第十三話
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天候は穏やかだった。
月明かりが道しるべのように地面を光らせているし、気温だって緩やか。上空を飛んでいるハーピーの羽ばたき音も、耳に優しく残っていた。
件の谷底は、村からはだいぶ離れた場所だった。
地面が大きく裂けた、峡谷の終点。谷を覗くと、巨大な闇が口を開けている。足を滑らせたら、奈落の果てまで飲み込まれていってしまいそうだ。
そして、響いてくるのは唸り声。
最初はドラゴンのいびきかとも思ったが、風が吹き荒れているからのようだ。
それに混じって、お腹に重く伸し掛かるような低い音が届いてくる。こちらが、ドラゴンからのものらしい。
「それじゃ、あたいが降ろすからね。平気そう?」
頭上から恐る恐る尋ねてきたのは、ハーピーだ。魔族として戦闘能力がありそうなハーピーですら、ドラゴンと相対するのは怖いらしい。鳥肌が立っていそうな声だった。
「うん。気配だけなら、大したことはなさそうかな」
わたしは空気だけを頼りに、答えを導き出す。勇者として超感覚を備えたわたしは、肌に伝わってくる感触だけで、相手の力量はおおよそ見当がついた。
確かに、ドラゴンの放つオーラみたいなものは強大ではあったけれど、わたしの本気を出すまでもない、というのが感想である。
ハーピーは、背にリリウェルを乗せたまま、足の鉤爪を使って器用にわたしの服を掴む。そして、そっと崖下に下降していった。
到着までの時間はとてつもないほど長く感じた。
ハーピーが警戒して、ゆっくり降りていたのもあるだろうけれど。ドラゴンの息吹が、わたしたちの時間を奪っているかのように、プレッシャーをかけていたのだ。
まあ、わたしにしてみれば、そよ風と変わりはないんだけどね。
そして、谷底に辿り着いたとき、わたしたちはひとまず岩陰に身を潜めた。
周辺を注意深く観察してみるが、何分かなり暗い。マリアは暗闇が苦手なので、必死にわたしにしがみついていた。
ドラゴンとの距離は、まだ幾分かある。しかし、圧倒的な威圧感と、ドラゴンの呼吸が暴風のような強さを秘めていて、緊張感は凄まじい。
さて、これからどう動くべきか。
寝起きは機嫌が悪いってこともありそうだし、眠っているところを起こすのはまずそうだ。かといって、ドラゴンがいつ目覚めるのかは不明だし、それまでここで待機というのも、神経が疲れるだろう。主に、わたし以外の、だけど。
「マリア、怖い?」
わたしは、抱きかかえたままのマリアの耳に、ぼそっと囁いた。
すると、わたしの足に軽い衝撃が走る。
リリウェルが、蹴飛ばしてきたらしい。
彼女に抗議するべく振り向くと、声を出すな、って言いたいのか、眉を吊り上げていた。
ピリピリしすぎだなあ。
マリアも空気を察したのか、わたしの首に腕を巻き付けて、思いっきりしがみついてきた。怖さを表現しているみたいだ。
でも、わたしがどっしりと構えているお陰か、多少はマリアの恐怖を和らげている。勇者の役目だね。
が、唐突に場の雰囲気が変わった。
上空に、何者かの気配が出現したのだ。
当然、最初に気づいたのはわたしで、リリウェルとハーピーはドラゴンにだけ注意していた。
しかし、崖上から物音がし、さらには崖から剥がれた石がポロポロと落ちてくると、リリウェルたちも感づく。
音を立てて降りてきたのは、人間だった。
わたしは身構えて、マリアを背後に庇う。もちろん、ドラゴンからも、謎の侵入者からも守れるような立ち位置だ。
「あれ……? 先客?」
現れた人は、女の子の声をしていた。それだけで判断するならば、わたしとそう変わらなそうな幼いボイスだ。わたしが子どもっぽい、って言っているわけじゃないけどね。
「ちょっとあんた、状況わかってんの? 声は抑えなさいよ」
リリは声を潜めながら、怒りも露わに闖入者に詰め寄る。
相手の格好も、暗闇なので窺えない。が、物騒な人物ではなさそうだった。あくまで、漂ってくる物腰での判断だけどね。
「なに、安心したまえ。英雄のこのボクが来たからには、ドラゴンなんて恐るるにたりないよ」
リリの忠告なんて無視して、少女は声高らかに、自信ありげに答える。
