んだあと、そこで俺の意識は途絶えた。何のために飲んだか今は思い出せないが、この記憶はいつのことだろう? 明らかに昨日よりも前の出来事だ」
先輩はティロー・ナトリという名前のカクテルを飲んだという。
話がいろいろと飛躍している気がする。
俺らが見つけた。と、先輩は言う。だが僕の記憶では何も見つけていない。
僕と三年間、旅をした。と、彼は言う。だが僕と先輩が出会ったのは去年の春だ、一年半も経っていない。
「なにか答えがわかりそうなものだがな、やっぱり俺には向いてないんだよ。考えるのは苦手だ」
先輩はよく考えるのが苦手だと自身を評すけれど頭脳労働自体が苦手というわけではない。僕よりも記憶力は良く基礎計算能力も高い、洞察力は鋭いし、読解力も人並み以上でどんな物事でもしっかりと理解をすることが出来る。
考えることだけが苦手などということはない。嫌いなだけだ。
確認できていない物事まで思いを巡らせて、そのせいで生じる不安や気分の浮き沈みが嫌なのだろう。だからこそ彼は誰よりも真実というものを貴ぶ。必要以上に考えないためなのかどうかはわからないが、より早くそこにたどり着こうとする。
『この時に覚えた違和感に、もっと思考を巡らせておけばよかった。と、今ならばそんなこと思うのですがね。なんせ先輩の記憶がどこかおかしいことには気が付いていたんです。真剣に考えさえすれば僕も何かを思い出して、違う結末を迎えることが出来た……いいえ、結末はここでどう足掻いても変わりませんね。ただ、僕が今まで抱えている後悔が少しだけ和らぐだけですね』。
「そんな記憶は存在しませんよ。先輩、忘れた方がいい。それについて深く考えたところで正しいことは思い出せなはしないでしょう。もう一度別の方法で探してみましょう」
「いや、高橋、この妙な記憶が本当にあった出来事かどうかは簡単に確かめられるだろ?」
そう言って先輩は心底楽しそうに笑う。
映画の舞台が地方都市だと先輩が言って、その登場人物が本当に僕らだったのならば、ティロー・ナトリがある場所は僕らのよく知る場所の可能性が高い。
先輩が今朝、葵区の生家で目を覚ましたのだというのなら、それが静岡の町にある可能性はゼロではない。
・12
「往々にして物事の中に不思議な出来事なんて介入してこないんだ。
長谷川武樹という人間はもうこの世にはいない。それは事実だ。
いいや、幽霊なんてものは存在しない。だから君も幽霊ではないよ。
君はただの死者だし、高橋が相手しているのはただの残り香だ。
あれかな? 君は自分自身が死んでしまったことにも気が付いていない口かな?
……そうか、良かった。私に残されている時間も無限というわけではないんだ。
死者と生者の違いはね、いることのできる範囲が違うだけ。
それ以上でもそれ以下でもない。
残り香が何かって? ただの懐かしさかな。
高橋自身が思い出して懐かしくなっているだけ。そこにあると錯覚しているだけ。
この長谷川という男はね、最期に高橋と何かがしたかったんだ。
高橋の思い出話の中に出てくる時点で彼はもう死んでしまっているから。
話の開始時点で、その時点で彼はもうこの世にいない。
いや、死んでいるよ。それは事実だと言っているじゃないか、君もしつこいな。
高橋はそれを説明するためにこんな回りくどいやり方をしている。
自発的に気づかせることなんて出来やしないのに。
彼にとっては必要な助走なのだろう。
大学時代、四年間。二人はいつでも真実を探していた。私から解明を頼んだものや気にしなくていいような日常の疑問、身の回りに起こる様々な出来事の中にある真実を二人で暴いていた。ずっとそうして二人で遊んでいたんだ。
最後の瞬間、私は長谷川に『なにか最期の望みか思い残しはないかな?』と、尋ねた。尋ねられた彼が最期に望んだのは、こんな風に過ごしてきた日常を、もう一度だけ自分の後輩と、高橋と、共に過ごしたいというものだった。私はそれをどうにか叶えようと形にして、彼らを最期に一度だけ夢の中で再会させた。高橋がしているのはその時の話だ。
夢の中には死者も生者もないからね」。
・13
二時間後。サークルの練習が終わると、二日前と同じように僕らは肩を並べ校門を目指して歩いた。
「本当に今から行くんですか?」
その道中で僕は改めて先輩に訪ねはしたが「お前になんの予定もないなら問題はないだろ? 行こう」先輩がそう答えることは質問を口にする前から分かりきっていた。
「とはいえ、今日はヘルメット一つしか持っていないのですが、先輩どうやって向こうまで行きます?」
「ああ、適当にメッセージを送ったら貸してくれるってやつがいたから一緒に行くわ、今から取りに行ってくる、すぐ戻るからちょっと待っていてくれ」校門を抜け、バイクにまたがったままエンジンをかけずに待っていると、先輩は十分ほどで戻ってきた。どこからか借りてきた小排気スクーター用のハーフメットを被り、そのままダブルシートの後ろへと腰を下ろした。
「じゃあ、僕の家によってバイクを置いてから静岡に向かうんですね?」
「ああ、時間はたっぷりあるし、のんびり走ってくれ」
先輩が答えるのを聞き、エンジンをかける。回転数が安定するのを待ってからニュートラルからファーストにギアを落とし、ゆっくりと大学の前から走り出していった。
・14
実家の最寄駅から電車に乗り、静岡駅に着くと時刻はもう夜の八時を回っていた。
「さて、どうしたものか、高橋。
少しだけ歩こうか? その間に俺はどうするか考えるよ」
降り立った駅のホーム、立ち食い蕎麦屋から立ち込めるカツオ出汁のにおいの中。
先輩が静かにそう呟いた。
静岡の地下街を抜け、繁華街を横切り、裏通りへと入り、大型ビルの裏手にある立体駐車場を横目に進む。駐車場の角を曲がると徳川慶喜が晩年を過ごしたとされる旧徳川邸跡地とそこに隣接する形で自由に出入りの出来る庭園がある、塀に囲まれた庭園の外周に沿って通りを進み、角を左へ曲がる。そうしてたどりついた一軒のホテルの前で先輩は足を止めた「ここだよ。高橋」そう言って先輩は中へ入っていく。
狭いロビーの中、彼は迷うことなくカウンターまでまっすぐと進み「こんばんは」と挨拶するレセプショニストの女性に対し「ティロー・ナトリと長谷川で予約をしています」と、慣れた様子で先輩はそう告げた。
僕は驚いて先輩の顔をまじまじと見たのだが、表情は駅に着いた時からずっと変わらない穏やかな笑顔のままで、彼が何を考えているのかこの時の僕にはまるでわからず。何の迷いもなくそんなことを言い出したことにただ混乱をしていた。
『この時にはもう先輩は全部を思い出していたのでしょう? 』
「少々お待ちください」
そう言って女性はフロントの後方にある扉から事務所の中へと消えていった。
「先輩、さっきのはどういう意味なんですか?」
と尋ねてみるも、彼はそれが全く聞こえていないかのように、前をむいたまま僕の質問には答えようとはしない。なぜだか意図して僕の顔を見ないようにしているようだった。
無言で笑顔を崩さないその後ろ姿を眺めていると、カウンター奥の扉から先程の女性が上司と思しき老齢の男性を伴って現れた。
「初めにチェックインシートに記帳をいただきます。名前と住所と電話番号だけで結構ですので」
そう言って差し出された紙に先輩は自分の名前、住所、電話番号を書き込んだ。
「ありがとうございます。ではこちらへどうぞ」
男はそう言って僕らのことを先導し始める。
ロビーの後方、客室やエレベーターがあるだろう明るい廊下とは反対側、明らかにバックヤードなのでは? と思わせるような、灯りもついていない薄暗い通路を案内される。
「ここが当ホテルの裏口になります」突き当りまで来たところで男はそう言いながらポケットから鍵を取り出し、そこにある扉を開いた。
外に出て、開いた扉のすぐ脇。ホテルの壁に沿って地下へと続く石造りの階段があった。
「どうぞ」老人は手のひらで示して僕らにそこへと入るように促している。
地下に一体なにがあるのだろうか?と、僕がそんなことを考えた時には、もう先輩は案内をしてくれた老人の方を見ることもなく階段を下り始めた。
さて、どうしたものかと、老人の顔を見てみる。
柔和な表情だ。嫌味がない。見ていると安心する。
