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朝霧紗綾は勇者じゃない。  作者: アキラシンヤ
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1-1

 朝霧紗綾の正体は、別の世界から転生してきた勇者らしい。

 初めてそれを聞いた幼稚園の頃は、よく分からないがかっこいいと思っていた。

 小学校の高学年頃にまだ言っているのを聞いた時は、正直こいつ大丈夫かと心配していた。

 中学に上がり、真の厨二病患者となった紗綾は、一部のオタクな男どもから熱烈な支持を受けていた。

 そして高校二年、現在。

 具体的には地獄のような連日の猛暑日がようやく落ち着き、目が覚めて少し涼しいと感じた、まさしく今。

「ねえ、一緒に魔王倒しに行かない?」

 頭のてっぺんで前髪をまとめ、一体どこで売っているのかそしてなぜ買ったのか分からない虹模様のジャージを着た紗綾は、いつも通りの不敵な笑みを浮かべていた。起きたというより起こされたのだろう、今も身体をぐいぐい揺さぶってくる。

「……眠いしつっこみどころが多すぎて面倒くさいが、これだけは言っておこう。思春期真っ只中の健全な男子の寝起きはとてもデリケートだから二度と起こしに来るな。おやすみ、さっさと帰れ」

 紗綾に背を向け再び目を閉じると、頭が割れそうなほどの衝撃が響いた。

「ぐだぐだ言ってないで起きなさいよ――――――ッ!」

 耳元。鼓膜に直接ダイレクトな怒声を食らい、気付いたら飛び起きていた。間近でむすっと唇を尖らせる紗綾から石鹸のような匂いがした。一歩下がり、紗綾は腰に手を当てて胸を張り嬉しそうに笑った。……悪魔かこいつは。

「おはよう、陸。今日もいい朝ね。絶好の魔王狩り日和だわ」

「じゃあ狩られるのはお前だ。月のない夜に油断しまくれ」

「あいにく今夜は満月よ。そんな事よりほら、テレビ見て?」

 言うなり紗綾はテレビをつけた。言うまでもなく勝手に。映像より早く映された時刻は五時二二分だった。朝陽だってまだ半分も顔を出していないだろうに、こいつはなぜこんなにテンションが高いんだ?

 ――まあ、その理由はすぐに判明した。女性アナウンサーの甲高い声がまだ調子のおかしい耳に突き刺さった。

『ご覧頂けていますでしょうか! 上戸市市役所上空に謎の物体が浮かんでおります! 地上からは建築物のように見えます! 本日未明、上戸市上空に謎の巨大浮遊物が――』

 映像はごちゃごちゃしていた。選挙速報のように、黄色のL字型に区切られた縁で赤く上戸市全域への緊急避難命令が示されている。アナウンサーの向こうにあるのは確かに上戸市の市役所で、その上空には尖塔がいくつも伸びた黒い城のようなものが浮かんでいる。

「こういうのテレビでやっちゃ駄目なんじゃなかったか?」

 アメリカのラジオだったか、ドラマの内容を現実と勘違いしてパニックになったとか。今でも紛らわしいCMなんかでは隅っこに「※これはCMです」と表示されている。

「まだ寝惚けてるの? あれは本物の魔王城よ。ほら」

 呆れたようにそう言って紗綾は次々とチャンネルを変えていったが、どこも同じように避難命令を大きく報せ、地上からヘリから空にそびえ立つ黒い城を映していた。

「……何だこれは」

 寒気がする。まるで世界中からドッキリを仕掛けられているみたいだ。みんなが俺に嘘をついている。

「そんなバカな。魔王城だって? あり得ないな。現実的に物理的に常識的にあり得ないしあってはならない。あれはきっと――そう、バルーンだ。巨大な広告バルーンだ。ゲームだか何だか知らないがビッグタイトルの発売日なんだろう? そうだ、そうとしか考えられない」

 紗綾からリモコンを奪い取り、不愉快な嘘を垂れ流すテレビを消した。やけに喉が渇いているのはきっと寝起きだからだろう。足元が覚束ないのもきっとそうだ。ベッドに腰掛けるとそのまま壁に頭をぶつけた。まったく痛みを感じなかった。

