女性の影
2人で残業したあの夜から、特に態度が変わったとかいうことはないけれど、ちょっとしたタイミングに吉川課長がよく話しかけてくれるようになった。
それは特別なものではなくて、エレベーターに偶然乗り合わせたときや、廊下ですれ違ったときなど、ほんの些細なものばかりだったけれど、私はすごく嬉しかった。その喜びを隠すのに必死で、つい無愛想になってしまったりもするんだけど。
なにより、課長はモテるから…。万が一噂になってしまったら、私は社内の女性社員によって針のむしろにされてしまうだろう。
1週間ほどたった、ある日のこと。
「ねえ、課長って総務部の森山さんとつきあってるらしいよ」
木曜日の午前中、カフェスペースでいつものカフェオレを買っていたら、女性社員のそんな噂話が耳に入ってきた。
『課長』って、吉川課長のこと……、だよね。この階には企画部しかないし、2課の課長は既婚者だし…。
考えれば、何も珍しいことではない。総務の森山さんといえばスタイルも良くて、社内でも有名な美人だ。たしか吉川課長と同期だったはず。
「えーっ、うそー!」
「ほんとだって。日曜に仲よさそうに歩いてるの、見た人がいるんだから」
「あー…。でもお似合いの2人だよね」
きゃははっと笑いながら、女性社員たちはオフィスに戻っていった。
…私は何も考えられなくて、体から力が抜けていくのを感じる。思ったよりもショックを受けているらしい。
私、気づかないうちに課長のことがこんなに気になっていたんだ。
「皿池さん?どうしたの」
しばらくして、カフェスペースに人が入ってきた。
テーブルに寄りかかったまま振り向くと、そこには…まさに悩みの種・吉川課長がいた。心配そうな顔をして、私を見ている。
「具合でも悪いの?」
「いえ…」
課長が私の額に手を伸ばしてくるのを見て…、思わず身を引いてしまった。
この人には、触れられたくない。
「皿池さん…?」
「何でもないです。わたし、戻りますね」
「あ…」
課長が何か言いかけるのを遮って、私は小走りでオフィスに戻った。
少し気にかけてくれているというだけで、勘違いしかけていた自分が、無性に恥ずかしかった。
「なあ、皿池に接するときの課長、なんか違うよな」
「えっ?」
自分のデスクでお弁当を食べていたら、隣の席の阪本くんが突然切り出した。
「なーんか、まとってる雰囲気が変わるっていうか」
「そうかな…?普通だと思うけど」
阪本くんは案外鋭いと思う。いい面でも悪い面でも。
酔っても全く顔に出ない、同期の原田くんの『そろそろやばいころ』を見破ったこともあるぐらいだ。
ああ。お弁当食べてるときにこんなこと考えてたら、気分悪くなっちゃう。
「食事中悪いけど…。ちょっと、いいかな」
はっとして、声のかかった方を見ると…、そこには今話題になっていた課長がいた。
「……はい」
阪本くんがいる手前、上司にあまり失礼な態度をとることはできない。それに、全然違う話かもしれないし。
訝しげにこちらを窺う阪本くんを尻目に、私は課長に続いてオフィスを出て行った。