2人きりの夜(後編)
「あれ、まだ残ってるの?」
吉川課長はファイルとジャケットを右手に抱えて、ドアノブを掴んだまま固まった。
「吉川課長!…課長こそ、まだお仕事してらしたんですか?」
驚きのあまり、お互いに目を見開いている。
私は無意識のうちに椅子から立ち上がっていて、真正面から課長と向き合う形になった。身長差のせいで、少し見上げなくてはいけない。
「ああ、ちょっと総務部に用があって。…それ、君の仕事なの?いつもパパッと済ませて、19時には帰ってるよね」
確かに、私が残業をするのはごく稀だ。仕事は手早くやってしまって、終業時刻の18時から1時間以内には帰っている。…でも、課長がそこまで知っていたなんて。
「本木さんに頼まれたんです。普段私が担当する案件とはパターンが違うので、少し手間取ってしまって」
「頼まれたからって、なんでも引き受けなくていいんだよ。女の子なのに、こんな遅くまで残業して…」
「いいんです、本木さんにはいつもお世話になってますから。それに、自分の担当したことがないものって、すごく興味深くて勉強になります」
つい、両手を握りしめて熱弁すると…、吉川課長はにっこりと笑った。
これが噂のキラースマイルか。吉川課長はなんといっても笑顔が素敵だと評判なのだ。
「皿池さんは健気だね。君みたいな部下がいてくれて、俺も嬉しいよ」
「ふふっ、そうですか?」
つられて何気なく笑うと、吉川課長は私の顔を見て固まってしまった。
わたし、何か変なこと言ったかな…?
「…課長、どうかしましたか?」
「え?ああ…、ううん。なんでもないよ。あと、どのくらい仕事残ってるの?ちょっと俺に見せて。……ああ、これはこうしたほうが効率いいよ」
そう言いながら課長は、私の手元にあった資料に書き込みをした。
「あ!なるほど」
「あと、こうするともっとわかりやすいよ」
「ああ、そんなやり方もあるんですね」
それから私は、課長に手伝ってもらいながら、無事に残りの仕事を仕上げたのだった。
退社する頃には、もう23時。
「ごめんなさい、課長まで巻き込んでしまって…」
申し訳なく思いながら頭を下げたけれど、吉川課長は相変わらず笑顔だった。
課長のこういうところが、人気を呼んでいるんだろうな。
「巻き込まれたなんて思ってないよ。楽しかったし」
「楽しい…?」
「皿池さんは、楽しくなかった?」
まっすぐ見つめられて、ちょっと恥ずかしくなってしまう。
「私も…楽しかった、です」
「ならいいじゃん。ほら、早く帰ろう」
課長と駅まで歩く間も、笑いが絶えなかった。課長って、かっこいいだけじゃなくてこんなに気さくな人だったんだな…。少し、誤解してたかも。
そして、初めて一緒に帰って気づいたこと。
「えっ、○○駅ですか!?わたし、その隣の××駅です」
「そうなんだ?そんな近くに住んでたなんて、知らなかった」
「私もです」
××駅の周辺は少しレトロな雰囲気があって、お気に入りの街だ。聞けば、私の行きつけのカフェに課長も訪れたことがあるらしい。
私達はすっかり意気投合してしまって、電車の中でも酔っ払いさながら話し続けたのだった。
「…あれ、××駅で降りるんですか?」
××駅に到着しようとしたとき、隣に座っていた課長も立ち上がった。
「うん。こんな時間だし、送っていこうと思って」
「そんな、いいですよ。課長もお疲れでしょうし…」
「…俺に送られるの、心配?家を突き止められるとか」
「い、いえ…、そんなんじゃないですけど」
「それなら、素直に甘えてよ」
そう言って、課長は先に電車を降りた。
そのあとはマンションのエントランスまできっちり送ってくれて
「お疲れ様」
なんて言って、爽やかな笑顔と共に帰って行った。
私は課長の後ろ姿を見て…、もっと一緒にいたいと思ってしまった。