前編
高層マンションの最上階。リビングにある大きな窓の下には、ビルやマンションがミニチュアのように建ち並ぶ光景が広がっている。
そんな絶景が見えるリビングはモダンな家具で統一されており、無駄な物が一切なくモデルルームのように生活感がない。大きな窓からは柔らかな太陽の光が入り、冬の寒さを緩めている。
そこにお湯が沸く音が響いた。
リビングが見渡せるよう一段高く作られた場所に対面式キッチンがあり、そこでは長めのハニーブロンドで左瞳を隠した男性がティーポットにお湯を注いでいた。
そこから斜め前に置いてあるソファーには逆だった茶髪をした男性が寝そべっている。ソファーは普通より大きめなのだが、男性の体格が良いためソファーに収まりきらず足を投げ出していた。
そしてキッチンの目の前にあるテーブルのイスには長い黒髪をした少女が座っていた。その後ろでは銀髪の青年が少女の黒髪を櫛で整えている。
それぞれがひとつ屋根の下で自由に過ごしている光景だが、血が繋がった家族のようには見えない。
ハニーブロンドの男性は仕草が優雅で顔立ちは穏やかなためか、どこか中性的で柔和な印象だ。対して逆だった茶髪の男性は骨格が太く、さらに鍛えられた体をしているため良く言えば男らしい、悪く言えばむさ苦しい外見だ。
黒髪の少女は大きな深紅の瞳に整った顔立ちをしており白い肌はアンティークドールを連想させる。一方の銀髪の青年は翡翠の瞳を持ち、モデルでも滅多にいないほどの眉目秀麗な容姿をしている。
それぞれが強い個性を放っているが、リビングにはのんびりとした空気が流れている。
そこに少女が深紅の瞳だけをリビングのドアへと向けた。本当は顔ごと向けたかったのだが、青年が黒髪を結い上げている途中のため動かすことが出来なかったのだ。
少女の視線の動きに気づいた青年が手を止めて、リビングのドアに視線を向けながら訊ねる。
「どうした?」
「ここにも転送装置があるのですか?」
転送装置とは異世界とこの世界を繋ぐ装置である。世界の存続をかけた騒動を終えた後、滅多に使用することがなくなったが定期的に整備はしているので、問題なく使用できる。
青年は軽く頷きながら答えた。
「あぁ。誰か来たか?」
「えぇ。珍しい人が一人で来たようです」
少女の言葉にソファーに寝そべっていた男性の気配が鋭くなる。だが青年は気にすることなく少女の髪を結い上げながら会話を続けた。
「事前連絡はなかったが誰だ?」
「それは……」
少女が答える前にリビングのドアが開いた。
「紫依!朱羅!助けて下さい!」
そう言ってリビングに飛び込んできたのは十代前半の綺麗な顔立ちをした少女だった。
オレンジ色に輝く長い髪はツインテールに結ばれているが、それより目立つのはオレンジ色からパロットグリーンへと変化する特徴的な瞳だ。
着ている服はベトナムの伝統衣装であるアオザイのような形をしているが、ゆったりとした大きさで腰のところを幅の太い布で結んでいる。
まるで漫画の世界から出てきたような姿であり、コスプレをしているのかと思ってしまうほどだ。
だが飛び込んできた少女の表情は真剣そのもので、ただ事ではないことが分かる。それでも紫依と呼ばれた少女は驚く様子もなくマイペースに訊ねた。
「何から助ければよろしいのですか?」
「何からって……」
飛び込んできた少女が事情を説明しようとして固まった。
「……何をしているのですか?」
飛び込んできた少女の視線の先には朱羅と呼んだ青年が紫依の黒髪を結い上げている姿だった。
紫依の耳の前にある髪を少し残して、あとはポニーテールのように結い上げているのだが、おだんごを作りその中心から毛先を出している。そのため普段は腰まである黒髪の毛先が肩下で揃っている。妙に凝った髪型だ。
予想外の光景を見て固まっている少女に紫依は無表情のまま説明をした。
「私の髪を結ぶのが朱羅の最近の趣味なんです」
「まったく。こういうところは双子なんですね」
少女がため息を吐きながら言った言葉に朱羅の片眉が上がる。だが、そのことを無視して紫依は会話を続けた。
「では、その髪型にされたのはルシファーさんですか?」
「そうなのです。今回、ここに来たこともルシファーが原因です」
そこにいつの間にキッチンからこちらにきていたのか、ハニーブロンドの男性が少女にイスを勧めてきた。
「立ち話も疲れるでしょうから、こちらへお掛け下さい」
「ありがとうございます」
少女は男性の動きに驚きながらも笑顔で勧められたイスに腰掛けると、目の前に座る紫依を見て話を始めた。
「簡潔に説明します。ルシファーが離れてくれないのです」
『……』
あまりにも端的すぎる説明に全員が沈黙する。髪を結び終わった朱羅が紫依の隣に座って訊ねた。
「具体的には?」
「言葉の通りです。常に私の側にいます。こうして自分で歩けるぐらいの筋力もつきましたし、自分のことは自分で出来るようになりました。ですがルシファーがいろいろと手や口を出してくるのです。離れて欲しいと言っても、気にしないでください、の一点張りで、どうしようもないのです」
「まさか、寝るときまで側にいるのか?」
「はい。部屋の入口近くに座って寝ています」
朱羅が眉間にしわを寄せて額を手で押さえる。一方の紫依は少し考えた後、にこやかな表情を作って少女に言った。
「それは鬱陶しいですね」
笑顔で清々しく話す紫依にソファーに寝ていた男性が吹き出した。
「嬢ちゃん、ちょっと違うぞ」
「こういう場合は鬱陶しいではないのですか?」
無表情で小首を傾げる紫依に男性がソファーから体を起こして説明をした。
「確かに言葉は鬱陶しいで合っているが、笑顔で言う場面じゃない。同情するか困ったように言う場面だ」
「そうなのですか」
紫依が神妙に頷いていると、ハニーブロンドの青年が紅茶の入ったティーカップを三人の前に置いた。
「いただきます」
紫依がティーカップに口をつける。朱羅も黙ったままだが同じように紅茶を飲む。だが少女は困ったような顔をして固まった。
「紅茶は口に合いませんでしたか?それとも熱いのは苦手でしたか?」
