後編
時間は少し遡り、お昼前。
黙々と作業をしていたリルが静かに立ち上がり書斎から出て行った。ルシファーもすかさず後を追うと、リルはリビングに入りキッチンの前に立っていた。
「昼食を作りますが、口にできるものはありますか?」
朱羅から事前にルシファーもフローラと同様で口に出来るものがほとんどないと聞いていたが、リルは念のために本人に直接確認をしたのだ。だが、ルシファーの答えは予想通りのものだった。
「ありません」
簡潔な返事だったがリルは気にする様子なく頷いた。
「わかりました」
そう言うとリルは手際よく料理を始めた。
今まで行っていた作業とは全く違うことなのだが、ここでもリルの手は止まることなく優雅に動き続けた。そして、あっという間に二人分の料理を仕上げてテーブルの上に並べた。
そこにリビングのドアが開いて朱羅が入ってきた。
「いい匂いだな」
「ちょうど出来上がったところです。どうぞ」
朱羅は自分の席に着くと並べられた料理を食べ始めた。リルも席に着くと静かに食事を開始した。ちなみにメニューはオムライスとサラダとコーンスープだ。
無言で食べていた朱羅がふとリルを顔を上げて言った。
「そういえば、父親が新しいホテルの披露パーティーをするから来いと言っていたんだが、どこに建てたんだ?」
「隣の州の海岸沿いですよ。あそこは最近リゾート地として注目されていますから」
「遠いな」
その一言で朱羅が行かないことは決定した。だが、それでは盛大に悲しむであろう主催者である朱羅の父親のことを考えてリルは一言添えた。
「紫依のお父様も招待されているそうですよ」
紫依の父は仕事で忙しいため紫依と会える機会があまりない。紫依もそのことは理解しているので何も言わないが、本心では会いたいと思っている。
その状況を知っている朱羅はあっさりと方針転換をした。
「……ヘリなら時間はかからないか」
「準備しておきます」
平然と言うリルの姿を見てルシファーは面白いと思った。そんなルシファーを見てリルが軽く微笑みかける。
「どうかされましたか?」
「いえ、なんでもありません」
ルシファーとリルが微笑み合う。その光景に朱羅はこの二人を合わせたのは間違いだったかもしれないと感じた。
昼食を食べ終え、食後の紅茶を飲みながら朱羅は窓の外を見た。
「このペースなら今日中に書類は終わらせられそうだな」
「はい」
「あとは視察か」
「そうですね」
「面倒だが、仕方ないな」
諦め半分の朱羅の前にリルが書類を出した。
「このルートですと、そのまま日本に帰ることが出来ます。あと近くにある観光地に寄ってみては、どうでしょう?」
「観光地?」
「このルートだと自然を中心とした世界遺産の近くを通ります」
リルは朱羅が紫依はいろんな世界を観たがっていると話した時に、このことを思いついてプランにあげたのだ。
紫依なら興味を示すだろうし、そうなれば朱羅はその場所に寄るだろうと。朱羅にとって作業でしかない仕事に少しでも潤いを入れるために。
朱羅は書類に目を通してリルに返した。
「視察のスケジュールはこれで頼む」
「はい」
そこにリルの携帯電話が激しいアラーム音を鳴らした。その音に朱羅の表情が厳しくなる。
「失礼します」
リルが一礼をして素早くリビングから出て行く。ただ事ではない雰囲気に、それまで気配を消していたルシファーはリルの後を追いかけずに朱羅に声をかけた。
「何か問題事が起きましたか?」
「まだ分からないが良いことではないな」
朱羅は紅茶を一気に飲んでルシファーを見た。
「この世界で俺の許可なく力を使わないと誓うことが出来るか?」
「今、起きていることにフローラは関わっていますか?」
「おそらくな」
ルシファーはためらいなく床に片膝をつけて頭を下げた。
「こちらの世界ではあなたの許可なく力を使わないことを我が剣にかけて誓いましょう」
「なら、来い」
朱羅が書斎に入ると携帯電話を耳に当ててパソコンを操作していた。
「状況は?」
「あまりよくないですね。身代金目的でしょうか……囲まれているようです」
「場所は?」
「この公園のカフェです」
リルがパソコンに表示されている地図を朱羅に見せる。
「目的は紫依か?」
紫依の父親は世界屈指の資産家である。娘がいるという情報は隠されてきたが、どこからかその情報を知った者による誘拐の可能性がある。
だがリルは即座に否定した。
「いえ、アランのようです」
予想外の名前に朱羅の眉間が険しくなる。
「なんでアランがいるんだ?」
「おそらく公園を散歩中にディーンを見かけて、あなたが側にいると思って声をかけたのでしょう。昔からアランはあなたにつっかかってきていましたから」
リルの苦笑いを含んだ言葉に朱羅がため息を吐く。
「いい迷惑だ。犯人は?」
「会話からの推測になりますが……」
リルがもう一台のパソコンで検索を始める。
「でました。オーウェン・ガルシア。一年前に警察よりアクディル財閥の警備部に転職しています。そして半年前にアラン専属の護衛になっています」
「入社して半年のやつを専属にしたのか?何を考えているんだ?」
「アランは何も考えていませんよ。たぶん外部から、このような人事になるように操作が入ったのでしょう」
「だろうな。俺はオーウェンについて調べる」
「お願いします」
そこでリルの視線が鋭くなった。
「どうした?」
「ディーンが撃たれました」
「生きているか?」
「……致命傷ではないようです」
そう言いながらもリルの表情は険しい。朱羅はリルの肩に手を置いて言った。
「すぐに出発出来るように準備をしてくれ」
「はい」
朱羅は自分のイスに座るとパソコンと携帯電話を使って情報収集を始めた。その光景をルシファーは両手を強く握り締めたまま静かに黙って見ていた。
