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――――もう、守屋さん。守屋さんってば」
あれ、ここは……?
突っ伏していた状態からゆっくり頭を持ち上げる。ひとつひとつの音を耳が拾い上げては、シャットダウンした回路を急ピッチでつなげてゆく。
あちこちからする話し声。
器を置いたり、触れあったりして鳴るカチャカチャ音。
流れるBGMはオールディーズ。キャッチーなサビに思わず興味をかき立てる。こもっていた聴覚がクリアになってゆく中、かすかな焦げ臭さにより自問の答えがふっと出てきた。
そうだ、ここは……行きつけの焼き鳥居酒屋『ばるーん』のカウンター。
横から俺の肩を叩いたのは、9つ年下の佐藤美夕。
従業員15人ほどの、しがない広告会社の後輩。入ってきたと思うとすぐに辞めてしまう若手では長いほう。紆余曲折を経て1年前、俺のデスクの斜め向かいに固定。
彼氏はたぶんいない。というのも、先週の休憩時間。
牛丼をテイクアウトして帰ってくると、真向かいの上司、田原さんから個人実績のデータ催促。ようやく顔を見せたかと思ったら、いいたいことだけいってすぐいなくなる。それでもいつまた姿を現すかもわからないので、とりあえず弁当片手にパソコンとにらめっこ。
月初に提出したばかりのフォーマットを使い、新たな数字を打ち直していると何やら前方から雄叫び。
顔を上げると、26歳にしてすっかり御局と化した塚本沙矢加。空いた向かいの席にいつのまにかちゃっかりすわってネイルをいじりつつ、
「とっくに別れたのにまだ連絡してくるって、ありえなくない? 自分だったら絶対『ウザいからやめて』っていっちゃう」
「そんなこといえるわけ……でも、最近はないですよ」
今日の昼、何だかんだでまたも田原さんから余計な雑務を割り込まされ、少しイラついていたとき。たまたまひとりでいた美夕を飲みに誘いここに至る、というわけだ。
両肘を立てたまま、交互に目をこする。
手元にはいくつも泡の輪ができたジョッキビール。あとひと口のぼんじり串が載った四角い皿。くしゃくしゃになったおしぼりを視界に入れつつ目線を上げてゆく。
カウンターと焼き場を区切る高い縁には色とりどりの一升瓶が並ぶ。
その間からチラつく恰幅のよい店長が、おもちゃのように見える串を器用に回して香ばしい煙を立ち昇らせている。お揃いの法被を羽織った店員2人が狭い空間をせわしなく出入り。
厨房内のアルミ棚にくっついた時計に目がとまる。針は夜9時半あたりを指していた。
5年前、30歳目前に彼女と別れた翌日。
駆け込み寺のように暖簾をくぐった心境は忘れない。正確には4年半前の秋のこと。以後定期的に通うホームグラウンド。
何しろ安くてうまい。鳥レバーは絶妙な焼き加減。おとおしもキャベツですまさないこだわりの手作り。今日の高野豆腐と人参の煮物は隠し味の生姜が効いている。本当に美味しいものは、少しくらい冷めてもうまいと知った。
和風の雰囲気にしてなぜか洋楽。演歌や懐メロではないのも密かに好感。今日はロネッツやフォートップスなど、耳なじみある曲が多い。
美夕にバレないよう、さりげなくスーツの腰回りをまさぐってみる。やっぱりスマホは家に置いてきたままか……と、再び声がかかる。
書類の山越しに会話するふだんとは比較にならない超至近距離。
声の主は含みのある目を向けながら、
「ギャグの伏線かと思ってそっとしておいたら、ホントに寝てるって。どういうことです? ヒドくないですか?」
美夕も少し酔っているようだ。
しっかり描いた眉尻が微妙にカーブ。仕事中にはまず聞かない甘い声色で、連続語尾上げ疑問をいい放つ。
今年になって肩先まで短くし、色も本来の黒に近づきグッと大人びた印象。でもよく見ると、毛先は長かった学生時代を彷彿させるブラウンが混じっているなと気づいたと同時、ほのかな香水が鼻に届く。
周囲に漂う焼き鳥臭とは明らかに違う匂い。
反応しかけた顔を戻し、枕にしていた左手に視線を落とす。指先はジンジン痺れ、甲にはくっきりと赤らむ一カ所。おそらく額にも同じ跡があるに違いない。
店内で流れる曲はサビにさしかかり、歌い手は渾身の裏声シャウト。
早いところ痺れを取ろうとグーパーしたり、手首をふってみたりする。同時に沈みゆくテンションを必死で食い止めにかかる。
美夕はそんな俺を横目に、
「守屋さんって、いつもこんな感じで飲んでるんですか?」
長考の果て、無視と取られかねないギリギリのところで俺は、
「まあ……そうだね」