責めるでもなく、さり気なく声をかけてきたハニーブロンドの男性に少女は首を少し横に振った。
「ごめんなさい。私は限られたものしか口にできないので、これは飲むことができないのです」
「それは失礼しました。もし、よろしければ口に出来るものを教えて頂けませんか?」
「お気遣いなく。こちらでは簡単に準備出来ないものばかりですので。ですが、ルシファーもあなたのようでしたら、私はこんなに困らなかったでしょうね」
「私のよう……ですか?」
「はい。側にいるのに威圧感や存在感がありません。それでいて必要なときはさり気なく側に来て手助けをしてくれる。まったく気疲れしません」
少女の言葉に朱羅が頷く。
「つまりルシファーがリルのような行動をすることが出来ればいいんだな」
「私は普通にしているだけなのですが」
ハニーブロンドの男性、リルが戸惑ったように微笑んでいると茶髪の男性が割り込んだ。
「こいつと同じ動きが出来るようになるって不可能だろ。それより離れさせる方法を考えたほうが良いんじゃないか?」
「それこそ不可能だな」
朱羅は茶髪の男性の言葉を切ると少女を見た。
「ルシファーがリルと同じ行動が出来るようになるよう教育する。それでいいか?」
「本音を言うと寝るときぐらいは別の部屋が良いのですが」
「そこは本人と直接交渉してくれ」
少女は諦め半分で頷いた。
「わかりました。贅沢は言っていられません。ところで、ここは何処ですか?紫依の家ではないようですが」
その言葉に茶髪の男性がソファーの上で盛大にこけた。リルは穏やかな笑顔のまま少女の前に置いたティーカップを下げる。
少女の質問に紫依が答えた。
「ここは米国にある朱羅の家です。朱羅がここでしか出来ない仕事があるということで、私も一緒にここに来ました。オーブも蘭雪も所用で出かけていますので、私の家には誰もいません」
「それで、ここに転送されたのですね。米国ですか」
少女が興味深そうに窓の外に視線を向ける。その様子を見て朱羅はリルに訊ねた。
「このサイズの服を準備することは出来るか?」
「少しお時間を頂ければ」
その答えを聞いて朱羅は少女を再び見た。
「浄化装置は持ってきているんだろ?」
「はい。予備を含めて十二時間は大丈夫です」
そう答える少女の首元では細かな装飾がされた銀色の首飾りが輝いた。異世界の人からすると、こちらの世界の空気は汚染が酷くて首に装着している浄化装置がないと生きていけないのだ。
朱羅は少女の答えを聞いてしっかりと頷いた。
「それだけあるなら時間は問題ないな。外を見てくるか?その気があるなら服を準備する。俺は用事があるから紫依と一緒に行くことが条件だが、どうする?」
朱羅の言葉に少女の瞳が輝く。
「是非お願いします!」
「では、体のサイズを測らせていただきますので、失礼しますね」
そう言うと、リルはどこに持っていたのかメジャーを取り出して少女の体の各部位を測定し始めた。リルが手を止めずに質問をする。
「服のデザインや色のご希望はありますか?」
少女は少し戸惑いながら答えた。
「こちらの服のデザインをよく知らないので、お任せします」
「では、デザインはこちらで決めさせていただきますね。色は青や緑系でよろしいですか?」
「お任せします」
「わかりました。では、少々お待ち下さい」
測定を終えたリルは一礼をすると颯爽と部屋から出て行った。淡々とした作業に少女が目を丸くしてリルが出て行ったドアを見つめる。
「あの……今のは?」
少女の疑問に朱羅が答える。
「なるべく体に合った服を準備するために採寸しただけだ。今は書斎に行って服を注文している」
朱羅の話に紫依が首を傾げる。
「書斎で注文するのですか?」
「パソコンを書斎に置いているからな。オーダーメイドで服を作るには時間がかかるから、採寸したサイズに近い既製服を服屋の店員と話しながらパソコン画面で服を確認して注文するんだろう」
「そうなのですか」
紫依が頷いているとソファーに転がっていた男性が立ち上がって軽くストレッチを始めた。
「で、オレも一緒に行かないといけないのか?」
「誰が道案内と荷物持ちをするんだ?」
「へい、へい。じゃあ、ちょっと準備してくる」
そう言うと男性は軽く手を振って部屋から出て行った。
しばらくすると、リルが積み上げられた箱を持って入ってきた。
「届いたか」
隣に店があるのかというほどの短時間なのだが、朱羅が当たり前のように言いリルも平然と答える。
「はい。靴も揃えましたので、こちらの部屋で試着をして下さい」
「あの……こちらの服の着かたを知らないのですが」
箱を見つめたまま固まっている少女を見て朱羅が紫依に声をかける。
「手伝えるか?」
「私でよければ。よろしいですか?」
紫依の確認に少女が安心したように頷く。
「お願いします」
「では、こちらへどうぞ。服はお部屋まで運びますので」
リルの誘導で紫依と少女がリビングから出て行く。その後ろ姿を見送って朱羅はため息を吐きながら携帯電話を取り出した。
「さて、面倒なことになっていないといいが」
朱羅が電話をかけるとすぐに応答があった。しかも怒鳴りながらも泣きが入っているという器用な声色だ。
『もっと早く連絡しろ!』
あまりの大声に朱羅が電話を耳から離す。
「こっちに来ているのは把握しているんだな」
『すぐに分かったが、こっちからそっちに連絡、転送出来ないように念入りに細工して、そっちに行きやがったんだよ。おかげでルシファーが大変なんだ。損害請求をそっちにするぞ』
的外れなとばっちりを朱羅は言葉で叩き落とす。
「それは本人にしろ。で、ルシファーは話ができそうな状態か?」
『姿も見たくねぇ』
「鎮静剤を打って眠らせろ」
本人の意思を無視した強攻策だが電話の相手は別の意味で否定した。
『暴れるあいつに鎮静剤を打つことが出来るだけの技量がある奴なんて、お前と紫依ちゃん以外にいねぇよ』
「……チッ」
予想はしていたが思わず本音が漏れる。それを聞き逃さなかった相手は再び大声で叫んだ。
『あ、お前、舌打ちしたな!?こっちのほうが舌打ちしたい状態だってのに!』
「わかったから叫ぶな。もう少ししたらルシファーを引取りに行く」