紫依たちが乗せられている荷台の扉が開く。目に入ってきたのは倉庫のような場所だった。窓は一切なく灯りは天井からのライトのみで、数台の車とコンテナが置かれている。そしてトラックを囲むように銃を構えた男たちがいた。
ディーンは扉を開けたのが朱羅ではないことに、どこか安堵しながらも体を動かそうとして紫依に押さえつけられた。傷があるとはいえ本気で動こうとしているのに、まったく動けない。
ディーンは視線だけで紫依に抗議するが、紫依は気にすることなく男達を見ている。
「降りなさい」
アランの護衛をしていた男が指示を出す。アランが指示通り立ち上がろうとしたところを紫依が手だけで制止した。
「その前に一つ、お聞きしたいことがあります」
「なんですか?」
「あなた方の目的は何ですか?」
人形のように整った顔で無表情のまま問いかけてくる紫依に、アランの護衛をしていた男は少し警戒しながらも余裕の笑みを浮かべながら言った。
「お嬢さんは知らなくて良いことです」
「私たちに関係ないのであれば、すぐにディーンさんを開放して下さい。傷の状態が良くありません」
「そういうわけにはいきません。そもそも、そいつがどうなろうと私たちにはどうでもいいことです」
その言葉に紫依の表情が微かに変わる。綺麗に整った顔にどこか怒りが見えた。そして発せられる気配は冷え切っていて寒気を感じる。
どういう動きをするか、まったく予想がつかない紫依にディーンが釘を刺す。
「オレは大丈夫だ。相手が何者で何人いるか分からない以上、下手に手を出すな」
紫依が今まで発していた気配を消して、ディーンを安心させるように少し微笑む。
「はい。すぐに病院に行きましょう」
『は?』
状況にそぐわない言葉にフローラ以外の全員が首を傾げる。
すると倉庫のドアの隣にある壁が天井とともに音もなく崩れ落ちた。そこから銀髪の青年が倉庫内に入ってくる。その光景にディーンが思わず呟いた。
「悪ガキ、ドアが何のためにあるか知っているか?」
その言葉に反応したのか朱羅の視線がディーンに向けられる。そこで自分の状況を思い出したディーンは顔が青くなった。
朱羅と紫依がどういう関係なのか、はっきりと聞いたことはないが大切にしていることは見ていれば嫌でも解かる。その紫依に膝枕をされているのだ。何も言わずに無表情で向けられる朱羅からの視線が痛い。
ディーンは自分の人生がここまでだと覚悟したが、朱羅は何も言わずに銃を構えている男達に視線を移した。
「紫依を返してもらう」
「……オレたちの存在は無視か」
ディーンが小声で言いながらフローラの方を見る。すると、そこには白髪の青年が天使のような微笑みを浮かべて立っていた。
いつの間にトラックの荷台に乗ったのか、まったく気付かなかったディーンは数回瞬きをして青年を見た。
青年に存在感や気配がないわけではない。むしろアイスブルーの瞳以外の全てを白で統一した姿は不思議な存在感を放っている。
琥珀の瞳を丸くしているディーンを気にすることなく、青年は優雅に頭を下げながらフローラに言った。
「お迎えにまいりました」
その姿にフローラが困ったように微笑む。
「船を沈ませずに迎えに来られただけでも進歩でしょうか」
「立派な進歩だと思いますよ」
紫依の同意を聞き流して白髪の青年が荷台を見回す。
「ここは狭くて薄暗いですね」
そう言って青年が荷台の壁を触る。それだけで荷台の壁と天井が砂のように崩れ落ちていった。
「ルシファー」
フローラの咎めるような声にルシファーが微笑んで説明をする。
「力は使用していません。こちらの世界では朱羅の許可なく力を使用しないと宣誓しましたので」
これには今まで驚きで声が出せなかったアランが思わず叫んでいた。
「どうして触っただけで鉄の壁が砂になるんだ!?」
アランの疑問にルシファーが不思議そうに答える。
「衝撃を与えれば物は崩れるものでしょう。何をそんなに驚いているのですか?」
それが、どうして触っただけで崩れることに繋がるんだ!?と、いう疑問をアランが口にする前に、アランの護衛をしていた男が叫んだ。
「動くな!何者だ!?」
朱羅に気を取られてルシファーの存在に気付くのが遅れた男達が、見通しが良くなった荷台に慌てて銃を向ける。だがルシファーは気にすることなく朱羅を見た。
「鬱陶しいのですが?」
「オーウェン以外は好きにしていい。ただし殺すなよ」
その指示にルシファーが軽く肩をすくめる。
「こちらの世界はいろいろと面倒ですね。フローラを連れ去った時点で万死に値するのに」
言い終わると同時にルシファーの姿が消える。そしてアランの護衛をしていた男、オーウェン以外の男たちが全員倒れた。
「なっ……」
オーウェンが絶句している前でルシファーは何事もなかったようにフローラの前に姿を現してひざまずいた。
「さ、参りましょう」
「仕方ありませんね」
そう言いながらフローラが慣れた様子でルシファーが差し出した腕に乗る。
「何をし……」
オーウェンの叫び声が途切れる。背後から朱羅がオーウェンを床に叩きつけたからだ。
「今回の誘拐の目的と依頼した人間について教えてもらおうか」
背中を踏みつけられて体を起こせないオーウェンは顔だけを横に向けながら朱羅を睨んだ。
「貴様……アクディル財閥の……ぐぅ」
朱羅が背中を踏んでいる足に力を入れる。
「無駄口はいらない。話す気はあるか、ないか?」
その言葉にオーウェンが口を閉じたが目はしっかりと朱羅を睨みつけている。
「ちょうどいい。そのまま目をそらすなよ」
朱羅の翡翠の瞳がアイスブルーへと変わる。以前にも朱羅の瞳の色が変わったところを見たことがあるディーンは久しぶりにその瞳を見て、フローラを抱えているルシファーの瞳を見た。
