1-2
低い空を叩くヘリの羽根音が幾つも聞こえる。まだ朝も早いのに外が騒がしいのは町のみんなが避難を始めたからだろう。空に浮かぶ忌々しい城が脳裏に浮かんで、すぐに消えた。
親父と母さんも避難したようだし、俺も避難した方がいいんだろうか。するとしても紗綾を連れて行かないと。あの様子じゃ避難するどころか市役所の方へ向かってしまうだろう。それだけは絶対に止めなければいけない。連絡するなら早い方がいい。
分かっているのに緑色の通話ボタンがどうしても押せない。
ベッドの上で壁に背をもたせかけ、三〇秒ごとに消える画面を見つめ始めてからどれぐらい経っただろう。時刻は六時一二分を示している。
「どうして一緒に倒そうなんて言ったんだ」
心理学に明るい訳じゃないから分からないが、紗綾のあれが妄想癖の類だとしたら、この言葉だけが妙に引っ掛かる。
本当に妄想の世界に浸り現実から目を逸らしているのなら、一緒に行こうだなんて真実が暴かれるような発言は避けるのではないか?
そもそもあの忌々しい城を、勇者が倒すべき魔王の城だなんて言わなければよかったのではないか?
確かな事は分からない。俺は何者でもない自分を否定するために妄想へ逃げ込むのだと思っているが、それだけに限らないのかもしれない。だからと言って調べる気もない。そんなふうに紗綾を理解したい訳じゃない。
画面が消えたらパスワードを入力して履歴から紗綾の番号を呼び出す。機械的に行われる動作はいつも緑色の通話ボタンを押せずにまた繰り返す。初めの数回は覚えていたはずの葛藤が失われている事にもとっくに気付いていた。
こういう時に電話をかけてきてくれるのはいつも紗綾からだった。感情的に暴走しがちで、そのくせすぐに反省して謝ってくれたから。
だから今だって本当は、紗綾が電話してきてくれるのをずっと待っているんだろう。
今回は俺から謝らなきゃいけないって分かっているのに。
突然、コール音が鳴り響いた。
反射的に緑色の通話ボタンを押そうとした指を、止めた。デフォルトの着信音、紗綾からの着信じゃない。
「真堂……真堂、誠人?」
誰なのか思い出すのに少し時間がかかった。中学の同級生だ。同じクラスになった事はあっただろうか? 不思議と顔も思い出せない。何の印象も残っていない。
出ようかどうか迷ったが、結局通話ボタンを押した。
『やあリック、久しぶりだね。ニュースは観たかい?』
リックだと? あだ名で呼ばれるような仲だったか?
「ああ、観た。何か用か? こっちは準備で忙しいんだが」
短い笑い声が聞こえる。何がおかしい。
『切っても同じだよ。今、リックの家の前にいるからね。インターフォン押したってきっと出てくれなかっただろうからさ』
「……何だと」
そんなはずがない。真堂なんてやつを家に入れた覚えはない。何年で同じクラスだったかも覚えてないようなやつだ。
しかし、どうやら本当にいるらしい。玄関の前で俺に手を振っているのが真堂なら、だが。
『悪いけど勝手に上がらせてもらうよ。重大な用件なんだ。リックにとっても、朝霧さんにとってもね』
客観的に真堂を一言で表すなら平凡だろう。日本中の高校生を調査して平均を出すとこうなります、といった印象だ。人並みにつらかったり楽しんでいたり、一つや二つぐらいおもしろいエピソードもあるんだろうがまるで興味が湧かない。失礼な言い草かもしれないが、こいつなら数年もしくは数ヶ月で忘れてしまっても頷ける。白シャツにジーンズという格好からもいかんなく無個性が発揮されている。
もっとも、主観的に言い表せば不気味で図々しいやつだ。非常時とはいえ勝手に人の部屋へ上がり込んでいるのだから妥当だろう。何がおかしいのか、もともとそういう顔なのか薄笑いを浮かべているのがまた薄気味悪い。
「そんなに怖い顔しないでよ。さっきも言ったけど重要な話なんだ」
「それなら早く要件を言ってくれ。悪いが今は昔話に花を咲かせたい気分じゃない」
「分かってるって。僕だってわざわざ花咲かじいさんの話をしにきた訳じゃないよ」
顔に薄笑いを張り付けたまま背負っていた緑色のリュックを下ろし、フローリングの床であぐらをかいだ。座布団ならあるが出す気になれない。それに花咲かじいさんってボケたつもりなのか? 空気の読めないやつだ。
リュックからブラックの缶コーヒーを二本取り出すと、一本を俺に差し出してきた。ベッドから身を乗り出して受け取るとまだ冷たかった。何となく気に食わないがちょうど喉が渇いていた。
「結論から話すよ。朝霧さんと仲直りしてほしい。会って一緒に魔王を倒そうと言ってやってほしいんだ」
プルタブにかけた指もそのまま、一度目を離したらもう忘れてしまいそうな真堂を見つめた。薄笑いからは何の思惑も読み取れない。
紗綾と真堂には交流があったのだろうか? ひょっとしてこいつは紗綾を熱烈に支持していた一人なのか?
