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01 ティロ―ナトリのエンドロール 前

『ティロ―・ナトリのエンドロール』


・1

 梅雨の明けた七月の暑い日だった。小学校から家までの帰り道で水田の横にある児童公園を横切ろうとしていた僕はそこにティロー・ナトリが一人でいるのをみとめた。面白いものを見つけたと僕は家へと向いていた体を切り返して全速力で彼のもとへと駆け寄ってゆく。

 当時小学生だった僕は学校帰りによく(とはいえ二週に一度ほどの頻度だっただろう)その公園で彼の話を聞いていた。クラスメイト達のように通学路にいる彼の持っているお菓子が目当てだったのではなく、僕は彼の話そのものが好きだった。

 その日の彼は白地に大きくペリカンの頭部がプリントされた奇妙なシャツを着て、窮屈そうに回転ジャングルジムに収まりながら空を眺めていた。僕はランドセルを背負ったまま出せるその日の全速力で彼の側へぐんぐん近づいていく。

「今日はどんな話?」目の前に迫った座りながらも当時の僕の二倍はあろうかという彼の体躯を眺めながら質問をする。

「少年、いつも言っているだろうが、話すのはいいんだがロハではいけない。ただ話すだけでは意味がないんだ。君がそれを買ってくれないと。こちらも商売でやっているんだ。慈善事業ではない。だから聞きたいならお代が先だ」

そういうとジャングルジムから一跳びに僕の横を過ぎて斜め後ろまで飛んで、地面に刺さるように着地する。

立ち上がったティロー・ナトリは長い腕が十分に太く見えるくらい筋肉は張っているのに、全体像を見ると背が異様に高いせいなのか体つきが細くみえる。それでいて肌の色がいやに青白いので薄弱に見えるのに赤茶けた目の色だけがギラギラしているせいで妙な存在感があって、どこを見てもちぐはぐと言おうか現実離れしていた。

 公園にあるどの遊具のてっぺんよりも高くに見えるその頭を腰だけ折って僕と同じ目線に下ろしてくる。そんな仕草のせいで余計に(彼いわくそれは相手に威圧感を与えないためということだが、逆効果だ)彼自身がとても奇妙な、学校で遊ぶ友達や先生、家で見る両親や近所に住む大人たちとも違う、僕らとは姿が似ているだけの全く別の存在に思えてくる。

「今日はこれ持ってる」僕は少し気圧されながらそう言ってポケットから取り出したビー玉をティーロー・ナトリへと差し出した。それは前の晩、風呂あがりに飲んだラムネの瓶から取り出したビー玉だった。

「ほう、いいな。ビー玉かい?」僕の手のひらから摘まみ上げるようにビー玉を取ったその瞬間、ティロー・ナトリは弾かれたバネのように僕の目線に会うよう曲げていたその腰を伸ばして「夏らしくって……瓶のなかに閉じ込められたひどく涼しげな空気をまとったこの上品さはなんともいい」うっとりと空に掲げたビー玉を眺めながら、彼はそんなことを口にする「口にいれて転がしたくなるな。清涼飲料水の中に沈む泡のようで幼時の暑い夏のことを思い出して、炭酸のラムネのなかにある時に見れば洒落たアクアリウムの用にも映る。よし、いいものだな」

人差し指と中指の間に挟み込んだそれを夏の陽光に向けて、近づけたり遠ざけたりを何度か繰り返す。彼の手はひどく長くて、高低差のせいか彼がその腕を曲げ伸ばしするたびその先のビー玉は一瞬で打ちあがる龍勢のように僕の視界からは完全に消えていった。しまいに手を伸ばしたままで固まってしまった彼が何を考えているのかは僕にはわからなかったけれど、次に彼が言うだろう言葉だけはわかっていて、それを心のなかでずっと急かしていた。

「よし、いいだろう。君に話を聞かせてあげよう。いいものを貰ったからね、その分だけだけれど、このビー玉一個分は聞かせてやるよ」

話を聞かせてくれるという、その言葉ひとつで僕はたちまち笑顔になって持っていたランドセルをその場に放り出し、ゆっくり元の場所に戻るティロー・ナトリの脇を抜けて彼の元居た場所の横に来るようジャングルジムをよじ登ると、ゆらゆら自分の両足を揺らした。

「今日はどんな話?」と同じ質問をして

「そうだな、せっかくビー玉をくれたからそんな話だ」ティロー・ナトリがそう応えながらジャングルジムの中、腰かける。

「それってどんな話?」私がそうきくと

「私がビー玉みたいだと思っている話だ」

ティロー・ナトリはそう言っただろうと小馬鹿にしたように笑みを浮かべた。

「どこら辺が?」と、問答が楽しくなってそう聞いた僕に

「それは聞いてから自分自身で考えろ、少年。私は学校の先生とは違う。答えは教えない、だから君自身が考えるんだ」

応えたティロー・ナトリの切れ長の目が遠くを眺めるように宙へと向かう。


夕暮れ色の瞳だ、明るい茶色の済んだ綺麗な瞳だ。

僕もつられて見上げる。その日、空の色は紺色なのに沈みきらない太陽がいやに明るくて、夕やけじゃなくて、まだまだ昼なのに夜が来たみたいな、宇宙の他の星から見える惑星ってのはこんな感じなんじゃないかって、そう思える空。

思うに、ティロー・ナトリは瞳のなかに夕暮れを盗んだのだ『空から夕暮れを盗んだらきっとこんな色になるのだろうな』と少年の僕は考えて。

 そうして、深くなっていく紺色の空、その一番奥を彼は見つめていた。

 きっと彼は僕の見ることのできない、彼自身の覚えている情景をみつめていて、そこに見えるなにかを纏めようと遠くを眺めたまま唇を尖らせて、息を吐くと、その日もいつもとおんなじようにゆっくりと語り始めた。



・2

「ダメだ、出鼻をくじかれれた」

「どうした?」

「頼まれたからノコノコとやって来て、お前の書いた小説なんかを読んでいるわけだけど」

「なんか問題あったか?」

「名前だ」

「名前?」

「ティロー・ナトリってのはどんな綴りなんだ?」

「さあ、考えようともしなかったな」

「考えてくれ! そうじゃないと手直ししたって翻訳なんかできない!」

「別に適当でいいだろう、そこはそんなに重要じゃない、それに俺は日本人だから外国人の名前の綴りなんか詳しくない、お前が決めてくれ」

「わかった。それっぽい綴りを考えよう。まずこいつの国籍はどこなんだ?」

「日本人だ」

「余計に難しくなった」

「ここはそこまで躓くところじゃないと思うけれど、そうだな発音的にはテーローとかそんな感じだ、T・R・ナトリとか……あ、TAROでいいじゃないか?」

「それでいいのか」

「いいじゃん、太郎。ナトリタロウで、ほら、それっぽい」

「それっぽいってなんだよ? いや、お前がそれでいいならいいけどさ。そもそもからしてどんなキャラクターなんだコイツは? まるっきりただの不審者じゃないか?」

「見た目自体はそこまで不審者って感じでもないんだけど、行動と言動は一般的見地からすれば不審者だ」

「何を言っているのかよくわからん。読んで判断するよ」


・3

「どことも知れない屋外の公園で男は目を覚ました。空を囲むような隆線の見える山間にある石造りの半円形の小さな舞台で眠りこけていたようで、なぜだか何年か前にギリシャで見たディオニソス劇場と放射状に延びる客席の先に広がる青空の色を思い出した。どこかに滝でもあるのだろうか、激しく水の流れる音が聞こえている。

音のする方を見てみると、山と山の間をつなぐように、巨大なコンクリートの塊が先の見えない谷底から生えるようにしてそびえ立っていた。どこかの山奥にあるダムにいるのだろうとはわかるが、どうやってここに来たのかが、なぜここに来たのかはまるで分らなかった。

『昨日は学生時代のクラブの先輩が結婚式をするというので当時の仲間たちと参加していたはずなだ』と、覚えている限りの記憶を探るため頭を働かせていると、なぜか転びゆく女性の顔が頭の中に浮かんできた。2010年代の初頭に小劇場でよくみたアングラと呼ばれるジャンルから毒を取り除いた舞台作品で同じセリフを何度もリフレインするように、見ていた悪夢の内容を目覚めてからも覚えているように、寝起きでまだ薄ぼんやりとしかはたらかない頭の中で唐突に浮かんできて、それが丁寧に脳裏に刷り込まれでもしまみたいに消えていかない。