「おまえ、悪ガキと同じ瞳の色だな」
ルシファーが片眉を上げてディーンを見たが、すぐに視線を朱羅に戻した。その行動に紫依が少しだけ笑う。
「本人たちも気にしているようですので、あまり言わないであげて下さい」
「そうなのか?」
誘拐という状況から脱出したと判断して気が緩んでいるディーンに対して、映画のような現実離れしすぎた展開についていけないアランは声を出すことも忘れて呆然としている。
朱羅はもう一度、同じ質問を口にした。
「今回の誘拐の目的と依頼した人間は?」
すると反抗的に睨んでいたオーウェンの目の焦点がぼやけて、あっさりと話しだした。
「誘拐の目的はアランが企画しているセントロの開発事業から撤退をさせること。依頼はバーンズ会長直々だ」
「予想通りだな。全てを忘れて眠れ」
朱羅の言葉でオーウェンの全身から力が抜ける。朱羅は荷台に飛び乗るとディーンを見下ろした。
「傷の状態はどうだ?」
「大したことない」
そう言って体を動かそうとするディーンを紫依が押さえた。
「自分で動かないほうがいいです」
紫依が顔を朱羅の方に向けて説明をする。
「骨と神経は避けたと思うのですが、主要の血管を傷つけたようで出血が止まりません。熱も出ていますし、早急に処置が必要と思います」
「わかった」
頷きながら朱羅は素早くとディーンを抱き上げた。その行動にディーンの叫び声が響き渡る。
「やめてくれ!頼むから、これはやめてくれ!」
半分暴れだしているディーンに朱羅が平然と言う。
「自分で歩けないし、歩かないほうがいいなら、こうするしかないだろ」
「方法が問題なんだ!何が悲しくて四十過ぎたおっさんがお姫様抱っこなんかされないといけないんだ!?他に方法があるだろ!」
朱羅は自分より大きな体を持つディーンを軽々と横抱き、すなわちお姫様抱っこしたのだ。その光景はなかなかシュールだが紫依が追い打ちをかける。
「でしたら、私が手を貸しましょうか?」
紫依が悪意なく微笑んで両手を出す。あれだけの力があればディーンを横抱きで運ぶこともできるだろうが、その光景を想像しただけでディーンの中から羞恥で憤死できる自信が出てきた。
これ以上、状況を悪化させないためにもディーンは半分抜け出た魂を掴みながら呟いた。
「このままでいいです……」
「そうですか」
ディーンはどこか残念そうな表情をしているようにも見える紫依から視線をそらして、誰にも聞こえない小声で呟いた。
「絶対、嬢ちゃんの膝枕に対する嫌がらせだ」
「何か言ったか?」
朱羅の問いにディーンが顔をそらす。
「なんでもねぇ」
腕にフローラを乗せたルシファーが朱羅に声をかける。
「いつまで遊んでいるのですか?行きますよ」
「あぁ」
ルシファーと朱羅が歩き出すがアランは呆然としたまま動く気配がない。そのため紫依がアランの肩を叩いて意識を引き戻した。
「あ?」
間抜けな返事をしたアランに紫依が微笑みかける。
「一緒に行きませんか?」
その可愛らしい綺麗な顔に今の状況を忘れてアランは見惚れてしまった。
そもそもカフェでディーンに声をかけたのも、隣に座っている紫依に興味を持ったからだ。そして、あわよくば今晩、父親が開催するホテルのオープンパーティーに同伴させようと考えていたのだ。
紫依ほどの美少女を連れて行けば箔が付くし、周囲から羨望のまなざしを受ける。
そこまで計算していたのだが、実際に本人を目の前にすると先ほどとは別の意味で呆然としてしまう。
そんなアランに紫依が首を傾げていると、朱羅の声が聞こえてきた。
「行くぞ」
「はい」
紫依が体を反転させて荷台から飛び降りる。
「あ、待て」
その様子にアランが慌てて後を追いかける。そのまま船の甲板へ出ると、ヘリの爆音と共に上空から縄はしごが降ってきた。
「お乗りください!」
叫び声とともにヘリから顔を出したリルのハニーブロンドの髪が風で巻き上がる。
ルシファーと朱羅は人を抱えているにも関わらず風で揺れる縄はしごをスタスタと登っていく。そして可愛らしい外見をした紫依も同じように躊躇いなく登っていく。
その光景にアランは恐怖心を抑えて下を見ずに無理やり登りきった。
ヘリは操縦者を合わせて八人が乗っても少し余裕があるぐらいの大きさだった。全員が乗ったところでリルが声をかける。
「行き先はアクディル財閥の病院でよろしいですか?」
その質問に朱羅が備え付けの棚から箱を取り出しながら答える。
「あぁ。アントーン医師に連絡をして、手術室を一つ確保しておくように伝えてくれ。あと縫合セットと0型Rhプラスの輸血も準備しておくように、と」
「わかりました」
朱羅の指示に操縦席の隣に座っているリルが無線で話し出す。その間にも朱羅は箱から点滴や薬を取り出して手際よくセットしていく。その光景を眺めながらディーンが嫌そうに言った。
「病院は嫌いなんだよな」
「なら、とっとと治すんだな。痛み止めを打つぞ」
そう言って朱羅はディーンの袖をまくりあげると肩に一本の注射をした。
「止血剤入りと抗生剤入りの点滴をする。あと、採血もするぞ」
点滴をヘリの天井にぶら下げている朱羅にディーンが待ったをかける。
「は?なんで採血するんだ?これ以上、貴重な血を抜くなよ」
足の傷からは少しずつ出血が続いており体内の血が少なくなっていることは素人でも分かる。だが朱羅は横目でディーンを見たあと、すぐに視線を点滴に戻した。
「最近、健康診断を受けていないだろ。ついでだから検査してやる」
「やめてくれー」
「喚わめくな。見苦しい」
朱羅はディーンに容赦ない言葉を浴びせながら腕を縛る。そして注射針を刺すと、そのまま採血をして点滴を繋いだ。
その見事な一連の動作にフローラが思わず拍手する。
