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――――もう、守屋さん。守屋さんってば」
何回目かをカウントする気も失せたリフレイン。
酔い潰れた自販機の横ではなく、ものうげなベッドの上でももちろんなかった。
俺はすこぶる潔く、大きなあくびと伸び。さらに顔を左右に倒して首の関節をコキッ、コキッと鳴らしてみせる。
はじまりを告げる『悲しき街角』の原題は『Runaway』。デル・シャノンは図らずも彼女の逃亡を嘆いた。俺の現状もまさに、バッドエンドをひた走る状態。
だからといって、尻尾を丸めて逃げるのだけはやめよう。結果は同じだろうと、丸めた尻尾を笑える話に変えてみてはどうだろう。
これから何度となく、ふと思い出してはため息まみれにならないように。悲しき過去から脱却してみせる。
くり返しによる順応か、抱えていた頭痛がいくらか和らいで感じるのは幸いだった。
俺はおしぼりを丁寧に折り畳んで手の痺れを取りつつ、長らく手に取ることのなかったメニューを目の前に広げる。
周りのガヤガヤにかき消されるくらいの小さな声で「やっぱりないか……」とつぶやく。よく聞こえなかったと美夕が身を寄せるとともに、俺はちょうど背後を通り過ぎようとした店員を呼び止める。
「すいません。いくら探しても、烏龍ハイの焼酎抜きが見当たらないんですけど」
「えっと、それだとただの烏龍茶に……」
即答しかけたところを俺は手の平を見せて制止。キリッと表情を正すと、
「確かにご指摘のとおり、中身はその可能性が極めて高い。というか100%間違いない。だがしかし、ノンアルコールビールがあるように、アルコールゼロの烏龍ハイがあっても問題はないはず。もし今日『烏龍ハイ焼酎抜き』が誕生したならば……おかわりという名の付加価値、供給者と消費者のwin-win、ひいては日本のGDPにも影響しかねない経済効果まで期待できる、まさに現代資本主義社会における理想的ビジョンが成り立つのです」
「……なるほど」
店員は明らかに「出たよ、酔っぱらいの変なからみ」という愛想笑い。美夕はすでに反対側を向いて笑いをこらえている。
「というわけで、烏龍ハイの焼酎抜きをひとつ、お願いします」
5秒ほど沈黙した後、店員は厨房に向かって大声で、
「カウンターのお客さま、烏龍茶1杯!」
「プハハハハッ!」
美夕は続けて「さんざん熱弁したのに、烏龍茶でオーダー通されてる」と大爆笑。
アドリブにしてはなかなかよかったと噛みしめていると、烏龍茶が到着。
余韻を引きずった美夕が目元を拭いながら、
「守屋さんって、いつもこんな感じで飲んでるんですか?」
ほんのり赤く染めた頬に白い歯が覗く。
テーブルに置きかけた烏龍茶を寸前で受け取った俺は余裕たっぷりに「フッ、それはどうかな?」と、ものすごい勢いでガブ飲み。
美夕は再び吹き出すと、
「どう見たって、酔い醒ましじゃないですか」
離れようとする店員にすかさず「わたしも、同じのください」と便乗。持っていたグラスを軽やかに空けた。
俺にとってはすでに語り慣れた笑い話。反応がよかったものを厳選しては美夕からも話を引き出した。
その後はやっぱり仕事の愚痴に落ち着く。
今回はあからさまな悪意は自制、何より場を飽きさせないことに尽力。
ビールからジントニックに変えては烏龍ハイ焼酎抜き。甘みを欲してはカルアミルクと烏龍ハイ焼酎抜き。小笑いを挟んでは迫りくる頭の重さをなるべく減らした。
ついに美夕から「もう、ふつうに頼めばよくないですか?」とたしなめられるも、
「アルコールが入ってそうで入ってないってところが、たまらないんだよ」
「だから正真正銘、混じりっけなしの烏龍茶ですって」
さらにトイレの中座を使い、ある計画にも取りかかる。この後訪れる場面を見越してちょっとしたサプライズ。
店内に俺たちだけとなってから満を持して席を立つ。