『もう少しなんて待てるか!今すぐ来い!』
「なら行かないが」
冷めた提案に相手がしばし黙る。相手もここは譲れない所らしい。再び声が聞こえたときは落ち着いた口調になっていた。
『……わかった。だが十分が限界だからな。それ以上は抑えられないぞ』
「わかった。ルシファーでも効く鎮静剤を準備しておけ」
『了解』
朱羅が無言で電話を切ると、いつの間にかリビングに戻っていたリルが苦笑いをしながらテーブルの上にあったティーカップを下げていた。
「ひと騒動ありそうですね」
朱羅はため息を吐きながら言った。
「迷惑をかけると思うが頼む」
「私にできることでしたら」
そう言ってリルがいつもの笑顔で頭を下げる。そこに軽い足音が近づいてきた。そしてリビングのドアが開き喜びと感激に溢れた声が響いた。
「素晴らしいですね。あれだけの採寸でこんなにピッタリの服を準備できるなんて」
そう言ったのは藍色のワンピースに白い帽子と白いブーツを履いた少女だった。
ワンピースはフリルがついたふんわりとしたスカートで膝下まである。細い足は黒いタイツと白いモコモコブーツでおおわれており、その姿は大人びた綺麗な顔立ちの少女を年齢相応の可愛らしい外見にしている。
目立つオレンジ色の髪も白い帽子で隠れており、首に付けていた銀の首飾りは白いリボンのチョーカーで見えなくなっていた。
満足そうな少女にリルが微笑む。
「キツイところや動かしにくいところはありませんか?」
「問題ありません」
「では、こちらをどうぞ」
リルが淡い緑色のコートと藍色の手袋を渡す。少女は不思議そうな顔で手袋を受け取ると、いろいろな方向から観察し始めた。その様子に紫依が少女に近づく。
「それは、このようにするのですよ」
紫依は少女の手に手袋をはめると、次にコートを着せた。
「外は寒いですから。温かい格好をしたほうがいいですよ」
「そんなに寒いのですか?」
「はい。雪は降っていませんが、風がとても冷たいです」
少女は手袋でおおわれた手を見た後、視線を朱羅に向けた。
「これで外に行っても大丈夫ですか?」
「あぁ。それなら目立つ行動をしなければ注目されることもないだろう」
「では、行きましょう」
待ちきれないという雰囲気の少女に紫依の深紅の瞳がどこか嬉しそうに緩む。朱羅がそんな紫依の頭を撫でながら言った。
「その前に一つ。向こうからこちらに来られないように転送装置に細工してきただろ?解除プログラムはどこにある?」
朱羅の質問に少女が苦笑いをする。
「こちらの転送装置の隣にデータ媒体を置いています。それを使えば解除できますよ」
「わかった。帰ってくる頃にはルシファーをどうにかしておく」
そこで朱羅は紫依に視線を移して言った。
「ディーンがエントランスに車を回しているから、行きたい場所があれば遠慮なく言えばいい」
「わかりました。では、いってまいります」
そう言うと紫依は少女と共に駆け足でリビングから出て行った。
「まるで姉妹のようですね」
リルの感想に朱羅が軽く笑う。
「そうだな。紫依はずっとあいつにいろんな世界を観せたがっていたし、自分も観たがっていた。今回のことは丁度いい機会だろう。あとは、こっちの面倒事だけだな。少し席を外す」
そう言うと朱羅はリビングから出て行き、転送装置が置いてある部屋へ入った。そして少女が言った通りの場所に置いてあったデータ媒体を掴むと、その隣にあるスイッチを押した。
「今から、そっちに行くが問題ないか?」
朱羅の言葉に清水のように透き通った声が返事をした。
『転送は問題ありません。その他の問題はありますが。ブローディアが一刻も早く来て欲しいと嘆いています』
その言葉を聞きながら朱羅が壁にかけてあった銀の首飾りを手に取る。今から行く異世界の空気は清浄すぎるため、この首飾りをつけていなければ毒となって体を蝕むのだ。
朱羅は慣れた手つきで銀の首飾りを装着すると声をかけた。
「今から行く」
『はい。どうぞ』
朱羅が薄暗い部屋の中で輝きだした転送装置に飛び込む。次に見えた光景は天井と壁が半分無くなり空と草原が一望出来る部屋だった。
「随分と風通しが良くなったな」
朱羅の感想に、部屋の唯一の住人である長身の金髪の美丈夫が吠えた。
「お前が遅いからだ!さっさと回収してくれ!」
そう言って金髪の美丈夫がペンのようなものを朱羅に渡す。朱羅は渡されたペンのようなものの中に入っている液体を見ながら金髪の美丈夫に確認した。
「これだけで足りるのか?」
「鎮静剤を極限まで濃縮して致死量ギリギリ手前の量を詰めた。これなら効くはずだ」
いろいろとツッコミどころがある内容の話だが、朱羅は何でもないように頷いた。
「なら大丈夫だろう。ルシファーはどこだ?」
「隣でプアールが抑えている」
「そうか。あと、これであいつが細工したプログラムを解除することが出来る。ルシファーの回収が終わるまでにやっといてくれ」
「わかった」
金髪の美丈夫は朱羅からデータ媒体を受け取ると転送装置に差し込んで作業を始めた。
一方の朱羅は残っている壁についているドアから隣の部屋に入った。が、そこはもう部屋ではなく完全に外と一体化していた。
壁と天井はなくなり、ここが屋内であったことを示すものは背後のあるドア付きの壁と、足元に残された床だけだった。
そんな開放的な部屋で白銀の髪をした十代前半の少年にも少女にも見える子どもが仁王立ちをして睨んでいた。
キラキラと輝く髪の隙間からは特徴的な猫耳が見えている。その視線の先には光の檻に入れられた白髪の青年がいる。
白銀の髪をした子どもは朱羅が部屋に入ってきたことにすぐに気づいたが、背を向けている白髪の青年は気づかない。と、いうより頭に血が上っているようで周囲が見えていないようだった。
白髪の青年が努めて穏やかに怒りを抑えた声で話す。
「これは非常事態なのですよ。賢者の住む城はフローラの捜索に協力すべきでしょう?」
「だから協力しているだろう。これ以上、事態がややこしくならないように」
「これのどこが協力ですか?協力するなら、この檻を外しなさい。でなければ自力で壊します」
