12. リトグラフの婆
街に老婆が生まれた。
黒い長衣の老婆はぬるりとした雰囲気を纏い、例えば公衆便所で用を足す者の眼前に現れた。
仕事の休息に珈琲豆を挽く者の背後に立っていた。
洗濯女が鼻歌と共に取り込んだ、洗濯物の籠から立ち上がった。
街角で歌に興じる人々の間に、ぱらぱらと混ざっていた。
街に発生したそれら全ての老婆はゆっくり首を巡らせ、一点を見つめ、駆け出した。
背も曲がり、腕もだらりと垂れ下がり、顎も前方にせりだした老婆が、裸足でぱしぱしと石畳を打ち大股で駆けていく。
北からぱしっ、ぱしっ、ぱしっ。
南からぱしっ、ぱしっ、ぱしっ。
東からぱしっ、ぱしっ、ぱしっ。
裸足が石畳を打っては鳴り、打っては鳴り、打っては鳴る。
馬は驚き、自転車は転び、猫は隠れ、犬は吠えた。
老婆は一様にまっすぐ、街の西へと駆けていく。壁があればよじ登り、水路があれば突っ切り、少しでも隙間があれば体をねじ込み、折れそうな老人の体躯を若々しい足取りで駆り立て進んで行った。
二階からどさっ、ぱしっ、ぱしっ。
厨房からがしゃ、ぱしっ、ぱしっ。
便所からずりっ、ぱしっ、ぱしっ。
御者は怒鳴り、警官は警笛を吹き、協会所属の魔法使いは山彦笛を鳴らす。
混乱の発生箇所を点描していけば、西のはずれ、記念公園に向けて収束する明確な線が浮かぶ事になる。
その記念公園の上空、黒山羊を従えた魔女がひとり。その上を腹ばいの娘がひとり浮いていた。
「もっと早う顔を見せに来んかエ? 我が奇し子よ」
摩耗した弦を擦るような声。ユエの記憶にもある声だ。
「おばば、なんで……」
「なんで、とは、何かエ? 我が生きておることか? それとも我がヌシを殺さぬことか?」
黒山羊が嘲笑う。ンネェアア。この山羊には覚えがない。
「首のひとつぐらいは折ろうかと思うたが、奇し子も子であることに違いはないからの。まァよいわ」
「おばば、あなたの子は」
「ヌシには我の魂を分け与えたというのに、新たな魔女になるどころかヒトでも魔女でもない奇し子になってしもうたな。口惜しや、そこな猫の小僧が邪魔をしおったか」
節くれだった長い指がぴしりと右目をさす。
その指が伸びて右目を貫いた。
「あああああー---っ! あああぁっ、うあああああー--っ!!」
(ユエ! ユエ、大丈夫だ。私はおる、ここにおるぞ。おるのだ)
リールーの声も乱れている。
幻覚を見せられたとわかっても、ユエの喉を衝く絶叫は止まらない。
「いやだ……リールー、いやだ……」
歯の根元がかみ合わない。手が震え、呼吸が浅くなって、両目から涙があふれてくる。
(月明かりの、貴様ぁ!)
「黙っておれ王族猫風情が」
「リっ、リールーを……とったら、こ、殺してやる……」
「ほエ、できると思うてか、我が奇し子」
「わたしは、あんたの子じゃない……!」
拳で涙をはらう。手の甲が化粧墨で黒ずむ。
「ならば誰の子のつもりか? 我の一部をその身に宿しておきながら、まだ人間のつもりでおるのかエ? 魔女の魂と番ってひとつとなるはずであったのに嘆かわしい。噛み跡だらけで元の形さえわからぬ魂と、喰って寝るだけの幼子のような我の魂と、余所から来た猫の魂とを抱えてしまったヌシを、我以外の誰が我が子と呼ぶのかエ? 我が最後の魂であったのだぞ、愚か者めが」
たるんだ瞼があがり、魔女の藍色の瞳がユエを見据える。
黒山羊の背を撫でる魔女の膝には、茜色の膝掛けが乗る。あの膝掛けを贈った記憶がユエにある。贈った理由も、どこから持ってきた物かも知らないが、編み目の不格好な膝掛けは、渡したのではなく、贈ったものだと覚えている。
真の名を隠し、大樹の小屋に通い続けた。お茶なりお菓子なりを手に提げて、最初はひとりで。使い魔を得てからはリールーも連れて。
けれど、なぜ。
なんのために魔女の力を求めたのか、それがユエにはわからない。
眼下に見える大樹の小屋から誰かが出てきた。小さな人影のとつとつとした独特な歩き方から、ユエの胸に気分のかけらが押し寄せてくる。
もどかしい。
ねたましい。
いとおしい。
間違いない。
あの子の弟、ウェラン・エスタシオだ。
「――ふん。それはそうとヌシに贈るモノがあってな。なんぞ企んどる小娘がおったんで、ちょうど良かったわ」
と魔女の声がするのと、眼下の広場に異質な人影を認めるのとが同時だった。
地上で少女エーラが「来た!」と歓声を上げたのは、ウェランに対してではない。