だが安心よりも説明が欲しい。助けを求めるような目でもって尚も見つめてみる。
手で階段を示したまま、はにかんだ表情のまま、頷くかのように小さく会釈をされる。
何があるのか自発的に説明してくれそうもない。こうなってくると下手に質問を投げて不審がられるより、ここは黙って階段を下る方が無難だろうと先輩の後に続いた。
「ごゆっくりお過ごしください」そうして僕らが二人とも階段を下りだしたのを確認すると老人は静かに裏口の扉を閉じ、ホテル内へと戻っていった。
階段は壁に埋められて電灯で照らされており足元の視界は良好で、二人で横に並んでも肩のぶつかることのないほど幅が広い。無機質な石段を二十段ほど下ると、四畳ほどのひらけた空間に、住宅街の一軒家のような黒色の扉があった。
扉にはふざけているかのような色とりどりのネオン管で書かれた『酒場ティロー・ナトリ』の文字が光っている。
先輩は依然階段を下っている僕のことなど振り返らずにまっすぐに扉へと向かって行って、一度だけノブに伸ばしかけた手を止めた。何を思ったのか、単にためらったのか、僕の見間違いだったか、次の瞬間には開けるのが当然と言わんばかりに手をかけ、その扉を開く。
「おかえりなさい。大きなピザの味はいかがでしたか?」
そして僕らは殊のほかあっさり、今回の元凶であるティロー・ナトリと再会を果たす。
・15
「私は物語の中に現れて彼らのことを迎える。
両手を広げて、誇らしげに、彼らを終わりへと迎える。
その時のことを思い出すとね、やや、心が痛まないでもないんだ」。
・16
「おかえりなさい。大きなピザの味はいかがでしたか?」
電灯の色が映る茶色の瞳、190センチは超えるだろう背の異様に高い白人男性が扉を開けて入ってきた僕らを見るなりそんなことを言ってくる
「ただいま。ピザって何のことですか?ナトリさん」先輩はまるで馴染みの店にでも来たかの様に自然に男の横のカウンターチェアに腰かけるとそう聞き返した。
「いや、なに、君を見送った後に一人で富士急ハイランドへといったんだよ。打ち上げも兼ねてね」
「ナトリさんが一人で富士Qってのは、シュールっすね」先輩はカカカと笑った。
「そこでね、360度回転しながら振り子のように左右に振られる円盤型の乗り物に乗ったんだ。私はブラリブラリと揺られながら、景色と一緒に自分の三半規管が刺激されるのを大いに楽しんだ。そして乗り物の動きが止まったとき、アナウンスが流れるんだ『大きなピザの味はいかがでしたか?』と、そこで我々はようやく自分自身が職人によって広げられるピザ生地の気分を味わわされていたことに気が付く。その驚きを君たちにも味わってほしくてね」何を言っているのかはわからないが、間違いなくその説明と今では状況が異なると思われる。
「なるほど、自分たちの思い出をつくろうとしていたはずが、俺らはナトリさんを楽しませるはずのピザを作っていたと、そういうわけですね」なぜか先輩は納得をした。
「その通り、だが、そしてそれは君たちのための物でもある。友人と一緒に料理をして食べるのと同じだ、これも一種のアトラクションだね。よかったのかい? 随分と早かったが、カクテル探しは楽しめたのかな?」
ナトリは僕ら二人を交互に見やり、そう尋ねた。先輩は満足気な、幸せそうな、今までに見たこともないような、とても優しい笑顔を浮かべていた。
僕だけがこの会話についていけていない。
そもそも目の前の男は一体誰だ? 先輩は彼と知り合いなのか? カクテル探しがなんだ?
そんなことばかりを考えていた。
「ええ、まさかこんな場を用意してくれるとはね、ナトリさんもたまには粋な事する」
「私はね、できることなら君のような者の望みをなるべく叶えてやりたいと思うんだよ。出会いは、奇縁だったね、ここには簡単にはたどり着くことができないはずなのに、君たちは話題の名店でも探すみたいにいとも簡単にたどり着いた。今回はゲームだから、三年前よりもヒントを増やしてはみたけれども、三日で見つけるか。本当に君たちはいいコンビだな」
「優秀な後輩を持ったんすよ。それに途中から俺は思い出していました」
二人は黙って僕の方をちらりと見たが、僕は相変わらず会話の意味が分からず、先輩の後ろで立ち尽くしていた。
「その方がいいと思ったんだ。君たちにとってはね」
「今日は優しいですねナトリさん」
「いつでも優しいさ、救ったりできない分、死者には優しくありたいといつも思っているんだ」
「ありがとうございました」
先輩がお礼を述べると、目の前、透明なグラスの中、怪しく光る液体が二杯置かれた。
「用意はできているよ、いつでも好きな時に行くといい」
ナトリと呼ばれた男がそういうと、先輩は一瞬の逡巡をして、グラスを持ち上げた。
そして、ずっと崩れなかった穏やかな笑顔のまま僕の方を向くと
「ありがとうな、高橋。お前との三年間は本当に楽しかった」
それだけを言ってグラスを傾ける。
その光景はスローモーションのように僕の網膜へ映って。
ゆっくりと蛍光イエローの液体が傾いたグラスの中、先輩の口に当たるか、当たらないかのその瞬間、先輩は初めからそこにいなかったかのように消えてしまった。
僕の左腕はいつの間にか宙に伸びていた。先輩を止めようとしたのかもしれない。
腕を伸ばしたそのままの体制で僕は固まってしまった。なぜか、その頬を涙の粒が伝っていった。彼のいなくなった店内には、僕とナトリの二人だけ、その間には沈黙が流れる。
なぜ泣いているのか、僕には全く理解できなかった。
久しぶりに泣いた。とめどなく涙が頬を伝っていった。涙というのは意外と温かいものなんだなと頭の中はひどく冷静なのに、涙は一向に止まらない。
嗚咽するでもなく、何の音を漏らすでもなく、ただ静かに涙が僕の頬を流れていった。
「さあ、君も飲みたまえ、もう、帰る時間のようだ」
意味が分からなかった。意味が分からないのに、喪失感だけはそこにあった。
カクテルグラスの中を見つめる。蛍光イエローの液体が怪しく光り輝いている。
僕はしばらく眺めて、グラスを持ち上げると、泣きっ面のまま一口でそれを飲み干した。
蛍光色のカクテル。赤土の荒野、ボンネビル。解決した日常の疑問。ティロー・ナトリと一緒に追いかけた死者の痕跡。眠り続ける少女の夢。毎日五分ずつ狂う時計。消えた砂浜の行方。そして失踪する先輩。拳銃、青木ヶ原樹海、道路わき停まる真っ赤なバイク。大学ノート、先輩の日記。バナナフィッシュ。
頭の中をぐるぐるとそれらが巡っていく。
・17
話の中と、高橋の思い出と何も変わっていない酒場の中を薄明りだけが照らしている。ずっと話に相槌を打っていた長谷川は黙って何かを真剣に考えこんでいるようで、店内はひどく静かだった。
「結局はナトリさんの悪戯?」思いついたかのように長谷川がそう言う。
「そうですね、まあ、そのようなものです」答えた高橋の声には抑揚がなかった。
ここまでのヒントを出しても先輩は自分自身では正解にたどり着くことはできないと、もうとっくにわかっていたはずのことをただ確かめて、勝手に一人で落ち込んでいる。毎年、実験のように話の内容や与えるヒントを変えてはみるのだが、先輩が正解にたどり着くことも何かを思い出すこともない。それが残り香なのだと何度も私は高橋に説明しているはずなのに、いまだに彼はそんな希望持ってしまっている。そんな希望をけしさらないから、なまじ毎年長谷川が姿を現すせいで、懐かしさなんてものに囚われてしまって、そのほかの自分が本当に報われる可能性に目を向けようともしない。
「何も覚えていないのもそのせいか? ナトリさんの起こした何かに巻き込まれている?」
「いいえ、それはまた別問題です。なんで僕がこの話を始めたのかはわかりましたか?」
「いや、さっぱりだ。やめてくれ高橋、俺は考えるのが苦手なんだ」
「そうですか、まあ。次で最後ですよ。それを聞けばわかると思います。思いますけれど聞きますか?」
「最後か、もちろん聞くに決まってる。モヤモヤするし」彼は迷わず答える。
こういうところは本当に変わらない。変わらないと言おうか、先輩そのものに見える。
『戻ってきたように見えたところで、ただの残り香だ、本物じゃない』
ティロー・ナトリは高橋にそう言うが、本当はどうなのだろうか?
