1-7
腕が刺さっていた。
初老の男の胸の真ん中、真堂の腕が深々と刺さっていた。
出血はなかった。代わりに病的な青白い光が溢れていた。淡く照り返しを受ける真堂の顔も病的に青く見えた。男は大きく口を開けていた。絶叫は絶え、顎は外れているようだった。
身体の軸をぶらさず真堂は脚を上げて男の腰を押すように蹴った。男は倒れ倒れていく途中で男ではなくなった。水になったようだった。バケツの水を捨てたように黒いアスファルトで跳ね返り、飛沫を撒き散らして更に黒い跡になった。人の形ではなかった。人がいた形跡がなくなっていた。カメラ越しに見た男の柔和な顔が頭を過ったが不思議と何も感じなかった。真堂の手は水に濡れておらず、血に汚れてもいなかった。
「人形だ。おそらく魔術の使用に網を張ってたんだろう。ここはもう特定された、早く離れよう。いちいち相手にしてたらキリがない」
人間だったはずの男が、人間のように話していた男が、人間ではなかった。目の前で人間ではなくなっていった。テレビに映っていた空に浮かぶ城よりも非現実な事実を目の当たりにしたのに何も感じない。何も感じない自分に違和感を覚える。ただ、やけに寒い。血の代わりに氷水が全身を駆け巡っている。だから何も感じないのか。
「呆けるな。もうすぐ彼女が来る。何もなかった事にするんだ。叫んだのは僕だった事にしよう。……リック。ごまかせないと彼女が勇者になってしまうんだ。いい加減に目を覚ませ」
紗綾に今あった事を話してはならない。紗綾が紗綾でなくなってしまう。それだけはだめだ。絶対に認めない。認めたくない事が現実になるのを認めない。整合性のある嘘が必要だ。
紗綾にインターフォンの音は聞こえていたか。分からない。分からない以上は聞こえていた事を前提とする。俺達が外にいる理由は。……靴。靴を忘れた事に気付いた真堂が、だめだ。リュックもリビングに置いたままだ。俺が追い出した事にする。理由は。痛がっていたのは嘘だった。説得力に欠ける。補強材料は――
「陸っ! どうしたの、何があったの?」
紗綾。心配そうな顔をしているのは、叫び声を聞いたから。俺の声じゃなかったのは紗綾も分かっている。とりあえず反応。
「ああ、いや、何でもないんだ」
「……どうしてそんな嘘つくの? 誰が来たの? さっきの声は何だったの?」
いつもより鋭い。いや、この状況で何でもないは不自然だったか。
嘘をついた理由に来客の正体に叫び声の理由に俺と真堂が揃って靴も履かずに外へ出た理由。
「市役所の方から来た、なんて言う男が来たんだよ。笑っちゃうだろ? どこそこの方から来ましたなんて典型的で古典的な詐欺の手口だ。その方向から来たってだけだからな。しかも市役所だぞ? 今まさに上空で謎の城が浮かんでるのに通常営業してる訳ねえだろってな」
騙し切る嘘をつくのに重要なのは肝心なところ以外は嘘をつかない事だ。
「やっぱこういう時って火事場泥棒みたいなやつが現れるもんなんだな。適当にからかって遊んでたんだけどさ、真堂がそういう輩を許せないタイプだったんだ。こう見えて意外と正義感が強いやつなんだよ。いや、俺もついさっき知ったんだけど」
では肝心な嘘とは何か。どこを偽れば紗綾から不安を取り除いてやれるのか。
「いきなり。いきなりだよ。靴も履かずに詐欺師だか泥棒だかに詰め寄ったんだ。でも犯罪者って怖いだろ? 家人に見つかって泥棒が居直り強盗になるなんてよく聞く話だし、刃物とか持ってるかもしれない。だから俺も慌ててさ、真堂を止めに行ったんだ。だがここからが予想外だった。想像の斜め上ってやつを初めて見た。クイズ形式にしてやりたいが絶対に正解できないのはフェアじゃないからな。だから答えはすぐに明かすけど、真堂は何をしたと思う? ちなみにヒントは叫び声だ。真堂は相手が思わず叫ぶような事をした」
