第五話
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「はぁ……」
わたしは行きつけの酒場にて、これまたいつものように溜息をついた。
本日のそれは、パトロールが面倒で出た物臭なものではなくって、マリアとの将来を不安がる真面目な懊悩からくる重々しいものだった。
「あらあら、勇者ちゃん、どうしたの? 彼女さんと倦怠期?」
わたしの精神疾患ともとれそうな溜息を聞きつけた酒場のお姉さんたちは、慰めようとしてくれているのか、心配そうに寄り添ってくる。といっても、寄り添われるのはいつものことだし、胸を押し付けられるのだってごくごく自然にしてくる。
まあ、わたしも別にその行為は嫌ではないんだけどね。
「いや、そういうのじゃないんだけどさ……。はぁ……」
わたしの煮え切らない態度に、お姉さんたちは顔を見合わせて肩を竦める。
だけど、しかたないじゃん。女の子同士で赤ちゃんを欲しがっているマリアに、真実を告げなければならないのって、気が引ける。こんなことを相談しようものなら、笑われるに決まってるし。
けどね、わたしはマリアを悲しませたくないから、毎日毎日困っているのだ。
「えっちがマンネリ化でもしているの? たまには、他の女の子としてみるのもいいんじゃない?」
隙あらば誘惑してくる酒場のお姉さん。彼女たちはいわばホステスなので、人を魅了する術には長けている。
わたしにはマリアという最愛の妻がいるにもかかわらず、毎度のことながらドキドキとさせられちゃうよ。
わたしは幼い頃からマリアを間近で見てきたせいもあり、女性しか好みに入らないのである。だって、そうでしょ。あんなに優しくて美人な歳上の女性が身近にいたなら、ドキドキするに決まっている。自然と、好みになってしまうものだ。
だから、わたしは、どっちかといえば同年代や年下よりも、綺麗なお姉さんたちのほうに目がない。無論、女の子ならば全員歓迎ではあるけども。
マリアも、そんなわたしの好みを把握しているからこそ、毎日わたしに釘を差してくるんだろうけど。
「そんなんじゃないってば。マリアはわたしがするなら何でも喜んでくれるよ」
「ん~、じゃあ浮気が心配とか? ほらほら、旦那がお仕事中に……って話はよくあるじゃない?」
「な! マリアに限ってそんなこと……!」
わたしはテーブルをばんっと叩いて、勢いよく上体を立ち上がらせた。
一途で、清純で、盲目的なまでにわたしを愛してくれるマリアのことを侮辱されたような気がしたのだ。
興奮に鼻息を荒くするわたしを、お姉さんたちが、まあまあといって窘めてくる。まるで、闘牛を鎮めているかのように、腫れ物扱いである。
「浮気で妊娠しちゃうとかって話もあるけど、女の子同士なら、そんなことないわよね~」
と、囁かれ、わたしはまさか、と思った。
マリアは、ただ単にわたしとの子どもが欲しいだけだ。浮気していた兆候なんてないし、わたしは"勇者"になってから、感覚もただの人間より遥かに超越している。
なので、自宅に他人の、それも異性の匂いが混ざっていたら、どれだけ隠そうとしても無駄なことなのである。
しかも、マリアが他人に触れた形跡も一切ないし。そもそも、マリアはわたし以外を好きになるはずがない。
でも。もやもやと考え事をしていると不安になっちゃうし、やっぱりマリアには打ち明けたほうがいいのかもしれない。女の子同士では赤ちゃんはデキないよ、って。
「まったく、みんなはマリアに会ったことないから、そんなこと言えるんだよ。マリアを見れば、浮気なんて絶対にしないって信じられるよ。ほら、これとかさ」
わたしが上着の首元をはだけさせると、そこには虫刺されのような後が夥しいほどついている。
毎朝、マリアに吸い付かれてしまっている証だ。マリアの独占欲は、かなり強め。まあ、それはわたしもなので、やっぱり似たものふーふなんだなあ、って改めて感じる。
「あらあら、だいぶお盛んねえ。勇者ちゃんは15歳なのに、ほんとえっちなんだから」
