魔術師とわたし
「なぁ~にが『わたしは運命の女性と出会った!政略結婚だったお前は愛せない。離婚しよう』よ! 」
ロザリーが淑女にあるまじき力強さでバァン!とテーブルを叩くとカップが踊った。
向かいの魔術師がこぼれたお茶を拭く。
「離婚上等!! 二十も年上のお腹の出たハゲ親父に愛なんかめばえるはずないじゃない! こっちだってあなたに恋愛感情なんか髪の毛一筋ありませんから! 髪ないけど!」
「……負け惜しみにも聞こえますけど、悔しいんですか?」
ロザリーのカップに追加の角砂糖が投入される。
怒った女性を甘いものでなだめようなど、馬鹿にしている。
ただ二個分の砂糖がとけた紅茶は魔術師の手作りのクッキーとよく合った。クッキーなのに塩がきいていて、焙ったナッツが香ばしい。あと五枚はいける。
「悔しくなんてないわ。浮かれた中年だと思っているだけ。だって運命のお相手とやらは十八歳よ?」
「貴女だって二十一歳じゃないですか。若さでは負けていませんよ」
「金髪で青い目で色白で、砂糖菓子でできた人形のように可愛いと言ってたわ。胸は果物らしいけど」
「貴女も銀髪で目は紫で、日焼けも薄くなったじゃないですか。胸は……」
「え、メロンでしょ?」
既婚者の証である目元をおおう黒いヴェールの奥からジッと見つめると、魔術師は黙って頷いた。
寄せて上げるお肉がないから、出会った当初から詰め物で盛りっ盛りである。
「本当に悔しくないのよ。ただわたしたち政略結婚でしょう? 義理の父に約束したのよ。頂いたお金と引き換えに、かならず孫の顔をお見せしますって」
ロザリーは実の父によって売られた。
田舎男爵の父は領地を運営する才能がなく、家は没落寸前だった。
そこへ多額の融資と引き換えに持ち上がった縁談。
お相手はニ十歳上のジェイク・ハモンド男爵。
四十になっても独身だった息子を心配して、父親であるフリント伯爵が持ちかけてきた政略結婚だった。ハモンド男爵の意思は不明だが、式を挙げたのだから納得していたのだろう。
「この縁談は二十歳を迎え若干行き遅れっぽくなってきたお前のためでもある」、とのたまう父に腹は立ったが、たったひとりの弟が継ぐ家が借金まみれなのは可哀想だ。
――融資の条件はひとつ、跡継ぎを産むこと。
「結婚されてもう一年ですよね……式の日に花吹雪が舞っていたのを思い出します」
「懐かしそうに回想しないで。もう一年なのよ。一年たつのにわたしは……」
約束の子どもを産むどころか、妊娠もしていない。
「ご自分の身体のことをお気づきじゃないだけでは? 試薬を処方しましょうか」
「調べなくてもシロよ真っ白。だってわたしたち――《白い結婚》だもの」
魔術師が動きを止め、聞き返すようにフードの頭を傾げた。
たいていのことは彼に愚痴っていたが、白い結婚のことは言えずにいた。
ハモンド男爵に嫁いで一年、ロザリーは孤独だった。
自分に求められるのは跡継ぎを産むことなのに、初夜は大失敗に終わった。
夫からは避けられ、知らない土地、知らない人間に囲まれた生活は息詰まるものだった。
逃げるように屋敷を出て見つけたのが、街外れにぽつんと佇む魔術師の家だった。
吸い寄せられるように扉を開けて、ロザリーは魔術師と出会った。
フードを目深にかぶった背の高い男。怪しさ全開だが物腰はやわらかく、温かいお茶と焼き立てクッキーにあらがえず餌付けされていた。
はじめて魔術師に処方してもらったのは睡眠薬だった。
ベッドを別々にした夫との夜に悩み、不眠に陥っていたので一瓶買った。
噂では魔術師の薬は馬鹿みたいに高価だと聞くが、代金として求められたのは男爵から贈られたブローチだった。値段を知らないそれと引き替えに手に入れた薬は、信じられないほど不味かった。飲んですぐ、一晩気絶した。
この一件は「毒だ」と主張するロザリーと、「薬の効果だ」と主張する魔術師との間でいまだに見解がわかれている。
魔術師は他愛ない話も、夫への不満も、嫌がることなく聞いてくれた。
周囲に愚痴をこぼすことができないロザリーには、しがらみのない関係が居心地が良く、いつしか魔術師とお茶をするのが日課になっていた。
いつ訪ねても他のお客に会ったことがないが、魔術師曰く「本当に薬を必要としている者しか道を見つけられない」目くらましをかけているかららしい。
時々愚痴の内容から魔術師が薬の処方を申し出るが、すべて断っている。
薬を買わないロザリーに道が開かれているのはまったくもって不思議である。
「さしつかえなければ、どうして《白い結婚》をされているのか教えてくれませんか?」
秘密を守ってくれる魔術師のことは信用している。
ただ、夫婦の閨の事情まではさすがに……ま、いっか。離婚するんだし。
「《白い結婚》になったのは、夫との初夜がひどいものだったからよ。式の夜、お互い湯を使って寝室に行ったの。出自に疑念が残らないよう清らかな乙女が条件だったから、わたしは初めての夜に不安で胸が張り裂けそうだったわ。『初めてなのでどうかやさしくしてください』とお願いしたら、あの人なんて言ったと思う? 『じゃあ先にはさんでヌイてくれないか?』って言ったのよ!!」