その女性の表情になぜか不安を覚えた。二日酔いの朝に酒の席でした粗相を思い出すような、焦りともあきらめとも後悔とも取れないような感情が湧いてくる。どうにか逃れようと、別の楽しかった出来事はなかったものかと考えを巡らせてみるものの一度脳裏に焼き付いてしまったものだからか、ヒビの入った甕から水の漏るように止めることが出来ない。切り取ったその一瞬が色彩を変えただけのものをいくつも並べたウォーホルの絵のように見えたかと思えば、かくかくと回転式のスリットアニメーションのようにまた動き出して、同じように彼女が倒れていく。

名前も知らない、先輩の友人として同じ結婚式に参加していただけの見知らぬ女性。

何かを悟ったような悲しげな目をしている『その目が嫌いだ』と男は確かに思った。

どうしたって笑えもしない、美しいと心を動かすほどでもない日常の中の一幕でもない。なぜだか理由はわからないが何度もよみがえるその表情を見ていることが彼にとって苦痛で、それと同時に『今更真剣に考えたところで何が変わるわけでもない』と、とても面倒なことにも感じた。

もしもこの瞼の裏に浮かぶ景色が心を揺さぶるような原風景だったのなら、まどろみの中でそのまま目を閉じて夢とも現実ともとれぬ場所へと戻ることができたのに変に頭のさえてしまったせいで眠って忘れることもできない。

もしもこれが、幼時、両親に手を引かれながら歩く夏祭に浴衣に足をとられながら普段なら出てはいけないと言われている夜道をあるいた夜。何もかもを新鮮に感じてはしゃぎ回る屋台の明かりの中で綿菓子を差し出した亡き母の顔だとか。

例えばこれが、今の君と同じように一学期の終わりの日。その日の終わりに引っ越してしまう女の子と最後に一緒になった帰り道、素直に寂しいと言えず、ただ『元気で』と伝えた時のその彼女の顔だとか、浮かぶのがそんな風景だったのなら、郷愁を感じながら揺りかごの中のようにゆっくりと眠れたはずだというのに。

ゆっくりと離れていく女性の顔が、何が起きたかわからないと呆然としたように目を見開いたその表情から、何かを悟ったような悲しげな眼に変わっていく。

自ら宙に飛び出した男の方は落ちながら色んなことを同時に考えていた。

気持ちのいい夏の夜だな、昼の暑さが嘘みたいに思えて夜風が心地いい、とか。

切りそろえられた艶のある黒い髪が揺れるのが見えて、それがどこか子供の頃に祖母の家の縁側で夕暮れに眺めた丸い七夕飾りに似ているな、とか。

式の間、一度でいいから笑っている彼女の姿を見ておけばよかった、だとか。

そんな顔をしてほしくはなかった、とか。

優しく引っ張ればよかった。私のせいでせっかくの服が汚れてしまわないだろか? とか。

それで最後『ようやく、私にも飛び出すことが出来た』記憶の途切れる寸前にはそんなことを考えていた。

切り出した岩をそのまま置いただけのような舞台の上、高く上った夏の日差しが何にも遮られず届くのでじわりと汗がにじんできた。あと少しで昨晩のことをすべて思い出すことが出来そうなのに、仕方なしに目を開けて体を起こす。なぜだかさっきよりも幾分か気持ちは晴れてきた。

とはいえ、考えたくないことは考えないに限る。まだ十時間ほどしか経っていないのだから鮮明に覚えているだけで、転んだ彼女の顔も深刻に考えなければ、いずれ酒で流してしまいたい思い出の一つになるだけだ。それよりもどうやって家に帰るかを考えなくては、と男は今一度あたりを見回してみることにした。

舞台を降りて公園を少し歩き、水音のする方へと向かってみると、やはりそこにはダム湖があって、男の故郷が沈んでいた。

澄んだ水の底に、男の生家でもあるくすんだ白い壁に番号の付いた公団住宅も見える。小高い丘の上にあるその団地を中心において18に発った日の思い出の中と一切形を変えていない故郷が沈んでいた。遠目に見るその景色は役所の玄関に置かれていたジオラマのようにしか見えなくて『ああ、懐かしいな』と、太平洋に向かうダム建設の候補地とは程遠いその町が沈んでいることなど彼は何一つ不思議には思わず素直に郷愁に浸った」。


・3

「これはそのナトリ太郎が話しているってこと?」

「そうだよ。何ならこの全部の話をティロー・ナトリが話している」

「なんかあんまり良い構成だとは思わないけどな」

「まあ、覚書みたいなものだからな、構成なんか全然練ってない」

「覚書っていうのはいったいどういうことだ? まだ下書きってことか?」

「下書きというか……オリジナルから手を加えていないというか、居酒屋で聞いた話をほとんどそのまま書き留めているだけだから、大学の講義を聞いて書いたルーズリーフの文字列と何も変わらない」

「お前はなんだってそんなものを俺に読ませているんだ?」

「書き直したら英語に直してほしいのと、それ以前にどういう感想を持つかと思って気になってね、すぐに読んでほしくなった」

「ならこれは誰かから聞いた話なのか?」

「ああ、飲み屋で会ったティロー・ナトリからもらったんだ。酒の一杯と交換で。誰に伝えても自由だってそういわれた。ただ何がビー玉みたいなのかそれがどうしてもわからないんだ」

「……とにかく読むか」


・4


「寝起きよりは大分気分もましになっていました」

着飾っていたのだろう。露出は押さえられていたが紺色のドレスはよく似合っていた。セミアフタヌーンドレスというのだろうか、堅苦しくはなくとも上品さがあり花嫁の友人としては問題のない格好だろう、だからそのアスファルトに派手にすっとんで彼女が転んだのを見て申し訳ないことをしたなとそんなことを思った。

 なぜだか誰かの転ぶところばかりを思い出す。

 前日は大学時代にと同じ陸上競技部に所属していた先輩たちの結婚式だった。私は優秀な400メートルハードルの選手で、彼らは短距離の選手だった。

「ハードル競技は好きでしたよ。痩せていたところで過酷なものだからと周囲に何を言われるでもなく、限界まで体を酷使して走ると過去の嫌なことも忘れられたので」新郎新婦も大学陸上部の先輩ではあったが、新郎との接点はほとんどない。新婦とは高校も同じで彼女との接点の方が多かったのだが、式には新郎の友人として招待されていた。

 新郎との思いではほとんどなかった。部にいた期間も重なっているのは半年ほどで、競技自体も別だったのでトレーニングをともにした覚えもない。新郎の友人代表として話す入部当時の部長の顔は覚えているのに、私を招待したはずの新郎の顔は席について、眺めてみても当時部にいたのかどうかさえハッキリとは思い出せなかった。

 友人代表の挨拶として二人の人柄なんかを語る部長の言葉に耳を傾ける。時おり冗談なんかを混ぜながら、話は移って部長たちが四年生のこと、当時二年生だった先輩が練習中に怪我をした時すぐそばにいて介抱したことをきっかけに二人のなかが縮まったのだと部長はそんな当たり障りのない話を続ける。

私は話を聞きながらそのときの様子を思い出していた。初夏、週末の練習で男女とも同じ競技場で練習していて、私たちハードル組はグラウンドの端の方、練習用のレーンで5歩の間隔でハードルを飛ぶという練習を順番に行っていた。自分の番までの間は、各々が余ったハードルで踏み切り動作の確認をしていたり、ストレッチを繰り返していたりした。高校の部活動と違いトレーニングは自主性によるところも大きく、私は一度列を離れて給水をしながらグラウンドの中をぼんやりと眺めていた。