酒場のお姉さんたちですら呆れるほど、性欲旺盛なのがわたしだ。特に、勇者になってからというものの、ムラムラする割合も増えた気がする。
わたしはようやく興奮が収まってきて、おとなしく椅子に座り直ろうとして――そこに電気でも走っていたかのように、お尻が飛び跳ねた。
お姉さんたちが胡乱げな視線を送ってくるが、相手をしている場合ではない。
マリアの助けを呼ぶ声が聞こえたのだ。
それは、耳に届いたわけではない。わたしの心が感じ取った、マリアの念波みたいなものだった。
マリアが特殊な能力を持っているとかではなく、勇者のわたしだから感じ取れる、最愛の人の危機。一秒すらも惜しい。
「ごめん、急用! 急いで帰らないと!」
わたしの別れの挨拶は、後方に置き去りだ。
言葉を発した頃には、すでに酒場の入り口を駆け抜けていた。これが勇者のスピードである。
わたしが弾丸よろしく飛び出したことにより発生した旋風は、お姉さんたちの髪をはためかせている。彼女たちが目を丸くしているのを尻目に、わたしは風に乗って足を加速させた。
風景が、コマ送りのように変わっていく。
わたしはものの数秒で、自宅にまで帰還していた。
「マリアっ! 何かあったの!?」
新築の扉が壊れてしまうかと思うくらいに、荒々しく開ける。
「え、エステルぅ……。来てくれたのですね……」
すぐそこにいたのは、リビング前の扉でへたり込んでいる涙目のマリアだった。
いったい何があったのか、病人のように顔を青白くさせ、かわいそうなほど震えている。
ただ、外傷は見当たらないし、人の匂いがするわけでもないので、マリアに危害があったわけではないようだ。まあ。勇者のわたしならば、例えマリアとどれだけ距離が離れていようが、暴行される前に帰れるけどね。
「もちろんだよ。マリアの心の叫び、ちゃんと聞こえたから。それで、どうしたの?」
わたしはマリアの傍らにしゃがみ込んで、怯える彼女の肩を抱く。
すると、お姉さんのマリアが、15歳のわたしに、甘えるようにしがみついてきた。たまには逆転するのも、いいものである。
「あ、あの……。台所に……」
マリアは未だに恐怖が立ち去らないのか、わたしの胸に顔を埋めたまま、台所を指差している。
わたしはそっと頷くと、事件の現場へ勇み足で向かった。
泥棒とか、野獣とかの気配はないし。マリアは、何に怖がっているのだろうか。
マリアは一人で残るのも不安なのか、ビクビクとしながらわたしの背にしがみついている。わたしと一緒にいたほうが確実に安全なので、その選択は正しい。
リビングの扉を開け、台所に侵入する瞬間――マリアが、一際強くわたしの裾を掴んできた。
「わたしがいれば大丈夫だから、怖がらないで、マリア」
「気をつけてください……エステル。は、速いので……」
「速い?」
わたしはますます訝しんだ。だけどマリアは答えを教えてくれるような精神状態ではないらしく、出した言葉ですら下手すれば聞き取れないレベルだ。
わたしはマリアを落ち着かせるために頬にキスをしてから、台所に足を踏み入れた。
首をキョロキョロと巡らせてみるけれど……一見、なんの変哲もない。
どうやらマリアはキッチン周りのお掃除最中だったらしく、布巾やら洗剤やらが散見していた。
しかし、いくら見渡してみても、危機は感じ取れない。わたしは、何をどう対処すればいいのだろうか。途方に暮れていると、マリアがわたしの背中から顔を出した。
「そこの後ろに……」
彼女はおずおずと、わたしの背後から指を突き出してくる。指し示しているのは、食器棚だ。
「んー? どれどれ……って、うわ!」
「きゃあ!」
わたしが驚いて声をあげてしまったものだから、マリアは目の前に落雷でも起きたのかってくらいの悲鳴を轟かせる。
棚の裏に潜んでいたのは、虫だった。
黒くて、すばしっこいやつ。
なるほど、マリアが怯えてしまうのも無理はない。
が、わたしとて15歳の女の子。あのフォルムだけは、どうにも苦手だ。
しかし、わたしは勇者である上に、マリアのお嫁さん! 怖じ気付いている場合じゃない。わたしがどうにかしてあげないと!
