子/1
私には切り離せない後悔がある。
かといって、例えばその時間に戻れたとして、では別の選択肢を選べば後悔しなかったのか? と言われれば正直わからない。
ただ、そうしたことが後悔に繋がっているという事実だけが転がっているだけ。
私は後悔している。
幼いころ、私はたいていの場合薄汚れてずたぼろだった。
それは親からのネグレクトであり、虐待行為を意味しているものだ。
他人とは、私にとって救いの存在ではなかった。
彼ら彼女らは一瞬可哀そうな目をしても、興味がないという視線、面倒くさそうな感情や汚らしいという感情が勝つものだという事を幼い私はどこかで理解もしていたのだろう。そもそも、助けが必要な状況であるという事実がよくわからないほどの状態ではあったのだけれど。
簡単にいえば、私の生みの親――というには親をやっている人に失礼なモドキでしかないけれど――という人間はクズであり、馬鹿でもあった。
子供という存在を――同じ人間という生き物として見ていないのだろうと今ならわかる。
わかっているのならそんな扱いはできないし、そんな扱いをしていることが周りに知れたら最終的にどうなるかということなど少し頭が回ればわかるはずなのだ。それがいい事なのかどうかは置いておいても、普通はもう少しくらいは隠そうとするものだろう。
だというのに、その時の私は少なくとも昼間は自由に外に出ることができた。
だというのに、その時の私は見えないところ以外にもわかりやすいメッセージが刻まれていた。
まぁ、なんというか。
積極的に救いなど求めるものではないし、そんなこと他人に期待することこそ間違いなのだろうけれど――それでも、私に手を差し伸べてくれる人が皆無だったのだから、人は環境で作られるとは本当なのかもしれない。
虐待された人は、実際家庭を持った時どうしていいかわからない人や繰り返してしまう人がいるという話をよく理解できる。
どうしてそうなのか?
それしかしらないからだ。
ひたすら雨に打たれ続けている辛そうな人間がいたとして。
傘を差し伸べられた経験がないものが、はたして己が濡れてまで傘を差し伸べる発想が湧くだろうか。
鬼は地獄でつくられる。
誰かを助けたいなんて奇特な鬼さんは、一握りなのだ。
みな、普通の赤鬼になりたいばかり。
奇特で、しかし親切な鬼を食い物にしてやろうというものばかりだから。
有名な話である、色で分けられた赤と青の鬼が登場する片方の鬼が人間と友達になりたいというような絵本――私はそれが随分長く本物だと思っていたが、どこで拾ってきたのか内容はほぼ同じだが本物のそれですらない海賊版というかモドキ――が、最初は好きだったけど嫌いになった。嫌いだった。
数少ない気まぐれで与えられた当時の宝物だったけれど――その内容は、とても嫌いだったのだ。
泣くくらいなら、追いかければいいのに。
青鬼――悪ぶった方も勝手だと思ったけれど、赤鬼――それを享受しただけの鬼は、輪をかけて嫌いだった。
幼い私には、結局青鬼がしてくれたことだからという言い訳で、その状況が好きだからぐずぐ言い訳をしつつ離れられないだけにしか見えなかったからだ。
――どうせ、時間がたてば赤鬼だって結局また排斥されるくせに。
と、どこかで思っていたからかもしれない。
ひねた子供であった。
悲しい自画自賛ではあるが、多分、年の割には頭が回っていたほうだと思う。
いかせなければ、二十歳以前に凡人以下でしかないのだから、悲しい自画自賛どころか自嘲でしかない。
その日も、嫌いだけれど宝物だった絵本を、じくじくと痛むお腹を抑えながらルーティーンのように読んでから外に出かけたことを覚えている。
母モドキも、三代目父モドキファーザーもおでかけしていつも通りいなかった。
もちろん、食事も用意なんてされてないし、どう用意すればいいのかわからないし下手に弄り回してしまえば怪我が増える事くらいは学習していたので、空いている冷凍食品を見つけて齧って食事は済ませた。そうした後、玄関からでるとこれまた怪我が増えることを学習してはいたので窓から出ていくまでがそのいくいつもの流れ。
怪我をすることを知っていて、辛い思いをすることを知っていてでも外に出ていったのは――どうしてだったのだろうか。
景色は覚えているけれど、気持ちまではわからない。
無意識に抜け出したかったからだろうか。寂しかったからだろうか。太陽を浴びたかったからだろうか。いない親を探しているつもりだっただろうか。ただ退屈だったからだろうか。それとも、友達でも求めていたかもしれない。誰かにただ優しくされたかったからという事ももちろんありうる。
どれかかもしれないし、どれでもないかもしれない。
ただ覚えていることは、チャンスがあれば外に出ていたという事実だけ。
当時の流行りは山にいくことだった。
近所に山があったのだ。
山にはいろいろなものがあって、いろいろな動物を見ることもできて。
まるで遊園地かなにかのアトラクションみたいで楽しかったのだろう――遊園地も水族館も動物園なども当時はいったことなどなかったのだからただの想像でしかなかったけれど。
その日も適当な棒を拾うなどして何が楽しかったのかテレビから流れてきたワンフレーズを繰り返し歌うなどして歩いていたと思う。
いつものことだった。少なくとも、当時の私の中ではいつものことだったのだ。
家より安心できる場所だったのだ、山は。
しかし、それはやっぱり私の認識でしかない。
ただ、だから。
それはいつか訪れることが決まっていた事だったかもしれない。
私がいた地域というのは田舎で、その付近の山とくれば危険な野生動物だっている。
