二度目 ③
エルムが谷の入り口へ到達したとき日はすっかり西の地平に隠れてしまい、空を焼いた茜色もその最後の輝きをほんの少し残すだけとなっていた。
あたりは薄暮時特有の青っぽい影におおわれ、目に映るもの全てがその輪郭をぼんやりと誤魔化した。
そのようなおぼろげな世界であってもペオルの谷が大地にぽっかりと開けた暗い口はよくわかった。
強行軍によってエルムは疲労し、脚はうまく動かなくなってしまっていたが、谷への接近はエルムの身体にたまった疲労とダメージをすっかり霧散させた。
谷へ到着できた安堵や仲間に再開できる喜びのためではなかった。
馬賊がいるかもしれない。
ただそのことがエルムの身体と意識を覚醒させた。
谷はしんと静まりかえり物音ひとつしない。
二千もの民がそこに身を潜めているはずだが静か過ぎるのではないか。
エルムの胸に不安がよぎる。
あたりを徘徊しているかもしれない馬賊の目に触れぬよう岩陰に身を隠しながら谷の入り口へと向かう。
初めてきた人間にはわかりづらいが、ペオルの谷には谷底へ続く天然の石段があり人々はそこから出入りをしている。
もし村人たちが無事であったらここに見張りを立てているはずだ。
エルムは少し距離をとって石段の普及を見つめる。
青暗い世界では無機物と有機体の判別が容易につかない。
はやる気持ちを押さえて、時間をかけてじっと見つめる。
動いた。今、石段のあたりで何かが動いた。
人である。二人か三人。
馬はいない。
手に鍬を持っている。
村人だ…。
無事なのだ!
エルムは走り出した。
大声で呼び掛けたい衝動にかられたがぐっとこらえて。
その足音に気付き見張りたちが反応する。
「だれか!そこにいるのは。」
「お、俺はエルム。カデン村のエルムだ。」
「エルムか!どうした!」
見張りの男たちはカデンの村人であった。
「戦はどうした?お前一人か?皆は?」
男たちの矢継ぎ早の問いに答えようとしたエルムであったが、口からは嗚咽のための唸りしか出てこない。
安堵のためか疲労のためか罪悪感のためか。
エルムはうまく答えることができず、その場にへたりこんでしまう。
その様子からただならぬ気配を感じ取ったのであろう。
見張りのうち二人がエルムに肩を貸して谷底へ、村長たちの元へ連れていった。
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「してエルム、話を聞かせておくれ。」
問い質したのはカデンの村長であった。
「お前がここに戻った理由、何が起きた?」
カデンを含む全ての村の長がエルムの言葉を待っていた。
「討伐軍は…敗北しました。」
エルムは村長の眼を直ぐに見据えて言った。
村長たちはおぉと息を漏らし目を伏せた。
胸に手をやり神に祈る者もいた。
エルムは嘘をついた。
彼は戦が始まる前に陣を発ったのだから、本来その結果は知らない。
しかし彼は谷までの道中に心を決めていたのだ。
曖昧な話は決してしまいと。
夢で見たかもしれないなどというぼんやりとした話のせいでリュコンは判断を鈍らせたのではないか。
エルムはそう考えていた。
あのときに「リュコン、敵が弓矢を放つようであれば針山は何の役にも立たない」と簡潔に伝えていれば、果たしてリュコンはもっとシンプルになにがしかの答えを出せたのではないか。
夢などという言葉のせいで周囲の男たちの不安を煽り、士気の低下を招きかけ、それに気をとられたリュコンに戦術の変更という最重要命題から目を逸らさせてしまった。
これは致命的な愚であった。
だからエルムは、村長たちに話すときは例え嘘になってしまうとしても、簡潔な"事実"のみを伝えようと考えていた。
つまり、馬賊の弓の使用によりリュコンの策が効を奏することなく討伐軍は壊滅"した"と。
エルムは壊滅の直前にリュコンの命により陣を脱出、伝令として谷に戻ったと。
エルムが体験した不可思議などおくびにも出すことはなかった。
虚構ではあっても聞くものからすればこちらのほうが余程真実らしく聞こえるだろう。