第6話「落ちこぼれは九死に一生を得る」
さっきまで渇いていた地面は瞬く間にびしょ濡れになっていた。周囲のコンクリートを雨水が静かに流れ落ちている。
俺は突然の通り魔に恐怖し、逃げようと思ったが体が凍りついたように動かない。
あまりの怖さに思わずその場に固まってしまった。恐怖を感じている時の人間ってマジで何もできねえんだな。
ふと、昨日ネットサーフィンをしている時に見かけたニュースを思い出した。昨日脱走した凶悪犯が市内を徘徊しているという情報が流れていたが、こいつのことだったのか。
ていうか凶悪犯に路上でぶち当たる確率ってめっちゃ低いはずだろ。ホントついてねえな。大人しく学校にいればここで会うこともなかったんだろうが、俺はここまで勢いで逃げてきてしまった。きっとこれは神様が俺に与えた罰だ。そうとしか思えねえ。
ちくしょう……じゃあどうすりゃよかったんだよ?
「どけえええええっ!」
通り魔がドスの効いた低い声で俺を威嚇しながらダガーナイフを向け接近してくる。
もうどいてもどかなくても刺すやつだよなこれ。
「陽登に手を出すなー!」
「ええっ!?」
後ろを振り返ると、必死の顔になっている凛花が一心不乱にこちらへとダッシュしてくる。
通り魔はそのダガーナイフで凛花を差そうとするが、彼女はそれをひらりとかわし、ダガーナイフを持った右手に回し蹴りをくらわせた。地面にはたき落とされたダガーナイフが地を這うように回転しながら移動し、電柱近くの位置で止まった。
凛花は男が怯んだ瞬間に俺の前方へ移動し立ち塞がった。
「てめえ、なめやがって!」
今度は通り魔が明確な敵意を持ったまま凛花に殴りかかった。
だが凛花はその拳をパシッと軽く受け止めると、その手を持ちながら一本背負いを決めた。
「がはあっ!」
「おいっ! 何をしているっ!」
通報を受けて駆けつけてきた交番の警察官2人が凛花に呼びかけた。
凛花は凶悪犯の手を固定するように血が止まるほど強い握力で掴み続けている。
「凶悪犯を捕まえました。連行してください」
「何……君が捕まえたのか?」
「はい。後で事情聴取に伺います」
「分かった。じゃあ後で来てくれ」
「離せっ! 離せえぇ!」
「大人しくしろ」
凶悪犯がそのまま警察官に引き渡されると、無理矢理両手に手錠をかけられ連れていかれた。
俺と凛花は事情聴取を受けた後、降り続ける雨の中、傘も差さずに2人きりで歩いていた。周囲には嵐が過ぎ去った後のように人がおらず、何事もなかったかのように車だけが通っていた。
凛花が俺の前へと立ち塞がると、俺と目が合ったのを確認してから口を開いた。
「怪我はないか?」
「……ああ、お陰様でな」
「陽登、お前がずっと辛い目に遭ってきたことは知っている。お前は最初に会った時からいつも誰かにいじめられていた。だから人間不信になったのも分かる」
「お前みたいに何でも万能にこなす優等生に何が分かんだよ?」
「私だっていじめられたら辛い。もしこのまま高校を退学するというならそれでも構わない。だがこれだけは言わせてくれ――私は何があっても必ずお前を守ってみせる。この命と引き換えになったとしても、必ず陽登を守ると約束する。だからもう二度と絶望しないでくれ。いじめを受けたら私がいつでも守ってやる。たとえ親と学校に見捨てられても、私はお前を見捨てない。絶対に」
「!」
そう言いながら凛花が俺を前から強く抱きしめた。
お互いの片耳がすぐ目の前にあり、彼女の髪から漂う落ち着きをもたらしてくれる花のような香りが俺の鼻を吹き抜けた。
気づけば雲と雲の間から日光が俺たちに向かって差し込み、雨雲ばかりだった空は再び明るくなっていた。
――情けねえな……俺って。
そんなこと言われたら――勝手に人生に絶望して、勝手に未来まで諦めている自分が惨めに見えてくるじゃねえか!