レジにて1枚1枚伝票が加算されるのを、俺はそ知らぬ顔でワクワク。心の中の長過ぎるドラムロールを経て、合計金額が表示された瞬間美夕は「えッ」と、目を見開く。
「7777……って、すごくないですか?」
割引券や10円単位のトッピングでも無理だったので、焼き場を離れた店長に協力を仰いで実現させたかなりの力技。驚く顔をさしおき、さっさとひとりで店を出た。
灯りの乏しい煉瓦道に靴音を鳴らすごとに、ひしひしと押し寄せるむなしさ。今回特に強く感じるのは、あまりに楽しかったから。
これからも同じようにくり返される感情。今しか感じられないと意識しては胸を締めつける。
楽しい時間はいつか終わりを迎える。ふと残念な思いがよぎろうと、また新たな理想を描くプロローグと思えばいい。
どうしようもないことはいくらだってある。それでも、ひたすら向きあい続けた純粋な願いまでなかったことにしたくない。
俺は両手をポケットに突っ込みながら「幅寄せー」といってわざと美夕に肩をぶつけ、思いを晴らす。美夕は「ちょっと、守屋さん」から「ちょッ、ホントにやめてくださいってば」と口調が荒くなり、最終的に「おいッ!」と叫んだところでターミナルに到着。
すでに指定されたかのような立ち位置で向かいあう2人。
静けさ漂う駅前。
気持ちを整えていると、おとなしくなったと思っていたタクシー乗り場がまた騒がしくなった。
取り残された1グループ。傍らのベンチでひとりが放っぽり出された中、スーツ姿の3人がヒートアップ。どうやら2次会でアルコールを大量発注した犯人捜し。
場を離れて一服している運転手に顔をしかめつつ、美夕を横目で伺う。
美夕はある一点を見つめたまま。
視線の先は、自分が元凶なのをさしおき、何ともお気楽そうに寝ている酔い潰れた初老の男。しばらく見入っては安堵の表情を浮かべ、こちらに顔を戻した。
目があい、俺もすぐに表情を和らげる。ただしこれから伝えることすべてを冗談と受け取られても困るので、口角は上げつつ真剣な眼差しで言葉を紡いでゆく。
「今日は急な誘いだったけど、ありがとう。おかげで楽しく飲めた」
「いえ、こちらこそ。わたしも何だか飲みたい気分だったし……ホントに楽しかったです」
同じような言葉でも、乗せた気持ちの分により美夕も心がこもった返事。
一度足元に視線を落としてから、俺は笑みを消して美夕を見つめる。
「俺、美夕のこと……少しずつ好きになろうって思ってる」
「ど、どうしたんですか。急に……」
たたえていた笑みに困惑が混じり、みるみる空気が張り詰める。
俺は決して酔った勢いではないという目線を力強く送る。美夕の反応によっては瞬く間に下がりかねない感情を必死で鼓舞し、話を続ける。
「正直いうと今日をきっかけに、また何度か飲みに行ったりして、お互いの気持ちにある程度の確信を持ってからいうべきものなんだろうけど……」
途中でわけもなく気持ちが折れかけ、つい口ごもる。美夕は俺の発した単語ひとつひとつを咀嚼するようなまばたき。
俺は一縷の望みを託し、ゆっくり目をあわせると、
「でも、それがいつになるかはわからないし……もしかしたら、いえなくなる状況に変わっちゃうかもしれないし」
美夕は笑顔でいながら珍しく自分から視線を外し、マフラーで口元を覆った。
俺は自分のマフラーに手を当て、顔を見せてほしいとばかり、
「だから……」
タクシー乗り場では威勢のいいジャンケンのかけ声がはじまった。何度もあいこを続けた後、ひとりの悲痛な叫び声。
そしてまた、冷たい風が吹いてきた。
美夕は頰をかすめた髪を手ですくい、耳にかき上げてから顔を上げる。俺の伝えようとすることを察し、あらかじめいっておかなければという何やら決心した表情。
一瞬深い眼差しを向けられ、今度は俺がたまらず視線を逸らせてしまった。
必死で気持ちを奮い立たせると、再び美夕を見つめ、
「たとえば、あと5年後。美夕がもしひとりでいたら……そのときは俺とつきあってほしい」
聞き終えてすぐに美夕は口を開く。
