推参(前編)
「娘さん今、失踪されてますよね?」
探丸はそう切り出した。天井から下がる電灯は点けられず、四角い卓の中央で蝋燭が1本灯っているだけの暗い部屋。蝋燭の炎は障子の閉められた中にあって、風を受けたわけでもないのに怪しく揺れている。
要領を得ない探丸の下手くそな説明を、卓を挟んだ対面に座る望月の奥方は黙って聞いていた。炎の揺らいだ次の瞬間には消えてしまいそうな朧気な様子で、わずかに開いた扇子で口元を隠したままジッとしている。夜中にも関わらず明らかに寝間着ではない上等な紅の着物を纏っており、髪も後頭部にまとめて結われ地味ではあるが簪まで差してあった。素早く着替えたのか、それとももともと起きていたのか。
「……という事で、こちらも事を公にするつもりはありませんので、えー、動いておりますので、つまり、その、どうか穏便にと、そういう事でお願いします」
説明を終えた探丸の話を、並んで座るお姉さんは遠く聞いていた。気を抜けば蝋燭の灯りに意識を奪われ、いわゆる催眠のかかりやすい状態に陥ってしまう。凝視法と呼ばれるこのあからさまな催眠誘導に掛からぬよう、吸い込まれそうになる視線を炎から離すのに意識を向けていて、探丸の話など殆んど聞いていなかった。
望月の奥方が目を細める。
「……つまり、うちの娘とあなた方の共通の知人が事情を全て知っていて、更にうちの娘の捜索依頼まで受けている、と」
そのうえ既に捕らえる算段は整っている、とこれは独り言のように続けて呟いた。言葉は標準語であるが、その音は関西の訛りが強く出ている。はじめに京都弁と聞こえたのは屋敷の雰囲気と奥方が着物だからだろう。
「ええ、まぁ、今日中には何とかなると思いますんで、任せていただいても構わないかと」
探丸が窺うように言う。言い換えれば「アンタらじゃ何するか分からんからこの件は俺たちに預けろ」という事で、望月がこれを了承するか断るかが1つの分かれ目であった。了承するならば良し、断るならば事の隠蔽を図る可能性があり、さらに言えばこの事を知っている探丸たちに何らかの口封じを行う可能性までが出てくる。
下手をするとこの場で争う事になるのではないか、とお姉さんは緊張して奥方の次の言葉を待った。蝋燭の炎の揺れる先で奥方はしかし、思案するように黙ったまま、むしろ奥方の方がこちらの言葉を待っているようであった。
「あの」
耐えかねた探丸が口を開いた瞬間、奥方がわずかに開いていた扇子をパチンと鳴らして閉じた。ただそれだけの動作に探丸は言葉を遮られ、お姉さんに至っては思わず跳び退さろうと背を丸め畳に手をついてしまった始末である。奥方はその場を動くつもりが無いように見えたが、お姉さんはすぐさま跳び退ける姿勢を崩す気にはなれなかった。
二人の緊張を知らぬ顔で、奥方が閉じた扇子の頭を下にし卓を小突いた。
コツ、コツ、とゆっくりとした調子で鳴らしながら、奥方がやはり思案するように口を開く。
「穏便に、穏便に」
探丸の台詞にあった言葉を繰り返し、扇子で卓を一定の間隔で小突きながら続ける。
「まるでこの望月が何か良からぬ手を使うかのような言い回し。暴力か隠蔽か」
いや両方か、とわずかに目を細める。不穏な空気に沈黙した二人の様子を肯定と見たのか、奥方は合点がいったようにははぁと声をあげて更に続けた。
「つまり主らは誰ぞに何か要らぬ事を吹き込まれ、そうはさせまいと図々しくもこの望月に圧をかけに来たというわけか」
訛りが消えた。お姉さんは身の危険すら感じてた。蝋燭の炎と定間隔の音に思考を妨げられながら、今この瞬間に先手を打ち逃げるべきではないかと考えた。しかし、同時に奥方の隙の無さに舌を巻いている。この奥方のどこに隙があろうものか。何をやろうともすでに後手に回っているような感覚がお姉さんの脚を縛り付けていた。
奥方が続ける。
「とすると、なるほど主らが妙に警戒しているのも、口封じを恐れての事と思えば合点がいく」
それにしては、と嘲るように声を落とす。
「足音も消せぬ技術不足、のこのこ揃って屋敷に上がる不用心、挙げ句の果てには口を滑らせ隠すべき意図を悟られる間抜けぶり」
扇子が卓を小突く。
「技術が足りぬ頭が足りぬ注意が足りぬ。ふ、それでよくもこの望月に楯突こうなどと考えたものよ」
いえ楯突こうだなんて、と探丸が口を開くと、卓を小突いていた扇子の頭が持ち上がりどちらともなく二人の方へ向けられた。
「主ら、その耳は飾りか?」
その言葉に耳を凝らし、お姉さんが絞り出すように声をあげた。
「探丸、歌が」
「遅い」
奥方が咎めるように遮る。
「今言ったであろう。注意が足りぬ、と」
お姉さんが今気付いたとおり、どこからか微かに歌が流れている。複数の子供のような声で朧気に聞こえる童謡らしきその歌は、不可視の領域から歌われているような不気味な響きを持っていた。