美夕は何かいいたげな表情でグラスを持ち上げると、一気に飲み干す。耳に響く、氷のぶつかる音。
心地よかったはずの酔いが、みるみる頭痛へとすり替わってゆく――――
デジャブどおり、俺はすっかり肉厚シャコ貝となり果てた。
話をふられても簡潔に答えるだけ。後ろめたさを払拭する意思がどうにも続かない。ビハインドを取り返そうと新たに頼んでも、半分以上残したまま。そのうちどれを飲んでいたのかわからなくなり、手近なものから処理するうちに小一時間経過。
するとカウンター奥の座敷がひときわ騒がしくなった。
突出した年齢とわかるしわがれ声が主賓だろうか。周りにいる者が酔いにまかせていいたい放題。唯一場を収めようとする女性の声がとても印象的で、ひとり奮闘する顔が目に浮かぶ。
「……よし、だったら今から2次会だ、2次会! ほら、行くぞ!」
「ツツミ課長、足がフラフラしてるじゃないですか。とりあえず、お水飲みましょう」
「バッカやろ、全然酔ってね〜わ。もっと酒持ってこいや〜ッ!」
「出てこいや〜!」
「何ですか、そののけぞりは」
「完全に目がすわってるけど、ヤバくない?」
「何だ何だァ〜、さっきからヨシオカは。むしろオレだけ腰上げたんじゃね〜か」
「その“すわる”じゃないんですけど」
「カラオケするとしても、終電があるし……そんなに長くはできませんよ」
続けざまの失笑、爆笑。こちらのつまらなさがことさら強調されたようであまり気分はよくない中、何とか“終電”を拾う。
「そっ、ゴホゴホッ……そろそろ、帰ろうか?」
出だしでむせてしまい、すぐにネクタイを緩めて仕切り直し。
美夕は傍らに置いていたスマホのディスプレーに一度目を落としてから「もう少しくらい飲んでもいいのになあ」とも「それそれ、その言葉をずっと待ってました」とも取れるニュートラルな表情。
俺は相反する印象もろとも抱え込み、勢いよく席を立った。
狭い入り口で滞留する人をかき分け、ようやく外に出る。座敷連中の会計が先になったおかげで、後半から急落した空気をダメ押し。
3月になって2週間あまり。春とはほど遠い冷風をまともに受け、身を縮める。
美夕がほんの1ミクロンでも「あー今日何でいいですよ、なんていっちゃったんだろ」と思っていませんように……再びネガティブマインドに傾きかけるも、外に出た開放感が「ま、いっか」とあっさり棚上げ。
飲み屋の看板がちらほら灯る細い煉瓦道。メインの大通りまでは数十メートル。
遠くのビルや街灯は眩しいくらい光り輝いているのに、足下はほぼ真っ暗。一歩進むごとにむなしさが膨らんでゆく。
昨夜はついYouTubeを観続けてしまい、寝不足ぎみ。案の定二度寝し、バタバタ家を出てスマホを忘れた。そんなアゲインストな状況下で出たひとこと。てっきり笑って断るとしか思っていなかった。
四捨五入すると今年でついにアラフォー。何だか20代後半からはあっという間に思えてくる。いろいろなことに新鮮味が薄れだし、よほどのことでもないかぎり心を揺さぶられなくなった……と、いつのまにか大通りに出て、さらに数十メートル歩いた先の駅前ターミナルに到着。
川の流れに抵抗する杭のように向かいあって立ち止まる。
行き交う人の流れが遠巻きに変化。
ありがちなドラマとしては、今後の展開を占う大事な見せ場……ひとり妄想の果て、ずっと握りしめていた財布をそそくさしまう。
美夕に目をあわせてからゆっくり手を上げ、
「じゃあ……また」
「はい。また、明日」
足早に脇を通過する人々が、ただでさえ寒々しい路上を演出。
美夕は気さくな笑顔で一礼してから背を向ける。コートの裾を揺らし、ヒールの音が遠ざかってゆく。
数メートル先の駅改札につながる上りエスカレーターに乗り、姿が消えたのを見届けてからノロノロ反転。浮ついた気持ちを静めて歩きだす。
円を描く駅前ロータリーを半周。繁華街を抜け、細い道をしばらく歩いた先にある1K賃貸。
冷たい風に煽られて痛みを増すこめかみ。よじれていたマフラーに気づき、せっせと整える。好きで飲んだくせにと呆れる反面、心底憎めないポッコリお腹を見ながら歩いているうち、いつのまにか到着。
壁際のスイッチを手探りして明かりをつけ、踵で革靴を雑に脱ぎ捨てる。最近買った3色リボンがついた新しいカバンも乱暴に投げ落とす。少し傷がつこうものなら慌てふためく俺なのに、今はまったく気にならない。
衣服を脱ぎ散らかしながら奥まで進み、ベッドに倒れ込む。
スマホと思しき硬い感触を無視し、たぐり寄せた毛布で体が温まってくるとともに思わずこぼれ出たひとこと。
ったく……昔はもうちょっと、酒強かったけどな――――