答えを待たず、真堂は更に話を続けてきた。
「現状を話そう。今日の未明、こことは違う世界からかつてその世界を統治しようとしていた連中が現れた。朝霧さんが言うには以前に殲滅した連中らしいから、この世界へやってきたのは彼女への復讐だろうね。今のところ動きはないけど、いずれ連中は彼女を探し始める。ここまでは把握できてるかな?」
「ちょっと待て。紗綾から聞いたのか?」
意外だ。こんな不愉快なやつと係わりがあったとは。
「落ち込んだ朝霧さんが相談する相手は自分だけだと思っていたのかい?」
「正直考えた事もなかったがお前のようなやつだとは思いもしなかった」
真堂は声を上げて笑ったが、やはり何がおかしいのかさっぱり分からない。気に障るような声ではないのに気に障るのは、俺がもうこいつを不愉快なやつとしか受け止めていないからだろう。
「僕に悪意を向けてくれるのは全然構わないよ。こんな時でもなければ連絡を取る事もないだろうし。だけど話は真剣に聞いてほしいな。リックは情報提供者と情報をちゃんと分けて考えられるよね?」
「だとしてもお前の話は話にならない。まず勇者が実在すると思っているところから認識を改めろ。現実に目を向けろ。俺から言えるのはそれだけだ」
「まるでリックは現実を直視しているかのような言い草だね。だけど別にいいよ、実際にどう認識しているかなんてどうでもいい。要は朝霧さんに一緒に魔王を倒そうと言ってくれるだけでいいんだ。リックだって早く仲直りしたいよね? 朝霧さんも同じように思ってる。だったら何も悩む必要はないと思わないかい?」
即答で論破し続けてやろうと思っていたが、早くも言葉に詰まってしまった。 悔しいが真堂の言う通りだ。俺が勇者だと信じていなくても紗綾が仲直りしたいと思ってくれているなら、それが一番の方法だろう。
「市役所には近付けるのか?」
「リックは理解が早くて助かるなあ。その点は大丈夫。自衛隊と警察が包囲してるから絶対に近付けないよ。政府が交渉を始めてるみたいだから攻撃されるような事もないだろうし」
「政府が交渉? 政治家があの城の中にいるのか?」
「……避難してないならニュースぐらい観なよ。交渉中とは発表してたけど具体的な手段までは知らないよ」
薄笑いを消し、真堂は初めて別の表情を見せた。呆れ顔だ。……確かに呆れられても仕方ないのだろうが、あの城を見たくない。得体の知れないものには恐怖を感じる。
しかし、だったら問題はないか。紗綾にしても自衛隊や警察に邪魔されて近寄れなかったという大義名分ができる。得体の知れない攻撃もないなら、実際には包囲網まで行って追い返されるだけの作業だ。
俺が立ち上がると真堂は嬉しそうに笑った。
「分かってると思うけど、僕が来た事は言わないでね。あくまでリックが自主的に考えて行動したっていうのが大事だからね」