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――――もう、守屋さん。守屋さんってば」
肩を揺すられた瞬間、ガバッと顔を上げる。
カウンターからの眺めにしばし呆然。耳に入ってくるいろいろな音が、今度は最初からかなり鮮明。
両手両足伸ばして寝たはずなのに、窮屈にうずくまっている。目にも止まらぬ体勢変化。一度ならず二度目ともなると、多少寝ぼけていたではすまない疑念が頭を埋め尽くす。
さっそくネクタイを緩めながら首を伸ばし、厨房内の時計に注目。まもなく9時30分になるところ。
ふと、流れている曲のタイトルが浮かんだ。
以前モノクロのPVを見たことがある。ダンスホールの真ん中で飄々と歌う白人歌手。聴けば聴くほど脳裏に刻まれるポップなメロディー。
おしぼりで周りを拭きがてら、手の痺れを軽減。発声しやすいよう「ん、ンンッ…」と喉を調整。
原因が何か追求しようにも、すでにビール3杯分のアルコールによりいまいち考えをまとめきれず……
口から出るまましばらく会話をつなぎ、肉厚シャコ貝は回避。ビールも同じ数注文してはしっかり飲みきり、グダグダ感を極力出さないよう気を配る。
小一時間かけ、ごく自然な流れを作って席を立った。
レジ前で美夕が強い視線を投げかけてくる。
すでに読めていた俺は、歌舞伎をモチーフとした“にらみ(=今だけは何もいうな)”をビシッと送る。思いのほか効果的で、美夕はバッグに入れた手をすんなり戻して店を出た。
ホッと胸をなで下ろす中、店員は追加伝票を1枚1枚丁寧に読み上げてゆく。いたって笑い抜きの“にらみ”に変わる俺。
ちょうどそのとき、奥の座敷からドキッとするワードに耳を奪われた。
「正直あれは、セクハラになっちゃいますからね」
「ああン? セトさんと、セトだけに『瀬戸の花嫁』デュエットしたのが、どうしてそんなんなるんだよ」
「セクハラっていうより、セトハラ?」
「ショーゴくんさ、うまいこといっただろみたいな顔やめて。課長っぽい」
「2人で1本のマイクにしたから、異様に近づき過ぎて……セトさん困ってましたよ」
「んなこといわれてもな〜。ハモるためにはいたしかたないだろ~よぉ〜」
「とにかく、歌うのは次回にしましょう」
「次回か……よし、だったら今から2次会だ、2次会!」
場は聞いたフシのある荒れ模様へ。
単なる飲み会にしてはなかなかのキレだなと、何だかわからないジェラシーに火がついたところで、
「本日のお会計、7326円です」
眉間のシワがさらに深くなる。金額に聞き覚えがあったからだ。Suicaの残高が不安で1万円札を抜き出すのも同じ。そして、
「お返しが、2千と、674円です」
今夜の飲みがまるでムナシいといわんばかりの下3桁。いくら酔っぱらってはいても、すっかり記憶をなくすほどではない。
お礼の輪唱を背に引き戸を開けたとたん、強烈な冷風が吹きつける。
店内でまとった温もりを一瞬にして身ぐるみ剥がされた感じ。怒りを込めて「めっちゃ寒ゥーッ!」とオーバーに叫ぶ。
美夕は戸口に吊るされたどデカい提灯からひょいと飛び出すと、明るく同調。
ニヤッと笑い、このまま気分よく帰ろうとした直後、
「いくらでした?」
思わず釘づけになっていた笑窪から、慌ててお気に入りだというヴィトンの長財布に視線を移す。
以前は飽きるほどやっていた飲み会。そのとき判明したのが美夕の異様にこだわる割り勘精神。
結局店内から店外に変わっただけのやりとりが幕を開ける。
ただし、前と違って余裕のあった俺は、
「えーっと4、5千……いや待てよ。ちょい上の後半から6、7千円まではいかなかった、かと」
「どんだけ幅広いんですか。レシートもらいましたよね?」
のらりくらりかわそうとしたのが逆効果。美夕は人目にかまわず勢いよく腰元に飛びかかってきた。
あまりの本気度に怯んだ俺は「わかった、わかったから」と、降参したと見せかけて片手を突き上げると、
「じゃあ千円くらい、出して、くれるかな〜?」
往年の国民的昼番組よろしくコールアンドレスポンスを要求。
タイミングバッチリだったのに、美夕はくすりともせず「ダメですよ」と、奪ったレシートを頼りに千円札3枚、さらに500円玉を手に握らせようとする。
俺はグーをして抵抗。すると硬貨だけでもと、指の股へねじ込んできた。
すぐに「イタッ、痛いって」と制すもまったくやめる気なし。実際、本当に痛かったので、