先輩に対し、自分の理由を考えろとは言うが、本当はそのやり取りを通して高橋がそのことを判断しようとしているだけだ。
高橋は、毎年先輩に対して同じ質問をする『最後の一日のことを聞くか?』と、否定をしてほしくて先輩はいつでも『聞くに決まっている』と即答する。どのような道順を辿ってもこれは変わらなかった。
だが、もしここで話さなかったらどうなるのだろうか?
想像をしてみる。先輩はここに残ったままで、話さないことを決意した瞬間に高橋自身、タイムスリップでもしたみたいに大学四年生に戻る。そんな、サイエンスフィクション。
チープで唾棄すべきようなハッピーエンド。そんなもの……と、高橋は笑い飛ばして、長谷川に真実だけを伝える。
・18
意識が覚醒する。体が動くようになったその瞬間、かかっていた毛布を跳ね飛ばし跳び起きた。起き上がって見た壁紙の色はいつもと同じで、そこが自室だということに僕は安堵のため息を漏らした。だが、安堵すると同時に途方もない脱力感が襲ってくる。
目を覚ました瞬間に僕は全てを思い出した。
今年の春から先輩は、単位を落としたわけでも、どうしても新卒採用で入りたい企業があったわけでもないのに、二度目の大学四年生になっていた。彼はその理由を同級生やサークルメンバーに教えようとはしなかったが、僕だけはなぜ彼がそんなことをしたのかを知っていた。
話を聞いたのは僕が四年生に進級する前、一月の週末、ティロー・ナトリの店でタダ酒を飲んでいる時で、先輩は卒業を先延ばしにしたと静かに僕に告げた。
その日がどんな日だったのかを僕はとてもよく覚えている。
とても印象的な日だった。
その日は前日の深夜からずっと止むこともなく雪が降り続けていた。
おかげで15年ぶりに三センチ以上の積雪を記録した静岡市では、正午になるより前に東海道新幹線を除いたすべての公共交通機関が運行を断念していた。
それを見越していた大学側からの通達でゼミなどを除いたすべての通常講義が朝の早い段階で休講になっていたこともあり、僕と先輩はバスと電車が止まる前に連れ立って静岡の町へと遊びに来ていた。普段は雪が降らないせいか、昼前には子供たちのはしゃいでいる姿もちらほらと見て取れたが、夜になり、雪の深さが足元をすっぽりと埋めてしまうまで積もる頃にはいつもは賑やかな繁華街からも人影がすっかり消えてしまっていた。
二十一年間生きてきて初めて見る光景だった。静岡の町は忘れられたように、埃でも被ったかのように白く染まり、雪の下へと埋まっては音の一切を消していた。通りは店の明かりがまだ眩しく輝いているのに人影がまるでなく、見上げた空も降ってくる雪が光の中を舞っている以外のすべてが、迫ってくるかのような黒に覆われていた。
その街中、僕と先輩は尽きることなくくだらない話をし、誰もいない道と雪にはしゃぎ、ちょっとした出来事で大いに笑って、雪の中に足を突き刺しながらティロー・ナトリの酒場へと向けて歩いた。酒場の中は温かく、ティロー・ナトリはいつもよりも優しかった。
「この雪の中を長い時間かけて歩いて帰るというのも由ないだろう」と、その日ティロー・ナトリが上階のホテルに部屋をとってくれたこともあり、僕らはいつもよりも遅い時間まで彼の店に居座り、深酒をしていた。
いくつものくだらない話と同じように、なんでもないことのように先輩はその話をした。
「そうだ、高橋、大学を卒業したら一緒に働かないか?
俺はお前と一緒に起業をしたいと思ってるんだよ。資金は十分に工面することができるし、お前は賢い、無意識なのか意識してなのかは知らないが正解を選び取ることができる。それはきっと何をするにも役に立つ。俺にないものをお前は持っているし、お前といると何かと物事がうまく進むんだよな。
何をするかまだ具体的には決めていないけどさ、ビジョンはいくつかある。お前がオッケーと言ってくれるならそれも一緒に考えて決めていきたいと思うんだ。なんなら、お前さえよければ卒業を待たなくたっていつでも始めることができる。どうだ、俺と一緒に働かないか?」唐突な話だと思った。
「少し、考えさせてください」と僕は応じる。
「おう、気のすむまで考えてくれ。それとは直接は関係ないけれど今年は卒業しないことにしたんだ。いろいろ考えたけれど、もう一年は学生でいようって決めた。そのほうが俺にとって何かと都合がいいんだ。なんにせよ俺はまだ大学にいるから、答えは急がなくてもいいぞ。
そうだな急ぐ必要なんてないけれど、それでも、今年の夏までに答えて欲しいんだ。それまでには色々なものの答えとか結果とかが出て、ある程度先のことも決められるだろう。
お前の答えが決まったら俺に教えてほしい。
イエスでもノーでもお前自身が答えを出して、それを俺に伝えてくれ」
先輩は微笑みながらそう言った。
それ以来、僕はずっと回答を保留していた。
その場で彼の提案にこたえることは出来た。そうするのが正しいのだとその時の僕は思っていた。思っていたのに、真剣に自分の未来のことを考えようとはしなかった。
何となくで採用試験を受け、内定をもらった企業に入社し、情熱を傾けることなく成り行きのままに生きるために仕事をし、出世をし、結婚をするのならば結婚をして、この人生をただ終えればよいとだけ考えていた。
それを望んでいるわけではなかったが、それでいいと思っていた。
自分の未来に関して真剣に考えることをしなかった。
先輩の提案を真剣に思案することができなかった。
それどころか『期日まで何もしなければ、きっとこの話はなくなるだろう。それでいいのかもしれない』と頭の片隅で僕がそんなことを考え始めた時
「私は生きている人間にホテルの部屋をとるようなことはあっても。その人生なんてものに口を出さないと決めているがね」
口を開いたのは僕でも先輩ではなく、カウンターの向こうで立ったまま酒を飲んでいるティロー・ナトリだった。
「決めてはいるがね、君たちもいずれ死ぬだろう? それを考慮してだ。
それに、今まで色々と些細な事を手伝ってもらっただろう?
