子/3
聞こえたのは咆哮だったと思う。
大きな大きな声。
うつろな目をなんとか開くような気持ちになったのは、あまりに大きいその声が、どこか怒りを覚えているように聞こえたからだっただろうか。
気を失ってどれくらいたっていたのかは、どうにもわからない。
あれだけお腹も減っていて、傷ついて、止めに蹴られて吹き飛んで。
長々持ったはずもないが、随分と寝ていたような気もしている。不思議な感覚だった。
ぼんやりとして、夢のようで。
もう、ただただだるくてしかたなかった。
「うっせぇ犬がいるなぁ……冷ーめーるーわぁー」
「ていうかあれ見てあれ、たまにちょっと動くの虫っぽくて気持ち悪くない?」
「わかるわー」
聞こえる声は雑音。
言っている意味もなんとなく理解できなくなっていっていた。
「……?」
嵐の前の静けさという言葉を聞くとき、私はこのうつろから切り替わるようなこの瞬間をいつも思い出す。
一瞬、何か音がすべて消えたように静かになった気がしたのだ。
それは、きっと私だけでなく、親もどきたちも確かに感じていたようで、不信からかしばらく動くこと音すらしなかったと思う。
どこそう……心底からひんやりとするような。
それが、どこか自分の体と繋がっていくような気がして。
「なんだ? ……さむ」
だからその静寂を破った罰だったかもしれない。
その言葉は、トリガーのようにも思える。
「なんだよ!」
静寂からの轟音。
自らが暴力を振るわれるときの音等、比べ物にならない。
重機が建物を破壊するように。
硬い何かが、砕かれて吹き飛びぶつかっていく音。
体に何かが当たっている。
風だ。
うつろな頭が、力を振り絞るようにはっきりしたものに切り替わっていた。
埃がまるでそれを祝うように舞っていた。もちろん、そんはずはないのだけれど。
汚いものでしかないはずなのに、なぜかとても、とてもきれいに思えたのだ。
「は……? え? マジ幻覚じゃん……」
アホのような気の抜けた声は、大きな体のそれに向けられていた。
鬼が立っていた。
見たことのある、鬼がそこに。
「……」
鬼が、私を見た。
鬼が、確かに知っている鬼のはずが――なぜだろう、最初に見た時よりずっとずっと小さく見えた。
その鬼がまたこちらに手を向けて、なんだか私は少し楽になって。
「……」
いつも饒舌に私ばかりが話していたが、この時はどうしても何か言葉を言うことができなかった。
『――――!!!!』
咆哮。
びりびりと体が震えるような音。
実際、建物がきしんでいたと思う。壁事吹き飛んだドアに巻き込まれず住んでいた窓ガラスたちが次々と割れていく。
何か特別なものが込められていたのだろう、それと同時に親モドキたちが叩きつけられるように壁に吹き飛んでいったのが見えた。
「ぐぅ……ぁ! んだよぉ! バケモンがぁ! 幻覚じゃねぇのかよぉ!? いてぇよぉ……血がでてんじゃん……」
「痛っ……警察なにしてんの!? つーか、そこに狙いやすいチビがいんだろ!? なんでこんな目に私がっ」
鬼は、いつも静かに話を聞いてくれていた。
だから、きっと言葉を理解していたと思うのだ。
だから、その行動が――私のための怒りだったと、そう思うのは。
全て私がただ、そう思いたいだけだろうか。
「ぎっ――」
親モドキたちがぞれぞれ頭を掴んで吊り上げられるようにされたせいで、それ以上言葉を吐けなくなった。
そしてそれをしばらくじぃっと見ているようだった。
「ぐぅっ――!」
そして、ゴミでも捨てるようにまた放り投げら、壁を枕に。
埃がまたきらきらと舞った。
鬼が一瞬また、ちらりと私を見たはずだ。
そして、放り投げた親の方にずんずんと重い音を立てながら進んでいった。
愚かにも、そこで私が抱いたのは怒りだった。
怒りだったのだ。
「お、」
声はしゃがれて居た。
それも、遊ぶように振るわれた暴力の結果の一つであり、水や食べ物を口にできなかった結果でもある。
実際はどう思っていたのかわからない。
けれど、だけど、いつだって、鬼は私がしゃべり始めれば終わるまで聞いてくれたのだ。