自称・英雄か。本物の勇者であるわたしからしたら、一笑に付したくなるけれど。わざわざドラゴンを討伐しにきたというのならば、実力はかなりのものなのだろう。
少女はわたしたちを気にも留めず、ドラゴンのほうへ歩いていく。一歩移動するたびに、甲冑の擦れる物々しい響きが聞こえてくる。出で立ちは、騎士のようだ。
ドラゴンとコミュニケーションを取りたいわたしたちにとって、彼女の出現は想定外。
リリはこの展開をどうすればいいのか困っている。
しかし、僥倖だったのは、明かりがあまり差し込んでいないことだ。
なんせ、わたしたちには、明らかに魔物のハーピーがいるわけで。自称英雄の騎士にしてみれば、ハーピー連れのわたしたちは悪者に見られてしまいそうだ。
騎士の女の子は、どんどんドラゴンに接近する。
そして、ドラゴンのいびきがいつの間にか止んでいることに、みんなして気づいた。
雲が月を遮ったかのような陰りが、わたしたちを覆う。
ドラゴンが、首をもたげたのだ。
「人々を脅かす邪竜め! このボクが相手だ!」
少女は、自分の頭よりも数メートル高みにあるドラゴンの双眸を見てもなお臆さず、声も力強さに満ちていた。
対してドラゴンも、怒りを露わにした唸り声をあげている。
寝込みを襲われたとでも思ったのだろうか、敵愾心が見て取れた。
光のない谷底で巨躯の圧巻は、わたしたちを震撼させるのに充分だ。
わたしとて、騎士の子に任せてのんびりは、していられなかった。
ドラゴンの口が、急激に光を帯び始めたのだ。まるで陽光のように凝縮された明るみは、膨大なエネルギーを感じさせる。
「やばっ……!」
リリウェルの絶望を孕んだ声は、わたしの後方に置き去りにした。
危機を感じ取ったのは、わたしもだからだ。
そこからのわたしの動きは神速だった。
前方に躍り出たわたしは、騎士の少女の傍らもすり抜ける。
瞬間、わたしは、肌が焦げ付くような、ちりちりとした熱を感知した。ドラゴンの、強烈なブレスが来る事前予測だ。
騎士の少女は勇敢なのか無謀なのか、ブレスの動作中であるドラゴンに突っ込もうとしている。が、人間ではどうあがいても、あんなのを真正面から受けたら丸焦げになるだけだ。
わたしは、彼女の首根っこを掴んで、強引に後ろへ放り投げた。怒号が飛んでくるが、この際、無視無視。
と同時、高温のブレスが放たれる。
空気が焼け、肺ですら燃やされるような熱気。
ドラゴンの至近距離にいるわたしはもとより、後方にいるマリアですら火だるまになりそうな、広範囲の炎だ。
マリアを傷つけようとするドラゴンに対して、怒りが頂点に達したわたしは、女神の力をフル稼働させる。
わたしの動作は、世界から時を奪い去ったかのように、光速を極めた。
背景の動きが緩やかになる。わたしだけが意のままに行動することができる、時間の流れ。
わたしの目には、ドラゴンのブレスがゆったりと、ゆったりと向かってくるように見えた。
それが到達する前に、全身に力を漲らせて、お腹に力を込める。
そして、右足で床を踏み抜くようにして、地面に叩きつけた。
すると、大地からは、岩の壁がせり出てくるようにして盛り上がる。
その程度のガードでは、ドラゴンのブレスを防げるわけもないけど。わたしの目的は、岩の壁を貼ることではなかった。
わたしの蹴りは、自身の力を最大限に引き出すために、気合いを入れただけにすぎない。
女神の力を解放させたわたしは、全力で踏ん張ることによって、光のオーラで防御壁を作ろうと試みたのだ。
岩の壁が地面から出てくるのと同時、それに呼応して、わたしの前方には、半円を描くようにして光のモヤが立ち上る。
光のモヤは真夜中でも燦然と輝き、目が眩むほどの煌めきを放っていた。
一瞬遅れて、光のモヤにドラゴンのブレスが着弾する。
すると、ブレスは、まるで光のモヤに吸収されたようにして消失していく。
女神さまの加護により作られし光の壁は、どんな攻撃も受け付けない。
わたしは、みんなの無事を確認すると、すかさず攻勢に打って出た。
右足をバネに、天高く飛び上がる。
わたしの脚力は、地面に大穴を穿つほどに強大。そこから得られる跳躍力は、ドラゴンの頭部を軽々と飛び越えた。
刹那の時間でドラゴンの背に乗ったわたしは、抜刀しようとして、躊躇いが生じる。
ここでドラゴンの首を切り落とすことは、容易い。が、それではマリアがショックを受けてしまうだろうし、そもそもドラゴンとの和解が目的である。
