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薄々気付いてはいた。妄言と聞き流すには状況が変わり過ぎた。それでもそんな現実を認めたくないだけだ。
だって嫌じゃないか。物心が付く前からずっと傍にいた紗綾が本当は得体の知れない何者かだなんて、それがたとえ勇者であれ宇宙人であれ俺は認めたくない。紗綾は紗綾だ。それ以外の何者だろうと俺は認めない。
「真堂。紗綾が勇者だとして、その上で幾つか確認したい」
「仮定するまでもなく勇者だけどね」
「どっちでもいい。お前はこの世界の力では敵わないと言ったが、だとしたらなぜあの忌々しい城は動かないんだ?」
自衛隊や世界中の軍隊が動かないのはまだ分かる。突如として現れたのが浮かぶ城ではなく銀色の円盤ならなお分かりやすい。相手が攻撃してこないなら、未だ人類の持たない技術の獲得を優先するだろう。
「おもしろい質問だね」
薄く笑った真堂の存在感が希薄になった。こいつは意図的に情報を操っている。特別なイベントなど何もないようなこの顔を作る事で印象に残りにくくしている。
「本当のところはまだ僕も知らない。確かなのはこの世界をどうこうするつもりはないって事だけだね。そこから考えられるパターンはそう多くないんだけど、おそらく朝霧さんを探してるんじゃないかな。これならリヒトウ一人ではなく城という大船に乗って現れた事にも説明が付く。大体この辺りに現れればすぐに朝霧さんの方から駆け付けてくると思ったんだろうね」
確かに紗綾はすぐあの城へ向かおうとしていた。そうしなかったのは俺が勇者だと信じていなかった事を知ったからだ。だから今は勇者である事を否定している。
なぜだ? 俺は勇者だと認めないが、この心境を汲めるほど紗綾は繊細じゃない。むしろあの城をどうにかしてドヤ顔で勝ち誇ったはずだ。どうしてあのタイミングで否定した?
悩む俺をよそに真堂は続ける。
「今は朝霧さんを探している段階だろうけど、次は炙り出しにかかるだろうね。簡単で確実、分かりやすい被害を出せばいい。街を火の海にするとかね。僕なら真っ先にそうするけど、してないからには何か理由があるんだろうね。一体何だろう?」
「知るかよ。お前まるで他人事だな」
「僕は初めから重大な用件だと言ってたはずだけど? 実のところね、リックがどう思おうが朝霧さんがどう言おうが結果は変わらないんだ。炙り出す段階になったら勇者はその責務を果たさざるを得ないんだから。それまでの過程でどれだけの被害が出るかだけの差だよ。僕は最小限の被害に抑えたいと思うんだけど、リックはどうだい?」
考える時間を与えようと言外に告げるように、真堂はやけにゆっくりとアイスコーヒーへ手を伸ばした。俺も一口含み、やけに味がしない冷たくもない液体を喉に流し込んだ。
結局思った通りだった。俺に反論の余地はなく、ただ納得せざるを得ない。そもそも情報量が違うから話し合いにもならない。真堂が誰からどうやって情報を得ているのか知りたいが、絶対に教えてはくれないだろう。真堂は自身の事には答えない。
分かった事といえば、この訳の分からない状況で何の事情も知らない俺が意外にも重要な駒として盤面にいる事か。
真堂は紗綾を説得できない。どれだけ否定しようのない正論を並べようが、紗綾は感情で物事を考える。頑なに否定して意固地になるだけだ。真堂が情報源を開示すれば説得できるような気がしないでもないが事実そうしていないからには、開示しても説得できないか、説得より情報源の秘密を重視しているかだ。どうであれ真堂が紗綾に直接交渉する事はない。
しかし、どうやら俺には説得できるらしい。というより説得できる自信がある。俺にも理解できないがなぜか紗綾からの信頼が厚い。ダンテの神曲三部作ハードカバーより厚くて重い。告白される度にどう返せばいいか尋ねてくるほどで、しかも俺が駄目だと言ったからごめんねとバカ正直に理由を言ってしまうぐらいだし、お蔭で紗綾さんと付き合わせてくださいと俺に頭を下げてきたやつまで現れる始末だ。もはや意味が分からないので全部断ったが、あとあと聞いてみると紗綾が俺に訊いてと横流ししていた。このままでは進路選択から結婚相手まで判断を任されてしまいそうだ。それぐらい信頼が厚くて重い。
――思えば、勇者だと信じていなかったのを今更に告げてしまった事が心苦しい。紗綾の方から謝らせてしまったから尚更だ。
「リック。何をそんなに悩んでるんだい? まさかきみのわがままとこの世界を天秤にかけてる訳じゃないよね? つらいのは分かるよ。だけど時間がないんだ」
お前に何が分かるんだ。
だが時間がないのは確かだ。紗綾を探すためにあの城が現れたとするなら、俺がリヒトウとやらと同じ立場なら、真堂の言う通り簡単で確実な方法を取る。紗綾が勇者なら一刻も早くあの城へ向かわせるのが最善にして唯一の策だ。
本当にそれでいいのか?