 それぞれが自身の競技練習を行っているなか、遠くの方で短距離練習を行っている先輩が短い距離のダッシュの最後で激しく転んだのが見えた。誰か勝ちたい相手と走っていたのだろうか? それとも筋肉に異常でもあったのだろうか? 大きくバランスを崩してトラックの上を跳ね、倒れたままうずくまる「私はすぐさま走り出そうとして、そして躊躇してしまいました。先輩の傍にはすでに一緒に練習していた選手やコーチたちが集まっている。そして冷静に考えれば私が行く意味などないと、思い直して結局なにもせずにただ遠くからそれを眺めていただけで、何もしなかったんです」

事態に気がついた同級生が何事かと訪ねてきたのに対して、誰かが転んだようだと応える。誰が転んだのかと更に問われて、女子の先輩のようだとグラウンドの遠方で担架にのせられた先輩を指差す。二人して黙って眺めていると、同じくハードル競技の練習中の先輩に「いいから練習するぞ」と声をかけられ練習へと戻った。列に戻ってから一度だけ後ろを振り返りうずくまりながら運ばれていく先輩の姿に目をやるが、すぐに目の前のハードルへと向き直った。

 もし、あの時に駆け寄っていたのなら何かが変わっていただろうか? せめて新婦の友人を名乗ることくらいは許されただろうか? と、私はスポットライトに照らされるかつての部長の現実感のまったくない姿を見ながらそんなことを考えていた。


新郎新婦が入り口へ移り、ゲストの見送りが行われている中、再度簡単な祝辞だけを述べて記念品を受け取った。新婦は無邪気に友達と話ながら時おり写真を撮ったりしていたが、そういえば、その中にはあの女性もいたのだろうか? 無邪気に笑顔で友人として写真を撮ったのだろうか?

 転びゆく彼女の表情なんてどうでもよかったから、せめてそちらを覚えておきたかったとそう思う。

 

 そして結婚式の二次会の帰り道、千鳥足のまま大勢で橋を越えようとして私の隣にいたその女性が大きく体を投げ出す。私も酒を飲んでいて咄嗟には反応できなかった。その場から跳躍してなんとか彼女の体を引き寄せる。今までで一番跳んだだろう。そしてそのまま勢いを殺すことはできず、欄干にぶつかった体がそのまま宙に投げ出され落ちてゆく。彼女の倒れてゆく姿を最後にみとめて。その姿が何度も繰り返される。感覚は高跳びをしたときの感覚に似ていた。向いていないのと走る目的のために陸上をはじめたのとですぐにやめてしまったが、競技決めの体験で高跳びをした時、一度だけ自覚できるほどの綺麗なフォームで飛ぶことができて、落ちながらずっと空を眺めた時のその感覚にとてもよく似ていた。


そこまでを思い出して、私は客席から立ち上がることにした。いい加減繰り返し眺める彼女の顔に嫌気が差して来る。なにもそんな悲哀に満ちた目で見なくたってよかっただろう、私は満足していたのに、簡単なことだったんだと、たった一歩飛ぶことなんて、わざわざ400メートルを45メートルの助走35メートルの間隔なんてなくてもたったの一歩で簡単に跳ぶことができるとはじめて知ることができた。



・5

「これは誰が話しているんだ?」

「話しているのはティロー・ナトリだな、僕も酔いが回っていたし、彼も興が乗っていた。本当に別人が話しているように見えて面白かったぞ」

「笑えるところあるかこの話?」

「いや、笑えるっていうかちょっとした映画とか学芸会の舞台とかを見ているような感覚だったな」

「初めの小学生はなんだったんだ?」

「あれも含めて一連の話なんだよな」

「視点が複雑でわかりでらいな」

「聞いてる分にはそんなことなかったんだけど、その辺も直さないとだな」


・6

「そして目を覚ますと、ダムにいたんだ。そう、水力発電所。水がいっぱいに張られていて湖底には町が丸ごと沈んでいる。とても大きなダムだ。

男はダム湖の脇の一面を芝生で覆われた広場のような場所で目を覚まして、一体なぜ自分が自宅ではなく、こんな場所にいるのか皆目見当もつかないと改めて首をひねった。おかしいのはその服装で、彼は仕事に来ていくスーツではなく結婚式などに来ていく礼服を来ていた。前日に結婚式に出席していたそのままの状態で屋外の……それも全く知らない土地に一人で放りだされている。それだけでどうしようもなく異常な状態だからね、男はただただ混乱していた。

そのダム湖は山間にあるようで、周囲を見渡してみても病院や郵便局、学校などの建物や山の斜面にまばらに見える住宅街はあるのだが、ここがどこなのかわかる手掛かりとなるようなものは何一つない。目に映る景色は地方によくある山の中のベッドタウンといった風で彼の故郷が湖底に沈んでいることと、そんな大自然に囲まれた地で男がなんの会合もないのにフォーマルスーツに身を包んでいること以外には特に何もおかしな部分はなかった。

前日自分が結婚式に出席をするために遠路はるばる学生時代を過ごした町まで訪れていたことを思い出したというのに……言っておくが彼が前日にいたのは今いる山間のさびれた場所のことではないよ。しっかりと電車が通っていて、駅から少し行けばインターネットカフェもビジネスホテルもラブホテルだってあるようなしっかりした町だ。わざわざ酔っ払いが一人で帰れなくなったところで公園のコンクリートの舞台上、蚊に刺されながら野宿をしなくてはいけないような場所ではなかった。それなのに彼はその地べたの上に身を投げていた。理由はたいしたことではないんだよ、彼の肉体は高所から身を投げたせいでズタボロだってただそれだけなんだ。

『自宅ではない、どこか広いとことにるらしい。とはいえ思案投げ首。考えれば考えるほど何処にいるのかわからない。必死になって思い出そうとすると昨夜のことはハッキリと思い出せる。湿気にまみれた都会の夜の空気も眼をつむればすぐに思い出せる。大きく腕を伸ばすと、どこからか応えるように灯油の移動販売のような軽快な音楽とサイレンが聞こえて、瀑布の様に水の降る轟音が聞こえた。人工的に作られただろう真っ直ぐにのびる水路があり、そこに向かって水が轟音をたてて落ちていく。高い位置に在るその公園にはダム湖のほとりまで降りることのできるつづら折りの長い階段と、公園から山間の集落へと登る階段があって、しばらくあたりを眺めてから私は階段を下りていくことにしました』彼は一段、一段、飛ばさずに律儀に階段を下りて行ったさ、他人を思いやることができて、些細なことにいつまでも悩んでしまうくらい小心者で、階段を飛ばしもしない優等生だったんだ」。


「ハードル競技を始めたばかりの頃に、私は何度か転んだけれど、仰向けに倒れこんだことはあまりなかったなと階段を降りながら私はそんなことを考えていました」

擬似的な不眠症と言おうか、中学の途中から高校に入学してしばらく経つまで、私には走らなければ眠れなかった時期があった。中学生を卒業するまでは家から15分くらいの川沿いの道を走った。街灯もろくにないようなその暗い夜の中の道で、そこを肺の中の空気を全部出し切って駆け抜ける。それを何度も、正常に呼吸の出来なくなる位クタクタになるまで体を動かしてようやく眠れるといった状態だった。

 走らずに布団に入っても腰の辺りを渦巻くように居残る不安が私を寝かせてはない、位夜の中で朝まで寝返りを繰り返して、日が昇ってあたりが明るくなっても眠ることはできない。眠るには一切を忘れるまで、筋肉を絞りきるように何度も走り続けて、不安を消すことのできるぐらいまで疲労しなければならない、そういう時期がしばらく続いていた。

 テスト期間だろうと、部活を引退してからだろうと、受験勉強の最中だろうと、私は走り続けていた。

高校で陸上部に入部したのは精神的な問題から来るその疾患のせいもあった。いまにして思えば部活動は球技だろうが水泳だろうが疲れることさえできれば何でもよかったのだろうが、些細なきっかけでその疾患が出ることがなくなってからも、走ることや陸上競技は続けていたのだから、走ること自体は嫌いではなかったのだろう。

