一度目 ⑤
仲間と別れたエルムはボグダの部下の馬に乗せられてペオルの谷まで馬賊を案内した。
谷へは徒歩で丸1日の距離であったが、馬が駆ける速度ではあっという間であった。
馬賊一行は昼下がりには谷へと到着した。
ペオルの谷は周囲の平地から一段下がった窪地であり、平原の真ん中に地面がぽっかりと口を開けたような地形であった。
周辺では不吉な土地とされおり、そこに定住する人間などいなかったが、常に日が陰り、霧もよく発生することから避難民の隠れ場所としては都合良かった。
窪地を囲う断崖には所々に洞穴が開いており人々はそこに身を隠しているはずだった。
「ここがその谷というわけだな?」
崖の縁から谷を見下ろしながらボグダが問う。
「そうだ。村長を含めて近隣の村人たちがここにいる。」
「なるほど…。女子供ばかりか?」
「ほとんどそうだ。警護のために男が30人ばかりいるがな。」
エルムも谷を見下ろし答える。
村長たちにこの状況を伝えに行かねばなるまい。
どのように説明したものか。
エルムは思案する。
討伐軍に息子や夫を送り出した女たちは嘆き悲しむだろう。
おめおめと敵に捕まり帰ってきてしまった自分は激しく責め立てられるだろうか。
裏切り者と罵られるだろうか。
せっかく死地を逃れ安息の地に戻って来られたというのに、エルムの心は暗く、新たに芽生えはじめた罪悪感がその意識を占めつつあった。
「エルムよ。」
ボグダの不意の呼びかけにエルムは反射的に上体を向ける。
瞬間、ボグダの手が伸びてエルムの腹部に灼けるような感覚が走った。
ボグダの手に握られた片手槍がエルムの鳩尾を深く刺し貫いている。
声を出そうとするが胃から込み上げるものがそれを遮る。
何とか吐き出した息には多量の血が混じっている。
呼吸ができない。
痛い。痛い。痛い。痛い。苦しい。
ボグダが槍を引き抜くとエルムの腹から熱い血が流れ出る。
エルムは両膝をつき、どぅと前に倒れこむ。
まだ何とか動く顔と目を使ってボグダの姿を捉えようとする。
騙された。騙された。
「ふむ。話が違うぞと言うわけだな。」
ボグダがエルムの顔をのぞきながら言う。
「お前たちのような家畜民族とする話などない。」
ボグダは鼻で嗤った。
「我々は土地と女が欲しいのだ。お前たちは家畜となり我々の糧となる。」
エルムの目から涙が溢れる。
痛みに耐えきれず流す涙であり、自分の甘さを呪う涙であった。
あの時に、円陣を組んでいる時に死ぬべきであった。
我が身可愛さの余りに楽観的な思考に陥り、ついには仲間を敵に売ってしまった。
そして挙げ句の果てにはこのざまである。
我が血に溺れながらおぉぉぉと慟哭する。
馬賊たちはエルムのもとを去る。
谷の底へ降りて殺戮を始めるのだろう。
残った男たちでは到底かなわない。
女子供は連中の欲しいままにされるに違いない。
愚かな、なんと愚かなエルムよ。
しかしもはや思考することもかなわない。
腹を貫く痛みも呼吸の苦しみも薄れてきている。
俺は死ぬのだな。
言葉にならない直観がエルムの意識を支配する。
やがて痛みにうめくこともなくなり呼吸につまることもなくなり、エルムは死んだ。
第一部 完です