鬼/3
子供のころ何を考えていただろうか。
いや――それを言うなら、俺は『大人』になんてなったことなんてないのだけれども。
人であり、子供であった頃。
そんな時のことを、俺は思い出せない。細かいことは、全然思い出せないのだ。
こんなにも懐かしく、こんなにもここに帰りたくてしかたがなかったのに。
思い出せるのは、生きた年数に対したなら切れ端のようなものばかりだ。
だってこんなに大切なものだなんて思っていなかったんだ。とてもありふれていたから、ちゃんとしまっておきたいほどのものだなんて。
ただ、怖いものに対して自分がどうしていたかはわかる。
子供の好奇心は時として度し難く――子供の思い込みは、時として大人の思いの範囲を超える。
さて、見つかった。
逃がしてしまった、どうしよう。
なんていうことを昨日思っていたのだ。
半ば腹もくくり、死にかけているは死にかけていることだし、なんか最終的に色々やばい軍とかでてくるまで暴れてやろうかなー、などと変に開き直りまでしながらも、一応潜んでいた俺の視界に、一度はそのつもりもないどころか思考箒状態で見逃した子供がいる。
本当に本音で、人間より基礎スペック強いからなんとかなる、などと俺は考えていない。
ファンタジー生物ではあるが、この世界に適応できないことと、銃弾程度なら防げても多分ミサイルとかは想像するだけで無理だということくらいはなんとなくわかるからだ。とんでも生物ではあるも、弱っていることも含めれば殺せない程度ではないのだ。
見つかればいずれ死ぬか捕獲かされてしまう。それを理解できる。
ある程度武装した人の群れをあっという間に絵の具だまりにすることができるとしても、それは特に自らがずっと自由に行動できることを意味しないことがわかる。
この世界で生きていた経験があるからこそ、記憶があるからこそ、俺は自分が見つかればそこから短い命のカウントダウンが始まるだろうことを、二つの世界を知っているからこそ十分に理解しているのだ。
実はこの世界も裏ではファンタジーでしたぁー、なんてこともないだろう……不幸中の幸いは、もし捕まっても補填がきかなきゃ時間で割と簡単に死ねそうってことくらいか。
もう、痛いのも苦しいのも無駄に味わいたくはないものだ。
実験動物等にならないように、どうにもできないなりに死に方と死に場所くらいは選びたい、どうしよう。全力で逃げていい場所探す? それとも――など色々と何ができるか、何がやりたいかを一晩潜みながら考えた次の日の事だった。
熊もそうだったが、やはり小動物では回復よりただそこにいるだけで消耗するエネルギーのほうが多いと、ぼりぼりと丸ごと口に放り込んで咀嚼しながらある種の諦めを深くしつつ独り言ちていた時に、その気配を拾ったのだ。
えぇ……馬鹿なのかな?