途中でいなくなるようなことはせず。
私が満足して帰るか、止めるまで。
「……」
だから、振り上げていた手を親モドキに落とすことなく、いつものように声に反応したように。
こちらを見ている鬼。
そんな鬼に、私が抱いたのは――恐怖であり、やはり怒りだったのだ。
「おか」
血を流す親モドキたち。
フラッシュバックする熊。
鬼。
逃げた自分。
友達と呼んだ存在。
助けてくれなかった。
ずっと誰も助けてくれなかった。
八つ当たり。
期待。
希望。
恐怖と怒り。
それはやはり、どれだけ拒んでもクソみたいな血の繋がりを意味していたのかもしれないと、ずっと私を苦しめる。
あぁ――私は、自分で友達と呼んだ存在を。
まがりなり、助けてくれた存在に。
ただ怒りと恐怖を向けて――落ちていた、ゴミ箱から洩れた破れてボロボロになった絵本を叩きつけながら、避けようともせずただそれを目でおって黙って聞いているような確かに助けに来てくれたのだろう存在に――
「おかあさんをいじめるな! ――ばけもの!」
そう咆哮したのだ。
あぁ、きっと。
そんな自分は、赤鬼とすら呼びようのない。
思い出すたび、醜い何かだった。
叫ぶことができたことすら、鬼のおかげに違いなかったのに。
そんな、自分の恐怖と怒りと――もしかするとという期待に負けて、そう叫んだのだ。
時が止まったようだった。
じぃっと、当たった絵本を見た後、もう一度親モドキたちを見て――ただ、ゆっくり手を下ろした。
どうやら気絶してしまっていたようで、あんなにうるさかったのに、今は自分の鼓動くらいで。
そして、鬼は考えがまとまったのか、私にゆっくり近づいてくるとそっと手をかざした。
そうして私は――優しく意識を落とされたのだ。
だから、ここから先は朧げな記憶ですらなく、ただただ後で聞いた話でしかない。
私の家に来るまでにその姿を目撃はされていた事。
私の家に来るまでに大きな破壊等は行っていなかったが、家に入る時には大きく破壊したせいで音が立っていた事。
それらが重なって、まだ携帯もネットも盛ん過ぎない程度でしかなくとも、近所の人を集めるにはそれで十分だった。
明らかな虐待された幼子一人、無視はし続ける場所であろうが、野次馬は集まるのだ。
警察から聞いた話では――鬼はそっと私を両手で抱えるようにして、堂々と、しかしゆっくりとでてきたらしい。
そして視線を一周するように首を回した後、私にこの話をしてくれた一人の当時は若かった警察の人に向けてゆっくり歩いてきたらしい。
周りが後ずさったり、警戒したり構えたりしている中、その人はどうにも彼――鬼が暴れるようには見えなかったから、ただじっとその場でまっていたという。
――事実、鬼は、私の両親もどき以外の人間は誰も傷つけてはいなかった。
その雰囲気からか、誰も彼に攻撃することはしなかった――というかできなかっただけだとは思う――けれど、もし攻撃したとしても、きっと反撃はしなかったのではないか? と警官の人は不思議と変な確信があったという。
その姿は、確かに鬼と、化け物と呼べるような姿だった。
しかし、警官の人にはそれがどこか、少しだけ満足したけれどとても疲れ切ったような、諦めきったような。
命が終わりかけているような、そんな風に見えたらしいのだ。
そして、その場の全員が注目する中、私をそっと渡して少しだけじっと見た後一度だけ撫でて――気のせいでなければ、お辞儀するように頭を下げたらしい。少なくとも、警官の人はそう確かに感じたらしい。お願いされた……託されたのだと。
それは、周りからは馬鹿げたことだとか、恐怖で錯覚しただけだとか、ただ一人怯えずにいた警官の人にやっかむようにいってきたらしいけれど、私はありえるだろうなと思った話だ。
警官の人――私のために色々面倒をかぶってくれた人、もう一人の恩人は、だからこそだったかもしれないといっていた。
正義感だとかは人並みにあったけれど、それも少しずつ現実に飲まれている最中で。