白髪の青年の脅しに白銀の髪をした子どもは大きく息を吐いた。
「わかった。だが、もう暴れるなよ」
白銀の髪をした子どもが右手を白髪の青年に向ける。すると白髪の青年を囲んでいた光の檻がスゥーっと消えた。と、同時に朱羅が白髪の青年の真後ろに立つ。
「では私を向こうの世界に……」
と、言ったところで白髪の青年の言葉が切れた。朱羅が白髪の青年の後頭部を容赦なく殴りつけたからだ。
あまりの衝撃に白髪の青年の体が倒れ掛かるが足を一歩踏み出してこらえる。そこに朱羅がとどめとばかりにペンのような形をした鎮静剤入り注射器を首に突き刺した。
「な……に……」
白髪の青年は自分に何が起きたのかを把握する前に眠りに落ちた。朱羅は床に倒れた白髪の青年を肩に担ぐと白銀の髪をした子どもの方を向いた。
「損害請求はこいつにしてくれ」
「当然だ。回収してくれて助かった」
「不本意だが、あいつがこっちに逃げてきたのだから、しょうがない」
「迷惑な話だな。で、それはどうするんだ?」
「こっちで躾しつけをする。うまくいくかは分からないがな」
「忠実すぎる犬も問題だな」
「忠実すぎない犬も問題だがな」
そこに金髪の美丈夫が部屋に入ってきた。
「細工は解除した。いつでも向こうに行けるぞ」
朱羅は白銀の髪をした子どもに訊ねた。
「浄化装置はあるか?」
「あぁ。ブローディア、持ってきてくれ」
白銀の髪をした子どもの指示に金髪の美丈夫、ブローディアが苦い顔をする。
「いいのか?こいつを向こうの世界に行かせても」
「向こうの世界でしっかり躾てもらうためだ」
「なら、多めに渡さないとな。一週間分ぐらいでいいか?」
ブローディアの嫌味が入った言葉に朱羅が言葉を投げつける。
「半日分で十分だ」
「なんなら一年分でもいいぞー」
そう言って笑いながらブローディアが隣の部屋へ行く。その様子に朱羅は白銀の髪をした子どもに視線を向けた。
「プアール、他人の犬の心配より自分の犬の躾をし直したほうがいいんじゃないか?」
「面倒くさい」
ほとんどの壁と天井が壊され、開放的となった隣の部屋から反論の声が上がる。
「ちょっと待て!その前に俺はプアールおまえの犬じゃねぇーぞ」
「じゃあ、なんだ?」
朱羅の問いにブローディアが銀の首飾りを数個ほど持って帰ってきた。
「賢者の住む城の守護者だ」
誇りを持って口にしたブローディアの言葉に朱羅が頷く。
「番犬だろ。犬で間違いではない」
「違う!あー、もう後片付けが山積みなんだよ!とっとと帰れ」
反論することが面倒くさくなったブローディアが浄化装置である銀の首飾りを朱羅に押し付ける。
「そうする。こちらも暇ではないからな。何かあったら連絡する」
白銀の髪をした子ども、プアールが頷く。
「そうしてくれ」
「あぁ」
朱羅は白髪の青年に首飾りを装着すると転送装置に入った。
ルシファーが目を開けると、そこは見知らぬ部屋だった。壁一面に備え付けられた本棚には隙間なく本が詰められ、その部屋の中心に置いてあるソファーに寝ている状態だ。
「目が覚めたか。あの鎮静剤を打って三十分で起きるとは、どういう体をしているんだ?」
その声にルシファーはソファーからゆっくりと体を起こして周囲を見た。
ドアから一番離れた場所に重厚な木で作られた机があり、その上にはパソコンと積み上げられた書類がある。
その先に朱羅がいるのだが、視線はパソコンと書類に向けられておりルシファーを見ることはない。
そして、その左隣にも同じような机が九十度横に向いて置かれていた。そこには数台のパソコンとプリンターが並んでおりハニーブロンドの男性が作業をしている。
「ここはどこですか?」
質問とは違う答えだが朱羅は気にすることなく言った。
「米国にある俺の家だ」
「後頭部に衝撃を受けたあと、針を刺されたような感覚がしてからの記憶がないのですが、あなたの仕業ですか?」
ルシファーの鋭い視線を無視して朱羅が世間話をするように言った。
「プアールがおまえに損害請求すると言っていたぞ。だが、あれだけ破壊されたら修理するより建て替えたほうが早いだろうな」
話をそらされたことと状況からルシファーは自分を気絶させてここに連れてきたのが朱羅であると確信した。そして重要なことを思い出した。
「フローラはどこですか!?」
鋭い殺気混じりの気配を放つルシファーに対して、朱羅がそれ以上に冷徹な気配を放つ。
「暴れるなよ。暴れたら一切話さないからな」
ようやく向けられた翡翠の瞳が静かに警告している。ここで力を出せば朱羅はフローラのことについて絶対に話さない。
相手が切り札を持っている以上、ルシファーは従うしかなかった。
ルシファーはソファーから立ち上がると、颯爽とした足取りで朱羅に近づき正面から翡翠の瞳を見下ろして言った。
「フローラはどこですか?」
その様子に朱羅はため息を吐きながら視線を書類に戻す。
「まったく。致死量手前の量を打ったのに効果がこの程度とはな。今度、暴走したら致死量の二倍量を打ってみるか」
さらりと物騒な発言をしながら書類にサインをして机の横に置いてある箱の中に入れる。そして次の書類を読み始めた。
「フローラはどこですか?」
怒りと焦りを抑えながらルシファーは三回目になる言葉を口にした。だが朱羅は気にすることなく淡々と書類とパソコンを見比べている。
「話す気がないのですか?」
言葉を変えたルシファーに朱羅は視線をルシファーに向けることなく言った。
「あいつが何故ここに来たのか理由はわかっているのか?」
「……理由?」
まったく思い当たらない、というか考えてもいなかったため何も言えない。そのまま無言になったルシファーに朱羅は自分の作業を進めながら言った。
「あいつは助けを求めてここに来た」
言葉の内容にルシファーが机の上に両手をついて朱羅に迫った。
「どういうことです!?フローラは誰かに追われていたのですか!?こちらの調べでは、そのような形跡はありませんでしたが!」
机の上に体を乗り上げて近づいてきたルシファーに、朱羅は手だけで下がれとジェスチャーをした。まるで犬を追い払うような仕草だ。表情は無いが。