「素晴らしい動きですね」
フローラの感動に紫依が補足説明を加える。
「朱羅はこちらの世界で遺伝子工学を勉強するために医師免許も取得したそうです」
「それで、こんなに手際が良いのですね」
「はい」
和やかに会話をしている女性陣を置いといて朱羅はディーンに訊ねた。
「撃たれて、どれぐらい経った?」
ディーンが腕時計を見る。
「二十分強だ」
「一度、外したほうがいいな」
そう言うと朱羅は紫依が止血のために縛り付けた布を取った。そしてハサミでズボンを切り、傷口がよく見えるようにしてタオルを当てたが、すぐに血で赤く染まっていく。
「あー、なんかクラクラする」
誘拐現場からの脱出と、病院へ向かっているという安堵感からか緊張の糸が切れたディーンは脱力して目を閉じた。
その様子を見ながら朱羅が淡々と言う。
「言い残すことはあるか?」
「って、まだ死なねぇよ!」
朱羅の言葉にディーンが慌てて目を開ける。そしてバツが悪そうに朱羅に言った。
「悪かったな。満足に護衛できなくて」
朱羅は傷口をタオルで押さえたまま少し首を傾げた。
「護衛?」
朱羅の様子にディーンが少し慌てる。
「いや、オレという護衛がいたのに誘拐されたから……」
「あぁ」
ディーンの言いたいことを理解した朱羅は頷きながら爆弾を投下した。
「別に今回は護衛しろと言っていないぞ」
「は?」
ディーンは出かける前に朱羅に言われたことを思い出した。
『誰が道案内と荷物持ちをするんだ?』
としか朱羅は言っておらず、確かに護衛という言葉はない。そのことに気がついたディーンはガックリと項垂れた。
そこに朱羅がとどめを刺すかのように、ディーンのプライドを見えないナイフで一突きした。
「そもそも紫依がいるのに護衛は必要ないだろ」
ふくらはぎの傷より深いダメージにディーンは燃え尽きて抜け殻になったような表情で呟いた。
「悪ガキ、お前オレのこと嫌いだろ」
「何故だ?」
朱羅が不思議そうにしていると、リルが声をかけてきた。
「もうすぐ着陸します。揺れますので気をつけて下さい」
ヘリが病院の屋上に着陸すると数人の医師と看護師が待ち構えていた。準備されていたストレチャーに朱羅がディーンを乗せると、そのまま勢いよく建物の中に連行されていった。
その中で一人残っていた六十代ぐらいの医師が朱羅に声をかける。
「久しぶりだな。坊主も手術室に入るか?」
「あぁ。傷の細かい状態を把握しておきたい」
そう言って朱羅はリルを見た。
「後は頼む」
「了承しました」
頭を下げるリルに見送られて朱羅は医師とともに建物の中へと入っていった。残された紫依たちにリルが微笑みかける。
「こちらへどうぞ。一休みしましょう」
その声に従って歩き出した紫依たちに対して動こうとしないアランにリルが近づく。
「もう少ししたら護衛の方々が到着しますので、それまでこちらでお休み下さい」
「いや、オレは……」
断ろうとしたところにリルが微笑んだままもう一度言った。
「こちらへどうぞ」
微笑んでいるはずなのに、どこか有無を言わせない強制力を持つその表情に押され、アランは無言のまま俯いてリルの後を歩いていった。
ソファーとローテーブルが置いてある応接室のような部屋で、紫依とフローラは向かい合うようにソファーに座ってくつろいでいた。
ルシファーはフローラの後ろで気配を消して寄り添うように立っている。そしてアランは居心地悪そうにドアの近くでウロウロしていた。
紅茶を持ってきたリルがティーカップをローテーブルの上に置いてアランに声をかける。
「こちらへどうぞ」
普通に対応するリルをアランが睨む。
「なんで、そんなに平然としていられる?こんなところで茶を飲んでいる場合じゃないだろ。警察には連絡したのか?」
安全な場所に来たことでアランは少しずつ状況を振り返れるぐらいの余裕が出てきた。それでも、どこかそわそわしているアランにリルが微笑みかける。
「そのことにつきましては朱羅が対処するそうです」
朱羅の名前を聞いてアランが鼻で笑う。
「はっ!?あいつが?あいつがどうするっていうんだ?仕返しでもするのか?子どもの喧嘩じゃないんだぞ。それより警察だろ!」
「今回のことに朱羅は相当お怒りのようでして。警察には任せたくないそうです」
そう言ってリルが困ったような表情をしたまま静かに微笑んだ。その微笑みにアランが黙る。背中に冷たい風が吹き抜けたように思わず体が震えたのだ。
そんな雰囲気など感じていないのか、それとも気にしていないのか、紫依が優雅に紅茶に口をつけて感想を言った。
「リルさんが淹れる紅茶はいつも美味しいですね。アランさんも座って飲まれたらどうですか?」
美少女からのお茶の誘いとリルの微笑みに負けたアランは渋々ソファーに座って紅茶を飲む。
その様子を確認してから紫依はリルに訊ねた。
「ディーンさんの状態はどうなのでしょうか?」
「朱羅が手術に入っているので大丈夫ですよ」
リルの言葉にアランが慌ててティーカップを置いて言う。
「そうだ。なんで、あいつが医師免許を持っているんだ?家にも帰らずに一人で好き勝手にしていたやつが」
「別に朱羅は好きで勝手にしていたようではないですよ。そもそも自由に動くための資金を自分で稼ぎたいと、朱羅が自分から父親であるボスに相談したぐらいですし。そうしたらアクディル財閥の医療部門の運営を任されまして、その利益を好きに使えと言われたのです。そのため朱羅は大学で医学と経営学を学びました」
世界各地に展開している医療部門をポンと任す父親も父親だが、それに応える朱羅も朱羅だと思いながら、アランは反論した。
「だからって、まだ学生だろ?なのに、なんで医師免許を持っているんだ?運営だって形だけだろ」
