日常
まだあたりが薄暗い朝、クリスティーヌはベッドから起き上がると身支度を整えて外に出た。
家から歩いてすぐの川辺で泣き始めた鳥たちのさえずりを聴きながら、クリスティーヌは持ってきた弓を構え、神経を集中させた。
早朝に起きて訓練を済ませてしまうことは、5歳のころから続けてきた彼女にとってはもうすっかり日課となっていた。
今ではマルタに起こされずとも一人で起きることができるし、武芸の腕も相当に上達した、、と彼女は思っているのだが、マルタはそうではないらしい。というのもマルタの口癖は「あんたが私に勝てるようになるまでまだ一人前とは認めないよ!」であって、14になる今でもクリスティーヌはマルタに実践稽古でかなわないからだ。
日が昇り始め、教会の鐘の音が鳴り始めるとクリスティーヌはすぐに荷物をまとめ、家に帰る。
それもこれも以前一度道に迷って朝食の時間に間に合わなかった時にマルタがひどく心配したためで、それからクリスティーヌは時間になるとすぐに家に帰るようにしているのだ。
「ただいま!今日はトマトのスープね!」
家に帰るとマルタはいつもどうり朝食の準備をしていた。クリスティーヌとマルタの住んでいるのは小さなマラシュートの村にある一軒家だ。
クリスティーヌには親がいない。正確には幼いころに死んでしまったのだそうだ。マルタは母の友人で、未婚の母であった彼女の代わりにクリスティーヌを育ててくれた育ての親なのだという。それもマルタに聞いた話で、幼かったクリスティーヌは母の顔を覚えているわけではない。しかしマルタはクリスティーヌに母の形見のペンダントをくれたため、彼女は肌身離さずそれを身に着けているのだった。
クリスティーヌは台所に立っているマルタのそばによると、棚から食器をだし、朝食の準備を始めた。クリスティーヌも料理ができないわけではないが、マルタのほうが手際もいいし味も確かなので彼女が食事を作ることは珍しかった。
料理を並べ終わり、二人が席に着くとマルタが食前の祈りの言葉を唱え、朝食の時間が始まった。
「今朝の森はどうだった?変わりなかった、クリスティーヌ?」
マルタは毎朝森の様子をクリスティーヌに尋ねる。二人は自然がいかに人間に友好的かを知っていた。悪天候の前は風が、災害の前は動物が、そして異変の起こる前には森全体が様子を変えることを二人はよく知っていたし、よく森の中で訓練と称して一晩を明かす二人がそれによって今まで幾度も救われてきたことは事実だ。
「うん、変わりなかったよ、マルタ。今朝も森は平和だった」
クリスティーヌがマルタから教わったことは多くある。学問、武芸、家事、そして自然で生き抜く方法。
マルタはあらゆる分野に秀でていた。そして、彼女はそのすべてをクリスティーヌに与えようとした。
クリスティーヌは幼いころ幾度か訪ねたことがある。どうしてマルタは何でもできるの?と。
毎回それに対する答えは返ってこなかったが、マルタは何度も言った。
「クリスティーヌ、世界にはまだあなたの知らないことがたくさんある。そしていま私が教えていることはすべて将来役に立つかもしれないことなの。だから覚えていて、あなたが私から得る知識と技術は必ずあなたの武器になる。」
その言葉の通りマルタはクリスティーヌに多くの知識と技術を与えた。しかし彼女はそれを疑問に思っても聞くことはしなかった。聞いても答えが返ってこないのはわかりきったことだったし、クリスティーヌにとってそれは重要ではなかったからだ。
朝食を食べ終わるとクリスティーヌは食器をすべて下げて、洗い場に立った。食器を洗うのは彼女の役目でマルタはいつもその時間、椅子に座って本を読んでいる。曰く、本を読むということは知識を求め続けるということ、なんだそうだ。
マルタは読書の間に邪魔が入るのをひどく嫌う。だから彼女が本を読み始めると来客の対応も家事もすべてクリスティーヌが行うのがこの家でのルールだった。
しかしこの日は違った。
クリスティーヌが洗い物をしていると、ドアのノックが聞こえた。いつものように彼女が戸口へ向かうとそこにはマルタが立っている。
「どうしたの?私が出るからマルタは休んでていいよ」
クリスティーヌはそういうとドアに近づいたが、マルタは片手でそれを制するとドアを勢い良く開けた。
戸口に立っていたのはマントを被った背の高い男だった。
おそらく旅人だろう、とクリスティーヌは思った。
男は珍しい灰の毛色の馬を連れており、その両脇には男のものと思われる旅人にしては少なめの荷物がつけられている。
クリスティーヌが男を不思議そうに見ているのに気付いたのか、男は彼女をちらりと見ると、マルタのほうを向いて嬉しそうに言った。
「久しぶりだな、マルタ。元気そうで何よりだ。」