「あぁー……かばう気はないですが、一度興奮を鎮めようとしたのかもしれませんね」
「ありえないのはここからよ! ドン引きで固まっていたわたしの寝間着をはぎとった夫は、『騙したなペチャパイ!!』って叫んだのよ!!」
今思い出しても怒りで体が震えてくる。
目の前の幻影にシュッとくり出した拳を避けて、魔術師は「それでどうなったんですか?」と続きをうながした。
「わたしも枕元の燭台をつかんで夫の顔に突きつけ、『言えた義理なのツルッパゲ!!』って怒鳴り返してやったわ!」
「不毛な争いですね」
「ええ。お風呂上りにかぶるのを忘れて出てきてしまったのね。夫は真っ赤なタコみたいになって、『よく見ろ!男の魅力はそこにはないっわたしのギャランドゥは――』って下着を脱ごうとするものだから、乱暴されると思って怖くなって……」
「逃げ出したんですか?」
「見せつけようとした場所を思いきり足でエイッ!って……」
魔術師は「痛そう……」と小声で呟いた。
「夫は今度は真っ青になってうずくまり、そのあとぴょんぴょん跳ねながら寝室を出て戻ってこなかったわ。それ以降わたしたち夫婦が一緒のベッドで眠ったことはないの。あとで知ったのだけれど、あの人若い頃からハゲててそれが悩みだったらしくて、魔術師の育毛薬に頼った時期もあったみたい。効果はなかったそうだけど、その魔術師ってあなた?」
「僕ではないですが、遠くに住む兄弟子かもしれません。なるほど、それで《白い結婚》なのですね」
「こんな外聞の悪いことだれにも相談できなくて……」
散々な初夜を終えて、夫はロザリーに愛想をつかしたらしい。
仕事に打ち込んで領内を駆け回り、館を不在にすることも多くなった。
放っておかれた彼女は涙にくれ、ブラブラと散策して魔術師の家でお茶を飲む毎日を送っている。
不貞を疑われそうな状況だが、使用人たちは彼女に無関心で何も言わなかった。
魔術師の家は日当たりがよく、周囲を薬草畑に囲まれ、その薬草も色とりどりの花を咲かせたりしてのどかな雰囲気だ。
トカゲやヘビの干物が窓辺に吊るしてあるのはいただけないが、魔術師が薬草を刻んでコトコトお鍋で煮たり、薬を入れる小さなガラス瓶を磨いている姿にとても落ち着くのだ。ずっと見ていられる。たまに手作りケーキも焼いてくれる。いっそ住みたい。
実家は小さな領地で使用人も少なく、弟と一緒に家庭菜園を手伝ったことを思い出す。採れた野菜は母親が腕をふるって美味しい料理にかわった。
ハモンド男爵夫人になってから、ロザリーは畑にも厨房にも立ち入ったことはない。実家と比べるのもおこがましい規模の館で、有能な使用人がそろっているからだ。
周囲から求められることはただひとつ――後継ぎを産むこと。
役目を果たせないロザリーに居場所などなかった。
「ねえ、十八歳の砂糖菓子のように可愛い女の子が、二十以上も年上の男を相手にするかしら? 親子ほど年も離れていて、独身ならまだしも今は妻がいるのよ。夫は舞い上がってしまっているから詳しくは聞いていないけれど」
「世の中には年上の落ち着きを魅力と思う女性もいるでしょうね。ハモンド男爵は裕福ですし、ゆくゆくは伯爵位を継がれる方でもあります」
べつにその少女が真実の愛でもお金目当てでもかまわないのだ。
ロザリーだってお金目当てで結婚したのだし。
政略結婚の夫との間に愛はめばえなかったが、夫はその少女への愛の花が咲きまくって頭の中もお花畑のようだから、ロザリーとは立場が違う。
夫に愛されない孤独を味わうことはないだろう。
そう結論を出したらロザリーの心は軽くなった。
表情の変化に気づいたらしい魔術師が「男爵の言いなりに離婚されるのですか?」と聞いてきた。
「子どもが望めないのだもの、離婚したいと言われたら従うしかないわ。心配なのは実家だけれど、弟が跡を継いだと聞いたし、あの子なら大丈夫よね。わたしは……そうね、どこにいこうかしら……」
ハモンド男爵という有力貴族に離婚された女を、妻にしたいと思う者はいない。
実家に戻れば田舎ゆえに出戻りの噂は一日にして知れ渡り、弟の体裁が悪くなるだろう。
ロザリーが悩んでいると、魔術師が手を伸ばして彼女の手に触れた。
「行く当てがないなら、僕のところへ来ませんか?」
行き遅れからの白い結婚だ。異性に対する免疫がゼロのため、突然のスキンシップにロザリーはおどろいて魔術師を見つめた。
彼の背が高いのは知っていた。お茶を用意してくれるとき、長い指が綺麗なことも。
ただ眺めていたその指がなぜか自分の手をつつんでいる。自身の手をすっぽりおおう大きな手の下で無意味に指をワキワキするしかない。
「貴女をお金で売り買いする人間と同じ提案は血は争えないようで腹立たしいですが……実家への融資が心配なら僕がなんとかします」
「へっ? あの、ち?」
いつもフードから出ているのは顔の下半分だった。ロザリーの話にときおり微笑んでくれる口元は好みの感じだな、フードを取ったらどんな顔だろうと想像していたけれど。
バサリとフードを後ろに払った魔術師は想像以上に若く、整った顔立ちだった。
長い黒髪に黒い瞳、目鼻立ちのはっきりした、ん? なんとなく既視感……?