「5年後っていったら、わたし30ですよ? それまでには結婚したいって思ってますし、子供も産めたら……結婚はできなかったとしても、誰かとつきあってるとか……」
秘めたる気持ちをいい連ねるうち、たどたどしくなる美夕。
すかさず俺は、
「それはどうかな?」
意表を突かれてポカンとする美夕に、俺がこらえきれず「プッ」と吹き出すとともに声が重なった。
「フフッ、フハハハハッ!」
ほんの数秒にして、周りにいた人がふり向く盛大な笑い声。俺は笑顔のまま、
「じゃあね、また明日」
「あっ、はい。また……」
先を越されて驚く美夕に、俺はかまわず背を向けた。
柄にもなく、後ろ手をヒラヒラ。
背中に「明日」と声がかかり、ヒール音が離れてゆく間もずっと胸は高鳴り続けた。
ひとしきり風がおさまったのを見計らうように、ふり返る。美夕はエスカレーターに乗りながらも俺を気にしていたようで、すぐに目があった。
何だか輝きで満ち溢れた笑顔は特に印象的だった。
上の階へ隠れてしまう直前、もう一度手をふりあって別れた。
――――3年後――――
3月の第2日曜日。俗にいうホワイトデーにして大安吉日。
暖冬といわれたシーズンも、先月末の記録的な積雪によりまだところどころに白い塊が残っている。朝はまだ底冷えするものの、日中の陽気は着実に草花の芽吹く季節を感じられるまでになってきた。
街路樹の根元に集められた雪めがけ、我先にと群がってはさっそく叱られる子供たち。
俺は季節と不釣りあいの汗を額に滲ませ、その横をハアハア息せき切って走り抜ける。
駅からほど近い、イタリアをモチーフにしたコーラルカラーの建物群。3フロアに渡る映画館をメインに雑貨店や飲食店が軒を連ねる中、最上階にちょこんと佇む白いチャペル。場所を知らせるかのように鐘の音が響いた。
今日は美夕の結婚式。
新郎はもちろん俺……ではなく、参列者のひとり。
あのとき自らきっぱり「明日」と宣言したせいか、永遠とも思えたループはあっさり終わり、またいつもの生活に戻った。
今では思い出の1ページとして心にひっそりしまわれている。
あれからほどなくして会社は自主廃業。
もともとワンマンだった社長が何の前触れもなく身売り。長らく働いていた幹部クラスは蜘蛛の子を散らすように離職。美夕ら若手数人が新しい経営者のもと、同じ職場で働くこととなった。俺ら中堅社員は営業専門の系列会社へ異動。
そんなドタバタもあり、美夕への想いは不思議と気持ちよく昇華できていた。ジメジメした後悔の念で日々過ごさずにいられるのが何よりの救い。
年を重ねるごとに時間の流れを早く感じる最近。3年前と比べ、数kgのウエイト増はそろそろ返上したいと思っている。
昨夜はあいかわらずのサービス残業に加えた寝坊。ようやく到着したとき、ちょうど教会の扉から二手に伸びた長い列が新郎新婦を待ちかまえているところだった。
新社長、もといCEOによるイヤーエンドでゲットした景品、デジカメの本格的初使用という緊張もあいまって、弾んだ息のまま人山に混じる。
全体のアングルを決めようと、塔の先端の鐘を見上げる。プロのカメラマンではないけれど、日ごろいろんな宣材写真を見ている分こだわりは強い。
ひんやりした風が熱のこもっていた前髪をそよがせる中、青々と広がる空が視界をいっぱいに。今日は晴れてよかったとあらためて思う。
再び荘厳な鐘が鳴り響く。
インカムをつけた2人のプランナーが、両サイドから大きな木製扉を重々しく開いたタイミングでファインダーを向ける。
しばらくぶりに見る美夕は、すっかり胸元まで髪が伸びていた。
腰の括れが強調されたマーメイドラインの白いウェディングドレス。裾を気にして躊躇するも、新郎が腰に作る腕の輪に手を通すと安心した様子で歩きはじめた。
「おめでとうーッ!」
遠く近くからあたたかな歓声。最前列からは花びらが投げられ、ヒラヒラと舞う。各々持参したカメラのフラッシュがウェーブ。遠巻きからモニター越しに美夕の姿を目に焼きつける。
そして画面に写り込む伴侶……あッ、高木くんじゃないか!