魔物退治だと思えば、ど、ど、ど、どうってことはないよね。
わたしは腕をまくって、叩くための箒を手に持った。さすがに、家の中で剣を振り回すわけにもいかないし。外でなら、ぶった切っていたかもしれないけど。
「下がってて、マリア。すぐに片付けてくるから」
「エステル……。勇者さまなだけあって、かっこいいです……♡ けっして、無茶はしないでくださいね……」
マリアは、まるで伴侶を戦地に送り出す妻かのごとく、わたしを激励してくれる。
彼女をリビングのソファに預けてから、わたしは決戦に踏み込んだ。
たしかに、虫はすばしっこい。けれど、わたしの動体視力はそれを凌駕していた。
壁をカサカサと這いずっている悍ましい生物に、箒を横殴りに叩きつける。
手応えバッチリ。
わたしはヤツの亡骸をなるべく見ないようにしながら、ゴミ箱に放り込んだ。
「マリア。終わったよ。にしても、驚いちゃったよ。マリアの叫び、かなり切羽詰まってたからさ、ものすごい危険が迫ってるのかと思っちゃった」
わたしがリビングに戻って戦果を伝えると、マリアもようやく口元を綻ばせた。
そして、わたしに抱きついてくる。今日はとことん、甘えたがりのマリアだ。
「ごめんなさい、あなた……。お仕事中だったんですよね? でも……私、怖くって。叫んでしまいました……」
昔っからお姉さんとして、わたしを導いてくれていたマリア。聖母と見間違いそうな彼女も、れっきとした普通の女の子である。虫を見ただけで気を失ってしまうそうだ。
わたしも幼い頃から、そんなマリアを見てきたわけだけど。今までは実家暮らしってこともあってか、お父さんお母さんが対処してくれていた。
現在はわたしと二人暮らし。マリアは虫に一人で相対してしまったために、絶叫してしまったのだ。
「そんなところも可愛いよ、マリア。でも、よかったよ。マリアの助けを呼ぶ声、しっかり聞き取れたから。今後も何かあったら呼んでよね」
「はい。エステル、とっても頼もしかったです。子どもの頃は、犬を見ては泣いていたのに、エステルも大きくなりましたね♡」
マリアは過去を思い馳せているのか、うっとりと目を閉じている。
いつの時代の話だよ、って突っ込みたくなった。幼少の頃の恥ずかしい思い出なんて、こそばゆくなるだけだ。
「マリアだって、おばけは怖がってたじゃん。今だって、夜にトイレ一人で行けないし」
「え、エステルがおトイレについてきたがるだけです!」
「マリアを思ってのことなんだけどなあ」
マリアは、もう、って一言吐いてから立ち上がる。台所の後始末にとりかかるつもりのようだ。
わたしは、今更パトロールに戻る気にもなれなかった。そもそも、酒場でサボっていただけだったしね。
にしても、今のやり取りを見てもはっきりした。マリアは絶対に浮気なんてしないんだろうな、って。胸を張って言えるよね。
マリアがお掃除に向かってしまったため、わたしはリビングでぼーっとしようかなあと思ってソファに身を預けたところ。視線の先のテーブルに、違和感を覚えた。
そこには、家庭の風景に溶け込むようにして、紙袋が置いてある。
それ自体は、ノイズにならないはずなんだけど。けどね、わたしはそう思わなかった。
なぜなら、マリアは一人では外出しないように言いつけてあるし。じゃあ、どこからこの紙袋を仕入れてきたのか、と疑問に感じたのだ。
まさか、誰かと会っていたってこと?
でも、マリアからは他人の匂いはしなかったし……。
心にもやもやを抱えたままっていうのは、精神衛生上よろしくないね。だからわたしは、マリアに直球に聞いてみることにした。
「ねぇマリア。これ、どうしたの?」
マリアは虫という憂いが消え去ったために上機嫌なのか、鼻歌交じりに台所を綺麗にしていた。
わたしが憮然とした顔で紙袋を突きつけても、マリアは微笑みをたやさずに、顎に指を添えて小首を傾げている。
「ああ、これは、差し入れをもらったんですよ。ほら、エステルも知っている方です、実家にいたときにご近所にいた……」
マリアが片指を立てて説明しているのを聞き、わたしは脳内が急激に火山の活動期に入ったみたいに燃え盛った。
「マリア! わたし、言っておいたよね!? 誰も家にあげちゃダメだって!」
マリアの説明を遮って、叩きつけるように怒号する。
するとマリアは、わたしがどうして怒り狂っているのかわからないようで、ぽかんとしていた。
「でも、エステルも知っている女の人ですよ? エメラさんっていたでしょ? それに、家にあげたわけではないですし……」
「ばかばか、マリアのばかっ! どうしてわたしがいないときに、他の人と会っているの! も、もしや浮気してたんじゃ……!」
わかってる。マリアが本気で浮気をしてたんじゃないっていうのはね。でもね、自分を抑えられなかった。