「治ったのは些細なきっかけだったんですよ。高校生の一年生の夏休みの練習の帰り道に陸上部の仲間と共に川辺で手持ち花火をしたらなんでかそれだけで治った。単純な絵の具を塗ったような色に光る手持ち花火をもって走り回ったり、ネズミ花火を互いに投げつけあったり、飲み干したペットボトルにロケット花火を差し込んで河原から向こう岸に向けて飛ばしたり、やがて自転車に乗った警察官が近隣の住民から通報があったと見回りにやってくるまで、自然に笑いながらそんな風に花火で遊んだ日の夜に治っていました。その日は疲れなんてほとんどなかったのになぜか自然とまぶたが重くなって、そのまま眠りにつくことができた」。

開け放たれた水門からは水がけたたましく流れ出ているそのさまを高所から見下ろしながら階段を下りきると管理施設なのか発電施設なのか用途のわからない建物がいくつか並んでいて、さらにそこから延びるコンクリートのスロープが右岸から左岸まで大きく湖を囲う車両用通路へとつながっている。

そのままスロープを下っていこうとすると「何をしているの?」どこからか人の声がした。振り返ると施設の横に置かれたベンチに一人の女性が座っていて、不思議そうな顔をしてこちらを見ていた。

「いや立派なダムだったので近くで見てみようと思いましてね、ここはずっと歩いて行けるんですか?」

「いけるよ。歩いて向う岸まで、今日みたいな日でも涼しくて気持ちがいいけど一時間以上かかるしおすすめはしないかな。少し待てば船が来るからそれに乗っていくといいよ」

「船が渡っているんですか?」

「日に何度かは来るねお金も必要ないし疲れもしないし、向こう岸にわたりたいならおすすめだよ」

「いいですね」

「乗り場はあそこ」そう言って女性が指さした先には確かに遊覧船乗り場と書かれたボードが立っていた。

「ありがとうございます。ああ、あとこの辺りってバス走っていますか?」

「この上に登っていけばあるけど、あんまりおすすめしないよ」そう言って女性は顔をしかめた「どこに連れていかれるかわかったものじゃない」

近くの鉄道駅まで行ければと思って聞いたのだが妙な返答をされ黙ってしまった。

「いや、路線が複雑だとかではなくね、本当にわけのわからない場所にしか通じてないから、乗るのはおすすめしないってだけ」

山道をひたすら走ることになるとかそういった意味だろうか?

「ああ、なるほど。ちなみに最寄りの鉄道駅まではどうやったらいけますか?」

「それなら船が来るまで待ちなよ、向こう岸に行けばあるから、あそこに小さく赤い橋が架かっているのが見える? あれが線路。そんで木に隠れているとこに駅があるから」

鉄道が通っているということを聞いて少し安心する。どうやら家に帰ることはできそうだ。

「そうなんですね、ありがとうございます」感謝を口にしながら軽くお辞儀をして、話を切り上げようとする。

「いえいえ、それにしても久ぶりだね中学三年生以来だから、もう十二年ぶりか」

ダムの底沈んでいた私のよく知る団地を思い出した。幼少期から十八になるまでを母と二人で過ごした白壁に番号の振られた集合住宅で見た夕暮れの空を思い出した。

「なんで?」

女性が笑いながらこちらを見ている「なんでだろうね」優しげで柔和な表情のはずだった。だが、私はその顔に得体のしれなさと、背筋が凍るような怖気を覚えた「あそこに私たちの家が沈んでいるのと何か関係があるのかもね」

目の前の女性が笑いかけていたその顔は、昨晩に見て起き抜けに忘れたいと願ったものとは反対に、いくら私が思い出そうとしても思い出せなかったとものだと気が付いた。


・7

「なんだかな」

「なんだよ」

「どうにも好きになれないんだ。このナトリ太郎のことが」

「まあ彼は彼自身のためにしか動かないからな」

「そういうことなのかな、いけ好かないな」

「それはまた別の理由かもな、お前の個人的な経験のせいかもしれない」。


・8

「どうしても思い浮かぶ女の顔、ゆっくりと地面に倒れ行く女の顔。

着ていたドレスは汚れてしまっていないだろうか?

自分のせいでどこか破れたりしていないだろうか?

交通事故の後で入院した患者が、事故の瞬間を思い出しては後悔するように、男は何度も何度も女の顔を思い出す。それが印象のよい笑顔であればこんなに思い出すこともないだろうに。

今にも何かを叫びだしそうな、怒りとも絶望とも悲しみともとれるような表情、それが、男が最後に見た女の顔だった。だ何度も思い出す。何一つ男の気持ちを満たそうとしてくれないどころか、どこか不快ですらある、その、際の表情を。

それとは別に男には以前にも似たような経験があった『その時は立場が逆だった』と男はまた思い出すんだ。この話のつまらないところは男が何かを思い出してばっかりだということだな『もう思い出すのはいいから、とっととそのダムから離れるなり湖に飛び込むなりしてくれ』と、私は思うのだが、仕方がない。割愛してこれだから、本当に女々しいというか、面倒くさい。もうなにも思い出さなくていいから前に進め、と、私は何度も思ったよ」

思い出したのはとある少女のこと。彼女は男の幼馴染だった。

お互い生まれた時から同じ集合住宅に住んでいて、中学までは同級生だった。そして中学三年生の秋に、男の目の前で高所から飛び降りて死んでしまった。

「その女の子に再会したんだ」

彼女の死因は何の疑いの余地も、つまりは何の事件性もなく、自殺だった。それは一部の大人にはすぐに納得をされ、一部の大人にはいつまでたっても納得されなかったが、それ以外の大多数の大人たちはそんな事の追求に興味なんてないとただ近所の少女が一人、死んでしまったという事実に基づいた行動や反応をしただけだった。

「それはある意味でショー マスト ゴー オン の精神だね、誰がいなくなっても時間は止まらず続いていくのだから」

納得をしなかった大人たちは何度も少年だった男に事の発端を聞きたがったが、そんなもの彼に知る由なんてない。ただの普通の通学路、普通の同級生との帰り道だった。

ただ少年は一度だってすべてを話してはいないが、隠していることなんて大したことではない。

「ただ女の子が彼に『私を殺してくれない?』ってそう聞いただけなんだよ『あめだま一つ分けてくれない?』って気安く尋ねるみたいに、少年が隠しているのはそこだけだ、その提案に彼は何も気の利いたことを言えなかった」


ここだけは彼の言葉をそのまま伝えることにしよう。


「同じ団地にすむ子で小学校から同じ学校に通う同級生だった。家も同じ方向で子供の頃から何度か顔を会わせる関係で仲も悪くない、近すぎず遠すぎずの間柄だった。

顔を会わせれば異性だからと敬遠せずに、話した。話したところで周りに仲をはやしたてられることのもないような、希薄な関係性。たまたま帰りの時間が同じになって一緒に帰った。

どんなことを話したのだろうか? 思い出せない、だけれど彼女が部活動用の刺繍で名前の入ったエナメルバッグを指して『それ、重そうだね』と言ったことだけは、なぜか鮮明に覚えている。なにかそこで俺に感情の変化でもあったのかもしれない、それも思いだせない。

適当に学校の共通の知り合いの話なんかをしながら当時すんでいた団地に着くと、棟が違うのでその入り口のところで別れようとしたのだが、家に帰りたくないので少しのあいだ話に付き合って欲しいと言われた。俺も帰ったところで特に用事があるわけではなかったので、それを快諾して、団地の裏側に回って二人で話し込んでいた。

団地の敷地の角、電波塔と白い大きな貯水タンクの裏手、つづら折りになった坂のてっぺん、二人で話す事にした。塗装の禿げたガードレールの向こうに見える町の、被った影の色が妙に濃い夕暮れの日だった。

俺はいつも通り話していた、多くの男子学生がそうであるように、女生徒が自分の話で笑ってくれることに純粋な喜びを感じながら。

鈴の音のようにコロコロと彼女は可愛らしく笑っていたように思う。今おもえばそれも演技だったのかもしれない。その先を知っているのに今さらそこを思い出そうとしてもどこか不穏な影のようなものがあったようにしか感じないのだが、なんにせよ、その時の彼女の子細な表情なんて今の俺には思い出せるはずもない。もう、ずっと昔のことだ。何を話していたのか、なんてことない話をしているその時だった。