というより小さな私――いや、今でも無理ではあるけれど――にとっては犬だって猫だって襲われればアウトであることに変わりはない。
危機感が足りていないといえばそう。
危機感なんてものはなくて――その日、親モドキに暴力を振るわれている時に似た、けれどそれよりはっきりとした、死というものの存在を確かに知ったのだ。
「……ひ」
結果あった危機に対して、私の喉から引きつったような声が漏れる。
目の前の相手は涎を垂らして唸っている。
熊。
熊だ。
逆らう事が無意味に思えるほどの巨大で、こちらを明らかにエモノとしてみている。凝縮されたような濃い危険がそこにあった。
「――!!!」
それは条件反射のような、思考の埒外で出してしまった叫び。痛みに対してぽろぽろこぼれる涙より止めようがない洪水。
思えば、言葉にならない叫びとはいえ、誰かに助けを求めるようにこれほど必死に叫んだのは初めてだったかもしれない。
熊が、叫びに一瞬驚くようにした後こちらに向かってくるのがまるでスローモーションのように見えた。
私は恐怖で漏らしてしまって、腰が抜けたようにストンと座り込んでしまったまま全身ががくがくするばかりで動けない。
そのまま突進でもされればそれだけで終わったのだろうが――熊がどうしてか、手が届く距離まで来ておいて一瞬止まって立ち上がる。獣の強いにおい。
周りを見渡して、何かを警戒するようなそぶりをみせたが――腹が減っていたのか、最終的にはこちらを向いてその手を振り上げた。
ぎゅっと目をつむったのが間に合ったかどうなのか。
その手が私の命を奪う前に、風船が破裂する音に似ているようでそれよりは濁ったような音が聞こえた。
次いで、どす、という重いものが地面に落ちるような音。
いつまでたってもこない痛みと、音を不思議に思い恐る恐る目を開ければ――そこには鬼がいた。
嫌いな宝物の、赤い鬼でも、青い鬼でもない。
しかし、角が生えて、筋骨隆々というべき、熊にも負けていないほどの巨体な人でないものの。
鬼というしか言葉がでない黒い生き物がそこに立ってこちらを見ていたのだ。
いつの間にか死んでいた熊だった頭のない死体が、だらだらと血を流していた。
「……」
何を思ったのか。
それはわからない。
熊を容易く殺して、熊なんかよりずっとずっと簡単に殺せてしまえる私を見ている。
何もせず。
じぃっと見てるように私には。
死なないことで現実が戻ってきたのだろうか。こんなにも非現実に溢れているのに。
まだ死んでない、でも一歩間違えば死ぬのだということくらいは幼い愚かな私でもようやく理解が及んだ。
及んだ私は、ただただ逃げた。
こけながら、泣きながら。
そこから動かない鬼を、死んだ熊を置き去りにしてただ走って逃げた。
そうして、家にたどり着いて。
泣いていることを心配されることなど当然なく、服を汚していることを罵られ、その日は当時父親もどきと母親もどきの中で流行ってでもいたのだろう行為によって背中に同じようなやけどの跡がまた増えた。
砕けるように歯をかみしめても止められない声をあげながら、どうしてか、私は鬼と殺された熊の事を思い出していたのである。
子供とは、愚かであると同時に勇敢である。
いいや、愚かであるがゆえに蛮勇をはっきできるというべきなのかもしれない。
それは子供を馬鹿にしすぎかもしれないが、自分の事だからどうしようもない。
事実として小さな私はとても愚かで、昨日の今日で痛みも恐怖も忘れたかのように――それはもしかしたら逃避だったのかもしれないけれど――小さな私は絵本をじっくりと見た後に人であったなら某かの理由で顔をしかめる可能性が高いだろう、むき身のまま食パンとリンゴを一つ握りしめて熊が死んで鬼がいた場所へ赴いたのだ。じくじくと痛む体も、その日ばかりはいつもより辛くなかったような気がする。
愚かな私より更に愚かだと思う人たちはもちろん放置していたし、もちろんどんな傷があろうが作ろうが病院になど連れて行きはしない。でかけることだけはその日も簡単なことでしかなかった。
記憶が確かなら、それは好奇心とお礼を言わなければという気持ち、そして『鬼ならお友達になってくれるかもしれない』という頭の悪い発想からだった。
それはある種、鬼という存在を下に見ていたからこそ生まれた発想かもしれないと思うと手で顔を覆いたくなる。同じ種族ですら友達ができないくせに、『鬼なら』などとどの頭が考えていたのか。
でも、結果的にでも助けてくれた誰かなんて言うものは初めてだったのだ。無視もしない、傷つけもしない、そんな存在は。確かに、私をとらえていたから。とらえていてなお、存在を見て目てなお、いじめたりもいないような扱いをされたりも。だから。
全力で逃げたくせに、そう思ってしまったから。
もう少し大人であるなら近寄りもしなかっただろう。もう少し賢しければどこかへ連絡等したかもしれない。もう少し――もう少しだけ、普通の親子をしていたり、頼りになる誰かがいたなら、友達の一人でもいたのなら、きっと相談でもしていてこんな行動をとる事なんてなかっただろう。
しかし現実は子供で、馬鹿で、誰もいなくて。
止められることなどなく、誰に知らせることもなく、同じ場所に来てしまっていたのである。
「……!」
同じ場所には誰もいなかった。
当然の話といえばそうだ。
物音がして思わず隠れて音の先を見れば、そこには昨日見た黒い鬼と呼ぶべき存在が立っていた。
立っていたというより、確実に気付いていたのだろうと思う。
何せ、明らかにじっと同じ方向というか、こちらを見ていたし動かなかった。まるで待ってでもくれているように。
私は見つかってないと思い込んで、しかし抑えきれずちらちらとのぞいていた。さぞかし滑稽だっただろう。笑われなかったことは幸いである。