それに配慮してお返しとして一つだけ言うのならばね」
手元に置かれたブラッディ・シーザーをセロリスティックでかき混ぜながら、ゆっくりと抑揚をつけてティロー・ナトリは僕らの話に割って入った。徐々に渦を描いてゆくその真っ赤な液体を見つめる彼の顔が、張り付いた仮面のような笑顔に変わり、僕ら二人を交互に見やる
「君たち二人はいいコンビだよ」
勿体ぶりながら短くそれだけを言うと、彼はグラスの中身を一息で飲み干す。
僕と先輩は無言でティロー・ナトリを見つめながら彼の次の言葉を待っていた。
だが、彼も彼で僕らを見つめたままとぼけ顔で手に持ったセロリスティックを齧り始め、それ以上は何も言おうとはしない。
「えっと、いいコンビだから?」沈黙を破るように先輩が先を促した。
「いや、それで終わりだ。君たちはいいコンビだ。それだけだ、それが全てですらある」
そう言って彼は先輩に対してそれ以上何を聞く必要があるのかと、不思議そうな顔をする。
結局、ティロー・ナトリがそんなトンチンカンなことを言ったおかげか、その場での話題は別の物へと移って行き、先輩はそれ以上、何も言おうとしなかった。
それをいいことに、この日の僕は選択することから逃げた。
この時のティロー・ナトリの言葉を真剣に考えていたのならば、結末は違っていたのかもしれない。
そして彼の名誉のために言っておくなら、きっと彼は正しいことを言っていたのだろう。
四日前。四年生になって一か月半が過ぎた五月のこと。
僕は先輩がいなくなったと知ることになる。
きっかけは偶然会ったサークルの後輩で、彼から先輩が二週間大学に来ていないと聞いた。
その頃の僕は就職活動中ですでに数社から内定通知をもらっていたものの、より多くの会社から内定を得るために忙しく動き回っていて、説明会や面接、能力試験を受け続けていた。
その間、なるべく先輩のことを考えないようにしていた。忘れようとしたわけではない。意図して彼を自分の意識から追い出そうとしていた。
それは彼が二度目の四年生をしている理由のせいだった。
考えることを放棄して僕は彼からずっと逃げ続けていた。
・19
「高橋なりの考えがそこには会ったのだと私は思うよ。彼なりに答えを出そうとしての行動だったはずだ。だがそれがどれだけ遠回りなのか、わざわざ口にしなくてもわかるだろう? もちろんそれは高橋自身もわかっていたはずなんだ。
普通に机に向かって一時間も考えればそれなりの答えが出る問題なのに、彼はわざわざそんな遠回りをした。
まあ、それはそう悪いことではなかったはずなんだ。少しばかり遠回りしたところでそう大きく何かがそれるという事はなかっただろう。本人がどういうつもりだったのかは知らないが、どういう選択をしたところで彼らの関係が大学卒業と同時に切れるという事はなかっただろうし、高橋がわざわざ私の経営する酒場の所有権を受け取ろうとすることもなかっただろう。
君たち二人は互いが互いの悪い面を封じておくのに必要だったのかもしれないな、と、その時だ私がそんなことを思ったのは」
君たちと、ティロー・ナトリはそう言った。
「高橋が長谷川と離れて探偵性を失ったのと同時に、長谷川は自分のエネルギーの行き場をなくした。高橋というブレーキをなくした彼は少しばかり行き過ぎてしまったんだ。関わらなくていいようなものに一人で関わって、彼はそして間違いを犯した。
彼らが私と出会っていなければと時々思うんだ。私に会わなければ長谷川がそんなわけのわからないものに関わってしまうことも、高橋がずっと来るかどうかもわからないような機会を待ち続けるなんてこともなかったのではないか? と、そんな疑問が頭の中に湧いてくる。
それはどんなに考えたところで答えの出ない問題なんだ」
・19
先輩が大学に姿を見せなくなったという話を聞いてすぐ、僕は彼と連絡を取ろうと試みた。しかしどれだけ待っても先輩からの返事はなかった。何か不穏な気配を感じ、一週間をかけ、アナログ、デジタルを問わずあらゆる手段を講じ先輩とコンタクトを取ろうとしたが、ただの一つも機能をすることはなかった。
捜索を始めて一週間が終わるころ、僕は彼の住んでいるアパートへと赴いた(それは一週間のうちで三度目の訪問だった)。
呼び鈴を何度か鳴らしたところで返事はない。それはわかり切っていたことだが、いい加減埒が明かないと、せめて鍵が開いていて中に入ることはできないだろうかと、たいして期待もせずにノブをひねってみると、扉は何の抵抗もなく静かに開いた。
開いたドアの先にある空間は嫌に静かで、あったはずの生活感が長く遠ざかっている人の気配と共に消え失せているのを感じた。
靴を脱いで中へ入っていこうと一歩踏み出したその上がり口、床に大学ノートが一冊落ちているのを見つける。
表紙に太字のマジックで大きく『高橋へ』と書かれた青い大学ノート。
あからさまに不自然なそれを拾い上げ、わざわざ宛名が書いてあるのなら、読めということだろうと、ためらうことなくページをめくった。内容は単なる日記だった。いや、日記と呼ぶには簡素なもの、日々の出来事が三行から五行ほど箇条書きにされているだけの最低限の記憶をとどめておくためのメモ帳のようなものだった。斜めに目を通していくが、めぼしい内容はない。五度ページをめくったところで、僕は一度ノートを閉じ、背表紙の側から最後に書かれたページを探した。
「あった」先ほど見た箇条書きのメモとは違い最後のページは文字で埋め尽くされていた。
それは手紙のように誰かが読むことを想定されているような書かれ方だった。
僕はページをさかのぼり、その書き出しを探した。
二週間前の日付が記されている。
「いったい何があったんだ?」僕は彼の書いた文字へと視線を落とす。
『先週、一人で酒場に行った夜のことだ、急にナトリさんが俺を老人だと言い始めた。
理由を尋ねると、ナトリさんにとって寿命が半分もない人は等しく老人なのだとそんなことを言われた。あの人には死期がわかるらしい。以前はそんな呼び方をしなかったのになぜ急にそんな呼び方をするのかと尋ねると、どうやら俺が先日かかわったちょっとした問題のせいらしい。そのせいで俺は近々、命を落とすことになるとそんな宣告をされた。
俺が死ぬ理由如何によって高橋も死んでしまうかもしれないとナトリさんは言う。
死に方と死ぬ理由くらいなら選ぶ時間があると彼は言う。
『今なら死に方を選ぶぐらいはできるが、君はどうするのかね? このまま何もせずにそのせいが終わるのを待つのか? 私に何かできるわけではないが君の選択は尊重するよ。抗うのも逃げるのも、最低限の望んだ最後を迎えることも、君の選択だ、尊重しよう。君は何を選ぶんだい?』面を食らっている俺にナトリさんは尋ねた。
俺は何にも抗わないことにしたよ。ただ、最後に旅に出ることにした。
どこか遠くへと。お前とはこのまま会わずに別れることが一番いいんだろうと俺は思った。どんな最期を向かえるのかわからないが、お前と会わずにいればお前を巻き込まずに済む。それが一番いいと思うんだ。
面と向かって、別れの挨拶は言えないけれど、それもそれで悪くないなと俺は思ったんだ。
どうすればいいかを考えていて、どんな最期がいいのか考えていて、そして思い出した。
死にたいなんて思ったことはないが、それでも俺は拳銃自殺というものに憧れたことがあったと『バナナフィッシュにうってつけの日』という短編小説を知っているかJ.D.サリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』という短編集に収録されている。グラス家の長男シーモア・グラスが自殺をしてしまう話なんだ。とてもあっけなく散る。文芸評論家なんかに言わせれば、何か事細かな心理描写があるのかもしれないが、こどもだった俺は、ただ、人というものがこんなにも些細なきっかけで、こんなにもあっけなく死んでしまうのかとそれだけを思った。妙にあっさりとした読み口でな、それでいて読んだ後、とてもいい気分になるんだ。鼻歌交じりに日曜大工でもしているみたいなとても穏やかな気分になるんだ。
そんな風に誰にも見つからないように逝きたいと思う。
『ティファニーで朝食を』ホリー・ゴライトリーのポストにいつまでもトラヴェリングの文字が張られているみたいに、俺がいなくなった後でも、長谷川武樹という人物はきっと今でもどこかで、海沿いの景色のいい場所で、旅を続けているんだなって誰かに思われ続けていられるような、誰も俺が死んだことなんかに気が付いていないような。そんなあっけない最後がいいと思った。
昨日、ナトリさんに拳銃で死にたいと言うと彼はドリンクの注文でも受けたみたいにあっさりと拳銃を取り出して渡してきた。笑ったよ。
ナトリさんはこういったことに関しては本当に役に立つよな。
俺は誰にも見つからない場所を探すことにするよ。死んだことを誰にも気が付かれたくないのもあるけれど、どんな風になるのかはわからないじゃんか、いや、つまりは万が一にも頭が吹き飛んだり、口の横に穴が開いたりしてしまった時に人に見られるのは嫌だろ?
