7. ウェラン
ウェラン・エスタシオが酒を飲まない日は、別れた妻と娘に会う日だ。
パヒノルテ駅から汽車で一時間ほど行き、お互いが息災であることを確かめあい、なんとなく散策などして幾許かの金を渡す。
別離と復縁を二度繰り返し、離れて暮らすという結論に至った。
娘はもうじき二十歳になる。が、
「父さま、こちらご覧になって? シュダパヒで撮られた怪奇写真だそうよ」
と、いまいち少女気分が抜けないと感じる事もある。
昔からお化けや怪物の話を喜ぶ子だったが、大人になれば離れると思っていた。
「父さまは素質がおありだから、ときどきこんなのが視えるのでしょ?」
「視えるといっても、ちょうどこの写真のようなボンヤリした影だよ。訓練したら充填役ぐらいには、なれたかもしれないが」
娘が広げているのは最近出回り始めた小新聞であり、写真まで載せられていた。夜に撮られた不鮮明なもので、瓦斯灯に光る街路を横切る二本の筋のような、影のような物が写っていた。
見出しには〝シュダパヒの光と怪奇の影〟
写真は好きだが、これぐらいなら銅版画にした方が雰囲気が出せる、とウェランは心中で張り合う。
「いやだわお父さまったら。充填役だって立派なお仕事なのよ」
とび色の瞳を細め、母親譲りの黒髪を揺らして娘が笑っていた。こうしていると、なぜあの落ち娘と我が娘を間違えたのかわからない。
聞けば、魔力壜の配送所で働き始めたと。なるほど、だから「充填役だって」となるのか。
なんでもシュダパヒに遊びに来る予定があるようで、面倒を見ようかと申し出たのだが、気心のしれた友人と見て回るから心配いらないと笑っていた。
子というのは本当に、親の知らぬ間に大きくなるものなのだな、などと感傷に浸りながら帰りの汽車に乗り、ズボンの尻ポケットから白鑞のスキットルを引き抜いて開栓する。一等客室に芳醇な香りが漂う。
気づけば家のベッドにいた。
※ ※ ※
ウェラン・エスタシオが別れた妻と娘に会わない日は、酒を飲む日だ。
昼前の珈琲に果皮酒をたっぷり垂らし、午後の薬酒に夢を見つつ、夜のカフェでは北方の火酒で胸を熱くし、遊劇場グリューに赴いて異国の白酒に目を眩ませる。
目が眩むのは酒のせいだけではない。今年から導入したという雷弧灯の照明は、歌手の衣装や曲に合わせて自在に色を変え、光を絞り、開き、瞬くなどした。
新しい光には新しい演出をと、この数か月での変化は目覚ましい。目覚ましいが、酔いの回った身には光が鋭い。
「おや、酔い覚ましですかな?」と笑う馴染みの画商に山高帽を軽く持ち上げて、上階のテラスを目指す。酒の回った心臓が主張している。
この身体で躍動するのはお前だけか、と息をつき、ウェランは階段を文字通り一段ずつ昇る。
ステッキを支えにとつとつ、とつとつ、幼児が昇るのと同じやり方で昇る。
すれ違う客の中には見知らぬ者も大勢いて、驚いたように足を止めた者には、愛想良く挨拶で先制してやった。
機械仕掛けの昇降機を備えた百貨店ができたと話題になったが、グリューではまだ改装が間に合っていない。それを支配人に謝罪された事がある。
そんなものを謝るな。階段ごとき、昇って、みせる。
人より脚が、短かかろうが、やわな男では、ないのだ。
ぅわっという歓声が吹き抜けを昇ってきた。
今日はジャヌ・デアブリューが踊る日だったか。真鍮の柵越しに見下ろせば「狂乱胡蝶蘭」の二つ名にふさわしい姿。彼女がスカートを翻して蹴り、跳び、回り、踏む度にさざ波が、ざわりざわりと周りの人間たち、他の踊り子たちに広がっていく。その波を受けた者がまた新たな波を生む。
このさざ波を、父は「魔力の迸り」と言っていた。揺らぐもの、波打つものから魔力はうまれるのだと。
事実、その波を照明席の魔法使いたちが集めて光を繰っている。雷弧灯につながる幾本ものアラモント線に指を行き交わせ、若い腕に汗を光らせて雷精たちに指示を出している。
父の言う通りだ。そうなのだ。事実そうだ。
だが違う。
このさざ波は躍動だ。躍動を見ているのだ。なぜこの躍動を、ただ躍動として見ないのだ。
ごそごそと上着のポケットから帳面と練り墨を出し、がしがしと線を引く。なぜ階段を昇っていたのかも忘れている。此方と彼方の境目が曖昧に感じるのは薬酒のなせる業か、それとも。
ウェランは呼吸に熱を感じる。空気とはまた異質な流れが、肺を抜け、血のめぐりに乗って骨を熱くする。
これが魔力の呼吸なのだと父は言った。魔法の素質の顕れだと。
そして跡を継がせようとした。魔法を教え込もうとした。だが、ウェランは絵が描きたかったのだ。見えているのが魔力の流れでも、空気の流れでも、どちらでもよかったのだ。この流動を描きたかったのだ。
魔法なら、姉がいただろう。中途半端な素質しかない自分と違って、はっきりと視て、つながって、使役することのできた姉が。立派な使い魔と契約を結んだ姉が。
なぜ、姉に期待をかけてやらなかったのだ。
なぜ、姉を理解してやれなかったのだ。
ウェラン自身も、年子の姉とはケンカばかりしていた。何かにつけてやたらと助けようとしてきて、それも腹が立った。両親の前で魔法の才能をひけらかすような事をされて、つかみ合いになったりもした。姉が庭でお茶会をしているのを知らずに通りがかり、その友人たちから憐みの目で見られるのが我慢できずに暴言を吐いて、夜には大ゲンカになった。
仲は良くなかった。
母の肖像画を描いた日、姉からも欲しいと頼まれて断った。その翌日に姉は失踪した。
両親は探しに出ていき、日の暮れた食卓で母の飾ったミモザだけが夕食を待っていた。
がしゅっ。
ジャヌを表す最後の線を引き、ウェランは酒精の息を吐き出す。
なぜ今さら、姉のことなど思い出すのか。
線の全体と階下の熱狂を見比べて、ざっくりと符合させていく。覚描きだ、自分だけが理解できればいい。仮に今酔いつぶれたとしても、線を見れば思い出せる。
「おや、エスタシオさん」と声をかけられて振り向けば、馴染みの捜査官がいた。いや、いまは署長なのだったか。
十年ほど前に「娘が嫁に行ってしまうのが寂しい」とせがまれて、娘の肖像画を描いて贈ったことがある。
先日の落ち娘の件で方々に顔を利かせてくれたので、昔の貸しを返してもらったようなものだ。
「夜道が明るくなったとは言え、帰り道には気を付けてくださいよ」
などと言っていたような気がする。
気が付けば自室で一枚の油絵を見ていた。
そうだ、このところしばらく、この絵に掛かりきりだったはずだ。記念公園の魔女を題材にした一枚。この後は印刷所に行って、同じものを石版画に起こさなければならない。
――素描ならともかく、油彩に仕上げただと?
数を刷るための版画である。版に直接描き込めるのが石版画である。わざわざ油絵にした理由が全くわからない。
自らの行動が理解できず、夢か何かかと疑ってあたりを見回して、もうひとつ気が付いた。
ソファに丸まっている少女がいる。
少女は厚ぼったいまぶたを開けて薄く微笑み、ごそごそと身を起こすと「おはようございまぁす。できましたねぇ」と白鑞のスキットルを開栓した。