あぁー……いや、子供ってどこでもそんなんだった気がする……
向こうの子供のほうが危機感はあったとはいえ、そういうのもいないでもないっぽかったし……怖いなぁ、子供の好奇心というか、向こう見ずって……野生動物が優しく接してくれるなんてのは、大体物語の中かめっちゃくちゃすげぇ運がいい奴だけだよ……
そんな感想が浮かんでくるのを止められなかった。そのくらいの無防備。
故郷であるこの世界より命が安い世界だったとはいえ、やはり子供とは好奇心と傲慢、感情の塊であることはどこの世界でも変わりはないらしい。
昨日見逃してしまった場所できょろきょろと何かを探すようにあたりを見回しているのだ、何を探しているのか言うまでもない話だ。
一人きりで。
誰かを連れてきた様子もなく、ただリンゴだろうものとか、握りつぶされた食パンのようなもの――犬かなんかと勘違いしているのだろうか――だけもって。
そんな姿を見て思う事はといえば『やっぱ、ダメっぽい』ということ。
目撃者は一人だけだ。
時間を伸ばしたければ、処理したほうが良い事はわかっている。
わかっているが、どうにも、やはり、嫌だった。
子供意外にも、一応遠目ではあるが他の人間も見たのだ。
けれど結果は同じだった。近くで見ればと思った子供もこの通りなのだ。
何がどうなっているのか、こればっかりは予想もつかない。
どうしても、手が止まる。
嫌悪感というか、何か嫌な感覚に陥るのだ。
考えても考えても、やはり理由はわからなかった。
あんなに簡単に殺せるようになってきたのだ。
故郷だとして、そんな思い出だけで自らを危険にさらして時間を無駄に消耗しようとするほどには、俺にとっての人外であった時間は安くはなかったはずなのだ。
「……」
愚かなことをしようとしている。
その自覚はあった。
きっと、今思った事をしなければある程度の時間は確保できる可能性が上がる。危険性も下がる。あの様子では、誰かにいったとしても時間がかかるだろうし、子供がいうことであるということもある。昨日すぐさまであるなら、熊がでたということもあって誰かしら大人が確認しに来たかもしれない。そうであるなら、血の跡を見て警戒もしただろう。その結果、時間が短くなる可能性は高かった。
今はそうではない。熊は胃の中だし、血の跡なども薄れていく。人が減ったわけではないのだ、熊が他の犠牲者を出していなければ。
獣同士の争いなどに、人はそこまで興味を示すことがないことを、俺は身をもって知っている。向こうの世界のほうがその辺は警戒心が濃い。
だから、接触してみよう、などというのは、己の首を絞めるだけの愚かな発想なのだ。
決心はつかなかったが、もしついたとしても会いたい人に会うための時間さえなくなってしまうかもしれない。
そんな、愚かな。
自分は思いのほか寂しがりだったということだろうか。
故郷に来て、見知らぬ子供にすがりたくなるほど。
殺そうとしてたのに。
できないしたくないと分かったとたんの、とんだ手の平返し。
逃避でもある。
その自覚もできる。
――結局は、恐ろしい。
故郷に帰ってこれたという事で、ある程度気持ちが満足している部分があることもある。
しかし、恐ろしいのだ。
誰がわかる。俺の事を。
誰もわからない。わかったところでどうというのだ。
息子が、子供が、友達が、知り合いが。
化け物として、かえってきました、なんということを。
伝えたところで、どうだというのだと。
――一目でも、見たい気持ちがないというわけではない。
それでも、俺は恐ろしかった。恐怖が勝る。少しでも満足してしまっているが故に。
知らないままのほうが救いがある、という気持ちと共に、たまらなく恐ろしかった。
――化け物であるのが辛くなっていった時、死ななかったのは結局死への恐怖もあるが、帰りたかったからだ。
もし、そこで死んでしまえば二度と元の世界に戻れないという思いがあったからだ。
記憶がしっかりとあるわけではないが、俺は最初に俺のまま向こうに行ったはずなのだ。
俺が死に瀕したのは、死んだのは、そこは元の世界ではなかった。
だから、こうなったのではないか、とずっとずっと思ってきたのだ。
だからこそといえる。
故郷で死ねたなら、もしかしたら、今度こそ故郷で、人に、人として――次は人で。
その時、記憶なんてものはなくてもいいから。
と。
そして、それが達成されたから、燃え尽き症候群のような状態になっている部分も大いにある。
明確に死に向かっているプラスの燃え尽き症候群。
この行動は、だからすべてが重なったからやってしまったことなのだろう。
――これが懐かしさだけか。
それとも、それとも?