「ア〜イタイタイタイタイタイタイタイタイタイタイ、イターイ、イターーイ、イタイヨーイタイヨー、オカーサーン、イタイヨ〜ホヨヨヨヨォ〜」
後半のバラエティ富んだリアクションを余裕と勘違いされ、さらに加圧。
社内きってのドS、塚本に負けず劣らずの隠れS疑惑を真っ向肯定した「わざと骨に当てて痛がらせてるだろ」という押し込み具合。俺の険しい表情に笑みまで浮かべてグリグリし続ける。
勤続10年目。何の役職も肩書きもないけど、れっきとした先輩だし。ここはきれいさっぱり奢られるほうが可愛げがあるのにと心の中で毒づく。
けれどそれこそ今の関係を忠実に表していると気づく。
肝心のギャグを見事にスルーされ、何ともバツが悪く……思いの丈を即興ライムに乗せつつ、しぶしぶ500円玉を手中に収めた。
冷たい風を受け、美夕の頬はいっそう赤みを際立たせていた。
俺自身も露出する肌に風が当たる度、余熱を感じる。
前回よりゴタついた攻防を終えると、美夕はあらためて「ごちそうさまです」と、吹きさらす横髪を耳元で押さえながらペコリとお辞儀。
遠くに浮かぶ灯りを道標に、煉瓦模様の小道を歩きだす。
俺は名残惜しさを耐えようと無言。美夕も口を開くことなく、片結びのマフラーを軽やかにそよがせながら歩き終えた。
メインの駅前ターミナルに着くとともに数歩早足になってから美夕はふり返り、俺と対峙。前回どおり(ただ今回は持っていたはずの財布がなくて一瞬焦った)。
コートの膨らみを外側から確認しながら、決まり文句を口にする。
「じゃあ……また」
遅れて手を上げ、すぐに「あ、あのさ」と言葉を足す。美夕は返事しようと開けた口を微笑みに変えた。
瞳の輝きがあいまり、ガラッと空気が一変。
あらぬ期待を孕んだ瞬間。なぜかギアチェンジする股間。そして明らかなジ・エンドを直感。
何はともあれ、酔っぱらいの戯言というニュアンスを込めてお礼をいう。
「急な誘いだったけど……今日はありがとう」
「こちらこそ。ホントにごちそうさまでした」
何かつけ足すべきだと、今度は率直な感想。
「いろいろ話ができて、よかった」
「わたしもです」
あっさり返され、また妙な間ができても困るので、しかたなく「じゃあ……」と手を上げる。美夕はマフラーに手を添え、口元をあらわに。
それを見た俺は、自分のマフラーを整えながらもうひとこと。
「もしよかったら、また……2人で飲もうよ」
「ぜひ」
「また一緒に、飲んで、くれるかな〜?」
「いいとも〜!」
美夕は子供をあやすような表情に変えると「また、明日」とつけ加え、すぐにふり向いて歩きだした。
遠ざかる後ろ姿をささやかな目の保養とし、エスカレーターに乗り込んだところで俺も帰路へ体を向けた。
美夕に見られているかもしれないと、若干背筋を伸ばしぎみに歩き出す。
コツ、コツ、コツ……と、交互のつま先を見ながら、一日をふり返る。
そういえば今日は朝から眠かった。
イレギュラーな立ち上がりで仕事も何だか集中できず。まあ後半は美夕と飲めるうれしさに舞い上がっていたせいもある。
ほんの数時間ながら、まるで飲み屋をはしごしたような気分で美夕との会話をじっくり思い返す。ささいな受け答え、何てことない仕草。俺は心のクラウドに地味な発見を預けては右、左、右と足を動かし続ける。
今回はまた新たな美夕の一面を知ることができた。
俺のことはある程度好意的。明日から心のハードルが低くなっていることを望む……というか、心のクラウドなり心のハードルって何だよ。
気を許せばとたんにもつれる足。
暗がりの鍵穴に何度かつっかえ、ようやく刺さる。満遍なく血流が行き渡ったせいか、抗えない酔いが全身にみなぎっている。
頭の中は明日のイメトレ。朝起きてから顔をあわせる人を思い浮かべる。
美夕とは何ごともなかったようにあいさつ。いや、何ごとかはあったようにふる舞うべきか。
ズキズキと激しさを増す頭痛。その傍らで冷静な別の自分が諭す。
絶対にバタンキューはするな。
まずは靴をそろえて脱いで、カバンは定位置に。クローゼットへ向かい、コートから順番にハンガーにかける。片足立ちがおぼつかず、スラックスは壁に寄りかかって脱いだ。
その後いったんベッドに向かい、毛布で隠れたスマホを発見。ぶっ倒れたいところをこらえて洗面所で歯みがき。
いつもしていることをいつもどおりする。
鏡の中のたるみきった顔に決意表明。
明日は早めに起きて、職場近くのファストフードで朝食。頭痛が残っているなら薬を調達……ベッドに戻って毛布を被るとすぐに強烈な睡魔がやってきて――――