だって、家にあげるな、って言っておいたのに。わたしが知らない間に、誰かと親しげに話していたマリアなんて、知りたくもなかったのだ。
「どうしてそんなこと言うんです、エステル! 私は……エステル以外とは誰とも喋っちゃダメなんですか? ……信用して、もらえてないんですか?」
マリアは悲しげに目を伏せて、影が落ちたように表情を曇らせた。わたしの胸も、痛みを分けられたようにして苦しくなる。
マリアを悲しませたいわけじゃない。でも。独占欲の強いわたしは、マリアが誰かと会っていたのを隠していたことが、許せないのだ。
「だって、だって。マリアは誰よりも美人だから。マリアは誰にだって狙われちゃうのに。不用心すぎる。だから忠告してたのに、他の人に会っちゃうなんて、浮気を疑っちゃうじゃん」
「それならエステルだってそうじゃないですか! エステルだって可愛いから狙われちゃうのに……。それに、毎日、女の人の匂いをつけて帰ってくるし……」
自分の心臓が胸を突き破って出てきたのかと思った。
それくらいドキッとした理由は、わたしが酒場に通い詰めていたこと、マリアには筒抜けだったからだ。言い出しにくくって隠していたのに、マリアはわたしを信用して、何も聞き出そうとはしなかった。
反面、わたしは、マリアが何もしていなかったというのに怒り狂ってしまっている。
でもね、だからといって、わたしも、はいごめんなさい、って引き下がれなかった。だってわたしは子どもだし。マリアが素直に一言謝罪してくれないことも、苛立ちの原因だったのだ。
「わ、わたしは女の人と会っていたけど、何もしていないし、勇者としてしかたなかったの……。でも、マリアはわたしとの約束を破ったし、これからも誰かとこっそり会っちゃうかもしれないじゃん」
「私はエステルだけしか愛していませんし、約束を破ったつもりもありません。エステルも知っている方だし、家にあげたわけじゃないし、軽く挨拶しただけですし……。わかってくれないのなら、エステルなんてもう知りません……!」
マリアは、生まれてはじめて、本気で憤っているようだった。わたしが見たことのないようなマリア。柳眉を逆立てて、鼻を鳴らして、わたしから顔を背けるようにそっぽを向いてしまう。
わたしの心臓は、もうズキズキとしっぱなし。マリアに嫌われてしまったと思い至った瞬間、膝をついて倒れたくなった。
言い争いみたいなことは、結婚してからちょっとはあったけど。喧嘩らしい喧嘩っていうのはなかった。それも、今しているのは、破局がちらつくような、ふーふ喧嘩だ。
わたしは焦ってはいたけれど、すぐに謝罪できるようなメンタルでもなかった。
だって、マリアだって、ちょっとは謝ってくれてもいいじゃん、ってまだ引きずっているし。
だけど、マリアが実家に帰ります、って言い出すのも怖かった。
だからわたしは、マリアを引き止めたい、っていう意志を込めて彼女に後ろから抱きついた。
「マリア、怒ったの……? わたしのこと、いらなくなっちゃったの?」
「……馬鹿なこと言わないでください。でも、エステルももう少し私のこと考えてください。だから……今日のお夕飯は、エステルの大好きなタコさんウインナーは抜きです」
わたしはホッとしたと同時、床にずっこけそうになった。
マリア、怒ってはいるみたいだけど、報復のしかたが可愛すぎる。さすがに、わたしと絶交するとか、お互いが寂しがるようなことはしないみたいだった。
「ねぇ、マリア……。わたしだって、マリアのこと考えてるし、愛してるよ。でも、マリアもわたしがちょっとのことで嫉妬しちゃうこと、考えて欲しい……。だから、その、……さっきは浮気とか言っちゃってごめん」
マリアを怒らせてしまったことで、わたしの頭も若干冷めたらしく、今度はすんなりとごめんなさいを言うことができた。
するとマリアも、それが心底嬉しかったのか、わたしに向き直ってくれる。表情は、ほんのりと笑みが浮かんでいた。
マリアは怒っている顔も綺麗だけど、やっぱり笑顔が一番だ。
「私のほうこそ、ごめんなさい。エステルに信用してもらえてないと思ったら、少し怒ってしまいました。今度からは気をつけるので、エステルも浮気とか言わないでください」
正面から向き合ったわたしたちは、ギュッと抱きしめ合う。
マリアのエプロンの下に隠された豊満な胸に、わたしは埋もれた。いい匂いがする。柔らかい。ここが、わたしのもっとも安らげる場所だ。
「うん。ごめんね、マリア。好きだよ」
「ふふ、私もエステルのこと、愛していますよ。よしよし、じゃあ今晩もウィンナー、準備しないとですね♡」
マリアってば、すぐに機嫌戻ってくれてよかったよ。
わたしとマリアは、喧嘩はするようになったけれど、仲直りも爆速。そして、仲直りした後のえっちは、決まって激しいのだ。
結婚してから、わたしの生活は順風満帆だった。