小さく笑ったあと、不意に彼女が『私を殺してくれない?』と言った。

単なる冗談だと思った。だが冗談としながらも、俺は断ったのだと思う。なんと言ったのか忘れてしまった。だが断ったはずだ、冗談めかしてか、やさしくか、俺は拒絶した。

それに対して彼女は、ただ『そうか、いいんだよ』と俯きかげんにそういった。

そして彼女は自ら夕暮れの町へと飛び込んでいったのだ。


一瞬にして目の前から消えたその女の子がどんな表情をしていたのか、俺にはもう思い出せない。封じてしまったのだ、底の見えないほど深い湖の中に沈めるように意図して目を背けている間に叶わなくなってしまった」。

男は時々、夢でその風景を見るそうだ。同級生の女の子が夕暮れの町に飛び込んでいくその景色を、ただ、そこまでは見えるのに、彼女が飛び込む瞬間の表情と彼女が落ちていった後のことは見えない。

「そこには水があるんだ」と彼は言う。

彼の思い出す景色の中で彼女の飛び込むのは町なんかではなくて、洪水にでもなったように丘のてっぺんまで張ったオレンジ色の水の中だ。その中へと彼女がゆっくりと沈んでいく。

 寂しそうな笑顔を彼に向けて、彼女がゆっくりと水の中へと沈んでいく。

「そんな事実でもなんでもない彼女の表情と、風景を、彼は夢に見た」

それでも本当のことはいつしか心の奥に封じてしまっていて、それを昨晩の転び行く女性の手を引いて飛び出したその先でようやく思い出したんだ。

飛び出した空中を浮かびながら忘れていた過去の後悔について想いだす。想いすぎるあまり、男は今わの際にそこへ来てしまった。彼が何度も思い出してしまう、存在しない思い出の中の、彼女がいたはずの場所に彼は来てしまったんだ。



「此処までだ」そこまでを一気に話しきると切り上げるようにナトリはそう言って立ち上がった。

「まだ平気だよ?」僕は自分が原因でティロー・ナトリが話を区切ろうとしてるのだと、思いそういったのだけれど、その言葉をきいた彼は嘲るように肩をすくめる。

「私は平気ではないのだよ。そろそろ出ないと飛行機に間に合わなくなる。飛べなくなってしまうんだ。それは困る。君との対話の終わりに多少の哀惜の念はあるけれど仕方がないんだ」そう言ってビー玉を入れた胸元からカイトの形に折られた包み紙に入れられた紐つきのフルーツ飴を取り出して、僕の手に握りこませた。


・9

「自分の死体を探さなければ」周りの少年達がようやく自我を形成し終わる二十代の終わりにティロー・ナトリはそう思った。

彼は十五のころから紡績工場で働いており、そこで得た幾らかの貯えがあったので「今すぐにでもその金をもって旅に出よう」と、思ったその日には工場の仕事を辞め、次の日には町を出ていくことができた。

「きっと私の死体がこの世のどこかにあるはずなんだ」間違いない「それを見つけなければ、前に進むことなんてできやしない」そうして、二十代の終わりにティロー・ナトリは故郷をあっさりと捨て、死体探しの旅に出た。彼が一切歳を取らなくなったのも、ケガや病気をすることのない体になったのも、きっとその時からだろう。

なんでもない。それはとても自然なことだった。

ナトリにとって自分の死体を探すのは、生まれる前からすべての人間が等しく負っている義務であるかのように、行うことに何の疑問を抱く余地などないほどに当たり前だった。

 

 ティロー・ナトリは自分の死体へたどり着くための手がかりを追い続けた。


彼の死体探しは、目に映るすべての死者の情報を集めることにして、新聞やラジオ、町のうわさ、教会で聞いた誰かの死について、オールドメディアのクルーのように目にした情報の詳細を追いかけることからはじまった。しばらくの間、故郷から一番近い小さな町に滞在をし、その中で、交通事故の現場に足を運び、見知らぬ誰かの葬式で悲しみに寄り添い、全ての死のきっかけを知ろうとして、人々の声を聴いた。

 それに慣れた彼は様々な町で同じことを繰り返しながら、誰もが忘れているような古い事件をひっくり返すようになり、彼は新旧を問わず目に付く死者に関する話のすべてを追いかけるようになった。世の中にある死者について話を集めれば「その中の一つにきっと自分の死がある」と、彼は信じて疑わなかった。そうして彼はいつしか隣国との国境を越える。

 死者の話を追いかけながら旅を続ける間にティロー・ナトリは死者に出会えるようになった。何か特別なことをしたわけでなく。ただ彼の進んだ道の先に死者がいたのだ。彼らは死んだ自覚など一切持たず、普通の人間と同じように存在していた。幽霊?いや、幽霊ではない。ティロー・ナトリと同じだ、ただの普通の人間だ。ただの、普通の、いまだに自分の死体を見つけていないだけのありふれた人間だ。

ナトリは死者の話だけを集めた。自分の名前を忘れ、自分の持っている話を誰かと交換しながら、自分どこで生まれたのかも忘れ、聞いた話と物を交換して、気が付けば知らない土地にいた。どうやってそこに来たのかも、いつ自分が移動をしたのかもわからないまま、彼はいくつもの場所を移動して、その度、身近にある死者の話を集め続ける。彼は何十年もの間その生活をつづけ、さまよう亡霊のような出で立ちで自分の死体を探し、すでに命は終わっているのにそれでも意志だけで動き続ける屍のように旅をした。

 ある日、彼は日本のとある地方都市で一人の子どもと出会った。

そして、出会った瞬間、彼は自覚する「ああ、彼こそが私だ」と「彼こそが私の死体なんだ」と。


その時には、もう、ティロー・ナトリという男は、すべての死を等しく理解していた。


ティロー・ナトリの物語を締めくくるにあたって、私は彼のことを語らなければならない。自らその任を負った。彼は度々、私の人生に現れ、現れては言いたいことだけを言って去っていく。その行為を繰り返す。物語を進めるためだけにある舞台装置のような、喜劇の最後に現れて、無理矢理に物語をまとめ上げるデウスエクスマキナのような、自由で滅茶苦茶な……いや、結局のところ彼が何者なのか、本当は何をしたかったのか、私には最後まで分からなかった。


 彼は小学校の頃の私の通学路の途中に出現し、子供たちに自分の知っている話をしては菓子やおもちゃなんかをもらって帰っていく。一般的な不審者だった。

その姿を目撃した保護者や近隣の大人に何度も通報をされて、学級会でもそのことが話題に上ることもあったが、彼は全くそんなことは気にしていないのか、それとも単に耳に入っていないだけなのか、構わず子供たちに自分の話を聞かせ続けた。

 それなのに、彼はあるときを境に完全に私の町から消えてしまう。当時小学生だった私の同級生たちは誰も彼のことを覚えてはいない。ただの小学生だった時に話した知らない大人の一人としか、認識していないからだ。話したところで『そんな大人もいたかもしれない』と、首をひねる程度で誰も真剣にティロー・ナトリという人間のことを思い出そうとはしない。ただ、一方で私は彼のことをずっと覚えていたし、なんなら彼のことを大人になってからも、ずっと追いかけていた。

 誰も、彼がいたことも、彼がいつ町を去ったかすら記憶していないのに、私だけははっきりと、彼のいなくなった時のことを覚えている。

最後の話を途中でやめてしまった彼が、児童公園の回転式のジャングルジムの中で彼はうつむきながら垂らした頭の上で両の掌を合わせ、何かを祈っているかのような格好をした「神様に祈っているの?」子供の私は素直に何も包むことなく思ったままのことを彼に聞いて

「ああ、そうだな、神ってやつはいつでも私のことを見ていてくれるんだ。見ているだけだがね……それでいて慈愛にあふれているらしい、だから私を正しい方へと導いてくれるようにって祈っていたんだ」大人の彼は当然のように私に嘘を吐く。

「今日でこの町を発つことにしたんだ」ナトリはそういうと顔を上げてまっすぐに私の目を見つめた。青と茶色の混ざった色だ、薄暗い場所では彼の眼は茶色く、電燈の下や明るい場所では青く映る。夕暮れ前の児童公園ではまだ彼の瞳は青かった。当時の私の周りにはそんな目の色をした人間はどこにもいなかったので、なぜ彼の目の色だけが私の知っているどれとも違っているのか理解をすることができず、それどころか彼の眼球には、ガラスか何かを化粧でもするかのように埋め込んでいて、大人になったら自分も好きに目の色を変えることができるのだろうとそんな風に考えていた。

