…一風変わったキャンパスストーリー
あ、来た。あずみは気づかれないようにそっと見る。
政治思想史の授業で同じになる女装男子。
ウェーブをかけた長髪、派手なネイル、ばっちりとしたお化粧、シルバーのリング、ブレスレット。
なのに、少しも気持ち悪くない。むしろ、その美しさにハッとする。
田舎出の自分がこんな男子に惹かれるなんて、あずみはそれまで夢にも思わなかった。自分はといえば、おかっぱに近いパッとしない黒髪、ユニクロばっかりの服装、アクセサリーなんて皆無。
『私はきれいじゃないから』
でも、その日は違った。その女装男子が、教室に入って、少し全体を見回した後、まっすぐこちらの方に歩いてくる。
『まさか』
その「まさか」だった。彼は階段教室の階段を上がってきて、真ん中くらいに一人で座っていたあずみの横に腰かけたのだ。
心臓が飛び出しそうとは、このことを言うのか……。
ドクンドクン緊張して、あずみはペンを持つ手が震えた。慌ててとりつくろうように、教科書の分厚い本を開いた。「ルソー」? ルソー、ルソー…あずみはそれに集中しようとする。別に今日の授業はルソーではないのだが。
教授が入ってきた。おしゃべりの声がやむ。
授業が始まると、あずみは教授の声に一心に耳を傾けようとした。こんなに真剣に講義を受けようとしたのは初めてだ。けれど、内容は驚くほど頭に入らなかった。
苦痛に近い90分の授業が終わり、みな席を立ち始めた。
隣の女装男子も、教科書やノートをかばんにしまって、席を立とうとした。
「あの!」
驚くべきことに、あずみは思わず声をかけていた。これが生涯唯一のチャンスだ、逃してなるものか、という思いが自分を衝き動かしたようだ。
やや不審そうに振り返った彼の顔にひるみながらも、あずみは思いがけないことを言っていた。
「私を、きれいにしてください! あなたみたいに!」
豪快な笑いというのはこういうのを言うのだろうか、けれど、厭味な感じは少しもしなかった。笑うと、笑顔も素敵だった。
ようやく笑いをおさえて、彼は言った。
「いいよ。でも、君、十分きれいじゃない」
そこから、彼との付き合いが始まった。もちろん、男女の付き合いではない。きれいになるためのレッスンだ。
あずみが少し意外だったのは、彼が女言葉をつかうと思い込んでいたので、ふつうの男子学生と同じように話すことだった。
それに、同性愛者的な雰囲気もなかった。なぜ彼が女装なのかは謎だった。
ときどきキャンパスですれ違うとき、あずみは目を伏せて、気づかないふりをしてすれ違うようにした。なぜか反射的にそうしてしまうのだ。彼は、たいがい他の男友達と数人で話しながら歩いていたが、それはごくふつうの友達のようで、心のどこかで期待したような、恋人どうしのようには見えなかった。いや、そもそも彼が誰かと二人きりで歩いていることの方が少なかった。たいがい、3,4人のかたまりだった。
最初のレッスンは、人気の少ないキャンパスの隅にある芝地のベンチ。
彼の方が先に来て待っていた。あずみは今さらながらに気がひけて、おずおずと近づいた。
「最初に自己紹介、名前くらいでいいけど」
彼は快活に言った。
「あの…私、伊藤あずみです。山形です」
「ぼくは藤井夏生。山梨」
あずみは内心ほっとした。彼も地方出身者だったのか。
「で、まずそこに立ってみて」
夏生はベンチの前方の芝生を指さした。ためらいながらもあずみはそこに立つ。
「ちょっと猫背じゃないの?」
やはり、女友達とは違った。いきなりこんなことを指摘する女友達は、いくらこちらから頼んだとしても、いないように思われた。
「うん。隔世遺伝、かな。おじいちゃんが猫背で、歩き方そっくりっていわれる」
「肩を回して、…上げて、すとんと落として」
言われたとおりにやってみる。
「少し上体を反らし気味に、ほら、姿勢がいいだけでずいぶん印象が変わる。明るくなった」
そういわれれば、あずみもうれしい。おもわず笑みがこぼれる。
「笑顔、すてき。君の最大の武器になるね」
「え」
聞き違いじゃないのか。
「ほんとほんと。よく言われない?」
「言われない…というか、初めていわれた。私、そもそもあんまり笑わないから」
彼はまた声に出して笑った。
「君って面白いね!」