「影になるから近づくな。あいつはお前から逃げてきたんだ。お前がずっと側にいることに耐えられなくなったって」
「まさか……私のことは気にしないで下さいと言っていたのに……」
ルシファーが固まったまま呆然と呟く。プログラムによって神を守ることが使命となっているルシファーにとって自分を拒否されることは存在を否定されることに等しい。
朱羅は書類に目を通しながら、うどの大木と化したルシファーに淡々と話しかけた。
「お前に組み込まれたプログラムはあいつの親が作った防御プログラムが強く影響している。だから、あいつもお前が自分から離れられないことは理解している。ただ、やり方が問題なんだ」
問題があるということは解決策もあるということになる。少し気力が戻ったルシファーは再び朱羅に詰め寄った。
「では、どのようにすれば?」
「だから、近づくな。あいつはお前がリルのように動いてくれれば良いと言っていた」
「……リル?」
訝しむルシファーを無視して、朱羅はいつの間にか隣に控えていたリルに読んでいた書類を渡した。
「詳細な数値を出すように伝えろ。それと対比データも増やせと」
「わかりました」
書類を受け取ったリルはルシファーに体を向けて笑顔で自己紹介をした。
「リル・ブランと申します。お見知りおきを」
「ルシファーです。あなたはフローラに何をしたのですか?」
微笑みながらも敵対心丸出しのルシファーにリルも微笑みで対抗する。
「特別なことはしておりませんよ」
「特別でなくても、何かをしたのでしょう?何をしたのですか?」
質問とともに距離を縮めるルシファーに朱羅が待ったをかける。
「それ以上、近づくな。そういうところが問題なんだ」
指摘されたルシファーの足が止まる。朱羅はリルに視線を向けて補足説明をした。
「こいつは限られた人間としか接したことがない。そのためコミュニケーションの取り方について知らないことが多くある。そして、あいつ……フローラのことになると周囲がまったく見えなくなる」
「そうでしたか」
「とりあえず、リルはいつも通りのことをしていてくれ」
「わかりました」
そう言うとリルは綺麗な一礼をして自分の机に戻ると作業を再開した。あまりにもあっさりとしたリルの行動にルシファーが拍子抜けする。そこに朱羅が声をかけた。
「そこに座ってリルの行動を観察していろ。お前がリルのような行動が出来るようになったらフローラの居場所を教える」
「そんな時間は……」
ルシファーの言葉を朱羅が殺気とともに容赦なく斬る。
「黙れ。今だけ我慢すれば済むことだろ」
その言葉にルシファーは出かけた言葉を飲み込んだ。すぐにでもフローラの居場所を聞き出したがったが渋々こらえる。これがフローラの望みでもある以上、その要望には応えないといけない。
「……わかりました」
ルシファーは静かにソファーに座ると黙ってリルを観察した。
動作は洗礼されていて優雅で無駄がない。まるでオーケストラの指揮をしているかのように滑らかに手が動いている。それでいて時々朱羅の様子を伺っている。しかも相手には気づかれないぐらいの些細な視線の動きだけで。
そして朱羅が声をかける前に音もなく椅子から立ち上がり隣に控える。すると朱羅が当然のように書類を見せてリルに指示を出した。
「建物が大きすぎる。もう少し縮小するように伝えろ」
リルは渡された書類を見て朱羅に言った。
「この国の経済成長率を考えますと、これでも小さいぐらいです。できれば、もう少し大きくしたいぐらいなのですが」
「俺はこれ以上、大きくしたくないし増やしたくないんだがな」
そう言いながら朱羅はリルから書類を取って眺めた。
「それは承知しております。ですが現状を維持するためには必要なことかと思います」
「これが妥協点か。わかった。一応、余裕を持たすために建物は二割ほど大きくしてもいい」
朱羅は書類に何かを書き加えてサインをしてからリルに渡した。
「ありがとうございます」
リルは書類を受け取ると再び自分の椅子に座って作業を再開させた。まさに阿吽の呼吸と言うべき光景にルシファーは素直に驚いた。
ルシファーは今まで一方的にフローラを守ることしか考えていなかった。というか、人と人とのコミュニケーションが希薄な世界で育ったため、それが当然であった。そのためリルの動きはとても新鮮に感じた。
自分の存在感を消し、相手の負担にならない距離を取る。それでいて必要とされるときは素早く現れ、見苦しくない動きで対応する。
一を知れば十、いやそれ以上を知ることが出来るルシファーはリルを鋭く観察して、指先一つの動きから表情まで全てを頭に叩き込んでいった。
外出組のお守役であるディーンは盛大に疲れていた。
今いる場所は可愛らしいアクセサリーや小物が並ぶショップなのだが、長身で体格がよいディーンには明らかに場違いの場所だ。
そんな場所にいないといけない原因は目の前で楽しそうに商品を見ている二人の少女だった。
非常に愛らしい容姿をした二人はお客や店員の視線を浴びても気にすることなく会話をしている。そして一番困る瞬間がたびたび訪れることによってディーンの疲労は一段と増していた。
ディーンが疲れを顔に出さないように気を引き締めていると、紫依が振り返って二つの商品を見せた。
「どちらが良いと思いますか?」
表情はあまりないが小首を傾げて訊ねてくる姿は文句なしに可愛らしい。だが、ディーンにとってこの瞬間が一番の苦行となっていた。
「どっちって……」
紫依は右手に深紅のリボンで作られた花の髪飾り、左手に虹色に輝く石とオレンジ色の布で作られたブローチを持っていた。
はっきり言って興味ないし、正直どちらが良いかなんてわからない。だが、それを言ってはならないことは、日頃から無神経と言われているディーンでも分かっていた。
サングラスの下で視線を彷徨わせながらディーンは紫依の右手を指差した。それだけで何も言っていないのだが、紫依は少し笑顔になって頷いた。
「では、こちらにしますね。あとは……」
そう言って再びディーンに背中を向けて商品を見ていく。何度目か分からない苦行にディーンは無意識にため息をついていた。
そのことに気づいた紫依がフローラに声をかける。
