5.自覚した恋、そして。
誰かの、泣く声がする。その声はよく知っているけれど、泣くはずのない人の声。
(どうして、祐樹が泣いているの……?)
ふわり、と身体が浮くような感覚。
いや、そもそも身体の重みなんて感じなかった。
自分の存在が不確かで、曖昧だ。
意識が少しずつ覚醒してくると、視界が広がった。
愛結がいたのは、清潔感のある病室だった。
そして、泣いていたのは祐樹だった。
ベッドに横たわっているのは、何故か愛結だ。
その手を、祐樹はぎゅっと握っている。
制服姿の祐樹は、ひどく憔悴していた。
「なぁ愛結、早く起きてくれよ。頼むから……お前に言いたいことがたくさんあるんだ……」
初めて見る、祐樹の泣き顔。
祐樹が見つめる先には、痛々しい愛結の姿。
頭には包帯が巻かれ、頬にはガーゼ。
祐樹が握っている左手とは反対側の右腕からは点滴の管がのびている。
自分の姿を自分で見ている。
一体、何がどうなっているのだろう。
自分の手を見ると、向こう側が透けていた。
半透明の身体になっている。
(そっか……私、あの事故で……)
まだ、愛結は死んでいない。でも、どういう訳か霊体で存在している。
『祐樹! 私ここにいるよ!』
叫んでも、この声は祐樹には届かない。
祐樹が見ているのは眠る愛結の方で、こちらには向いてくれない。
見えていないのだから、当然だ。
「祐樹くん、そろそろ帰った方がいいわ。祐樹くんが学校に行かないと、愛結も心配するから」
後ろから、病室に母が入ってきた。
祐樹の手前、笑顔をつくっているが、とても見ていられなかった。
「百合子さん……でも、あの時みたいに、愛結に何かあった時に俺が側にいないなんて耐えられない……」
「だからって、今日で一週間よ。愛結の意識がいつ戻るかも分からないのに、ずっとここにいるの? 祐樹くんには祐樹くんの生活があるでしょう。愛結がいつも祐樹くんに心配かけてるからね。本当、いつもこの子の面倒見てくれてありがとう。あとは私に任せて、帰りなさい」
あの事故から、もう一週間が経っているらしい。
もしかして、あの時からずっと、祐樹は愛結の側にいたのだろうか。
どうして、祐樹はそこまで愛結のことを……。
「……俺は、愛結のことが好きです。でもまだ、愛結にはちゃんと伝えられていないんです。愛結が目覚めた時、一番に伝えたいんです」
「ありがとう。でもね、それならもっと、明るい表情で伝えてあげて。今にも死にそうな顔で言うことじゃないわ。愛結も、素直に喜べないじゃない。だから、祐樹くんもゆっくり休んでね」
母の言葉には、有無を言わせぬ力があった。
祐樹はなかなか立ち上がることができなかったが、母に促されて愛結の手から手を離した。
その瞬間、また祐樹はくしゃりと顔を歪めた。
「また、明日来ます」
そう言って、祐樹は病室を出て行った。
愛結は祐樹の言葉に衝撃を受けて、追いかけることができなかった。
(祐樹の好きな人って、私だったの……っ!?)
こんな状況なのに、愛結は本気で喜んでしまった。
祐樹と一緒にいることは、愛結にとって当たり前で、日常だった。
だからこそ、気付かなかった。
そこに幼馴染としての感情以外のものが混ざり込んでいたことに。
祐樹が自分以外の女の子と一緒にいるのを見て、苦しかった。
祐樹の恋を応援しようと思ったのに胸が痛んだ。
祐樹の隣には、自分がいたいと思った。
その理由は、ただひとつ。
(私も、祐樹のことが好きだったんだ……もし目覚めることができたら、真っ先に祐樹に好きだと伝えたい)
いつも、祐樹が側にいてくれた。ドジで抜けている愛結を助けてくれた。
――ありがとう。大好きだよ。これからも、側にいてね。
早く、祐樹に会いたい。
会って、この想いを伝えたい。
愛結が自分の気持ちにはっきりと気付いた時、病室に誰かが入ってきた。
四十代くらいの、優し気な男性医師だった。
首から下げた名札には、「本郷」と書かれている。
母がすがるような目で本郷を見た。
「愛結がまだ目覚めません。本郷先生、本当に、この子は目を覚ますのですか?」
「傷の治療はしていますし、命に別状はありません。あとは、愛結さんの気力次第でしょう」
「もし、目覚めたとして……本当に、愛結は以前のように走ることはできないんですか?」
「リハビリをすれば、歩くことには問題はありませんが、走るとなると……。右足を切断しなくてすんだことは奇跡に近いんです」
「じゃあ、陸上は……」
「残念ですが、もう無理でしょう」
その言葉に最も衝撃を受けたのは、愛結だ。
(もう、走れない……それに、リハビリが必要ってどういうこと)
目覚めたとして、愛結は以前のように走れない。
歩けるようになるのにも、リハビリが必要だという。
陸上ができないというショックよりも愛結の心を苦しめたのは、もし今の状態で祐樹に想いを伝えてしまったら、さらに彼に負担をかけてしまう……ということだった。
ただでさえ、普段から愛結は祐樹に守ってもらうばかりで、祐樹に何もしてあげれていない。
祐樹が側にいてくれたら、愛結は幸せだ。
でも、祐樹は本当にそれで幸せなのだろうか。
よく面倒事を起こす愛結の側にいて、祐樹は幸せになれるのだろうか。
この先、愛結は普通ではなくなる。リハビリをしないと歩けないし、きっと今よりも祐樹に負担をかけてしまうだろう。
今までずっと、祐樹が側にいることが当たり前だった。それが、日常で愛結の幸せだった。
しかし、これからは。
(祐樹を、私から解放してあげないと……)
大好きだから。
愛結は、祐樹と離れることを決めた。
そして、曖昧だった感覚が何かに引き寄せられる。