これは旅だ。高橋。ナトリさんが時々自分自身の死体を探して旅をするのと同じだ。
俺は死体になるため、旅に出るよ。
最後の一日ぐらい気ままに過ごしたいと思う。叶うことなら良く晴れた日に海沿いをバイクで走って、富士山でも眺めながらどこか静かなところに行って、一人で逝きたいな。
でも高橋? 俺は決して死にたいわけじゃないんだ。
まあ、それでも、仕方のないことだと思うことにするよ。
死ぬのは怖いなとか、そんなことを書こうかとも思ったけれど。そこまででもないな。
ちゃんと心の準備さえしておけばどんなことでも割と平気だな、と、お前に先輩らしいことなんてほとんどできなかったけれど、それだけを最後にアドバイスとして添えておくことにする。ちゃんと役立ててくれよ?
ありがとうな、高橋、お前のおかげで俺の青春は成った。
お前との四年間は本当に楽しかったよ。
あと、できることならお前だけは俺のことを忘れないでくれ』。
大学ノートに書かれていたのはそんな文章だった。
現実感がなくなっていく、すとんと抜け落ちたかのよう何も考えられなくなってしまう。
「先輩を探さなくては」真っ白になった頭の中、言葉が浮かんだ。
何をしてでも彼のいる場所を突き詰めなければと僕は必死に頭を働かせた。
・20-1
大学二年生の春。
初めてティロー・ナトリを飲んだ僕は赤土の荒野で立ち尽くしていた。
周囲にあるのは僕の隣に停められたボンネビルだけで、見渡す限り荒野がどこまでも広がっていた「は?」と、そんな素っ頓狂な声が出た。
僕は勢いよくティロー・ナトリの酒場の扉を開ける。ドアベルが大きく振れ、僕の怒りともつかない波打つ感情を代弁してくれたかのようにやかましく鳴った。
「やあ、おかえり、思いのほか早かったね」僕がどんな思いを抱いているのかなどなにも意に介さず、自分の名前こそがティロー・ナトリだという男が店に入った僕を見てそんなことを言った。
「なんだったんですか?」
無事に日本へと帰国した僕は彼に文句の一つでも言おうと勇み足でここまで来たのだが、いざ本人を目の前にすると、何を聞けばよいのかうまく言葉が出ず、それだけを絞り出した。ティロー・ナトリと名乗る男は僕の言わんとしていることにそれで察しがついたのか一度頷いてから口を開いた。
「この世に存在しない飲み物を君は飲んだんだ。存在が一つ増えて、二つになって、それがまたくっつこうとして、どこともしれない場所に飛ぶ羽目になったんだよ」
だが彼の口走った話の内容はまるで意味の分からないもので
「いい大人が何を言っているんだ?」
つい、そんな言葉が不安げな声音で口をついて出てしまった。
・20-2
「ナトリさん。この酒場の経営ってどうなっているんですか? 儲かっているとも思えないし、そもそも普通の飲食店として保健所に営業許可とって営業しているんですか、それともモグリ?」
かつて、僕はティロー・ナトリに尋ねたことがある。
「もちろん店は正規の手順に則って営業しているよ。ただ、君たちのような存在が来ること自体珍しいけどね、多くの場合において、ここに来る人間は何かしらの目的をもってやってくる。
どうしても納得できない出来事の答えを見つけようとしていたり、行方不明の誰かを探していたり、私の存在を知っている誰かにそそのかされてきたりと理由は様々だが、ただ酒を飲みに来たのは君たちが初めてかもしれないな」
「そんなんで利益は出ているんですか?」
この当時の僕はまだ目の前にいるティロー・ナトリという人間が、普通と同じように何かしらの方法で金を得ながら、普通の人間と同じようにどこかに家を持ち、普通の人間と同じようにベッドで眠るのだと信じていた。
「儲かっているかでいえば常に五分だよ。私は商売人ではないからね、金銭はもらわない。
どこで生きていたとしても同じだ。ここでは酒場という形態をとってはいるが、やっていることはずっと前から変わらない。私がするのは自分の持っている話と同じ価値の物をその話を本当に必要としている誰かからからもらうか、誰かの持っている話をもらう代わりにと私にできる範囲でその誰かの望みを聞くかのどちらかだ。ずっと昔からそうやって生きている。私の死体を探すために」
ゲームや映画に登場する情報屋のような物だろうか? 彼の話を聞いて僕はそう理解をした。
「なんかきな臭いですね、飲食店として表向き営業しているように見せておきながら、そんな実態のないものを交換して金品を得ているというのは」
「何も怪しくなどないさ、人からものをもらって話をするだけだ。それにここにはおいそれとは人が入ってこないようになっている。正規の手順を踏まないと入ってくることができないようにしているのにその手順を知っている人間なんてもう私以外にはどこにもいないはずなんだ。だから私を探している人間か私が探している人間でないとここには入ってこれない」
「ナトリさんに認められないとその物と情報の交換すらできないという事ですよね、一見さんお断りを掲げる会員制の隠れ家的な店ってことでしょうか?」
「そんなものは掲げていないよ。現に君たちが来たじゃないか。会員制というのは、まあ、似たようなものだが誰が来ようと私は受け入れるつもりでいるよ。
誰でも入れるが入るためには正しい手順がいる。というよりもこれは私がここを受け継ぐより前の習わしに沿っているだけだ。簡易版のスピークイージーだったんだ。隠れ酒場、時代の遺物。まあ、日本にそんなものが必要な時代は戦時中を除けばなかったけれど、私はこの箱を……誰だったか? それもいつだったか? 昔知り合った男と交換したんだ」
ティロー・ナトリに関する一つ確かなこととして、彼は他人の名前を覚えない。
覚えようとしない。尋ねようともしない。時には名乗られることすらも嫌がる。
「だがね、私のことが必要な人間だけがここに来ることができればそれでよいと考えているよ。本来の私は誰かのために何かをできるような存在ではないんだ……だが、昔、正義の味方になろうとしたことがあったような? 何があったのかは忘れてしまったが遠い昔の私はなかなかに頑張ったんだ。だが、正義の味方にはなれなかった。私に人を救うことは無理なのだと悟った。それだけは覚えている。具体的に何があったのかを私はすっかり忘れてしまったがね、なんだったかな?