「愚かな兄です。貴女を自分から手放すなんて」
「……そういえば兄弟の話になったとき、魔術にとち狂った年の離れた弟がいるって……」
「無茶苦茶な言われようですね。結婚式の日に花びらを空からふらせてあげたのに」
正体不明の魔術師は、ロザリーの義理の弟だったらしい。
「……どうして教えてくれなかったの?」
「僕の正体を知れば、貴女は二度と来なくなると思ったからです。足しげく訪れていたのは、薬が欲しくてではないでしょう? 貴女は周囲の期待や立場に追い詰められ、兄につながるすべてのものから逃げたかった。だから僕は名もなき魔術師でいることにしました」
困っている人にしかこの家への道は開かれないのですよと、魔術師はやさしい声で言った。
いつも迷うことなくたどり着いた魔術師の家。
魔術師はロザリーに期待も批判もしなかった。
他愛ない話しを聞いてもらい、お茶を飲んでお菓子を食べるだけ。
でも彼と過ごした時間がなければ、ロザリーはどうなっていただろう。
心が疲弊して、離婚を告げられたときに壊れていたかもしれない。
「言い出せなかった理由はもうひとつあります。これは僕の弱さですが……貴女を苦しめている人間の弟だと知られ、嫌われることが怖かった」
魔術師が不安そうな目でロザリーを見たので、あわてて首を横に振る。
夫よりもずっとずっと――魔術師のことが好きだ。
一目で兄弟とわかる顔立ちなのに、夫には感じなかった緊張と動悸で顔が火照る。十八歳の少女に乗りかえようとしている夫を非難できないかもしれない。
「結婚式にあらわれた貴女は美しかった。純白の花嫁衣装に銀髪が輝いていましたね。まだヴェールをつけていなかったでしょう? 紫の瞳が宝石のようで、僕は目が離せなかった」
結婚式の日、魔術師もその場にいたらしい。
式当日は花嫁の顔をお披露目し、式の翌日から黒いヴェールで目元を隠すのが一般的だ。
「あつまった人間を不安そうに見ていた貴女が、僕がふらせた花びらを見て笑ってくれたんです。伯爵家の面汚し、胡散臭い手品に傾倒した馬鹿息子。そう言われていた僕の魔術を、あなたは純粋な笑顔で受け入れてくれた」
押し寄せた人々の歓呼の声にただ圧倒されたのを覚えている。
祝砲に合わせ、青い空を埋めつくすように舞った白い花びら。強い風が吹いたその一瞬で、薄紅や黄色や水色に変わり、七色の祝福となってロザリーにふりそそいだ。虹の上に降り立ったような奇跡は、魔術師が作り出したものだった。
「……ありがとう。あの日は本当にこれでよかったのか、愛のない結婚を誓っていいのか、迷いと不安で逃げ出したくなっていたの。でもあなたがふらせてくれた花びらで勇気づけられたわ」
「僕はあのとき花吹雪にまぎれて貴女を攫ってしまえばよかったと後悔しています」
冗談を言う魔術師だが目は笑っていない。
「いっそ今日からここに住みませんか? 貴女を苦しめて泣かせる場所へ二度と帰したくありません」
「う、嬉しいお誘いですが……まだ結婚している身なので、不倫はちょっと……」
魔術師がそっとロザリーの手をすくいあげ、左手の薬指から結婚指輪を抜き取った。
大粒の宝石が輝き、内側には夫とロザリーの名前が刻んである。
価値も知らない愛着もないそれをつまらなさそうに転がし、魔術師はニッコリ微笑んだ。
「憂いが晴れるように、兄に飲ませる薬を処方しましょうか? お代はこの指輪で」
「いや毒殺はダメでしょ!」
「呪いもいけます」
「手段の問題じゃない!!」
街外れの魔術師の家には住人が増えた。
魔術師はスレンダーな銀髪の妻と、今日も手作りお菓子でお茶の時間を楽しんでいる。
ハモンド男爵の離婚はすぐに忘れられた。
年下の妻を娶った男爵の二度目の結婚式は、突風が吹いてナニかが飛んだとか飛ばなかったとか。
シリーズ短編の「師匠と私」に、毛生え薬を作った兄弟子が出てきます。