「お泊り?」

「お泊りじゃないな、君たちの言葉でいえば転校かな? 遠くの町に行ってくるよ」

「もう会えない?」

「いや、また会えるさ君と私の間にはとても深い。時間や距離をいとも簡単に超越してしまうような、深いつながりがあるんだ」私はその言葉にすんなりと納得をしたのを覚えている。この怪人とはいずれどこかでまた会うのだろうと、言葉の伝えてくる意味は分からなかったが、それだけは絶対的な本当なのだと納得をして、ただコクリとうなずいた。

「そして、もちろん彼は彼女と再会するよ。想い続けていたのだからね。同じように君と私も再会するだろう。ある意味で呪いだ。その時にこの話のもう半分を話そう。もし、それより以前に聞きたくなったら聞きにおいで」

そういうとティロー・ナトリはその細さと相まって、実際よりも長く見えるその腕を私に向けて伸ばした。

 私が差し出されたその手を握り激しく上下に振ると、彼は満足したかの様に笑いどこかへと旅立っていった。


・10

そこまでを彼の知り合いだという酒場の主人に話終えると彼は頷きながら僕に問いかけた。

「それで、結局なんのために彼を探しているんですか?」

「彼から話の結末を聞くためです」

私はある夜からティロー・ナトリをさがしはじめた。それは彼が私の町から消えて十五年が経った日のことだった。

「それだけのために金を払う時点で正気とは思えないのですが」

「ご名答、正気でなくなってしまった」

「そうですか、私のせいで誰かが不幸になってしまったり、何か犯罪に利用されたりってなったら寝覚めが悪いのですが、どうしましょうかね? まあ、信じてみることにします」

「あなたは本当にティロー・ナトリの居場所を見つけることが出来るのか?」

「できますよ。いつ会いたいですか?」

「すぐにでも。お礼はいくらでもお支払いします」

「一番早く会えるように手配しておきますね。お礼は、そうですねまたこの店に来て結末でも教えてください。何がどうなったのか」

「そんなことでいいのか?」

「そりゃ、趣味でやっていることで、お金なんか貰うほどのことじゃありませんから」。


地方の居酒屋で店員とそんなやり取りをした数か月後、私はようやくティロー・ナトリと再会した。走り出した高速列車のボックスシート、十数年経とうと姿が微塵も変わらないティロー・ナトリがそこにいた。私は自然な風を装いながら彼の斜め前の席に腰かけ、手に持っていたコートを畳み、自分の隣の席に置く。

「お兄さん、ちょっと話をしてくれ」

私はそう言うと焦げ茶色の革手袋をはずしてポケットから財布を取り出し、彼の前に一番大きな額の紙幣を差し出す。

「ご老人、なんの真似かな? 私は金なんかいくらもらったところで自分の話を手渡したりしないよ。価値が釣り合わないんだ。たかが鉱石の代替品かなんやで私の話が渡せる訳がないじゃないか。渡すのならもっと価値のあるものを渡してくれ。それが出来ないといのなら、このラジオをあげるからそれで我慢をしてくれ。このラジオはちょいと優れものでねこんな山間でもしっかり電波を拾ってくれる。戦前のシャープもビックリだ。鉄道の旅に退屈しているなら、こいつをやろう。お代は結構だ。ところでご老人シャープはごぞんじか? 早川式操出鉛筆を作った人間が創業した会社なんだ」

「もちろん知っているさ」ティロー・ナトリは30歳になったばかりの私を老人と呼び、話はあらぬ方向に向かっていく。それを遮るために私はズボンのポケットから赤と青の水風船を模した用なガラス細工を取り出した。手術と長い入院生活のせいで弱った腕を振るわせながらティロー・ナトリの目の前に持っていく。

「ほう」

ティロー・ナトリはずっと浮かべていた薄ら笑いを深くして何やら大きく頷いた。

「いい品だ、実に日本的といおうか私は水風船すくいが好きでね。しかし金魚すくいもそうだけれど、あれの語源はスクープの意味なのか、それとも救済の意味での救いなのか、そう思うとねあの高い位置からプールを見渡すのとこよりの先にフックを付けたようなあの糸っていうのがどうにも……蜘蛛の糸って話をしっているかいご老人? あれの極楽にいる釈迦のような気分になるんだ、水風船が無数にさ迷う魂でも内包しているように思えて、そうすると糸を垂らして次々に引っ掛けてすくってしまうっていうのがね、実に気分がいい。なるほどこれはいいものだな」

続けて「よし、一つ話をしよう」と彼が言い出した時、わたしは「掛かった」と思った。そして彼はあの夏の日の話の続きをはじめた。



とある満月の夜。夜中に目を覚ました私は死ぬことが怖くなり、それ以来、夜に眠ることが出来なくなってしまった。

長く生きることが出来ないという自覚はあった。病気のせいで肝臓を摘出してからというもの、目に見えて体は弱り、そこからくる不安が病理のようになって精神を侵し始めた。やがて私は夜に眠ることができなくなった。ある時、その摩耗した心にティロー・ナトリの顔が浮かんだ。少年時代に出会った得体のしれない人物と、彼が話してくれた彼自身の目的のこと、彼から最後に聞いた話が頭の中浮かんで「ティロー・ナトリを探そう。探してその話の結末を聞こう。それが出来たのならきっと私はまた正常に眠ることが出来る」そんなことを思って、その思い付きだけが私の体と心をどうにか動かしていた。


・11

旅の途中だった。その地に行きついたのは全くの偶然だった。今こうしているように電車に乗って、ダムに行き当たったんだ。あんまりに綺麗な景色だったから、電車を降りて散策していた。そこであった男にこの話をもらった。当時の私は先に進むため自分の死体を探していて、そのための情報というものを集めていた。

「電車が駅に着くと同時、歓迎でもするかのように放水のサイレン音がけたたましく鳴り響いた。駅は路面電車の沿線につけられたような簡素なもので、ホームには屋根すらついていなかった。瀑布のある自然公園に来たかのように、20分ほどの間はどこにいようと水の落ちる轟音が聞こえていた」。

 季節は、夏の暑い盛りの頃なのだけれども、山の中腹にあって太陽との距離は近いのに湖上をわたってくる風が涼しくて、日向に出なければ汗が滲んで来るようなこともなく、心地のよい場所だった。私は両手を大きく広げ肩回りの筋肉をほぐし、湖の周りを歩いて散策してゆく。放水が止まると、少し先からペタペタと魚が甲板で跳ねるような音が聞こえてきたので、そちらを見やると遊歩道から一段下、ダイビングスーツに身を包んだ男が、桟橋の上で装備を整えている姿が見えて、好奇心に刈られた私は近づいて声をかけることにした。

「何をしているのですか?」

「水質の検査さ、定期的にしないといけないからね」

「へえ」

「町が沈んだままになっているけれど、今日も綺麗だ」

「町が沈んでいるんですか?」と私が問いかけると点検作業員は笑顔で「ああ、夕暮れのままでね。これからそこまで潜らなくてはならないんだ」と応える。「見てみるかい?」

ダイバーはそういうと私を手招きした。桟橋へと降りると、ダイビングマスクを覗かせてくれた。

 湖の中は水面から想像できる色とうって変わって煌びやかだった。湖面から入った太陽の光がいくつもの線になって紺色の水の中へと溶けていく、花火の火の粉が夜空に散るように湖底へと向かうにつれて細くなる。遠くに沈みかけの夕日を眺めているように湖底の中央で町が鈍いオレンジ色に光っていた。夢の中俯瞰として思い出を眺めているような夕焼けの町だった。夕やけこやけやトロイメライのよく似合いそうな、遊びにもそろそろ飽きかけていたとき、不意に流れる音楽が子供たちに遊びの終わりを告げてくれるような、どこにでもありそうな民家や工場が整然と並んだ夕暮れの町が沈んでいた。