「そろそろお昼になりますし、どこかで休憩しましょうか?」
「はい」
「では、商品を買ってきますので少しお待ちください」
そう言うと紫依はレジへ商品を買いに行った。
ディーンは上からでは白い帽子しか見えないフローラに視線を向けて訊ねた。
「疲れたか?」
するとフローラが顔を上に向けて視線を合わせて答えた。
「いいえ」
キラキラと今にも輝きだしそうなほど良い笑顔付きの返事にディーンが思わず苦笑いをする。この苦行は今日だけだと自分に言い聞かせて、なんとか気力を奮い立たせる。そうでもしないと足が逃げ出そうとするのだ。
そこに商品を入れた袋を持った紫依が帰ってきた。
「お待たせしました」
近づいてくる紫依にディーンが手を伸ばす。そして紫依から自然と商品が入った袋を持ち去り他の商品が入っている大きな紙袋の中に入れた。
「ありがとうございます」
「荷物持ち要員だからな、気にするな。で、どこで休憩するんだ?」
「そうですねぇ」
店から出て紫依が周囲を見渡す。そして同じように周囲を見ているフローラに声をかけた。
「気になるお店がありますか?」
「車で移動している途中に見えたのですが、池の近くにあるお店が気になりました」
「あぁ、あれか」
その言葉にディーンはすぐに思い当たる店があった。
フローラが言ったのは、公園の中にある軽食を出すカフェだ。池の上にオープンテラスがあり景色と環境が良いことを売りにしている。
ただ、公園の奥にあるため車道からはほとんど見えない。そのため知る人ぞ知る隠れ家のようなカフェでもある。
そんな場所にあるカフェを車に乗っている時に見つけたフローラの視力と観察眼に舌を巻きながらもディーンは頷いた。
「こっちに近道がある。十分ぐらい歩くが大丈夫か?」
ディーンの質問にフローラが笑顔で答える。
「はい。それぐらいなら歩けます」
「じゃあ、行くか」
こうしてディーンの案内で公園のカフェへと歩いていった。
適度な間隔で植えられた木々の葉は全て落ちているが、そのおかげで柔らかな日差しが遮られることなくオープンテラスを照らしている。目の前には池があり、優雅にカモが泳いでいる。
心地よい冬の寒さを楽しみながら三人はオープンテラスで食事をしていた。いや、正確には食事をしているのは二人で、一人は楽しそうに風景を眺めていた。
「本当に食べなくていいのか?」
一人でハンバーガーセットを三つ食べ終えたディーンの質問にフローラが微笑む。
「はい。私はこれで十分ですので」
そう言ってフローラは持参していた小さな水筒を見せた。大きさは掌ぐらいでコップ一杯にも満たないぐらいの量しか入りそうにない。
「そういうもんなのか」
普通なら気になるところだが、十年を超える朱羅との付き合いで必要以上に興味を持たないという技術を身につけたディーンは、それ以上は追求せずにとりあえず納得した。
そんな二人をサンドイッチを食べ終えた紫依がカプチーノを飲みながら和やかに見ている。
ほのぼのとした光景だが三人は通行人から奇異の目で見られていた。
最初に視界に入るのは明るく楽しそうに笑う少女とその反対側に座っている人形のような少女。
二人共見目麗しく、つい見とれてしまうが、そこに背筋が凍るような視線が飛んでくる。
それは二人の少女の間に座っている男性からだった。
年齢にしては体格が良くワイルドな雰囲気垂れ流しの男性。だがサングラスをかけていても分かるほどの睨みは年期が入った凄みを帯びている。
そんな男性と十代の若い美少女が二人。どう考えても男性と美少女が釣り合わない上に関係性も見えてこない。
だが、そんなことを考える前に男性の睨みに負けて通行人は視線をそらして何も見なかったかのように去っていく。
そうした中、池の周囲を歩いていた一人の青年がカフェテラスを見て足を止めた。そして父親譲りの翡翠の瞳で男性を見たあと、後ろをついて歩いていた護衛の二人に言った。
「公園の入口で待っていろ」
その言葉にすかさず護衛の一人が反論する。
「お一人になられるのは困ります」
「あそこに朱羅の護衛がいるだろ?あいつのところに行くだけだ」
言いだしたら他人の意見など聞かない主の性格を知っている護衛は渋々下がった。
「……わかりました。御用が終わりましたら連絡して下さい」
「あぁ」
こうして青年は悠々とカフェの中に入りオープンテラスに行くと目的の人物に声をかけた。
「やあ、こんなところにいるとは珍しいじゃないか。あいつはどうした?」
赤茶色の髪に嫌味なく整った顔立ち。体つきもしっかりしており、背は平均身長より明らかに高い。外見だけなら、どこも非の打ちようがない好青年なのだがディーンはどこか嫌そうな顔で言った。
「悪ガキは家でお留守番だ。坊ちゃんこそ護衛はどうした?」
ディーンの言葉使いに青年が呆れた表情になる。
「相変わらず言葉使いがなってないな。護衛は置いてきた。誰かのように、いつまでも護衛をつけないと行動出来ない子どもではないからな」
「へい、へい。それはご立派なことで。で、何か御用ですか?」
ディーンが半分呆れたように言うが青年は気にせずに二人の少女を見た。
「お前に用はない。そちらの可愛いお嬢さん方とお話がしたいと思ってな。そこに座ってもいいかな?」
青年は爽やかな笑顔で紫依とフローラに言った。その表情は自分の容姿に絶対の自信を持ち、断られることはないと確信をしている。実際にこう言って断られたことはないし、むしろ女性から声をかけられることの方が多かった。
だが、紫依が発した言葉は青年が想像したものとは半分違った。
「どうぞ、お座り下さい。ですが……」
まさか否定の言葉がくるとは思っていなかったため青年は思わずオウム返しで少女の言葉を口にした。
「ですが?」
「すぐに立つことになりますよ」
「は?」
意味がわからず棒立ちとなっている青年を無視して、紫依は視線だけで周囲を見ながらディーンに訊ねた。
「私はこういう場面での対処方法を知らないのですが、どうしたらよろしいのでしょうか?」
その言葉にディーンが茶髪の頭をかきながらも視線を鋭くして周囲を観察しながら言った。