年始早々に届いた招待状。美夕から事前に報告があり、参加表明していたのもあって宛名はろくに見ていなかった。
3年前、一緒に仕事した最後に冗談で「美夕のこと、よろしく頼む」といっても特に気の利いた返しはなく……さては新しい環境下で思う存分猛アタックしたな。ったく、若いっていいよな。まあ、2人のことに俺が今さらしのごのいう権利はまったくもってないのだけれど。
奥にある噴水をゆっくり一巡し終えると、美夕がひとり離れて距離を取りはじめた。誰かがボソッと「ブーケトスだ」とつぶやく。プランナーによって集められたカラフルな衣装をまとった5、6人ほどが舞台をセットアップ。
ちょうどそのとき、美夕は俺を見つけると迷わず近づいてきた。イベントの一環だと察した周りがすぐに、モーゼの海割りのように道を開ける。ズームがうまくいかずに慌てた俺は、しかたなくカメラを下ろす。
今日、美夕に伝えることはただひとつ。
「結婚おめでとう。お幸せに」
ほのかにまとっていた緊張が解かれ、かつて見慣れた笑顔を向ける美夕。潤んだ瞳、チークによる艶やかな頬で「ありがとうございます」とはにかんだ。
あちこちからプランナー同士による指示が飛び交い、イベントを準備している最中。対岸で待機する新郎は、方々からかけられる声にふり向いては笑顔で応じている。
まだ会話できそうだと思った矢先、美夕から、
「守屋さん、覚えてます? 3年前の今ごろ」
「ああ……何となく、だけど」
俺はわざとすっとぼけた。「そりゃもちろん」と即答するのは気が引けた。ただ、これからもずっと忘れないだろう日を、美夕がまず聞いてきたのはものすごくうれしかった。
美夕は声のトーンを少し下げると、
「あのころ……仕事もそうでしたし、友達のこととか、身の回りがいろいろしんどくて。そんなとき、何か、自分の気持ちに素直でいればいいんだって心から思えて」
「高木くんのことを、少しずつ……?」
「当時は実感なかったですよ。でもあの瞬間、嘘みたいにスーッと楽になれたのが、何だか今につながってる気がするなって」
返事に詰まる俺。どうやら告白とは受け取られていなかったようだ。
こっそりため息を吐くと同時、ジワジワ胸を熱くする思いが込み上げてきた。そうか、俺ではなく美夕の未来を変えた日だったのか。
話はまだ完全に終わっていなかったけれど、美夕は近くの者に促され、準備完了した広場中央へ向かって行った。開いていた俺の目の前はすぐに人で埋め尽くされる。
そのひとり、やけにド派手なドレスが塚本だった。
会社が譲渡されるのを待たずに転職して以来の再会に、あいさつがてら近況を聞きかけ口をつぐむ。足元に小さな女の子を連れていた。母親と同じシースルーのフリルのついたスカート。
衣装とあわせたきらびやかなネイルで抱っこされた子は、俺と同じ目線の高さになるとニコッと笑ってすまし顔。丸い目の形がそっくりだと思いつつ変顔をしておどけていると、母親に名を呼ばれて前へ顔を向ける。後頭部はおそろいのシニヨン。
「ほら、これから花嫁さんが投げるお花、誰がもらえるかな~」
「おはな……ママの、おはな?」
「え?」
俺はすかさず助け舟。
「ママは参加しないのかって」
顔半分だけふり向いた塚本が、
「私は披露宴のときにする、くじ引きみたいなのに参加します。こっちも出たいっていったんですけど、ひとり1回だけだって」
瞬間的に、ちょっとした余興ではすまない絵面が浮かんだ。
だいたいその爪で本気になったら危ないだろと、喉元まで出かかった言葉を寸前で飲み込む。最近、思いついたことをすぐに口には出さず、よく考えるようになったのはトシのせいか。
ベストショットを狙う撮影者はかなりの数に及んでいた。
みんなで輪を作った広場中央に美夕がブーケを手にひとり。噴水を背に並ぶ女性陣。落下地点をイメージするように距離を計り終えるころには全員が息を潜めていた。