「本当なのか」

 怒鳴り散らしてどうにかなってしまいたい衝動は申し訳なさそうに目を泳がせる紗綾のお蔭で抑えられた。いつだってそうだ、感情的に暴走しがちで、そのくせすぐに反省して謝って、また同じように繰り返す。

 隣に座った紗綾はいつもより小さいような気がした。

「ごめんね? 私も、困っちゃって。どうしたらいいか、分かんなくて」

 そうだよな。どうしたらいいんだろう。俺だって分かんねえよ。これから何が始まるんだろう。これから何が起きるんだろう。俺は、俺達はどうなるんだろう。せめて毎朝やってるくだらない星座占いの後だったらおとめ座のラッキーアイテムを家中探してかき集めてやれたのに、そんな事すらしてやれない俺には紗綾が小さくなっている分だけ大きくなってやるぐらいしかできない。だけど「心配するな」と笑って言ってやれるほど大きくはなれなくて、何も言えずに小さな肩を抱き寄せた。

 怯えるように震えた紗綾の不安を、俺はどれだけ代わりに抱えてやれるだろう。

「ばっ、ばかっ」

 今にも泣き出してしまいそうなほど紗綾は顔を赤くしていた。泣いたっていい、泣いたっていいんだ。俺の分まで泣いてくれたら、俺はその分大きくなれる。額で額に触れると紗綾はとても熱くて、ずっとずっと幼い頃、俺がまだこんなに小さな女の子を勇者だと信じていた頃、こんなふうに熱を測る真似事をしていたのを思い出した。紗綾の熱はいつだって俺より高かった。

 小さな両手が胸に当たるのを感じたすぐ後に、紗綾は心のうちをさらけ出すように大きな声で叫んだ。

「どさくさに紛れて何やってんのよ――――――ッ!」

 すごい力で押し飛ばされた。またも壁に頭をぶつけ、本当にこんな時は視界に星が飛ぶのだと知った。お星さまの向こうでは立ち上がった紗綾が顔を真っ赤にして怒っていて、高校に上がってから人並みに膨らんだのを喜んでいた胸を左腕で隠していた。右腕はフリーだ、いつ拳が飛んできてもおかしくない。

 どうやら対応を間違えたらしい。困った、どうしたらいいんだろう。

「何を朝から盛ってんのよ! 私の話ちゃんと聞いてたの? ほら、さっさと顔を洗って着替えなさい。魔王を倒しに行くわよ」

 そうだった。初めからそんな事を言っていた気がする。

「ちょっと待ってくれ。魔王を倒しに行くという事はつまり魔王を倒しに行く、お前はそう言ってるのか?」

「何も情報が増えてないけどその通りよ。こういうのは早い方がいいの」

「どうしてお前が?」

 どう返ってくるか大体予想はついているが、改めて確認しておきたい。

「そんなの決まってるじゃない。私が勇者だからよ」

 まるで「これはパンですか?」と訊かれて「はい、これはパンです」と答えるように、「ビーフオアフィッシュ?」と訊かれて「ビーフ」と答えるように、紗綾は当たり前のようにそう言った。

 残念だ。とても残念に思う。

 そろそろ本気で進路を考えていかなくてはならない高校生にもなって、まだそんな設定の中で生きていたなんて。

「紗綾。大切な話があるんだが、落ち着いて聞いてくれないか」

「何よ改まって。いいわ、でも簡潔にお願いね」

 俺は深く深呼吸をした。なかなか言いにくいものだ。言うなればサンタクロースの実在を信じて疑わない真っ白な肌をした金髪碧眼のかわいい幼女に夢のない真実を告げるようなものだ。きみは世界中のロリコンから性的な目で見られているよと告げるようなものだ。残酷だ。残酷に過ぎる。

