03
この服を捨てることは出来ない。
先生の匂いはもうしないけれど、それでも俺達を拾ってくれた先生を捨てることは出来なかった。
あの日からどれだけの時間歩いたのだろう。
至る所が擦り切れ、破れ、汚れて。
彼は廃棄しようと言った。
そして俺達はそれを拒んだ。
「わかった」
そう言って彼は笑っていた。
思えば初めて先生以外の人間に言葉を掛けられた気がする。
彼は金色の長い髪に青い瞳をしていた。
彼にも名前があって、ミヤと言うらしい。
漢字だとこう、とミヤが紙に書いてみせたが、その漢字は先生のくれた本では見た事の無い形をしていて理解出来なかった。
俺はミヤの手を傷付けたのにミヤは何事も無かったかの様に俺達によく言葉を掛けてくる。
いや、実際にもう何事も無かった様にミヤの手から俺の噛み傷は消えていたし、トウヤは皮膚が自分達の様に治る所を見たらしい。
もしやミヤも先生の言う実験体なのだろうか。
「その服、そんなにお気に入りなのか」
お気に入り?
そう問い返せばうーんと唸り言葉を言い換えた。
「先生とやらがそんなに好きか、ってことだよ」
好き。
好意、愛情。
先生に昔教わった気がする。
けれどもう遠い記憶になってしまった言葉を思い出すのは俺達には難しかった。
分からないと答えた。
ミヤは何故か悲しそうな顔をしてこちらに近付く。
「…洗って破れた所を補正すればまた着られる。ちょっと貸してくれ」
二人で顔を見合わせてトウヤが頷いたのを見てゆっくりと手渡した。
洗濯、というものをするのだと言う。
宙に浮いた丸い扉の部屋の中で服がぐるぐると回り出す。
施設では見たことの無い機械だった。
「しばらく掛かるから、いくつか質問してもいいか?」
終わるまではこれを着ていろと渡された同じ二枚の黒い服を彼に従い袖を通す。
その服は首元が長く少し違和感があった。
傷が見えなくなるから便利だろうと言いながら少し長い袖を折ってくれた。
質問とは、と問えばしばらく考える様な素振りを見せたあと口を開いた。
「ここは帝都のど真ん中だ。そこら中に兵がいただろ、何か言われなかったのか?」
兵、とは恐らく途中で追いかけてきた人間の事だろう。
こちらに待てと叫んでしばらくは後ろを追って来たが気付けばいなくなっていた。
「まあそうだろうな。ペットの脱走は飼い主の監督不十分だ。そこまで兵が追うこともあるまい。ただ捕まったら問答無用で処分だろう」
俺はぐるぐると回り続ける自分達の服を見ながら問いに答える。
主に答えるのは自分でトウヤは暇そうにぐったりと床に転がっていた。
「君達は私が声を掛けなければ何処へ行くつもりだったのか」
何処へ。
海を見せたいと先生が言ったから。
青くて冷たくて眩しくて美しい。
僕の故郷の海はとても美しかったのだといつも言っていた。
本に載っている帝都の地図を見ながら自分達がいる場所、地図の右上を指さしたあと僕の故郷はここだと地図の左下を指した。
もう僕は死ぬまでここを出られないから、いつか旅立つ自分達にあの海を見せたいと言った。
「海…か。見せたいと言っても何せあっち側は帝都の壁がある。いつか旅立つ、とはどういう意味だ?」
いつか旅立つ、それは先生が自分達を拾ってくれた日に初めて言われた言葉だった。
あと十二年でこの施設は破壊されるからそれまでに自分達はここから旅立つのだと言った。
自分達二人は特別な子なのだと先生は笑みを浮かべながら頭を撫でた。
それからは毎日一冊の本を広げながら色々な事を教えてくれた。
文字の書き方、先生は簡単だと言ったが理解が難しかった計算、最後まで分からなかった地図、食事のマナーや人間の挨拶。
そして毎日、最後に僕をこれで刺して自由になるんだと、綺麗な青い石で装飾された銀色のナイフを見せながら自分達に言った。
そして先生の机の右側の引き出しにあるナイフをあの日二人で手に取った。
「……君達には悪いが相当イかれた研究者だったらしいな、その先生は」
そう言いながら何とも言えない顔をするとちょうど停止した機械の中から服を取り出す。そしてサイホウというものをすると言った。
何処からか埃まみれの小さな箱を持って来ると、中から何かを取り出し震える手で細い針にそれを通していた。
「何十年振りだから期待はするなよ。まさか役に立つ日が来るとはな」
通し終えると深く息を吐いて一人でにやりと笑っていた。
この帝都では服は使い捨てなのだと言う。
強制的に支給されその度にかなりの額を徴収されるのだと。
帝都の中心に工場がありそこで同じ型の物がいくつも作られているらしく、確かに先生の部屋にも同じ白い服が数え切れない程仕舞われていた事を思い出した。
一通り言うと後は真面目な顔で何か細かい作業をしている様だった。
「本当はミシンがあればすぐ何だが、いまそんな機械は残ってないだろうな。知ってるか?ミシンって古い機械があって」
いつだったか先生が自分達に服を着せてやらねばと錆びたミシンという機械を動かしていくつも服を作ってくれた事を話せば驚いた様で、ミヤは少しだけ遠くを見つめて目を細めた。
「…昔住んでたとこで教えてもらったんだ。そこじゃこんな事女がやるもんだったんだが…あいつは変わった奴だったな。まあそのお陰で君達の服を直してやれるんだが…よし出来た」
ほら、とミヤから受け取り広げれば袖と裾が自分達にぴったりの長さになってあの日の綺麗な服に戻っていた。
「……ありがとう」
「…ありがとうミヤ」
先生に教わった言葉。
何かを誰かにしてもらった時、そう言いなさいと先生は言った。
感謝の言葉なのだと言った。
けれどぎゅっと抱きしめてももう先生の匂いはしなかった。
何故か少し悲しいという気持ちがして、トウヤの方を見れば同じ様な感情を抱いたのだろう、見た事の無いトウヤの目を見た。
ミヤは俺達の頭にポンと手を置いて撫でた。
まるで先生に撫でてもらったあの頃の様で、嬉しい、と思った。