2人きりの夜(前編)
吉川課長は、着任したその日からとても人気だった。
男性社員からは若くして課長になった功績、女性社員からはその容姿。休憩中にはほかの社員たちが課長に話しかけているのを、私は遠巻きに見ているだけだった。
面識というほどのことでもないけれど、少しだけ知っている人に話しかけるのはあまり得意ではない。仕事をしている身だから、もちろん吉川課長のキャリアの話には興味があるけれど、すすんで仲良くなりたいとまでは思わなかった。
私には手の届かない人…。いつしか、そう思うようになっていた。
そんな、ある日のこと。
「ごめん、皿池ちゃん。これ頼めるかな?明日の会議で使うんだけど。俺、急用が入っちゃって、帰らなきゃいけないんだ」
分厚いファイルを持ち、申し訳なさそうな声で話しかけてきたのは、先輩の本木さん。夫婦共働きで小さいお子さんがいる方だし、たぶん保育園のお迎えに行かなくちゃいけないとか、そういう類の用事だろう。
「はい。大丈夫ですよ」
快く承諾すると、本木さんはほっとしたような顔をした。
「ごめんね。今度埋め合わせするから!」
なにかと気にかけて、いつも親切にしてくれてる先輩。こんなときじゃないとお返しできないしね。けっこう量があるから、少し残業になりそうだけど…。よし、頑張ろ!
私は長い髪をヘアクリップでまとめ、再びデスクに向き直ったのだった。
「おつかれさまー」
「あ、お疲れ様です!」
企画部の面々が少しずつ退社していく。
「あれ、まだやってんの?」
話しかけてきたのは、隣の席の阪本くんだ。
少し伸びをして、仕切り越しに彼のほうを向くと、派手なオレンジ色のネクタイが目に飛び込んできた。朝からネクタイネタで先輩たちにイジられてたっけ。
「うん。もうちょっとやって帰る」
「そっか。あんま遅くなんなよ」
「ありがとう!お疲れさま」
「お疲れー」
鼻歌を歌いながら、なにやら上機嫌で帰っていく坂本くん。これから、美人の彼女とデートだろうか。
はっと顔を上げると、広いオフィスには私1人になっていた。もう22時を回っている。残業を良しとしないうちの会社では、忙しくない時期だと、遅くとも20時にはほとんどの社員が帰ってしまうのだ。
こんなに遅くまで1人で居たの、入社以来初めてかもしれない。
明日も仕事だし、早く仕上げて帰ろう…。
そう思っていたら、突然背後の扉が開いた。飛び上がりそうになりながら、驚いて振り向くと、そこには吉川課長が立っていた。