「――学校に戻るぞ」
「陽登?」
「このままじゃ野球部に入部させられちまう。だから今週中に残りの部員2人を探すぞ」
「……陽登」
凛花の表情に笑みが戻った。俺はそのままカップルのように横から凛花の腕に掴まれながら来た道を戻り、学校の校舎が段々と近づいてくる。
あのー、さっきからでかいのが当たってるんだが。
この柔らかい感触、もう忘れたくても忘れられねえ。
「凛花、さっきは悪かった」
「いいんだ。陽登は集団生活苦手だもんな」
「でもあれじゃ、もう友達なんてできねえかもな」
「私たちはもう友達だろ」
「……俺でもいいのか?」
「もちろんだ。世界は綺麗すぎるわけでもないし、決して汚れすぎているわけでもない。どこの誰にだって、必ずどこかに自分の居場所がある。私にとっての居場所は陽登だった」
「そこまで言ってもらえるほど貢献したことねえけどな」
「自分がどれほど貢献し、どれほど迷惑をかけたかなんて、自分ではなかなか気づけないものだ」
こいつ、一体何が言いたいんだ?
さっきから意味深なことばかりを語っているが、俺には何のことだかさっぱりだ。
そして教室に帰った俺と凛花は担任に事情を説明し、どうにか処分は免れた。
「次からは気をつけてね」
「はい。申し訳ありませんでした」
凛花が誠意を込めて声を発しながら頭を下げ、俺も彼女に合わせて頭を下げた。
俺の代わりに頭まで下げてくれた。本当にこいつ何なんだ?
凛花は俺にとっては命の恩人だ。
彼女にとっちゃボディガードとしての責務を果たしたにすぎないんだろうが、男だからという刷り込みなのか、彼女に守ってもらう度に自分が情けなくなってくる。だから何とかこいつに頼らなくても済むくらいにはなりたいと思った。
翌日、俺は教室で担任で国語担当の高島早紀先生から呼び出された。
「霜月君、他の生徒から聞いたけど、本当にフェードアウトする気なの?」
「あっ、いや、あれはその……その場の勢いというか」
「何があったかは知らないけど、桜月さんたちはとても優しいから心配しないで」
「……はい」
高島先生は心配そうな顔で俺を見つめていた。
解放された後も、ずっと見守られているような気がした。
ホームルームが終わると授業が始まるが、授業の内容なんて全然分からない。小中学校の内容すら分からないのだから当然だ。先生が何を言っているのかも意味不明なままノートを写すので精一杯だった。こんなんで卒業できんのか俺。
当然だが、高校には留年がある。
だからみんな身の丈に合ったレベルの高校を選ぶわけだが、俺は底辺校ですら進学できそうにない成績であったため、中学の時の担任からもため息を吐かれる始末だった。なるべく上の高校へ進学させた方が評価が伸びるのは分かるが、進学させられる方の身にもなってくれよな。
「何か言われたのか?」
俺の隣から凛花が話しかけてくる。昨日までのことは気にしていないようだ。
この切り替えの早さは見習いたいところだが、俺は辛い出来事ほどよく覚えている。
「いや、大したことじゃない。昼休み空いてるか?」
「もちろんだ。私の時間は全部お前を守る時間だ」
「その言い方は誤解されるからやめてくれ」
「ではこの問題を――霜月君に頼もうかな」
「ええっ!?」
俺は咄嗟に死刑宣告を言い渡された被告のような顔になった。
「ええっ、じゃないでしょ」
「「「「「あはははは!」」」」」
周囲が一斉に笑った。あぁ~、恥ずかしい。
「ほーら、邪馬台国の女王は誰?」
今は社会の時間だ。俺にとっては苦手中の苦手科目である。
何故俺を指名したぁ! 解けねえに決まってんだろうがっ! これじゃ公開処刑じゃねえか。どうしよう。このままだと分からないままみんなに笑われる――ん?
ふと、目線を横に向けてみれば、隣の凛花の席にはでっかい文字で答えが書かれている。しかもご丁寧にふりがなまで振ってるし。
「卑弥呼です」
「正解です。では次に――」
ふぅ、どうにか乗り切った。凛花のお陰で助かった。
俺は隙を見て凛花にグッジョブのサインを送った。
「!」
凛花は嬉しそうな顔で俺を見つめていた。とても嬉しそうで何より。
さて、問題は昼休みだが、どうやってあと2人の部員を集めようか。
この問題が解決するまで授業には集中できそうにない。
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