 しかし伝えなければならない。誰だって真実を知る時が来る。紗綾の人生のために俺は残酷な大人になろう。

「よく聞いてくれ。お前はファッションセンスが残念で、箸の持ち方が変で、人の顔や名前を全然覚えようとしない失礼なだけの普通の女の子なんだ」

「神妙な顔してボロカス言うな――――――ッ!」

 右ストレートが直撃したが大丈夫。歯は折れていない。

 どうやら伝え方が悪かったらしい。何となく普段から気になっていたが伝えていなかった事をつい言ってしまった。どうせ殴られるならアホっぽい髪型も言ってやればよかったが、今から追加したら鬼のような形相をした紗綾はこの部屋をプールに変えるだろう。満たされるのは俺の血だ。

「違うんだ。俺が言いたいのは、つまりお前は勇者なんかじゃない普通の女の子だって事だ」

 ヒトの血を好んで喰らう鬼が紗綾に戻った。紗綾は目を丸くして、しかしすぐに俯いた。……やめてくれ。どこを探したってお前にとって都合のいい現実なんて落ちてないんだ。

「……陸は信じてくれてるって思ってたのにな」

 溜息のように零れた言葉が針になって俺の心臓に深く刺さった。だがこの程度の痛みは何でもない。これから現実を受け入れる紗綾の方がもっと深い傷を負うのだから。

 落胆を隠そうともせず、紗綾は哀しそうに笑った。

「いいの。慣れてるもん、こういうの。幾つも世界を渡ってきたんだから。別に、初めてって訳じゃないし。だから分かってるわ。陸はこう言うんでしょう? ……だったら本当に勇者だって証明してみせろって」

 その通りだ。そのつもりだった。主張に対し根拠を求めるのは当たり前だ。しかし紗綾の方から言ってくるとは思わなかった。

「今日がいつもと同じ日なら証明できないフリして後で独りで泣いて済んだのにね」

 自嘲するように笑い、堰を切ったように紗綾はまくし立てた。

「あの城ね、私を追ってきたの。陸の言う通り私はいちいち名前を覚えたりしない失礼なやつだから城の名前もあれがあった世界の名前も憶えてないわ。でも見覚えがあるのよ。あれは確かに私が制圧した城、逃げ出した世界にあったものよ。こんな事なら城ごと灰も残さず焼き尽くしておけばよかったかな? 念には念を入れて念のためにあんなものが生まれた世界ごと粉々に砕いておけばよかったかな? だけど駄目よね、そんな事したら魔王と一緒じゃない」

 背筋に冷たいものを感じた。紗綾は冷たい言葉で俺を責めていた。唇が震えていた。俺も震えているのかもしれなかった。

「まあ、どうしたってあの城はまた私が片付けないとね。別に大した事じゃないわ。今までずっと繰り返してきた事だし今回だって同じ事。でも――陸はどうかな。本当に私が勇者だって分かっても今までと同じように、さっき陸が言ってくれたみたいに、普通の女の子だって言ってくれるかな。……答えないで。聞きたくないの。まだ私の事を残念な女の子だって思ってくれてるのは嬉しいけど薄っぺらいの。薄くて薄くて、私が勇者だって分かった途端にひっくり返っちゃうような言葉なんて聞きたくないの」

 答えないでなんて言われるまでもなく、俺には何も言えなかった。

 もちろん本当に勇者だなんて信じた訳じゃない。信じる訳がない。止めどなく溢れ出る妄言にも圧倒されたが、何より紗綾の激情に圧し潰されてしまいそうだった。

 言わなければよかった。こんな状況になるなんて考えてもいなかったのだから、まだ言うべきじゃなかったんだ。当たり前のように紗綾を分かったつもりでいて、本当は何も分かっちゃいなかった。

 謝らなければいけない。だけど何をどう謝ればいいんだろう。どこを探しても都合のいい答えなんて落ちていないと分かっているのにまっすぐ紗綾を見つめる事ができない。今の紗綾は薄っぺらい謝罪を何よりも嫌う。考えれば考えるだけ空回りする思考にノイズが混じる。今日のおとめ座の運勢は最悪だったんだろう。紗綾にとっても俺にとっても最悪の一日だ。

 背を向けて部屋から出て行く紗綾を見つめながら、俺は最後まで何も言えなかった。

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