誰も彼も見て見ぬふりような事ばかり目に入ってきて。
『それが賢いんだよ』といわんばかりの同僚たちに囲まれていたらしい当時。
鬼に任されたからと動いたのは、誰も信じちゃくれないが、確かに恐怖感からではなかったのだ、と。
託されたのだと。
確かに、選ばれて、任されたのだと。
あの中で選ぶしかなかった結果だとしても、確かに。
ドラマや漫画みたいだけど、死にかけの人が最後の頼みをするみたいに、力強く目がそういっていたのだと。
その時通じ合ったと。
だからそれを、裏切っちゃいけないと思ったのだと。
全部振り切って、がむしゃらにやれたのは、いろいろな人を敵に回す結果になっても今もなんとか総合的には誇れる自分であれるのも。
他人はそれを面倒を任されただけと思うかもしれないけれど。
自分にとって、彼か彼女かもわからないままの鬼が、あの時まっすぐ自分にまかせてくれたからだと、警官の人――最終的に身元を引き受けてくれた、今もなおお世話になった『親』と呼びたい人はいっていた。
あぁ――やはり、出会うべきはそういう人だったのだ、と思う。
鬼は私を渡した後、やることが終わったというようにぼろぼろと崩れ出したという。
しかし、捕獲等することは許さないというようにその姿にふさわしい身体能力で飛び上がって、風のようにどこかに消えてしまったらしい。
――事なかれ主義の体現とも呼べるものたちばかりが集まる場所だ。
すぐに、『見間違いだった』とか『質の悪い悪戯だった』とか『そういえば着ぐるみのようだった気がする』とか。
そういうくだらない話で流れていった。いってしまった。
鬼は、いくら超常的であっても現実に現れても結局、人が悪ければ話の中でさえ残らないらしい。
ネットが発達した今の世の中でもきっと、それは変わらないと思う。
結局、発信する人がただ注目されたいだけだったとかならば、流されてしまうだけなのだろう。
私は嫌いな赤鬼にすらなれない存在だった。
手のひらを反すこともできない村人にもなれない人たちに。
ただ相談なくおせっかいをやいた青鬼とも呼べない鬼。
できそこないの物語だ。
せめて私がもっと愚かでなかったら、もっと仲良くなれたなら。
一人にせずに済んだ等思うのは、やはり傲慢なことなのだろうか。
私には切り離せない後悔がある。
かといって、例えばその時間に戻れたとして、では別の選択肢を選べば後悔しなかったのか? と言われれば正直わからない。
ただ、そうしたことが後悔に繋がっているという事実だけが転がっているだけ。
私は後悔している。
だまって聞いてくれる友達はもういない。
あれから、あまり人を信じられなくなった。
うわべだけの付き合いばかり上手くなっていく。
親だと思いたい人は、優しくなでてくれるけど、そんな時こそ無性に泣きたい気分になるのだ。
答えてくれる誰かも、いないのだ。
喋りはせず、けれど優しさを向けてくれた鬼はいないのだ。
消えないまま、けれど当時よりはぐっと減って、残りも薄くなり続けている傷跡が、じくりと痛んだ気がした。
昔より綺麗になっていく肌に、少しだけ寂しさを持つ。『本来は傷跡として残るはずの酷い傷の数々』がこうして消えていったこそこそ、鬼がいた、向けてくれた優しさがあった証だというのに。
それが悔恨か、慰めなのかも、わからない。
そして、友達だなんだと勝手思っていただけで――私は彼の名前も知らなかったのだ。
嫌いだった赤い鬼以下の姿がそこにあったように思えた。
赤い鬼、青い鬼と、姿形だけで呼び合うような関係が、関心のなさが。
さて、化け物とは、彼のことだったのか、両親のことだったのか。
それとも、誰も助けてくれなかった私を、確かに助けてくれた友達をその瞬間確かに恐怖して――恨み、そして打算と共に化け物と呼んだ私こそだっただろうか。
わかるのは――まともだった人間は、私にとってそう思えるのは、近くには『親』くらいしかいなかったということくらいだった。
『人間』こそが、彼と最初に出会うべきだったのではないかという事だけだった。