「朱羅は三年前に医師免許を取得して一年前に大学院を卒業していますよ。運営につきましては十年前から少しずつ参加され、五年前からは経営責任者として全権を任されています」
思わぬ言葉にアランはあんぐりと開いた口を手で押さえながら言った。
「そ、それはリルがほとんど手伝っているから出来ているんだろ?」
リルは朱羅の専属となる前までアクディル財閥の総帥であり、アランと朱羅の父親である綺羅に仕えていた。その有能ぶりは伝説となっているほどだ。
そんなリルがいるから出来る芸当だと言うアランに、リルはゆっくりと首を横に振った。
「確かに手伝いはしておりますが、最終判断や決定は朱羅自身がしています。それに各国にある病院の状況を朱羅は全て把握しています。私の手伝いがなくても問題なく運営することが出来たでしょう」
リルの説明にアランが絶句する。
二十歳前の若造が出来ることとは到底思えない。思い返せば昔からそうだった。弟なのに大人びていて、全てが自分より上だった。そして今回のこともそうだ。どうやって居場所を知ったのか、颯爽と現れて銃を持っている人間を簡単にねじ伏せた。
アランは気が付くとずっと心の奥底で思っていたことを叫んでいた。
「あいつは人間じゃない!人間じゃないから、そんなことが出来るんだ!」
その言葉に紫依が少しだけ深紅の瞳を丸くする。リルは微笑んだまま無言となり、フローラは不思議そうに首を傾げながら訊ねた。
「アランは朱羅の兄なんですよね?では、アランも人間ではないのですか?」
フローラの純粋な疑問にアランが言葉を詰まらす。そんなフローラにルシファーが丁寧に説明をした。
「この人間と朱羅は同じ親から生まれています。それは遺伝子検査で調査済です。生物学的に見ても人間です。人間ではないということは、ありえません」
ルシファーが淡々と話した内容を聞いてアランが慌てて大声を上げる。
「遺伝子検査って何だ!そんなもの何時、誰がしたんだ!?」
明らかなプライバシーの侵害に憤慨しているアランに対して、ルシファーは眉一つ動かさずに平然と言った。
「朱羅と肉親関係にある人間を把握するために私が十五年ほど前にしました」
あまりにも堂々とした態度で話すルシファーにアランは一歩引きながらも訊ねた。
「な……なんのために?」
「当然、朱羅を見つけて殺すためです。あなた方の両親はそこそこ上手に朱羅を隠していましたからね。まぁ、紫依の両親ほどではありませんでしたが。それでも居場所の把握と殺す機会を狙うのに少し苦労しました」
懐かしい昔話をするような穏やかな口調のため、話の内容とのギャップについていけずにアランの思考が停止する。
だが、その話を聞いてリルが鋭い微笑みをルシファーに向けた。
「それは今も、ですか?」
そう言ったリルは姿勢よく紫依の後ろに立っているだけなのだが、見る人が見れば臨戦態勢になっていることが分かる。
そのことを察したルシファーはゆっくりと首を横に振った。
「今はないです。その必要がありませんから。ですが」
そこで言葉を切ると視線をフローラに向けた。
「フローラに害をなすことがあれば、すぐにでもいたしますよ」
「その必要はありません」
即座に否定したフローラにルシファーが頭を下げる。
「失礼しました」
その行動と言葉に紫依が少し感心したような表情をした。
「変わりましたね。リルさんと同じような動作をすることもありますし」
紫依の感想にルシファーが当然のように言う。
「それがフローラの望みであるなら、私はそうするまでです」
堂々と宣言するルシファーに紫依が思わず微笑む。
「そこは変わらないのですね」
「はい」
人を殺すなどという物騒な話をしていたとは思えないほど和やかな雰囲気で話す二人に、アランが思わず頭を抱える。
「なんなんだ、お前たちは!」
「何と言われましても……あ、そういえば、アランさんを誘拐した人はどんな方なのですか?」
誘拐があったことを本気で忘れていたような紫依の口調に、リルが少し困ったような表情をしながらも説明を始めた。
「コナー・バーンズ。自分で会社を立ち上げて都市開発を中心に一代で財を築いた人物です。ただ、その急成長ぶりには疑問点もありまして、いろいろな噂があります」
「噂ですか?」
「はい。中でも都市開発の事業落札についてはライバルとなった会社が次々と辞退していくとか」
リルの説明にアランが飛びつく。
「なんだ、その噂は?オレは聞いたことがないぞ。まさか今回の誘拐は……」
「ライバル会社を辞退させるために、今までいろいろなことをしてきたようです。しかも警察にもコネがあるようで捜査もうやむやで終わらせてしまわせるとか」
「そんなものアクディル財閥の力を使えば、どうとでもなる。やっぱり警察に……」
意気込んだアランだったが、リルに冷めた視線を向けられ本能が生命の危機を感じて黙った。
「そうしたところ、あとから家族が何者かに執拗に狙われたという話もあります。どうやら、厄介な人たちとも仲が良いようですよ、バーンズ氏は」
そこまで説明したところでドアが開いた。
「それぐらいの人脈がなければ、こんな大胆なことはしないだろう」
そう言って部屋に入ってきた朱羅に紫依が声をかける。
「お疲れ様です。ディーンさんの具合はいかがですか?」
「血管を縫合して出血は止まった。銃弾によって焼けた部分を削ぎ落として縫合したから、あとは本人の自己回復力次第だ」
そのまま朱羅が当然のように紫依の隣に座る。そこにルシファーが声をかけてきた。
「今回の事件の首謀者は、どのように処分するつもりですか?」
すました顔で質問してきたルシファーに朱羅が軽く笑う。
「おまえが自分で処分したいと思う気持ちは分かるが、今回は裏の人間が関わったことだ。裏のことは裏のプロに任せろ」