「すまないな、嬢ちゃん。本当ならこうなる前にオレが気づいて対処するべきだったんだが。ちなみに嬢ちゃんの実力は?」
「自分の身は自分で守れます」
「そうか。とはいえ、目の前は池で戦力外の人間を連れて逃げるのは難しそうだし、相手の人数も分からないからな。ここは大人しく相手の出方を見よう」
「わかりました」
まったく意味不明の会話に青年が怒ったように割って入る。
「何の話をしているんだ?」
だが紫依は再び青年を無視してフローラに声をかけた。
「抵抗しないで相手の指示通り動いて下さい」
フローラもなんとなく察したらしく穏やかに頷いた。
「わかりました。まあ、朱羅と同等の実力を持つ紫依が一緒なら危険などありえないでしょうけど」
その言葉にディーンの顔が思いっきり引きつる。
「そうだよな。悪ガキの仲間だもんな」
可愛らしい外見のため、もしかしたら普通かも(性格的に普通ではないところもあったが)と、一ミリでも考えて一所懸命に護衛をしていたディーンは、ため息を吐いて空を見上げた。
護衛対象が護衛より強い時点でプライドが傷つくのだが、自分より遥かに小柄で可愛らしい姿は傷に塩……いや、唐辛子を塗りこまれた気分になる。
ディーンの視線が遠くに逝きかけたところで、無視に耐え切れなくなった青年が襟首を掴んだ。
「どういうことか説明しろ!」
青年に意識を戻されたディーンは襟首を掴まれたままカフェの店内を指差した。
「こういうこと」
青年がそのまま指差された方を見ると、そこには銃を持った数人の男達がいた。その中心には先ほどまで青年を護衛していた男がいる。
「どういうつもりだ!?」
思わず叫ぶ青年に男が笑顔を作って近づいてきた。
「お一人にならないように、と忠告したでしょう?」
「もう一人はどうした?」
「忠実に公園の入口であなたからの連絡を待っていますよ。さ、怪我をしたくなければ大人しく言う事を聞いて下さい」
ディーンは見本となるように大人しく立ち上がり両手を上げた。紫依とフローラもそれに習って同じ動きをする。
「武器と携帯電話を出して、こちらに投げて下さい」
ディーンは男の指示に従ってゆっくりとした動きで懐から銃と携帯電話を取り出して投げた。紫依もポケットから携帯電話を取り出して投げる。
「さあ、アランも出して下さい」
アランと呼ばれた青年は悔しそうに携帯電話を取り出して投げた。
「では、こちらにどうぞ。と、その前に」
男はサイレンサー銃をディーンの足元に向けた。その動作に紫依がとっさに足でディーンの膝裏を小突く。ディーンが体のバランスを崩すと同時に銃弾が左足のふくらはぎを貫通した。
「っ……」
ディーンが声を抑えて床に膝をつく。
「逃げられないように足を封じておきます」
冷徹な男の声を無視して紫依はしゃがみこんで血が流れるディーンの足を見た。
「大丈夫ですか?」
紫依がハンカチを取り出して傷口に巻きつけるが血は止まらない。紫依は着ていた上着を脱ぐと袖を破いて傷口より上に縛り付けた。
「少しきついと思いますが、これで止血します」
「助かる」
そう言うとディーンは心配そうに見つめているフローラに笑いかけた。
「カスリ傷だ。そんな顔をするな」
そう言いながらも顔には痛みのせいか汗が出てきている。そこに男の無情な声が響いた。
「行きますよ」
男に促されて青年とフローラが歩き出す。ディーンも歩こうと立ちあがるが左足を動かすだけで激痛が走った。
「捕まって下さい」
そう言って紫依がディーンの隣に立つ。こうして並ぶと良く分かるのだが、紫依の身長はディーンの胸の辺りまでしかない。しかも明らかに小柄な体の紫依に自分のこの巨体が支えられるのかとディーンは戸惑った。
そんなディーンの考えを読んだのか、紫依が安心させるように少し微笑んだ。
「大丈夫ですよ。こう見えても力はありますから」
「……重かったら言ってくれ」
「はい」
ディーンは差し出された紫依の肩に手をかけて歩き出した。紫依の体はディーンが体重をかけてもしっかりと安定して歩いており、外見とかけ離れた強さを持っていることを実感する。
こうしてカフェから出た四人はすぐ目の前に止まっていた公園関係者用のトラックに乗せられて公園から出て行った。
薄暗いトラックの荷台の中でディーンは壁に背をつけて頭の中に地図を浮かべていた。壁から伝わると物音と速度で現在地に目星をつけていく。
そこに紫依が話しかけてきた。
「これから、どうするべきですか?ディーンさんの傷の状態を考えると、すぐにでも病院に行きたいのですが」
紫依の言葉にアランと呼ばれていた青年が呆れたように言った。
「君は状況が分かっているのかい?今はこいつのことより自分の心配をするべきだ」
普通なら正論であるアランの意見にディーンは苦笑いをしながら言った。
「確かに普通なら坊ちゃんの言う通りの状況だな。傷は嬢ちゃんがオレの足を蹴ってバランスを崩してくれたおかげで銃弾が骨に当たらずに貫通したからマシだ。あのまま撃たれていたら銃弾が骨に当たって、こんなもんじゃ済まなかった」
ディーンの説明にアランが軽く笑いながら紫依を見る。
「そんなこと計算で出来るわけないだろ。偶然だよな?」
アランの確認に紫依がどこか悔しそうに答えた。
「本当でしたら完全に避けられるようにするべきだったのですが……」
その表情は真剣そのものでアランは思わず絶句した。
そこにディーンがなんでもないことのように紫依に言った。
「完全に避けていたら今度は確実に足の骨を撃ち抜かれていた。あの状況なら、これがベストな判断だった。嬢ちゃんが気にすることないさ」
可憐な少女が銃弾の軌道を計算して避けさせたという事実が受け入れられず、アランは少し怒ったように言った。
「冗談を言っている場合ではないんだぞ。オレをからかっているのか」
紫依がアランに視線を向けて当然のように説明をする。
「銃の方向と角度を見れば狙っている場所は分かりますし、引き金を引く指の動きに注意していれば避けることは難しくありませんよ」
確かにそれは理屈としては分かるが実践することは容易ではない。しかも銃を前にした命の危機的状況では尚更だ。