「あのね……あのね! おともだち、なって!」
ただ、それが知りたいだけ。
そのための、都合のいい相手が知りもせずきらきらしたような目を向けていた。
混ざった感情は、愚かなものを見る目だったろうか――それとも、もしかしたら罪悪感だったろうか。
それを知るためでもあるのだろうか。
――久しぶりに食べたこっちの加工品と果物は、色々痛んだような味がした。
思う。
化け物として殺めてきた生物の全てを思う。
人だけではない。
色々なものをこの手で殺してきたし、食べてきた。
そうやって生きてきた。死にたくはなかった。
新たためて考えてみて。
思い返してみて。
それでも、どうしても考えが変わっていない己というものに気付く。
それはおかしい事のような気がした。
こんなにもこちらに帰ってきて『人間』が特別なカテゴリにおさまっているのに、殺した生物を思い出せる限り並べてみても、どれもこれも同じカテゴリに置くことしかできない。
それは、とてもおかしい気がする。
どちらも人型。
なんの違いがあるというのだろうか。
何が違いがあるというのだろうか。
違いがあると、俺が思いたいというだけではないだろうか。
じわじわと弱っていく体というものは、その思考までもじわじわ浸食するように弱弱しくさせるものなのかもしれない。
「かたいねー、かたいね!」
飽きもせず己の異形の体を触りながら、大体同じ言葉を繰り返しはしゃぐ子供を見る。
ここ数日で、わかったことがある。
「おー、こことがってる」
この子供は死にかけている。
よく見るまでもなく冷静になれば傷だらけであるし、ボロボロだ。
何より、体に宿る生命の力がとても弱っている。
成長するにもただ生きるにも、圧倒的にもうエネルギーというものが足りていないということがわかるのだ。
「でもあったたたかい……あたったっかい? あた? あたた……た」
おそらく放っておかれれば、今年には衰弱なり途中で病気なりになって死んでしまうだろう。
俺が過ごした世界とは、ここまで殺伐としたものだったのだろうか。
……ものだったのだろう。俺が、気付いていないというか俺の周りにはなかったというだけで。
数日間で飯を食わせてみたりはしたが、回復より損傷スピードのほうが速い。
顕在化していないだけで、名前は知らないがすでにいくつかの病もその身に宿してしまっている。
虐待。
単語にすればなんとも短く終わってしまう。
こんなに長閑な森の中で、死にかけている。
大きな争いがあるわけでもなく。
食べ物が足りていないわけでもなく。
明日死ぬほど余裕がない人間があふれているわけでもなく。
魔物などの敵性種族が跋扈しているわけでもない。
ないのに。
子供一人。誰が助けることもなく、死に向かっている。
「ねむくなってきた……」
憤っただろう。
きっと、人の少年であった頃の俺が知っても、憤り嘆き、世をはかなんだかもしれない。理不尽を嘆きもしたかもしれない。
しかし、化け物を経過している俺としては異常でありながら当たり前のようにも思えてしまう。
怒るべきだ。
理性ある人間として生きているのなら、怒るべきなのだろう。
元人間の元化け物の俺は、怒りながらただ愚かと遠くで思うような、嘲るような感情が同居してしまっている。
そんなことをしなくとも簡単に死ぬ生物が、何の気ない理由で子供、同族を食いつぶすような真似をしている。
知識を誇る生き物が。なんとも不様をさらし続けているじゃあないか、と。
それが美しいからとかどうとか、そういう感情の話以前。
協力し合わなければなんともできない生き物であるのに。
随分とまあ、余裕があるようにふるまえるものだと。
化け物の部分がばかげたものを見るように見る。
「お? おー? なになに?」
あっちだろうがこっちだろうが、少しでも余裕があれば人はこういう事をしている。
仲良しこよしでなくとも、全力で全員が協力している様なんていうのは、本当に少ないのだ。少なかったのだ。
全滅に瀕してさえ、手を抜く奴がいる。足を引く奴がいる。何かをかさに着て、誰かをいたぶることを楽しんでいる奴がいる。
それは、たんなる責任転嫁でしかない八つ当たりとはいえ――殺せるようにもなるというものだろう。
こんなにも人をさっくりとやってしまうことに罪悪感がないことに悩んでいるというのに、どこで見るやつもそうであったのだから。加速もするというものだろう。できるようになることが。
子供はそのことを強烈に思い出させる。