「裏のプロ……ですか?」
訝しむルシファーを置いて朱羅は携帯電話を取り出して電話をかけた。スピーカー機能を使っているためコール音が部屋に響く。
しばらくして相手が出た。
『もしもし、どうしたの?』
その声の主は若い女性だった。声だけなのに妖艶で人を惹きつける魅力に溢れている。
朱羅は言葉を濁して普通に言った。
「ちょっとな。そっちはどうだ?」
『なかなか面白い講義だったわよ。わざわざチューリッヒにまで出向いたかいがあったわ』
「まだスイスか?」
『いえ、今は合流してパリにいるわ』
誰と合流したのか女性は言わなかったが、朱羅は好都合とばかりに頷いた。
「それはちょうど良かった。さっき、ちょっと紫依が誘拐されてな」
脈絡のない話題に相手が沈黙する。
電話のため相手の顔は見えないのだが、何故かその沈黙が部屋全体に重く伸し掛ってくる。そして、その沈黙が破られたときアランは今までに経験したことがない恐怖を感じた。
『……そんなことをしたのは、どこのバカかしら?』
始めに聞いたものと変わらない妖艶な美声なのだが、電話口から漏れ出す殺気が重い霧のように地面を這って足に絡み付こうとしている。そんなものは実際には見えないのだが、そのように錯覚してしまうほどの脅威が美声に込められている。
目に見えない恐怖にアランの体が瞬きも出来ないほど硬直するが、朱羅は平然と話を続けていく。
「詳しい情報を送るから後始末を頼めるか?」
『もちろん。私の好きにしていいわよね?』
疑問文だが否定は許さない、という無言の威圧感がある。というか、この気迫を前に断れる人間はいないだろう。
そして、もともと断る気など毛頭もない朱羅は軽く頷いた。
「あぁ」
『じゃあ、さっさと終わらせて、そっちに行くわ』
その言葉にアランの体がビクリと跳ねる。自分に会いに来るわけではないと分かっているのに体が拒絶している。
そこに紫依が電話に向かって呼びかけた。
「お待ちしております」
その声に電話の相手の美声が喜びに満ちたものになった。
『すぐに行くわ。お土産は何がいい?』
今までの重苦しい空気が一掃され、まるで春一番が吹いたかのように清々しく暖かい空気が部屋を満たす。
声色一つでここまで部屋の雰囲気を変えられることにアランは腰を抜かしたが、紫依はこれが普通のように会話を続けた。
「お勧めのものをお願いします」
『わかったわ。待っていてね』
そう言って電話の相手は通話を終わらせた。
ソファーの上でアランが脱力していると、いつの間に準備していたのかリルがコーヒーを持ってきて朱羅の前に置いた。
「コーヒーとは珍しいですね」
紫依の感想に朱羅はコーヒーを飲みながら答えた。
「手術の後は何故か紅茶よりコーヒーが飲みたくなるんだ」
「そうなのですか」
「ただ俺が手術をすることが滅多にないから、あまり飲むことはないがな」
そう言うと朱羅はルシファーに翡翠の瞳を向けた。
「この処分なら文句あるまい?」
ルシファーはどこか不服そうだったがフローラからの視線を受けて渋々承諾する。
「まあ、いいでしょう」
次に朱羅は未だに腰を抜かしているアランに視線を向けた。
「と、いうことで今回のことは忘れろ。そして事業は予定通り進めたらいい」
アランは体を起こして平然と話す朱羅を指さした。
「お、おまえ何者なんだ!?」
それを聞いて朱羅が不思議そうに言った。
「おまえの弟だが、それがどうした?」
至極当然のように出てきた言葉にアランが再び頭を抱える。
「だから、オレが聞きたいのはそういうことじゃなくてだな!何者なのかって!」
「朱羅・アクディルだが」
「名前は知っている!そうじゃない!」
「では、なんだ?」
まったく分からない様子の朱羅にアランが立ち上がり、背後にあった壁を叩き出した。
「あー、もう!なんで、こういうことは昔から言葉が通じないんだ!」
叫ぶアランの心中を察したリルが慰めるように肩を叩いた。
「これが朱羅であり、あなたの弟です。さ、お迎えの護衛が到着したと連絡がありました。こちらへどうぞ」
「待て!まだ聞きたいことが……」
「それは次の機会でお聞きして下さい」
穏便なリルにしては珍しく強制的にアランを部屋から追い出して廊下に立っていた護衛に引き渡した。
その様子を眺めながら朱羅がため息を吐く。
「言葉は通じているのだが、会話が通じないんだよな」
朱羅の呟きに紫依が同意する。
「ちゃんと質問に答えていましたよね」
紫依の言葉にフローラも頷く。
「私もそう思います」
その会話を聞いていたリルは部屋に背中を向けたまま思わず苦笑いをした。
新築のホテルは塵一つなく、天井から下がる豪華なシャンデリアが華々しく着飾った人々を照らしている。その中で、このホテルのオーナーの息子であるアランはいろいろな人に囲まれていた。
いつもなら二十代前半とは思えない余裕がある態度で話に花を咲かせるのだが今日は違った。
会話をしていても、どこか上の空で会場の入口を気にしている。その様子に勘が良い大人の男性たちは簡単に会話を済ませて去っていく。そして周囲には玉の輿を狙っている若い女性たちだけとなっていた。
若い女性たちのアピールをアランが適当に流していると、ふと視界の端に人影が入った。その姿にアランは無理やり話を切り上げると、その場を離れた。
「朱羅」
アランが声をかけると前を歩いていた二人がゆっくりと振り返った。その容姿に華やかな社交界に慣れているアランでさえ目を見張った。
朱羅に声をかけたのだが、それよりも隣にいる少女に目を奪われたのだ。
少女は動きにくそうな着物を慣れた様子で着こなしていた。