変な話になったね。ともかく私はあまり生者とは関わらないようにしているんだ。
多くの人間がここに来ることを望んでいるわけではない。だから私にとって、こういう形態は都合がいい」
ティロー・ナトリはそう言って遠い目をする。見た目から彼の年齢を正確に言い当てることは出来ないが、それでもそんな目をして懐かしむような過去がある年齢には見えない。
20-3
「結局、ティロー・ナトリというカクテルは何だったんですか? ナトリさんが生み出したのか、それともナトリさんと関わった誰かが作り上げたのか」
「さあ、わからないな。そんなものはこの世に存在しないはずなんだがね。一体いつどこで誰のどんな作意のもとに生まれたのか、なぜ君の大学の中でのみ、その名前が知られていたのか、いくら考えたところで思い当たる節がないんだ」
「初めて僕らがここに来た時に飲んだものは?」
「君らが探しているというから思い付きで作ったんだ。ティロー・ナトリという名を名乗りティロー・ナトリという酒場を経営しておきながら、ティロー・ナトリがその店で飲めないなんて言うのはどうも間抜けに聞こえるじゃないか、見たところ君らもそれが一体どういうものなのかは知らないようだったのでね、昔プレイハウスで聞いたジャムセッションを頭の中でなぞるようにその場の思い付きで作ったものだ。
こういう話をしているといつだったか死体を探している最中に読んだトム・コリンズにまつわる話を思い出すな」
「トム・コリンズ、誰ですかその人? 未解決事件かなにかの被害者ですか?」
「いいや、人ではないんだ。まあ、人名として噂話の中に出てきたという記録もあるが、現存しているものは人ではない。カクテルの名前なのだがね、起源がはっきりとしないんだ。ブリテンとアメリカの間でどちらがオリジナルであるかという論争が起こったという話もある。カクテルのレシピ自体は単純なものなのでそれ自体はどこで生まれたとしても不思議ではないが、その名前がどこから来たのかがはっきりとしないんだ。
ティロー・ナトリというカクテルは、たまたま私と同じ名前になったのか、私の名前を知る誰かが作り出したのか、だが、そんな人間がどこにいるというのか、そんなことを考えて、可能性をつぶしていくと、どうあがいたところで、そんな名前のカクテルがこの世に存在するはずがないという結論にたどりつくんだ」
「ティロー・ナトリという名前の適当さを考えればどこかの誰かが偶然にその名前を選んだとして何ら不思議はありませんがね」
「もし誰かが嗜好品として生み出したのだとしたらもう少し気取った名前を付けようとするものだと思うがね」
「どこかの陽気な酔っ払いが恣意的に名付けたのならあり得る話です」
「だが、そうではないだろう? そもそも君の通う大学でカクテルの名前として認識されてはいるというのには別の意図があるように思えてしまうな」
「そうですね、大学で広まっていたのは、以前にナトリさんと直接ではなく間接的にかかわったことのある誰かが僕の大学の関係者で、ティロー・ナトリというその名前を学生に避けるべきものと認識させるためにという目的をもって広めたのだと思います。なぜかはわからないけれど、強い意志のようなものを感じるんですよね。何か心当たりはありませんか? 三保大学の人間にそんなことをされることになった過去に思い当たる節は」
「ふむ、そんなことをせずとも私が生者と積極的にかかわることなどないのだから無益な徒労でしかないだろうに。そうだな、誰かからそんなことをされる理由に思い当たる節など何一つないな。君がそう言うのならそれが正解なのだろうが、そこまでされるほどの強い思いを他人の心に残すような出来事など何もなかったはずだが」
きっとナトリさんはその誰かのことを覚えているのだろう。
「大学で広まっていたのはそういった理由があるのでしょうが、ただ、カクテルの名前と定義したのはその人ではないように思えますね」
「ふむ、その出所はいくら考えても答えは出ないものだという気がしてしまうな」
それに関する話もこの人は覚えているのではないかという気がしてくる
「ところでトム・コリンズというのはここで飲めるんですか?」
「ああ、すぐにでも作れるよ。だが、単純なレシピをなぞればいいだけのものなのにどうしても昔飲んだものと同じ味にはならないんだ。単にここにあるオールドジンの味のせいなのか、私の腕がいまいちなのか、何かが決定的に違っているのか、記憶が捻じれて擦れて覚えている味の方が違うのか、なぜだろうか。まあ、そんな話はどうでもいいか、飲んでみるかね?」
「いただきましょう」
「存在しないものを追いかけてここにたどり着いたのと同じように、君たちが本気でこのカクテルの起源を調べたのなら、その起源がどこにあるのか、その正解すら見つけ出すことができるのかもしれないな」
「調べても身にも貝にもならなそうですがね」
「それでいいんだ。1874年のアメリカである若者の一団が流した噂が街を駆け巡った『トム・コリンズを見たか?』とね、酒場での与太話としてしたのだろう。若者たちがその噂を信じてトム・コリンズを探したように、1874年から1876年までの間、この世に存在しないトム・コリンズを追い求めた彼らと同じように、気楽に酒でも飲みながらくだらない噂の真相を探ればいい。
本当に知らなければならないことに心をすり減らして挑んでいくのではなく、そういったくだらないことについて考え続ける日々を送ることができるのなら、それでいいんだ」
・21
静清バイパスを降りた僕はそのまま駿河湾をヘルメットのシールドの端にとらえながら富士市まで国道一号線上を進んだ。富士市から富士宮市へ、白糸の滝の入り口や子供の頃に家族旅行で立ち寄った牧場を横目に、富岳の裾野をゆっくりと西回りに進み、山梨との県境を超えた。鳴沢の森の中を抜けるその道は両脇に木々がうっそうと茂っていて、五月だというのに空気は冷え込んでいた。その道を走りながら一時間も経っていない呑気であたたかな太平洋沿いの空気が恋しく思ってしまう。自分の心臓がずっと誰かに握られているかのように自分でもわかるほど窮屈に鳴っていた。
「氷穴まで行って折り返そう」きっとそこにたどり着くまでに何もなければ僕の考えは間違っている。すべてが手遅れなどということはあらず、まだ、ここから必死で頭を働かせさえすれば、どこかで二の足を踏んでいる先輩に追いつくことができるはずだと信じることができる。そんな最後の細い希望にすがるため、自分自身をだます最後の理由付けのため、僕はドラッグスターを走らせた。薄暗い森の中の道を進む僕の視界に春の夜空に浮かぶアークトゥルスのように赤く強く光が一瞬だけ映って消えた。
それを見てすぐ、ブレーキをかける。
草木をかき分けながら進んでいくとそこに一台のバイクが隠すようにして止められていた。ボンネビルT-100、先輩に僕の一度きりの旅の話をしたとき、このバイクのことをとても羨ましがっていて、昨年このバイクを購入した。それを見た瞬間に不確かな形しか持たなかった全てが正しくつながる。
それをみた瞬間にすべてを悟った。
先輩はこれに乗ってこの場所まで来たのだろう、そして自らの足で樹海の奥へ消えていったのだろう。それ以上は探す必要もない、探すことも出来ない。
僕はここまで来た。そして希望をなくした。
「これ以上、何を確かめる必要があるのだろうか?」
僕はそう自分自身に言い訳をして、僕は静かにその場をあとにした。
その夜、誰かに話を聞いてほしくて、僕の足は自然とティロー・ナトリの酒場へと向かっていった。彼以外にこの話をできる相手なんていなかった。
先輩の提案を受けてからというもの足の遠のいていたその場所へと向かった。フラフラと自分がどこを歩いているのかもわからないまま町を歩いている間に店へとたどり着いて、店内へと入った僕はへたり込むようにカウンターチェアへと座る。
そんな僕の様子をティロー・ナトリいつもと変わらない様子で眺めていた。
「酒でも飲むかい?」
席に着いた僕に彼はそう声をかける。こくりと頷くと、目の前に置かれたグラスになみなみと清酒が注がれた。注がれた酒を僕は一息で煽った。
「なにがあったんだい?」
そうして空になったグラスをコトリと置くと、項垂れたまま彼に事の顛末を話しだす。
その時のティロー・ナトリはいつになく真剣で、ただ僕の話を黙って聞いていた。