紗綾が本当に勇者だったと証明された時、俺が今までと同じように接していけるかは、正直分からない。俺は変わらず接していきたいと思うが、この思いが絶対に覆らないかといえば、やっぱり分からない。
こんな事で思い悩んでいる時間がないのは分かっている。
世界と天秤にかけていいような事ではないのも分かっている。
それでも、それでも。
何かが欠けている気がする。紗綾は幾つもの世界を渡り悪を滅ぼしてきた勇者。今回だって同じ事、別に初めてって訳じゃない、今までにもあった事。
本当に同じ事なのか?
何かが引っ掛かる。何か大切な事を見落としている気がする。
ゆっくり考える時間さえあれば答えは見つかりそうなのに、この世界は肝心な時に限って残酷にできていて、少しでも長く考える時間が欲しいこんな時に限って、ラプラスの悪魔は満面の笑みを浮かべて、時計の針をいつもより余計に早く進めてしまう。
沈黙に、インターフォンが鳴り響いた。
とっくに両親は避難して、訪ねてくる者など誰もいないはずなのに。
「早く出るんだ。相手が誰でも話を引き延ばせ」
その声は鋭くて冷たくて、薄笑いの消えた顔もまた同様だった。慎重な動作で立ち上がった真堂が振り向く。とても鋭利な目をしていた。
「呆けるな。彼女が降りてくる前に片付けようと言ってるんだ。覚悟を決める時間ぐらい稼いでやる」
「ああ……分かった」
豹変した口ぶりに圧されてインターフォンの受話器を取った。カメラにはネクタイを締めた初老の男が映っていた。真堂は玄関へと向かっている。壁に手を付いていた。まだ痛みが残っているのかもしれない。
話を引き延ばす。引き延ばしてどうするのか。この男は誰だ?
「はいはいお待たせしました。とてもとてもお待たせしました。なぜにこうもお待たせしたかと申しますとね、ちょうどシャワーを浴びていたところだったからでして、ああいい気持ちだなぁびばのんの、水圧の強いシャワーを浴びれる日本は幸せだなぁびばのんの。などとこんな世知辛いご時世にも小さな喜びはあるものだと満喫していた訳でして。そこにまぁご来客を報せる音が聞こえたものですから慌てて出て参ったのでありますが、お客様をお待たせしてはいかんとあんまりに慌てていたものですからうっかりもうっかり、取るものも取りあえずとはまさにこの事でして、わたくし只今タオルを一枚腰に巻いているだけなのです。さてもさてもこのような格好ではとてもお客様の前には出られない次第でございます。今に小坊主を呼んで紋付袴を持って来させますが、そんな訳でして直ちにはお迎えできない次第でございます。――おや、小坊主が表に出たようですな」
出鱈目を並べているうちに真堂が外に出た。靴を履くのもつらいのか、靴下で門まで歩いていく。
「ところでお客様、本日はどなたのご紹介で?」
カメラに映る初老の男は真堂へ目を遣りながら、柔和な表情を動かさずに答えた。
『市役所の方から来た者です。サーシャ様はご在宅でしょうか』
サーシャ。みりるちゃんが紗綾をそう呼んでいた。
「はて、存じ上げませんな。うちはわたくしと小坊主だけの小商いなものですから。木目糸を扱うだけの商いでありますから。しかしまたどうしてどうして、舶来の方がここにいらっしゃると思われたので?」
『それは、――ぁああああああああッ!』
受話器から外から絶叫が聞こえた。ぶれるカメラに映る男の顎が外れるほどに開かれていた。開け放たれた玄関の外へ目を遣ると、真堂が門の外へ出ていた。
受話器を放り、外へと駆け出した。