第十九話
******
「マリア、入っていい?」
ホテルの部屋の前で、わたしは遠慮がちにドアをノックしていた。
昨日、マリアと一緒に寝泊まりしたはずの部屋なのに、今はまるっきり別の場所のように思える。だってこれまで生きてきて、マリアのいる部屋へ入るのに許可をもらうことなんてなかったから。悪い夢でも見ているような気分だ。
「…………ダメだけど、エステルを断れません。どうすればいいのかしら……」
かなりの間が空いてから、返答がきた。
ドア越しのマリアの声は小さく、扉にぶつかってかき消えなかったのが奇跡なくらいに弱々しいものだった。
マリアは、どんな状況でもマリアで。わたしを拒絶することは、どうしてもできないみたいだった。えっちのときだって、わたしの無茶な要求も飲んでくれるもんね。
だから今回も、マリアにえっちをせがんだときに無理やり服を脱がすみたいにして、攻め込むような意気で扉を開けた。
マリアは部屋の片隅に座り込んでいた。
女の子座りで、片手にハンカチを握ったマリアは悲壮感たっぷり。カーテンの影に隠れた彼女は、それでも絵画にされそうな美しさも兼ね備えている。
わたしは、未確認生物を捕獲するみたいな慎重な足取りで、マリアに近づいた。
マリアはわたしを見上げて、すぐに目をそらす。頬には涙の跡がついていた。
今すぐマリアを抱きしめて、涙を舐めてあげたい衝動に駆られる。
が、下心だと捉えられても困るし、今は繊細なマリアを傷つけないように全神経を注がないといけない。
「マリア、ごめんね。マリアを悲しませたくなくて、女の子同士じゃ赤ちゃんができない、って言えなかったんだよ。マリア、すごい楽しみにしてたからさ」
「いえ、いいんです……。私が、常識を知らないお馬鹿だっただけですから。エステルを困らせてしまって、ごめんなさいね」
マリアは自嘲の笑みを作り、痛ましいまでの表情でいっぱいだった。
病んでいるマリアなんて、初めて見る。むしろ、女神のようにおおらかなマリアですら病んでしまうことがあるんだな、って新発見だった。マリア、よっぽどわたしとの赤ちゃん欲しかったんだろうね。つまり、わたしをこの上なく愛してくれていたってことだ。
だからわたしは、マリアに愛を全部伝えないといけないんだ、って思った。
わたしだって、マリアのことは誰よりも大切だから。マリアのために、なんでもしてあげたいって思うから。
「ねぇマリア。わたし、勇者だから、色んな力持ってるからさ、子作りもなんとかできるかもしれないし、泣かないでよ。マリアは、わたしと子育て、したいんでしょ?」
「いえ、もういいんです……。私、エステルがいればそれで幸せですから……」
とても幸せとはいえないような口調で、マリアは嘆く。
いや、マリアが嘘をつくわけがないから、悲嘆に暮れた声ではあっても、本音なのだろうけれど。
わたしは、いつものマリアに戻ってもらいたくって、彼女にハグしていた。
「わたしだって、マリアと幸せな家庭築きたいって思ってる。それに、マリアがいれば幸せなのは、わたしだって一緒。でもね、わたしはマリアを喜ばせたい。だから、子育てのことはまだ諦めないで欲しい。聖女さまに、女神さまと交信できないか聞いてみるから」
「エステルは、本当に優しいですね。エステルのように優しい赤ちゃんがね、私に宿ると思っていたんです。エステル、色々とごめんなさい」
マリアもようやく正面に向き合ってくれて、抱き返してくれた。
それで堰き止められていた何かが解放されたのだろうか。マリアは声をあげて泣き始めた。
わたしはマリアの背中をぽんぽんとして、あやす。
蘇るのは、過去の記憶だ。
昔は、わたしのほうがマリアにあやされていたから。
弱々しくって、庇護対象のようなマリア。昔のマリアは、こんな気持ちでわたしを慰めていたのかな。
マリアの気持ちに近づけたような気がして、わたしは微笑みながらマリアの背中を擦ることができた。
「ねぇ。マリアも聖域、一緒に行くでしょ? わたし、マリアと一緒じゃないと嫌だし。デートスポットにもいいみたいって言ってたし、気分転換しようよ」
マリアが泣き止んだのを見計らって、声をかける。