「そうか、やはり止めることはできなかったんだな」聞き終えた彼は短く頷いて、少しだけ間隔を置き「君は私を恨まないのかい?」と抑揚のない声でそう尋ねた。
「ナトリさんを恨んだって何も変わりはしないでしょう。これは僕のせいです」
「それは違うな、君の行動が原因で彼が死に向かったわけではない」
「いいえ、僕が違う選択をすれこの結末は変えることができたんです」
「それはタラレバだよ。観測されていない出来事だ。本当にできたかどうかもわからない可能性なんてものをわざわざ考えて自分を責めるのはやめたほうがいい。何の意味もない。そんなものは悲劇に浸りたい人間のただの自己満足でしかない。向き合うべき現実は目の前にあるものだ」
「君にも思うところはいろいろとあるのだろうが今日はもう帰って眠るといい。あとで迎えに行くから、一か所だけ私たちに付き合ってくれ」
・22
夢の中にいるのだと、すぐにそれがわかった。現実とは違う世界のなかに僕は立っているのだと。夢とはいえ普段見るような明晰夢とはまるで違う。ティロー・ナトリがそこにはいた。
寝不足のまま旅行に来てしまったかのようなふわふわとした感覚のまま、二歩三歩と前へ進んだ。どこかもわからない湖畔に僕らは立っていた。湖を囲む葉を赤や黄、橙に染めた木々が風の中で揺れている。正面には他の山と見間違えようのない富岳が湖面に映る雪化粧をした自身の姿を静かに見つめていた。その主張の激しい、存在自体がやかましい円錐形の霊峰を除いたならば、あたりの空気はひどく穏やかな気配と静寂に満ちていて、風で木々が揺れる音と、風につられて湖面でおこった波が湖岸に打ち付ける音だけが時折聞こえた。空はどこまでも高く、チューブから出したシアンの絵の具をそのまま塗りたくったような色をしていた。その色が立体としての富士山麓をより浮かび上がらせているようで、とても現実とは思えない程、美しかった。冠雪の富士も、紅葉の樹木も、秋晴れの空も五月にはありえない。
「富士五湖のどれかですか?」
何も言わずに隣に立っているティロー・ナトリにそう尋ねてみる。
「精進湖だ、私はここが好きでね」
ティロー・ナトリは表情を変えずにそう答えた。
訪れたことのある具体的な地名を言われたせいで、子ども時分に何度か訪れただけのその場所だと確証があるわけではないのに、見覚えのある場所のように思えてきてしまう。
「それは?」
「なんでもないよ。本当にこれを私が持っていることに何の意味もないんだ。それよりも君がここにいるというのが不思議だな、これまでに数えきれないほど多くの死を弔ってきたが横に誰かがいるというのは初めてだ。君がここに来るとはね」
「ナトリさんが呼んだのでしょう?」
「いいや、私が君に付き合ってほしかったのはこの後のことだ。ここには私一人で来るつもりだった。まずは一人で静かに物思いにふけって今回の件に対する自分なりの答えを見つけてから君を迎えに行くつもりでいたというのに、まさか、こんなところに来るとはね」
「ただ物思いにふけるためだけにこんなところに来たんですか」
「そうさ、一人でいるときの私は手を合わせる。いろいろな形で祈る。人の作り出した神を信じていないと私は何度も君にはそう言ってきたがね、この世界を作り出した何者かはどこかにいると思っている。とても美しい理の中にあるこの世界の中で、どうか私の触れた誰かの行く末が幸福なものであることを祈る。そのために静かなどこかに来たかったんだ」
「その何者かを人は神と呼ぶのではありませんか?」
「それは絶対に神なんかではないさ、そんなに人にとって都合のいいものではない。その何者かにとって都合がよかったから、彼らは世界を作ったんだ。そこに信仰心なんてものはないよ、だが、そうなれば矛盾が生じる。私はなぜそんなものに祈らなくてはならないのかと、それを考えだしたら堂々巡りだ」
「バカみたいな話ですね。でも、ナトリさんにはわかるんですか? 先輩の行く末がどうなるのか?」
「いや、私はその最後を見ることはできないよ、私は死者に会うことは叶えども、その生末を知ることはできない。
きっと私の立っていることのできる場所の外側の出来事なんだ。私に許されているのは自分の死体を探すことだけ、それ以上の何かをすることを許されていない。私がいつからかそう自分で線を引いてしまったんだ。それを超えてしまえば自分の結末を知る前に私という人間は終わってしまうのだと、私自身がそう信じているんだ。だから私は死者の生末に対してただ祈ることしかできないんだ。
ただのジンクスでしかないはずのそんな考えを一体いつからか私は信じてしまったのだろうな。自分の無力を知った結果これが一番良い形だと私がそう信じてしまった。
君にはこうはなってほしくないものだな」
遠い昔にはできていたはずのそんな一歩を踏み出すことがいつからかできなくなってしまったと、ティロー・ナトリはその悔恨を口にした。
「私には誰かを救うこともできなければ、誰かのために私自身を変えることもできない。
できるのは、終わってしまったものに敬意をもって彼らに接するか、父親が遠くへと旅立って行く娘にそうするように、遠くから見守ってできうる限り優しい気持ちで手を振ってあげることくらいだ」
ナトリさんが話しているその言葉を聞いて、その言葉にあるであろう彼の過去についてだけを考えていた。
「そうすることでしか私は自分の気持ちというものに区切りをつけることができないんだ。私は私自身の死体を探さなくてはならない。そうしなければ前に進めないのに、一度誰かの死に触れてしまうと、ずっとそのことを考えてしまうんだ。ずっとその場で足踏みを繰り返してしまってなかなか次に進むことができなくなってしまう。
もう何度も自問したことなのに、やはり私に人を救うことは出来ないのか? と、そんなことを考えてしまう。それではダメなんだ。自分の死体を探すために旅を続けてきたというのに、他人の物語に心を奪われてその中の登場人物であろうとするべきではないんだ。無力はとっくの昔に知ったはずなのに、まだ自分に何かができると信じるべきではないんだ。
私は自分の死体を見つけなければならない。それをして初めて私はこの人生を終えることができる。それ以外の何も私はするべきではないんだ。
私自身が次に進むため、そのためにも、長谷川とここで別れなければならないんだ。
高橋、それはきっと君にとっても同じことなんだよ」
ティロー・ナトリが僕の名前を呼ぶ。僕は何も言わずに彼の目を見つめ返した。
彼の瞳は明るいところでは澄んだ青色をしている。
その、空と同じ澄んだ青色の瞳がその時ばかりは揺らいで見えた。
ティロー・ナトリは僕から視線を切り、ゆっくりと歩き始める。湖の中へと入って行く。ジャブジャブという水をかき分ける音が僕らしかいない無音の空間の中で響いた。岸から離れるほどに深度を増す水の中を進み、腰から下が完全に隠れたあたりでナトリさんは立ち止まった。
「君たちにとってこの結末がどういう未来を生むのか、それは私にはわからない。
だが、せめて君が穏やかに旅立ってくれることを、その次に訪れるだろう新しい生が幸福であることを、それだけを私は願うよ」ティロー・ナトリがつぶやくようにそう言った声が、何にも阻まれることなく岸にいる僕のところまで届いた。
「だがそれよりも前、君が遠くへ旅立ってしまうよりも前に、私自身の旅の先で君とまた出会うことができるのなら、すぐに酒でも持って会いに行くさ、その時はゆっくり話そう」
水についたティロー・ナトリの掌に光球が現れて、湖水の上に浮かんだ。
船の船首が波を切るように水面を揺らしながら対岸を目指してゆっくりと進んでいった。
球は、一度大きく、揺らぐように光るとすぐ、蜃気楼のように消えてしまって、あとはどれだけ目を凝らそうと、もう見ることはかなわなかった。
湖岸へと帰って来たティロー・ナトリは「ひどく疲れた」と僕の隣で地面に座り込む。
「君はこれからも何かの真実の探求を続けるのかい? それは確かに誰かを救うことができるのだろうが、それよりも多くの人間を傷つけることになるだろう。いや傷つけられるのは君の方かもな。わざわざ何かを確かめようとするような人間はそこに自分の望んだ答えがないと納得できない場合が多い。君が誰かに乞われて真実を暴いたとしても同じことだろう。
それを受け入れられる人間ばかりではない。