いきなり高熱ブレスを浴びせてくるような相手なので、問答無用で処すのもよかったけれど、やっぱりマリアに血を見せたくはなかった。
なので、わたしは鞘に収まったままの剣を、水平に払う。
鈍い手応え。
硬いものが硬いものにぶつかり、まるで、巨木が横倒しになったかのような音が静寂の夜に響き渡る。
勇者の怪力により首を強く打ったドラゴンは、叫びをあげることすらしないで地に伏していく。
気を失ったらしい。
時間にしては、ほんの僅かの出来事だった。
しかし、濃厚濃密な一瞬だったなあ。わたしがいなかったら、辺り一面は焼き野原になっていただろうし。
ひとまず、ドラゴンを鎮めたことに胸を撫で下ろした。
まあ、また暴れだす可能性があるので、完全に事件が解決したわけでもない。
このまま命を奪えば、憂うこともないけどね……。ま、それはマリアがいるかぎり、しないかな。
「あれ、みんな、どーしたの? ドラゴンはやっつけたよ」
わたしが振り返ると、無言の視線がわたしを貫いていた。
暗闇なので表情が見えるわけじゃないけれど、悍ましいモノでも瞳に映したかのような、恐怖を内包した目線を感じる。
その中で唯一、熱っぽさを放つ人物がいた。当然、マリアだ。
わたしは、マリアに褒めてもらうために彼女に駆け寄ろうとして――騎士の少女が立ち塞がってきた。
突き飛ばしてマリアに一目散に向かってもよかったんだけど、わたしは大人なので彼女に付き合ってあげることにした。
「き、君は一体、何者なんだい……?」
自称・英雄の割に、震えたか細い声で尋ねられた。
まあ、それもそうか。
一見ただの少女が、ドラゴンのブレスを無効化した上に、瞬殺していったのだから。戦かないほうが、無理というものだ。
「わたしは、勇者だよ。一ヶ月くらい前に、女神さまの神託があったでしょ? それに選ばれたのが、わたし」
「えっ!? 本物の勇者!?」
彼女は次に、声を弾ませてわたしに駆け寄ってきた。まるで、アイドルにでも邂逅したかのような、はしゃぎっぷりで。
わたしの両手は彼女にがっしりと握られて、上下にブンブンと振られる。
「すごい、まさか本当に女の子だったとは! ボクも、あなたに憧れていたんです!」
どうやら、わたしの噂は遠方の国にまで広まっているらしい。
見ず知らずの騎士にまで、憧れを抱かれてしまっていた。
悪い気は、しないけどね。
「まあ。わたしのことはどうでもいいから……君は何者なの? なんでドラゴンなんかの居場所に?」
「ボクは、レーネ。ドラゴンの噂を聞きつけてやってきたんだ。ボクはとある国の騎士でね……なかなか一人前に見てもらえないから、ドラゴンでも退治すればお父さんも認めてくれるかな、って思って」
レーネと名乗った少女は、何か後ろめたいことでもあるのか、やや声を潜めて自己紹介をした。親の目を盗んで危険生物の駆除しにきたことが、引け目なのだろうか。
「……無茶をするなあ。わたしがいなければ、返り討ちだったでしょ」
わたしはレーネの手を離して、嘆きの吐息をついた。
ひとまず、場が安定したと見て取れたのか、マリアたちも、わたしの周りに集ってくる。
「エステル、とってもすごかったですよ♡ 本当に勇者さまみたいで。これなら、私が心配するまでもなかったですね」
マリアはわたしをハグしつつ、おっぱいに顔を押し付けてくる。ぬいぐるみのように抱かれてしまっていた。こそばゆいなあ。
でもね。マリアってば、まるで、お遊戯会お上手でしたよ、みたいなニュアンスで褒めてくるんだもん。ドラゴンを倒した後の空気だとは、とてもじゃないけど思えないよね。
「本当に勇者みたい、ってなんだよ、もー。わたしは勇者だって、ずっと言ってたのになあ」
マリアの谷間に挟まりながら、わたしも甘えた声でのほほんとする。
すると、突然に明かりが灯った。
どうやら、レーネがランプを取り出したらしい。確かに、暗闇のままだと、色々と困るもんね。
が、彼女は、つけたてのランプを地面に取り落してしまう。そして、いきなり剣を構えて腰を落とした。
「ま、魔物!?」
ハーピーを目にしたレーネには、逡巡が生じていた。彼女は剣を構えてはいるものの、すぐさま斬りかかってくることはしない。