着物は白地に淡い紫の染めがされており、その上から雪の結晶の刺繍がされている。薄い水色を基調とした帯には銀糸が使われており、派手さはないが落ち着いた豪華さがある。そして黒髪をゆったりと結い上げ、瞳と同じ色をした深紅の髪留めで留めていた。
「アランさんもいらしていたのですね」
呆然と少女の姿を眺めていたアランは半分夢見心地のまま頷く。
「あ、あぁ」
「何か用か?」
少女の隣にいる朱羅に声をかけられてアランがそちらに視線を向ける。
朱羅は藍色に近い紺色の光沢があるスーツを着ていた。
インナーには黒シャツと黒ネクタイという暗い色ばかり使用しているのだが、銀髪とモデル以上に整った顔立ちが合わさり、只者ではない雰囲気を放っている。そして胸には少女が着ている着物と同じ布で作られたチーフが顔を覗かしていた。
完璧にコーディネートされた二人の姿にアランは息を飲みながらも周囲を見ながら訊ねた。
「あとの二人は来ていないのか?」
「あの二人は帰った」
「そうか」
そう言うとアランは大きく息を吐いて意を決したように言葉を続けた。
「昼間は迷惑をかけて悪かった。あの二人にもそう伝えてくれ」
「わかった」
あまりにもあっさりと頷いた朱羅にアランが吠える。
「おまえ、それだけか?他に言葉はないのか?」
「何を言えばいいんだ?」
「気にするな、とか。頑張れ、とか。なんでもあるだろ!」
アランの迫力に押されて朱羅は隣の少女に意見を求めた。
「何かあるか?」
少女は少し首を傾げて考えてから結論を言った。
「思い当たらないですね」
非情な言葉にアランが盛大に嘆く。
「なんで、お前らは外見がそんなに良いのに中身が残念すぎるんだ!」
大声で騒ぐアランによって自然と周囲の視線が集まってくる。そこに一番視線を集める人物が両手を広げてやってきた。
「朱羅!久しぶりだな!来てくれて、お父ちゃん嬉しいぞ!」
赤茶色の髪にモデル並みの高身長と顔を持つ男性が笑顔で朱羅に突進する。朱羅は男性に抱きつかれる寸前でアランを自分の前に置いて逃げた。
だが、そのことに気がついていない男性はアランを朱羅だと思いこんで抱きしめる。その強烈な力にアランが男性の腕を叩きながら叫んだ。
「親父、痛い!放せ!」
「あれ?アラン?」
男性は力を緩めて腕の中にいる人物を確認する。アランは男性から逃げ出して朱羅を睨んだ。
「お前、オレを盾にしやがったな!」
「ちょうどいい場所にいたからな」
「しれっと言うな!オレはお前のそういうところが嫌いなんだ!」
「そうか」
「そうか、じゃねぇー!盾にしたことを謝れ!」
一方的な兄弟喧嘩が始まったが男性はそれを無視して少女を見た。
「紫依ちゃんも来てくれたのか。やっぱり着物が似合うね。お母さんにそっくりだ。とっても可愛いよ」
素直な褒め言葉に紫依は少しだけ頬を赤くしながら恥ずかしそうに微笑んだ。
「あ、ありがとうございます」
恥じらう姿に男性のテンションが上がる。
「あぁ、もう、可愛いな!おじさん、ハグしちゃうぞ!」
そう言って両手を広げる男性に朱羅が容赦ないボディーブローを喰らわす。
「ぐっ……」
お腹を押さえて屈みこむ男性に朱羅が感情のない声で言った。
「一応、このパーティーの主催者だからな。手加減はしといた」
「さすが、オレとアクセリナの息子……見事だ」
妙にセリフ地味た言葉を残して男性が床に倒れる。アランが慌てて助け起こす中、拍手の音がした。
「さすが、朱羅君。見事な対応ぶりだね」
茶髪に温和な顔立ちをした男性が四人の前に歩いてくる。その姿にアランが思わず呟いた。
「クリストファー・シェアード……」
世界屈指の資産家で、アランの父親である綺羅の友人でもある。
話は聞いたことがあったがアランは実際に会ったことがなかった。今後の事業展開のためにもアランにとっては是非ここで好印象を与えておきたい。
アランは綺羅を放置してクリストファーに話しかけようとしたが、予想外の声に割って入られた。
「父様、お久しぶりです」
嬉しそうに駆け寄る紫依をクリストファーが笑顔で迎える。
「久しぶりだね。元気にしていたかい?」
「はい」
仲むつましい親子の再会の光景を見ながらアランは慌てて朱羅に声をかけた。
「おい、あの子はシェアード氏の娘なのか?」
「そうだ」
知らなかったのか?と言わんばかりの朱羅の視線にアランが怒る。
「なら、一言言ってくれてもいいだ……おい?」
朱羅はアランが話している途中であるにも関わらず、再会を喜び合う二人の元に歩いていった。そして、クリストファーの前に来ると突然、頭を下げた。
「この度は我が家の騒動に紫依を巻き込んでしまい、申し訳ありませんでした」
普段とはかけ離れた朱羅の言動にアランは自分も謝るべきなのを忘れて唖然とする。だが、次にクリストファーから出た発言に驚愕した。
「朱羅君はすぐに紫依を助けてくれたんだから、謝らなくていいよ。それより、そんなネズミを雇っていた綺羅にこそ責任があると思うんだけどね。明らかに君の監督不行届きだろ?」
冷たい床から立ち上がっていた綺羅はブリザードより冷徹なクリストファーの視線を浴びて震えた。
「い、いや、そのことに関しては現在調査中で……」
「調査中ねぇ。そんなに時間がかかることかい?こうして僕の耳にも入っているのに」
アランは、このことに関してはマスコミにも一切バレないように厳しく情報規制をしていた。なのに、何故クリストファーが知っているのか……
原因を考えたアランは朱羅に近づき、そっと耳打ちをした。
「お前がシェアード氏に言ったのか?」
「いや。わざわざ、そんなことをしなくてもクリストファー氏の情報網なら簡単に知られることだ。それだけ優秀な情報網を持っているからな」
アランは綺羅と同じように顔を青くした。と、いうことは好印象どころか出だしから最悪な印象を相手に植え付けたことになる。