長谷川という男はそれをわかっていたね。そういう意味で彼は心内で何かをあきらめていた。君とは違いあまり他人に期待をしすぎなかった。人がみな必ずしも善人であるわけがないと本当の意味でわかっていた。
本当に君たち二人はバランスの取れたいいコンビだったな。
君と何かを考えるための材料を探すときの彼はいつも楽しそうだった。好奇心が旺盛で人並み外れた知識欲を有した男だったが君の前にいるとそんな彼が正常な人間に見えた。
二人で私の店に来る君たちは、どこにでもいるただの目の前の日々を面白おかしく生きようとしているだけの大学生の青年でしかなかった。
これからも君は真実を暴くのかい?」ティロー・ナトリは僕にそんなこと聞いてきた。
ティロー・ナトリのその言葉に僕は首を横に振った「いいえ」
「できることなら、僕はもう傷つきたくありません」
湖へ石を投げる。五回ほど水面で跳ね、沈んでいく。
「そうか、傷つきたくないか……ならば、そうするべきだろう」
などと口では言っていたが、その時の彼はどこか納得していないようだった
「だがね君という人間はこと自分自身のことに関しては……いやよそう。そうだな、これ以上は余計なことを言ってしまいそうだ、君ももう平気そうだな。なら、もう一か所付き合ってくれ」
そう言って、ティロー・ナトリはパンッと手のひらを打った。
・23
「そうして話は一番初めへと戻ります。僕と先輩がいる夕暮れのサークル棟、多目的教室で僕は目を覚ましました」高橋は話の途中、自分の為に持ってきた冷酒のグラスを指先につかみ、宙をかき回していた「これが僕らの経験した二度目のカクテル探しの話です」。
高橋がグラスをカウンターの上に置く。コトンという音が短く響く。
「なるほど、つまり高橋が言いたいのは長谷川という男はもうこの世にいないってことか」
ここで先輩はようやくそのことを理解する。今まで何一つ察することもなかったのに、高橋がそれを口にした瞬間に不自然なほどあっさりと受け入れるんだ。
「まあ、そうなりますかね」
高橋は表情も変えずにそう答え
「でも、お前は死体を確認していないんだろう? お前に限らず誰一人として」
先輩は高橋に尋ねた。この辺りのリアクションは君と同じだな。
「ええ、今の今まで誰も先輩が死んだことを確認してはいません」
「じゃあ」
「彼は今も旅を続けているのかもしれない。でも、貴方は長谷川武樹ではない」
死んだことを確認していなくても、彼はもう高橋と同じ場所にはいない。そのことを理解しているからこそ、目の前にいる先輩に高橋は真実を突きつけなければならない。
「じゃあ、俺は何だ、高橋?」
当然そう尋ねるさ。
「僕にはわかりません。わかりませんが、ナトリさんが言うには、ただの残り香だそうです、燻らせた紫煙に映る思い出のような物だと、そういっていました」
そして高橋は私の言葉を使う。そこが彼の優しさなのだが、彼はそんな自分自身のことをただ弱いだけだという。彼が自分自身に向き合う日はいつになるのだろうか?
「残り香……思い出……つまりは高橋の見ている幻覚か?」
「まあ、似たような物らしいですよ、盆の時期にはよくあることのようです」
「似たようなものね、幽霊とは違うのか?」
「これもナトリさんが言っているだけですが、幽霊なんてものは存在しないようですよ。死者がいるのは人のうわさ話の中か、誰かの思い出としてだけらしいです」
そうだ、幽霊なんてものは存在しない。
「噂話か。トム・コリンズみたいだな」
不意に長谷川がそんなことを言った。この言葉に私は感心したよ。
なるほどな、トム・コリンズだ。彼のぽつりと言った言葉はストンと胸の中に落ちてきた。
「似たような物かもしれません。本当は存在しないものの話をこぞって誰かがするのですから、違うのは誰もそれを探そうとはしていないところです。探そうともしないのに信じている人がたくさんいる」
「本物の長谷川に会いに行こうとは思わないのか? つまりは幽霊を探そうとは、お前なら見つけられるだろう? お前ならできるだろ? 嘘から真実を作り出すことが」
「そんなことが、できる人間はいませんよ。それができたのは先輩だけです。そして彼はもう旅から帰ってくることはありません」
「どうした高橋?いつもみたいに適当な話をでっち上げればいいじゃないか、詭弁だと言って面白い話を語ればいいじゃないか」
「……いつか……いつか誰かが作りますよ……トム・コリンズを噂話から作り上げたバーテンダーのように、いつか、きっと噂話を信じていた誰かが幽霊を見つけだします。
そうして、見つけた幽霊と、話をするんです。カクテルのように軽い口当たりの、なんでもない話をして、あっさりと別れるんです。それだけで満足するんですよ。それだけで幸せな気分になるんですよ。ああ本当にあったんだって興奮したまま、その誰かはベッドで眠るんです。すごく満ち足りた気分で、あったかいベッドで眠るんです
それだけで、ずっと噂を信じていてよかったって思うんです。馬鹿げた、でもそれが本当にあるはずだって、ずっと探し続けてよかったって、そんなことを思うんです」
高橋はもう先輩の顔を見てはいなかったよ。とても見ていられなかったんだ。
そこにいないのはもう知っているのに、残り香が彼の記憶を鮮明に呼び起こしてくるから。
「なるほど、悪くない話だな……いつか高橋が、本物の長谷川に再会できることを願っておくよ」
「そんな日は来ませんよ」
「いいや、来るさ。お前の言う言葉は、いつだって真実になるんだ」
「僕が真実を語ることができるのは……」
「語るだけじゃない、見つけなければならないんだ、語れるのは過去に在ったことだけだ高橋。
ありがとう。俺は自分がなんだかわからないけど、今日はなかなか楽しかったよ」。
最期にそれだけを言うとそこに座っていた先輩に似ている何かは音もなく消えていく。
まるで初めからそこに存在していなかったように。
長谷川という男はね、彼自身が高橋にとっては青春時代の象徴だった。狂乱の時代に街中で奏でられていたジャズミュージックのように、彼は軽快で華々しく、そしていつでも高橋の傍らにあった。
・24
誰もいなくなった店内、僕はまた読書へと戻ろうとした。
手が震えていた。そのせいで、カウンターから文庫本を持ち上げようにもうまくいかず、仕方がないので指の閉まらない手のひらでどうにか引っ掛けるようにしてページをめくっていく。気を落ち着かせようと目で文字を追っていった。混乱した頭で意味を理解できてもないのに、ただそこに書かれた言葉を視界にとらえてはページをめくる。
なにが起こっているのかも理解しないまま見ていた短編小説。
その最後『私、いい子だったわよね?』と女性が僕に尋ねてくる。
その質問に対する答えを僕は考え始めた。
そうだろうか? どうだろうか? 彼女はいい子だったのだろうか?
なぜそんなことを僕に尋ねるのだろうか?
疑問がいくつも頭をめぐっていく。
やがて「僕は、いい子だったのだろうか?」たどり着いたそんな言葉が口から洩れた。
独り言ちってみたものの言葉は狭い店内に残響もなく消えていく。
僕のそんな質問に答えてくれるはずの先輩も、いつも答えを教えてくれたティロー・ナトリでさえも、もう、僕の隣にはいてくれなかった。
・26
「以上だ。これが、高橋が真実を語る話だよ。どうだい? 満足したかね?
君が残り香かどうか? いいや、違うさ。
君はこれからどうする? 高橋になにかの真実を聞きに行くのかい?
聞くことのできなかった答えか……。
何があったのか私は見ていたけれどね、そんなものを今更聞いてどうなる?
そうか、それが彼の為になるのかどうかは私にはわからないがね。
一つだけ、確信をもって言えるのは『君たちはいいコンビだよ』ということだよ。
依然変わらずね。
高橋は今も間違い続けているんだ。君が自分で選んで消えたことなんて、彼が気にする必要はないのに、今でも自分のせいでそうなったと信じていて、後悔をしている。何が彼をそうさせたのか、その感情は私にはわからないんだ。
さて、列車も来たことだし、私はもう行くことにするよ。最後の旅の途中なんだ。
君たちもせいぜい達者でやりたまえよ。
いいや、それはもう終わったことだ。
これは巡礼の旅だ。私の持つ懐かしさを巡る旅だ。
君らはそんな私のなつかしさの一つなんだ。
会えてよかった。特に君にはもう会えないかもしれないと思っていたから。
では、もし機会があればまた会おう」。
そう言うとティロー・ナトリは到着した汽車に乗り込んで消えていった。