「俺はこれから、あそこに潜るんだ」ダイバーが優しい声でそう言う、私は簡単な謝礼を口にしてマスクを彼に手渡した。見る見るうちにダイバーは装備を整え、レギュレーターに繋がれたオクトパスを噛むと、背中から湖面に落ち、ゆっくりと沈んでいった。


また静寂、木陰に一人、腰をおろす。

みあげては快晴、空のどこを切りとっても雲のひとつもない。


放水もダイバーもなくなった山あいは静かだった。

背後の山の斜面は木が乱立しているよりも農地としての役割が大きいようで、茶畑があったり背の低いミカン畑の木が見えたり、時とすると本当になにもない、耕されただけで忘れ去られたような、何の芽も出ていない土地が広がっていたりする。

「誰もいないその場所の立っていると自分のことがスノードームの中にいる溶けることのない雪だるまみたいに思えた。誰かの切り取った空間の中で保存されているみたいな。でも居心地は悪くない場所だったよ。あたたかな初夏の中、そのダム湖のほとりは妙に懐かしい、忘れ去った原風景の中みたいで、落ち着いた」

そうして静かにしていると一隻の船が対岸からこちらに向かって近づいてくるのが見えた。

「その船に乗っていたのがこの話を私にくれた男だ」。



・12

釣り糸を垂らしながらぼーっと湖面を眺めていると、なぜだか電車が駅に着くイメージが頭に浮かんだんだ「ようこそ、此処こそがあなたの終着点です」そんなアナウンスが想像の中の駅に響き渡る。

いつまで経っても渡し舟はやってこなかった。

私は湖の底から陸上トラック用のスパイクをつり上げることに成功していた。人間、暇を極めるとなんでもできるというのがその時はじめてわかったんだ。スパイクをつり上げるのは殊更説明するまでもなく簡単なことで、オキアミも生餌も擬似餌のひとつすら必要ない。糸と針で釣れる。嘘だと思うのなら今度やってみるといい、夕暮れの町の中、自分の部屋の中に釣り糸を垂らして、ただ竿をあげるだけだ。

思い出をいくつもつり上げてはみるが、どれも自分自身のものだという実感に乏しい。釣り糸を水中に垂らし、次々と浮かんでくる自分の過去について考えていた。

やがて釣りにも飽きてしまい、何を思ったか水に背中から飛び込むことを始めた。橋から落ちたその時のイメージもあったのでいい形で飛ぶことができると思い、五歩、助走を踏んで湖の中へと落ちてゆく背中に冷たい水の感触があったかと思うとそのまま体が沈む。

水の中から揺れる太陽の明かりを見上げる。フォーマルスーツは水を吸ってどんどん重くなって私の体は湖底にむけて引っ張られていく。浅瀬でないので抗わなければそのまま沈み続ける。あんまりのんきにしていると、必死に体を動かさなければ岸にもとることが出来なくなってしまって、息も絶え絶えに岸へと上がる。水温は想像よりも低かった。ずぶぬれになって、コンクリートの上、空を見上げていると初夏の陽光が心地よい。

私はなんだか楽しくなってしまって、その跳躍を何度も繰り返した。何度も飛び込んで、何度も水中に潜る。何度繰り返したときだろうか、着水した体が沈む前に水上に残った私の腕を誰かがつかんだ

「なにをやっているの?」

そこにいるのは中学の時に同級生だった女性で、声は平静を装おうとしているのだろうが顔がひどくひきつっていた。

「昨日も同じように飛んでね、そこで見た女性の顔が忘れられないんだ。どこか君に似ていた」

岸に上がるなり私はそんなことを口にした。

「この世に自分と似ている人間がいるなんて信じたくないな、アイデンティティを否定された気分になる」

「顔とか雰囲気ではなくね、なんだろう一瞬見せた表情が君に似ていた」

「ふうん。それよりもさっきから水に飛び込んでいるけどどうしたの? 自暴自棄にでもなった?」

「ただ一人で遊んでいただけだ」

「なんだ、勘違いしちゃった」

衣服の水を絞りながら話す彼女の声がどこか拍子が抜けたように変わる。

「なにを?」

「てっきり疲れ切って溺れるまで続けようとしているのかと」

「そこまで思い詰めてはいない」

「ここの湖底にね、町があるの」

「知っているよ、俺たちが昔住んでいた町によく似ている」

「そのものよ。てっきり帰ろうとしたのかと思った」

「はあ? えっと、なんで?」

「なんでそう思うんだろうね? でも君は心のどこかでそれを望んでいる気がする」

「それはどうだろう? でも、沈んだところで帰れないだろ? それくらいはわかる」

「こう、それがわかるからこそ、もがくだけもがいて沈んでしまおうとしているのかと思った」

「そういう勇気は私にはないよ。昔、ちょっとしたことにも踏ん切りがつかなかったんだ。こう転んだ人にかけよって手を差し伸べることができなかったんだよ」

「それが原因で君がずっともがいていたのを私は知っているんだよ。些細なことが起こるたびに、ささくれみたいに小さな痛みだけれど、それを君が感じていたのを知っているんだ」

「そんなに思いつめたことはないけどな、なぜだか一歩が踏み出せないんだよ。そういう経験がいくつかあるんだ。とは言ったって、そりゃ、二十年以上も生きてりゃ誰にでもあることだ。ふとした時に悔しさを思い出して辛くなったりもするさ」

「そんなことを思い出してどうするのよ? 退屈でしょう?」

「そうでもないよ、思い出すってことに脳みそを使って過ごすのは案外有意義なものだよ。むしろそういう悔しさを忘れてしまう方が怖いね、前に進めなくなってしまう」

「そう、たくましいね」

「君のことを思い出すまで随分と時間がかかった」

「ずっと忘れていたの?」

「忘れてないよ。覚えていたさ、覚えていたけれど忘れたいと思ってしまっていたから……向き会おうと思わなかったんだ。いつの間にか封じてしまっていた。ずっと心に追位刺さっていたってその時まで気が付かなかったんだ。なんで自殺なんてしようと思ったの?」

「そのほうがずっと楽だと思ってしまったんだよ。まだ幼かったし、先があるなんて考えられなかったからさ、本当にそれだけなんだ。深い理由なんてなにもないんだよ。いくら考えても自分を取り巻く環境が良くなるなんて思わなかった。あの日君と話してね、決心がついた……楽しかったんだ。クラスに友達がいなかったわけではないけど、久しぶりに君と帰り道が一緒になって、小さい頃にそうしたみたいに君と日が暮れるまで話して、ここで終わりたいと思ってしまったんだ。そういえば、あの後はどうなったの? そのあたりのことを私は知らないんだ」

「どうだったかな? よく覚えていないんだ、さっき言ったように記憶に封をしてしまったから、ずいぶんと慌ただしく日々が過ぎて、自分のことだけを考えていつの間にか君のことは流れて気が付けば大人になっていた」

「そうか、それは切ないなあ」

「でもやっと君に向き合えるようになったんだ。あの時のことを思い出して胸を張って自分は間違っていたって言えるようになった。自分は悪くないって思うんじゃなくて、俺が間違っていたんだって,

それを認めてようやく俺自身が前に進むことが出来るんだってそれに気が付いた」

「それはよかったけど、でも、君は間違っていないよ。私は幸せだったんだ。何にも救いなんてないと思っていたけれどあの日は少しだけ楽しかったんだ、でも、それが良くなかったのかもしれないけれどね、そうじゃなきゃ、耐えて、耐えて、耐え忍んで、なにかまた違う道もあったのかもしれないね。けど、それは君のせいじゃないよ。絶対に君のせいじゃない……でも、ありがとうね、会いに来てくれて」

少女はそう言うと立ち上がって背中からダム湖へむかって飛び込もうとする。傾く彼女の体が水面につく前に、今度は私が彼女の腕をつかんだ。

「あの時も、いまも、頼まれたところで殺したりなんてしたくないけどさ。

今度は一緒にいるよ」

言ったとたん引き寄せられた彼女は糸の切れた人形のようへたり込んで、顔を手で覆うと、声も上げず静かに泣いた。


・13

「これで全部だよ。満たされたかね? ご老人」

「救いのない話だな、と、思ったよ」

「逆だ、全員が救われたんだ。たった一つの出会いとたった一つの決断で。私はこの話を君に送りたかった。この話に含まれる愛というものをいつか君に知ってほしいと思ったんだ。