マリアは赤くなった鼻をすすりながら、わたしを見上げてきた。
「はい……。でも、ちょっと恥ずかしいです。目が腫れてしまってるはずですから……」
マリアははにかみながら、目元を拭う。ようやく、マリアに笑顔が戻ってきた。まだ全てが晴れ渡ったわけではないみたいだけど、微笑んでくれるマリアはかけがえのない人だと再認識させられる。
「じゃあ、少し休んだらお外に行こうね。それに……リリが言ってたけど、魔族の国では、女の子同士のふーふは養子とかもらってるみたいだから。女神さまにお願いしてもダメだったら……ほ、ほら、誰か迎えてもいいんじゃないかな、って」
わたしは言葉を選び、マリアに希望を持たせようと奮闘する。さっきの今だから、傷口を抉りかねないけれど、マリアだってちゃんとした大人だ。先を見据えて答えてくれるはず。
「エステル、私たちの将来、真面目に考えてくれていたんですね♡ やっぱりエステルは世界一優しいです」
マリアはわたしを抱きしめてくると、頬擦りをしてくれた。
うーん、いい匂いする。
今日はこのままマリアとイチャついて過ごすのもいいんじゃないかな、なんて思っちゃう。
ま、心配してくれたみんなに、一声はかけないと、だけどね。
「マリア、聖域デートは明日にする? 今日はゆっくり休むのもいいかな、って思って」
「いえ……みなさんは、待っているんですよね? ご迷惑をおかけしてしまったから、謝らないと……」
「誰も迷惑だなんて思ってないよ。マリアは性格がいいからね。みんな心配してたよ」
マリアはもう完全に精神面の切り替えが終わったのか、すっくと立ち上がる。
涙の残滓が窺えるマリアもまた、美人だった。わたしは、彼女を見上げながらうっとりとしてしまう。
ぼけーっと見上げているわたしを訝しんだのか、マリアはロングスカートについた埃を払い落としながら、小首を傾げている。
「ほら、エステルも行きましょう? デート、楽しみですね♡」
マリアが差し出してくれた手を取って、隣に並ぶ。
一緒に部屋の外に出ようとして、マリアの足がぴたりと止まった。
「ああ、いいことを思いつきました。もし、養子を取るとしたら、アイシャちゃんとかどうでしょうか?」
顎に指を添えて、夕飯は出前でも取りましょうか、みたいなニュアンスで提案をしてくるマリア。
わたしは、マリアの発想にたびたびついていけなくなる。今回もまた、足を滑らせそうになってしまっていた。
「アイシャが養子って! あんなに大きな子ども、わたしたちの子どもにするのは無理があるよ!」
「あら、そうかしら? 昨日とかも無邪気で、エステルとは良い親子に見えましたけれど……。それに、お勉強とかも教え甲斐がありそうでしたし」
マリアはいたって真剣に口を動かす。
わたしも、ちょっとだけ妄想してみた。
アイシャを養子にもらった場合、マリアと一緒になってアイシャを育てるってことだ。
アイシャはすでに最低限の人間の文化は知っているし、知能だって高い。手間はかからなそうだけど……焼き鳥屋に一直線に向かっていったり、幼さは確かに滲み出ている。それに、言われてみれば昨日は、子育てみたいだ、って思ったっけ。
見た目だけは年頃の女の子のアイシャだけど、精神面は危ういのも事実。わたしたちがそのへんを教えてあげるのも、いいのかもしれない。
でも、アイシャが子どもかー。
下手したら、わたしより肉体的には成熟しているしなー。本人からも、周囲からも、親には見てもらえないだろうし。悩みどころだ。
そもそも、アイシャ自身の了承もいることだしね。ま、聖域で女神さまについての話を聞いた後でもいいか。
「一考の余地はあるね! っていっても、お勉強はマリアが教えてよね」
「あらあら、エステルったら。エステルも一緒にお勉強、しましょうね」
「ええ!? それじゃ、わたしも子どもじゃん!」
「ふふ、賑やかな家族になりそうですね」
マリアは、わたしが子どもだということには否定せずに、楽しげに笑みをこぼすだけだ。もはや、アイシャが家族になるの、決定事項になっているんじゃなかろうか。
マリアが楽しそうなら、それでいいけどね。
正午前になる頃合い。わたしとマリアは、一階に舞い戻ってみんなと合流することとなった。