アランは慌ててクリストファーの前に出て頭を下げた。
「アラン・アクディルと申します。今回はご息女を危険にさらしてしまい申し訳ございませんでした」
素直に謝るアランにクリストファーは笑顔を向けて言った。
「君はまだ世界を知らない。今回は綺羅が注意するべきところだったんだ。君に非はないよ」
言外に君はまだ子どもだと言われアランが凹む。そこに、さらに追い打ちをかけられた。
「その点、朱羅君は安心だね。いち早く察して動いてくれていたし、後始末までしてくれたんだから」
その言葉に朱羅が笑顔で付け加える。
「まだ後始末の途中です。今は逃げられないように足止めをしているだけですから。本格的な掃除はこれからです」
初めて見る朱羅の良い笑顔にアランは硬直した。そこに同じような笑顔をしたクリストファーが頷く。
「それなら良かった。あんなもので済ますなら僕も手伝おうと思っていたんだ」
その光景にアランは自然と後ずさりをしていた。隣にはブリザードの視線がなくなり、いつの間にか立ち直っている綺羅がいる。
アランは綺羅に率直に訊ねた。
「親父、シェアード氏と本当に友達なのか?」
息子の疑問に綺羅が当然のように頷きながら言った。
「そうだぞ。どこからどう見ても友達だろ」
いや、どこからどう見ても、そうは見えないから訊ねたのだ。アランはここに綺羅と朱羅の血の繋がりを感じた。
「理解不可能なところがソックリだ……」
アランが脱力しているところから少し離れたところで、紫依が無表情だが和やかな雰囲気で見守っている。
「みなさん、仲がよろしいですね」
と、アランが聞いたらますます脱力しそうなことを呟きながら。
誘拐事件から二日後、朱羅の自家用ジェット機に乗って紫依は移動していた。
「蘭雪たちとは合流しないのですか?」
紫依の質問にローテーブルを挟んで反対側のソファーに座っている朱羅が書類を読みながら答える。
「これから行くところで合流の予定だ」
「そうなのですか。それにしても大変そうですね」
紫依は朱羅が眺めている書類の束を見る。だが、朱羅は平然としたまま書類の最後にサインをして後ろに控えていたリルに渡した。
「これで終わりだ。予定外のことがあってスケジュールが一日分ほど押していたからな」
そう言うと朱羅は立ち上がり紫依が座っているソファーの前に来た。紫依はすかさずソファーの端に寄り、空けたスペースを朱羅に勧める。
「どうぞ」
「あぁ」
頷きながら朱羅はソファーの上に寝た。頭は紫依の膝の上で、入りきらなかった足は通路に投げ出している。
少し驚いた顔をしている紫依に朱羅が平然と訊ねた。
「重いか?」
「いいえ」
無表情で答えた紫依に朱羅が翡翠の瞳を閉じる。
「少し寝る」
「はい」
その様子にリルが珍しく驚いた表情をした。
「朱羅が飛行機内で寝るなんて……明日は大雪が降りますよ」
「珍しいことなのですか?」
「はい。飛行機に乗っているときは必ず起きていましたから。たぶん、あの時のことが原因でしょうが……」
そう言いながらリルが薄い蒼色の瞳を伏せる。そこに大きな影が現れた。
「うぉ!本当に寝ていやがる。やっぱりオレが嬢ちゃんに膝枕をしてもらっていたのを気にしていたな」
ディーンの発言にリルが素早く反応する。
「おや?誘拐中に何をしていたのですか?」
リルからの鋭い視線にディーンが慌てて首を横に振る。
「い、いや、あれは不可抗力というか……それより、悪ガキだ!寝る前にオレの包帯を換えろよな。痒くて我慢できねぇんだ」
ディーンが包帯の巻かれたふくらはぎを出す。その姿にリルがため息を吐いた。
「大人しく病院で寝ていないからですよ」
「あんな辛気臭いところに居られるか。しかも寝ているだけなんだぞ」
ディーンの訴えにリルが諦めたように言った。
「はい、はい。では、私が包帯を換えますからイスに座って下さい」
リルの意外な申し出にディーンが喜ぶ。
「お?換えてくれるの?」
「包帯を換えるだけでしたら朱羅から許可は出ていますので」
「早く言ってくれよ。ついでにかゆみ止めも塗ってくれ」
「わかりました」
リルが松葉杖を使って歩いてきたディーンを後ろに下げる。
紫依は賑やかな声を聞きながら窓の外に広がる青空を見た。
「また、一緒に世界を見ましょうね」
紫依はこことは違う世界の青空を見ているであろう少女へ呟いた。
そんな呟きなど聞こえていない少女は安眠確保のために孤軍奮闘していた。
「ですから、寝るときぐらいは一人にさせてください!」
叫ぶフローラにルシファーが悠然と答える。
「ダメです。いつ、どのようなことがあるか分かりません。私は気配を消しますので、お気になさらないで下さい」
「どんなに気配を消しても、姿が見えたら気になるのです!」
「では、私の姿が見えなければ、よろしいですか?」
「……そうですね。それなら、まだ」
その答えにルシファーが電子端末を操作する。すると、天井から大きな布が垂れ下がってきた。
「なんですか、これは?」
フローラの当然の疑問にルシファーが布の位置を微調整しながら答える。
「カーテンというものです。向こうの世界では目隠ししたい場所をこういう布で隠すそうです」
「そうなんですか……」
納得しながらも、ルシファーの考えを読み取ったフローラは叫んだ。
「これで妥協しろというのですか!?」
「これで私の姿は見えません。何か問題がありますか?」
ルシファーがリル譲りの相手に何も言わせなくさせる笑顔でフローラを見る。その笑顔とこれ以上の反論が浮かばないフローラはベッドに崩れ落ちた。
「では、ごゆっくりおやすみ下さい」
そう言うとルシファーは一礼してカーテンの向こう側へと姿を消した。どうやらフローラが一人部屋を得るにはもう少し時間がかかりそうだ。