なんでそんなことをあの時、子供の君に出会った私が思ったのかわからないけれど。この先、君が歩むだろう決して長くはない人生の中にも愛というものがあるんだと私は君に知らせたかったんだ。

この話を私は一枚の写真と交換した。新婦と楽しそうに笑う友人たちの後ろ、少し離れた席に腰かけている男の見切れた写真だ。

別に一緒に写っているなんてリクエストはなく『彼女の笑っているところが見たかったな』と言われただけなので、この写真である必要も、写真を渡す必要もないのだが、見つけてしまったので仕方がない。

彼女に会ったからこそ彼はあの最期を迎えることが出来た。

彼はひどく困惑したような不器用な苦笑いで、快く私にこの話を譲ってくれたよ」

「……ミスターナトリ、ずっと気になっていたんだ」

「何だね?」

「私は老人じゃない」ティロー・ナトリがそこまでを話すと列車は駅に停まった。窓のそとにはずっと風にあおられる雪が打ち付けていて

「いや……あと半分もない人間は等しく老人だよ。私にとってはね」そう言うと彼は立ちあがり、荷物棚からトランクを取り出した。「話を買ってくれて感謝する。おかげで荷物が減った。そろそろ行くが機会があればまた会おう……いや機会はあるな、君のことはきっと迎えにいくさ」

未だ動かない電車を降りて、風のすっかり止んだ夜の森の中をティロ―・ナトリは一人で歩いていった。


・14


明け方の病院の中、男は静かに息を引き取った。

救急外来受付横のソファーに腰かける女性の元へと、一人の医者が歩み寄ってゆく。

彼女は友人の結婚式の帰り道、橋の上から落ちそうになったところを男に助けられたらしい。男の担ぎ込まれた病院へとタクシーで駆け付けた。病院に来たことの証明であるかのように、その時できた擦り傷を全て覆うよう大げさにガーゼが当てられている

「近づいてきたのは、正確には医者の服装をした男だ、本当は医者ではないのだが、その正体については秘密にしておこう」

医者風の男は女性の前で立ち止まり口を開く

「手遅れだった、即死とはいかないまでもとても助かる状況ではなかったよ、私とこの病院の人間も手を尽くしたがね、それでも彼をこの世にとどまらせるには至らなかった」

嘘をついたな、悪い癖だ、私は最善を尽くしたとは言えない。ただ静かに彼の選択を見守っていたにすぎない……私だと言ってしまったな。まあいい。

 私が話し終えた後でも彼女は黙って、私の目を見るばかりで何も言いはしない。

 私は彼女の記憶に残るようにと意識して話はじめる。

「彼はあなたに感謝をしていたよ。それを伝えようと思ってね、彼はずっと過去に囚われていたんだ。ずっと昔に同じような経験をしたらしい、それをずっと後悔していたんだ『なぜあの時、俺は彼女を止められなかったんだろう』ってね、高校に入った彼は頭を空っぽにするためにひたすら走り続けた。走り続けても足りないからハードルを跳ぶことにした。ハードル競技ってやつはとても過酷らしい、私はやったことがないからわからないがね。全力で走っているときはいいんだ。それでほかのことなんか忘れられるから。

 だが、練習で跳ぶときなんかはどうしても考えてしまうと言っていたよ『この数歩がどうしてあの時踏み出せなかったのか』彼はそれを悔やんでいるらしい、それを悔やんでいたのに大学時代にも同じことがあったそうだ。今日、結婚する先輩にまつわることらしい、そのことも思い出したために折角の結婚式を心から祝えなかったそうだ『そんな自分が情けなかった。素直におめでとうございますと言えないことが情けなかった』それでもだ『それでも最後に嬉しいことがあったんです』それは何かと私は訊いた『跳べたんですよ。ハードルも、四十五メートルの助走も、三十五メートルの間隔もなにもなくても、そんな心の準備がなくても、俺は跳べたんです』彼はそう答えた。それで過去を克服できたそうだ」

惜しむらくは跳ばなければ届かない距離だったことか、ただ腕を引っ張って抱き留めるだけでは間に合わなかった。自分の体を投げ出してでも後ろに突き飛ばすしか方法がなかった。

だが、彼は、ずっと囚われていた過去から、その一歩で逃れることができた。

それがあったからこそ、ずっと言えなかった言葉を幼馴染の女の子へとようやく伝えることができた。良かったのか悪かったのか。

起きてしまったのだから仕方がない。私はいつも通りに死に寄り添おうと、それだけを考えていた。

「だからだ、彼は君に感謝していたよ。君を助けられて本当によかったのだと、ずっと後悔していたことが、君のおかげで消えていったんだとね。

どうか気に病まないでほしい。それこそが彼の本心で、君を助けてむしろ救われたのは彼の方だと最期に言っていた。彼のことを誰かに聞いてみると良い。君の友人だという彼の先輩にでも、そこからたどって彼の高校時代の同級生にでも。そうするだけですぐに私の言葉が真実だとわかるはずだ。

今日のことは残念で、責任を感じるかもしれないが、大事なのは彼が『君を助けられてよかったと言っていた』そこだ。君が生きていることも『たった一つの自分の公開を捨てられたことも。そのどちらもがよかったんだ』と。

私から言えるのは、君も彼を忘れないであげてくれ、一瞬の邂逅で瞬きすら終える前の別れだけれど、彼が自分勝手に救われただけで君は責任を感じているのかもしれないけれど。それでもその死者のことを覚えていてやってくれ」

およそ医者らしからぬことを私は言っていた。

元々、虚言癖はあるが演技がうまいわけではないので医者らしくしていろというのは無理な話。(虚言癖はあるとは言ったがこの話に関しては嘘ではないよ。もし彼女を救えていなかったのなら、自分のせいではないとは言えきっと後悔を重ねることになっていただろうし。小さなことがある度に思い出す。たった一度の後悔を払しょくすることなんて一生できなかったんだ。この日、先輩の結婚式の帰りでなければ)私は一通り、一方的に、言いたいことだけを言い、その場から去っていった。



・14

 十数年ぶりにティロー・ナトリに会った冬から1年半後、私は再び彼の姿を見た。

 

病床に臥した私の所に再びティロー・ナトリは現れた。八畳の和室、真ん中にしかれた布団に横たわりながら、窓の外へと目をやると、柱に体を預けるティロー・ナトリの姿がそこにあった。

先ほどまで親戚の覗き込むような視線にさらされてやかましかった室内は静まり返っていて、遠くから響く鈴虫のなく声だけが聞こえた。

ナトリは黒い麻の上下の和装に身を包み、縁側に腰かけて月を見上げていた。

秋の満月の月光が体に障るぐらいひどく明くて、その光が彼の姿をはっきりと照らす。

 あんなにも賑やかに物語を語っていたはずの彼が、この時ばかりはどうしてか静かで、夜空に浮かぶ月をながめては、何も言わず、どこからとったのかススキを手の中で遊ばせていた。

何も言わず。時折、その長い体をゆらゆらと左右に揺らすのだが、揺れるたび、伸びた彼の影が月明かりを遮っては、私の体をやさしく撫でてゆく。

 

私は、何よりも彼が来てくれた事が嬉しくて、何も言わずに彼の背中を見続けていた。そうしている間にやがて訪れた眠気に身を任せ、安らかなるままに、すべての苦しみを嬉しさの裏に隠したままで、僕はゆっくりと瞳を閉じた。



・15

「これでこの話は終わりだ」

「お前はティロー・ナトリからこの話をきいたのか?」

「そうだよ彼と彼が自分の死体だと呼んだ人物を引き合わせたお礼にと語りに来たんだよ」

「彼はどうなったんだ」

「どうにもなっていない。語り終わると普通に店をでていった」

「なんだか釈然としないな」

「そんなものだろう。そこまで不思議なことばかりになるはずもない」

「結局なんなんだこの話は?」

「ただの与太話さ。この話をお前に見せたらどうなるか気になったんだ」

「どうして?」

「まあ、どうにもならなかったか」。

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