「じゃあ、投げまーす」
美夕は女性陣に背を向け、両手に抱えたブーケを何度かふりかぶってから高々と放り投げた。
みんなでいっせいに見上げた無音の青空に、白い花束がきれいな弧を描く。そして思ったより手前で落ちたと同時、大きな歓声。
取りに向かった者だけでなく、あちこちから絶叫が湧き起こる。
ひとりが真っ先に駆け寄ってはかがみ込む。けれど自分のドレスの裾で弾いてしまった。
再び手を伸ばして掴みかけた瞬間、左右からいくつもの手が現れブーケが見えなくなった。
カラフルなドレスが1ヵ所に集まってまもなく、高々と花束を掲げた歓喜のひと声によって場が散らばる。
「やったー! ワタシ、帰りにブライダルの予約しまーす。なんちゃって」
いつのまにか張り詰めていた空気が、また和やかさを取り戻す。
ロングソバージュの女性がフワフワ揺れるスカートにかまわずピョンピョン飛び跳ねる。どこからともなくパチパチと拍手が起こる中、和服姿の婦人層からは「あらあら、最近の若い子は節操がないったらありゃしない」とボヤキ。
周囲の輪は解けても、ブーケトス参加者が1カ所に固まってリプレイ検証に花を咲かせる。
一番に駆けつけた同僚からさっそく「サトミはまずカレシを見つけないと」とツッコまれ、一同爆笑。サトミと呼ばれた女性は隣にいた者にブーケを預け、乱れた髪や衣装を直しながら「部長ー、今年採用で誰かいい人いなかったですかー?」と声を張る。
名指しで呼ばれた男がすぐそばから「ヨシオカはもうちょっとおしとやかになれって、いつもいってるだろ〜が」と軽い説教。「そうだぞ、歯に衣着せろー」と野次も追加。
「何、おめでたい場でダメ出し?」
自分でオチをつけては高らかに笑う。
そのとき、どこからともなく「オレみたいなのはどうかな?」と声がかかる。
「ショーゴくんこそいいかげん彼女つくりなよ。何わけわかんないこといってんの」
「そういうファジーな態度だから、いつまで経っても彼女できね〜んだぞ」
「すいません、ファジーってどういう意味ですか?」
「ブーケをもらって逆に縁遠くなった、なんてジンクス作らないようにね。後がつかえてるんだから……」
「てかユリさん、かなりガチで取りに行ってませんでした?」
「それは、その……縁起物だし……」
笑いを分散させながらようやく場が落ち着きを取り戻す。
誰もが永遠に感じていたい幸せ。
やがては過去になってしまう最高のひとときをせめて形に残しておこうと、俺は撮影を続ける。
今ブーケを持って赤面しているのはまさに最初に掴み損ねた女性。実は俺がここ最近、真剣に将来を考えてつきあおうと思っている系列会社の先輩。ただし職歴や年齢では俺のほうが6年ほど長い。
働きだしてすぐのころはお互い人見知りがひどかったけれど、だんだんと打ち解けることができた。双方意見をいいあい、効率よく仕事をこなすうち、いつしか2人で組んで任される割合が増えていた。
今週はすでに数件オファーが入っていて、明日は打ちあわせを兼ねて食事しようと約束をしたばかり。
胸元に抱えた花束を見つめ、まだほんの少し落胆を隠しきれずにいる裕里。
最後にズームしてからカメラを下ろした俺は「おとなしそうに見えて、けっこう負けず嫌いなんだから」とこぼしつつ、かけるべき言葉は「惜しかったね」に決めた。
裕里はきっと俺を見るなり「見てた? 最初に私が触ったの」と、声を大にしていうだろう。今ではすっかり愛おしさを感じてしまう、何だか聞きなじみのある声で。
いつからか確実に芽生えた想い。もうそれはたいして時間がかからずに、口を開けばすぐに出てくるくらい簡単な言葉。そして明日ではない今日のうちにかならず伝えようと、俺は笑顔で裕里に近づいていった。