常識が通じない少女を前に唖然としているアランにディーンが声をかける。
「その議論はまた今度だ。それより、これからのことについて考えよう。あいつは坊ちゃんの知り合いだったみたいだが、誰だ?」
アランは話を振られて慌てて平静を装いながら答えた。
「あ、あれはオレの護衛だ。半年前からオレ専属で雇っている」
「雇う前の経歴は?」
「そんなものは知らん」
当たり前のように言い切ったアランにディーンはすぐに言葉が出なかった。
「……まあ、しょうがないか」
ディーンがなんとか出した言葉にアランが不服そうに噛み付く。
「なんだ、その言い方は!朱羅だと違うと言うのか!?」
ついには怒り出したアランにディーンは面倒くさそうに説明を始めた。
「悪ガキなら自分の近くで働く人間の素性を把握していないなんてことは絶対にない。生まれや育ち、家庭環境から友人関係まで調べて問題ないと判断した人間のみを採用する。それでも自分と顔を合わす可能性があるような場所で働く人間は、その中のごく一部だ。しかも、その人間の情報は全て把握している。ま、ぬるま湯に浸かって育った普通の次男坊の坊ちゃんに同じことをしろとは言わないけどな」
「な……デタラメだ。そんなこと出来るわけない」
「信じる、信じないは坊ちゃんの勝手だ。ただ、悪ガキは神童と呼ばれた天才だからな」
無言になったアランに同情するようにディーンが言った。
「出来が良すぎる弟を持つと兄は苦労するよな」
その言葉にフローラが首を傾げる。
「もしかして朱羅のお兄さんですか?」
フローラの質問にディーンは頷きながら答えた。
「そうだ。悪ガキは四人兄妹でこの坊ちゃんは二番目の兄になる」
その説明に紫依が納得したように言った。
「どうりで風の雰囲気が似ていると思いました。と、いうことは朱羅には二人の兄様と一人の妹がいるのですか?」
「そうだけど、嬢ちゃん知らなかったのか?」
予想外のことにディーンが驚く。
紫依はいつもと変わらない様子で言った。
「はい。そのような話はあまりしないので」
ディーンは余計なことを話したかと考えながらも何でもないように話題を戻した。
「そうか。話がそれたが、これからどうするか、だな。あいつは坊ちゃんに一人になるなって言ったって言っていたから、どうやら坊ちゃんが目的みたいだ。坊ちゃん、誘拐される心当たりは?」
三人からの視線にアランは開き直ったように言った。
「いくらでもある」
「だろうな」
想像通りの答えにディーンが肩を落とす。
アランと朱羅の父親が経営しているアクディル財閥は世界中にいろんな分野で企業経営している。身代金目的から仕事に対する怨恨を含めたら、いくらでも誘拐される可能性がある。
ディーンは紫依を見て言った。
「嬢ちゃん、いざとなったらオレはほっといて、この二人を連れて逃げろ」
「ほっときません。逃げるなら一緒に逃げます」
断言する紫依にディーンが顔を歪める。
「悪いがオレは動けそうにない。足手まといになるだけだ」
ディーンの額から汗が流れ落ちる。顔色も先ほどより悪くなっている。紫依は冷静に足の傷を見た。
「傷から熱が出てきたのですね。出血も完全には止まっていませんし……とりあえず体を横にして下さい。座っていては体に負担がかかります」
「このままで大丈夫だ」
「ですが……」
そこでいきなりトラックが大きく揺れた。その拍子にディーンの体が倒れる。紫依はディーンの体を支えると、そのまま床に座って自分の膝を上にディーンの頭を置いた。いわゆる膝枕状態であり、その光景にアランでさえ少しうらやましそうな視線をディーンに向ける。
普通なら美少女の膝枕という状況に喜ぶものだが、ディーンは大いに焦っていた。
「ここまでしなくていい!わかった!横になる!横になるから、これは止めてくれ!」
ディーンの慌てぶりに紫依が首を傾げる。
「ですが、床は硬いですし振動で頭を打ちますよ。このままの方が良いと思いますけど」
「そうじゃなくて……」
もし、この状況を朱羅に見られたら、その後自分の命があるか分からない。いや、見られなくても、この状況が朱羅の耳に入った時点でどうなるか……
ディーンの思考が誘拐犯から逃げ出すことより朱羅からどのように身を守るかに切り替わる。別の意味で顔色が悪くなったディーンに紫依が微笑みかけた。
「少し休まれたほうが良いですよ」
人形のように整った顔をした天使の微笑みが、今は死神の微笑みのように感じる。幻覚か紫依の背後に大鎌まで見えてきた。
「やっぱり……」
ディーンが起き上がろうとしたところでトラックのエンジン音が止まった。だが、不思議なことにトラック自体は微かに振動している。通常ではありえないことにディーンが耳に神経を集中させた。
「エンジン音が微かにする。港方向に移動していたが……まさか、船に乗ったのか!?」
トラックごと船に乗せて誘拐するとは大胆な犯人である。徐々にトラック全体が揺れ、ディーンの推測が正しいことを証明するように遠くから汽笛の音が響く。
ディーンは脱力して呟いた。
「ここまでするかよ」
「と、いうことは、私たちは船に乗っているのですか?」
どこか嬉しそうなフローラに紫依が頷く。
「ええ。船に乗るのは初めてですか?」
「はい」
「私もです。景色が見れないのが残念ですね」
「そうですね」
そう言って微笑みあう二人にアランが怒る。
「今はそういう話をしている場合じゃない!どうやっても逃げられない状況になったんだぞ!」
叫ぶアランに紫依が穏やかに声をかける。
「まあ、まあ。落ち着いて下さい。もうすぐ来ますから」
その言葉にディーンの表情が固まる。
一方のアランは訝しげに訊ねた。
「誰が来るんだ?」
紫依は微笑んだまま答えない。代わりにディーンが暴れだした。立ち上がろうとするが傷の痛みでうまく動けない上に、紫依によって動かないよう押さえつけられる。
そこにフローラが質問をした。
「一人ですか?」
その言葉に今度は紫依の表情が固まる。その様子にフローラが諦めたようにため息を吐いた。
「この船が沈まなければいいのですが」
そこにトラックの荷台を閉じていた扉が開いて光が差し込んできた。