「……相手がいきなり叫んで逃げるぐらいの何かって事? うーん」
とりあえず不安は取り除けた。紗綾は真剣に考えているようだが、答えは別に何でもいい。問題を常識のレベルまで落としたのだから、答えも常識のレベルなら何でも構わない。これでひとまず安心だ。息をするように嘘がつける自分を褒めてやりたい。
「みなさんどうしたのですかぁー?」
みりるちゃんが眩しいほどの笑顔で歩いてきた。俺とした事が金髪元幼女様の事をすっかり忘れていた。まったくかわいらしいなあ。高い高いしてやりたいがここは我慢だ。頭を撫でるだけにする。
「さっきね、この平凡極まりないお兄ちゃんがとってもおかしな事をしたんだ。みりるちゃんには分かるかなー?」
「えぇー? 何ですかぁー?」
振り向くと、なぜか真堂は俺を盾にしてみりるちゃんから隠れるように動き、囁いた。
「気にしないで。それよりリック、分かってるよね?」
「ああ、分かってる」
「分かった!」
紗綾が何か閃いていた。
「壁ドンからの顎クイからのねっとり濃厚な――」
「却下。それはクイズ番組における芸人さんの答えだ。ボケるならせめてアイドル的に頼む」
しかも真剣に考えた結果だから始末が悪い。確かに叫ぶだろうけどさ。何がだめなのかさっぱり分からないみたいな顔するんじゃない。
「みりる分かりましたぁ!」
「おっ、本当かなー? 間違ってたら高い高いしちゃうぞー?」
ちゃんと挙手するとかほんと隙がない。この子ならアイドル的に間違えてくれるはずだ。
「傀儡から偽りの魂を抜き取ったのですね!」
「くぐつ?」
「操り人形みたいなものなのですよぉ。見抜いてすぐに対処できちゃうなんて、真堂さんすごいのです!」
……よく分からないが正解っぽいな。そもそも俺は真堂が何をしたか知らない。
みりるちゃんはリヒトウとやらと同じ世界にいたみたいだし、直接会った事もあるみたいだし、おそらく正解なんだろう。真堂の株が上がってるのは気に食わないが。
意外にも正解が出てしまったのも問題ない。何を正答とするかは俺次第なんだから。
いや、待てよ。
問題というなら、根本的な問題は紗綾が勇者かもしれない事であり、直面しているのは勇者だと証明せざるを得ないあの忌々しい城だ。
ならばすべてを丸く収めるなら、これこそ完璧な正答ではないか?
紗綾を連れてあの城へ向かうのは同じだが理由をすり替える事はできる。うまくいけば勇者だと証明する機会から逃れられるかもしれない。
「正解っ! さすがみりるちゃん、ご褒美に高い高いしてあげよう!」
「わーいっ!」
「……傀儡が正解って事は、敵がここに……」
おっと、楽しく高い高いしてる場合じゃなかった。紗綾の顔が真っ青だ。
「心配するな。俺達はもう何も心配しなくていい。なぜならお前は勇者じゃないからだ。より正しくは、勇者はお前じゃないからだ」
意味が分からなかったらしく、紗綾は小さく首を傾げた。
「どういう事? 確かに私は勇者じゃないけど。普通の女の子だけど」
みりるちゃんを下ろし、さっきから万力のような握力で俺の肩を潰しにかかっていた真堂を引きずり出した。
親友のように肩を組み、俺は最適解の嘘を高らかに告げる。
「一見何でもないこの男、真堂こそが勇者だったんだ!」
「ふざけんなよテメエ」
豹変モードの真堂はほとんど唇を動かさずに囁いたが、やはり否定はしなかった。