勇者のお供に、魔物。その異常な組み合わせに、脳が働かないのかもしれない。
レーネの出で立ちは、概ねわたしの予想通りだった。
年齢は恐らくわたしと同い年くらいの、幼さの残った顔立ち。ブロンドのショートヘアが、彼女の無鉄砲さを表現しているかのよう。目つきもキリっとしていて、鎧も装着しているので騎士らしさもあるにはある。が、子どもの背伸びっぽさのほうが目立っていた。
けれど、勇者として威厳を兼ね備えたわたしと比べてしまうと、凛々しさは遠く及ばないね。
「ハーピーさんは怖い魔物さんではありませんよ。とっても良い子ですから」
間髪入れずにフォローを入れたのは、マリアだ。やはり女神よりも女神しているのがマリアである。
マリアを一瞥したレーネは……またも硬直した。
今度のそれは、魔物を見つけた驚きではなく、絶世の美女を目の当たりにしたことによる呆然さだ。
「ど、どういうことなんだ? 勇者と魔物が……? そ、それにこの女神のような人は?」
レーネは、わたしが脳内で思い描いた通りの呟きを漏らす。
わたしは、頭をポリポリとかきながら、説明するのが面倒だな~って思っていた。
「ま、わたしは勇者だからね。魔物と仲良くなることなんて、朝飯前だよ。で、この綺麗なお姉さんは、マリア。わたしの幼なじみで、結婚相手」
わたしは、マリアをずいっと前面に押し出して、紹介する。
マリアは小声で、「綺麗なお姉さん///」ってわたしの言葉を反芻していた。可愛いなあ。
「た、たしかに、勇者は倒したモンスターを仲間にするみたいな話は聞いたことあるけど……。でも、女の人同士で結婚って? 勇者さまって、一体なんなんだ!?」
レーネは、自分の知っている世界と現実の在り方がかけ離れすぎていたためか、頭を抱えてしゃがみこんでしまう。
……そんなに大げさなことかなあ?
わたしにしてみれば、マリアとわたしが結婚できない世界のほうが、ありえないと思うんだけど。
でも、レーネの言っていることも一理あって、人間の国では女の子同士で結婚することができない。
わたしは例外的に、勇者の権力を振りかざしてマリアと強引に結婚したけれど……。
「あのさ、勇者ちゃん。あれ、どゆこと?」
わたしたちのいざこざなんてどうでもいい、みたいな口調で割って入ってきたのは、魔族少女リリウェルだ。
彼女の風貌は人間と変わらないので、レーネも何も口を挟んではこない。
リリウェルは、ドラゴンのほうを指差していた。
わたしも、釣られて首を向ける。
そして、顎が外れそうなほどに口を開けるはめになった。驚倒しなかったのは、声にすらならなかったからだ。
なんと、ドラゴンが倒れていた場所には、巨体の姿が存在していなかった。忽然と消失してしまっているのだ。
もしも奴が飛び立っていったのならば、さすがに気づくはず。では、どこにいってしまったのだろうか。
わたしは、レーネが取り落したランプを拾い上げ、ドラゴンが倒れていた場所に近づいてみた。
気になるモノ、がそこにはあった。
光源を向けてみると、はっきりとわかる。
ドラゴンのかわりに倒れていたもの。
それは、人間だった。
しかも、衣類を纏っていない女の子だ。
だが、興奮するよりも先に、疑念のほうが沸き起こる。
女の子の裸に涎を垂らさなかったのは、彼女がうつ伏せで倒れていたのもあるだろう。
だって、彼女のロングヘアは月光を想起させるかのように銀色で、顔は見なくても美しいんだろうな、っていうのがよくわかったから。ただ単に道端に裸で寝ていたのならば、食いついてしまっていたはず。
けど現状はそう単純なものではなくって、ドラゴンがいた場所に倒れている、という不可思議なものだから。
わたしは倒れ込んでいる彼女の傍らに座り込んで、まじまじと凝視してみた。
死んでいるわけでもないようで、かすかに呼吸音が聞こえる。ドラゴンの被害者、ってことでもなさそうだけど……。
マリアも、わたしの後ろから倒れている少女を覗き込んでくる。いや、マリアの場合、わたしが女の子の裸をガン見しないように注意しているのかもしれないけど。
「うーん、もしかしたらこれは……。よしっ、勇者ちゃん、この子、ちょっと様子見るよ!」
リリウェルは、何か思い至ることがあったのか、自分の上着を謎の少女にかけてあげる。
そして、彼女を安静にしてあげることにした。