大樹の小屋の庇に立つ老婆に向けてのものだ。
だが次の瞬間には、歓喜の表情は懐疑の顔に入れ替わる。
もうひとりいるのだ。
樫の大樹から顔をのぞかせ、べたんと地面に落ちた。落ちて立ち上がって、駆けてくる。庇の老婆は後ろからウェランにぶつかり、突き飛ばして追い抜く。
エーラはただならぬ気配に後ずさり、振り返り、あちこちからさくさく芝生を駆けてくる数十名の老婆を目にして立ち竦んだ。
ウェラン・エスタシオは気が付くと、這いつくばって芝生を見つめていた。
二日酔いのように胸がムカムカする。
なにやら騒がしい。まったく状況が理解できないまま顔を上げると、黒っぽい老婆たちと、白いスカートの少女が目に留まった。
エーラだ。たしか魔女を描くときになぜか居座っていて、モデルに使った少女だ。魔女の超常感を表そうと、少女の姿に老女を重ねて図案を作った。
走る老婆たちは、それら石版画の魔女に似ている。
状況は理解できないが、ただならない。
「にぐっ、にっ、逃げなさい!」
ウェランの叫びにはじかれたように、少女が走る。老婆もそれを追って向きを変える。自分も立ち上がろうとしたところに「父さま!?」と遠くから声がした。
なぜお前がいるのだ! とウェランは絶望を覚える。叫ぼうとした声は、せりあがってきた胃液に邪魔をされた。まさか、まさかこんな時に。
娘が。
ウェランの娘は、エーラが逃げる先にいた。老婆が集団で駆けてくる光景に、腰を抜かして尻餅をついた。エーラはそれを避けようとして、雨上がりの芝生に滑った。
老婆たちが手を伸ばし、蟻のようにエーラにたかる。
「や! やだっ! 来ないで! 来ないで!」
腕、脚、髪、服、すべて掴まれ、少女が老婆の群れに飲まれる。
「やぁだああああああ!! だれっ、誰かぁ! お母さん! おかあさぁぁぁぁ!」
少女の悲鳴に、ユエは身じろぎした。地下室で聞いた幻聴と重なった。
「ヌシ、安楽椅子を追いかけたろう? 我が死んでからああいう偽物が現れるようになってな」
(死んだだと?)
少女の場所にぞくぞくと老婆が集まり、重なって盛り上がっていく。
「猫がうるさいね。月明かりの魔女は老いて死んだよ。我は、記され、語られ、記念され、街に取り込まれてこの世に残ったのだ」
(つまり幽霊風情か。よくもほざいたな)
「エ?」
魔女の残滓と王族猫がぶつかりそうだが、ユエはウェランが気になる。ウェランは立ち上がって、ふらふらと老婆の山へ近寄っていく。
「おばば、わたしを下ろして。あの人に会わなきゃいけない」
「最後まで聞かんかエ。ヌシへの贈り物の話だぞ」
「お願い。ほんとに、いま行かないと」
ウェラン・エスタシオは絶望した。
娘の姿がない。
老婆の形をしたモノは集合し、四肢や首、肩、果ては口を使ってお互いに組みあわさり、巨大な猿のような形をとりつつあった。
黒ずんだ大猿の胸のあたりに、目立つスミレ色。娘の服の裾。
魔女は見おろす。
「あれらは我の粗悪な複製だ。あの小娘、形と質を巷に広めて我を生み出すつもりでおったようだよ。なかなかいい所まで行っとったと思うが、我がここに在るからな、うまくはいかん。この山羊ん子が足されたが」
ンネェアア。黒山羊が啼く。
「まァちょうどヌシが街に来とったんで、小娘の仕込みをちと使わせてもらったよ。我の複製どもは人の情念を複写するぞ。うまそうだろ? 我が奇し子よ」
老婆の瞼の奥に、慈愛のようなものが見えた。
「魔女もな、子は腹いっぱいにしてやりたいと思うのだ」
「か、返せ。娘を返してくれ……」
ウェランがよろよろと猿型へ近づいていく。その間にも、何人もの老婆がさくさくと追い抜いて行く。
近づくほどに、猿型が人型の集合であるのがよくわかる。武器になりそうなものを探り、ズボンの尻ポケットに入っていた物を投げつけた。
白鑞のスキットルが猿型の右腕に当たり、そのまま芝生に落ちる。
猿の腕がウェランへ向けて、ヌっと伸びた。振り返るだとか、そういった動きは一切なかった。そもそも猿には頭が無かった。
腕を構成する老婆たちがそれぞれの腕を伸ばしてくる。
視界の腕、腕、腕。皺、皺、皺。
山高帽が奪われ、上着の襟を、袖をつかまれ、引かれる。
「か、ふ、は……」
声にならない声が漏れる。
五十歳を超えても、恐怖には涙が出ると知った。
引きずり込まれ、目の前が暗くなる。
「たーんと喰うがよいわエ」
ユエが落下を始めた。