扇子の頭がお姉さんに向けられる。
「お嬢ちゃん、警戒していたつもりのようだけれど、お嬢ちゃんが注意していたのは蝋燭の火と扇子の音どちらも目に見えるものばかり、このようなあからさまな物に気をとられ隠し歌に気付かぬとは、それは怯えであって注意でなし」
そしてお主、と今度は探丸に扇子が向けられる。
「先に屋敷に足を踏み入れるならばお嬢ちゃんを外で、せめて庭で待たせるのが定石ではないか? 二人揃って罠に掛かったならばどうする。そこから二人で脱出を試みるか? 片方は異変があればすぐ逃げられる配置をし、万が一にも情報を生かすよう努めるのが忍ではないか?」
カツンと扇子を卓に打ちおろす。
「舐められたものよ。この望月が何の用意もなく他者を迎え入れると思うたか」
蝋燭の炎が怪しく揺らぐ。何一つ単語の聞き取れない不気味な歌が不穏な空気と混じり合うように部屋を満たす。
「い」
と探丸が口を開いた。言葉に詰まったのを喉を鳴らして誤魔化し、重たい空気を払うように軽い口調で言う。
「いやぁ仰る通り、僕らまだまだ未熟なもので、ご指摘大変感謝いたします。それでは僕らこの後も予定がありますので不躾ではございますが」
この辺で失礼させていただきます、と逃げるように立ち上がった探丸に、奥方の扇子がついと向けられる。
「お座り」
瞬間、探丸の立ち上がった膝が明らかに本人の意思を無視しガクリと折れた。半ば膝を折った姿勢で静止する。反射的に体を硬化させ、何か見えない力に耐えているようだった。
奥方がほくそ笑む。
「ほう、これを耐えるか」
く、と目を細めて続ける。
「いや、これは硬化か。となると風賀の一族。ほ、どうする。安易に術を使い素性までバレてしもうたぞ?」
探丸は何も答えずひたすら見えない力に耐えている。この瞬間奥方の注意は探丸に向いているはずで、お姉さんが何か行動を起こすならば今しかなかった。
力の込められた足が畳をみしりと鳴らす。
それだけだった。お姉さんは動けない。己の未熟を指摘され、最早全てが後手に回っている事実が既に敗北感となってお姉さんから気力を奪っていた。
奥方がなおも耐えている探丸に続ける。
「無駄な足掻きよな坊や。果たしてどれだけ耐えられるや」
そして犬か何かに言うように、再び口にする。
「お座り」
硬化しているはずの探丸の体がさらにガクリと沈む。
「お座り」
さらに沈む。賢太郎を背負い高所からの着地にも耐えた探丸の硬化が、奥方の言葉一つに破られようとしていた。
奥方がトドメのようにハッキリと言う。
「おすわり」
為す術もなく探丸の膝がついに畳につけられた。それで諦めたのか苦し気に息を吐いた探丸が放った第一声は、奥方にではなくお姉さんに向けられたものだった。
「馬鹿が、逃げろよ」
お姉さんはそれで、探丸が自分を逃がすため奥方の注意をわざと己に向けていた事を知った。
「だって」
機とは知りながら動けずにいたお姉さんは、弁解の余地もなくそれだけを呟いた。
「今さら逃げようなどと」
奥方が嘲笑を浮かべた。扇子をわずかに開き再び顔の下半分を隠す。
「まだ聞かねばならぬ事がある故、逃がしはせぬよ」
顔を強張らせ言葉も失った二人に向かって、勝ち誇ったように言い放つ。
「その体、もはや己の物と思うなよ」
歌声は尚も続いている。
全ての部屋の明かりの落とされた八階建てのマンション。個々のベランダが突き出たその壁面を、二つの影が跳び回っていた。
二つの影は近付き縺れたかと思うと弾かれたように一方が離れ、互いが互いを追って再び縺れるのを繰り返していた。
幾つものベランダの一つに一方の影が転がり落ちる。立ち上がると同時にすぐさま跳び退くと、次の瞬間には追ってきたもう一方の影がそこに着地する。跳び退いた影は壁を蹴って反転、着地した影に足袋に包まれた足で蹴りを突き込む。迎え撃つもう一方の影は墨黒の髪を揺らし、蹴りを躱し様に肘鉄を相手の横っ面に浴びせた。肘鉄をくらった影、忍はくらうと同時にもう一方の影、花畑の腹を拳で撃っている。肘鉄をくらいながらでは当然威力などたかが知れている。この骨を断たせ肉を切るような攻防を何度繰り返したか。
明確な実力差があった。忍自身それを理解している。だからこそ屋上のような開けた場所ではなく、ベランダの突き出たマンション壁面を跳び交っていた。真正面からでは敵わず、追いつ追われつの中で機を窺わざるを得ない現実があった。
忍は顎の痛みと浅い手応えに舌打ちし跳び退く。ベランダの手摺壁に跳び乗り、更に跳んで隣のベランダへ移動する。ベランダ同士はそう離れてはおらず、忍でなくとも常人でも跳べば届く距離である。
手摺壁から降りた忍は着地と同時によろめいた。肘鉄が効いている。しかし揺れた脳を休める暇もなく背後から花畑が迫りくる。前方に跳んで逃げるか? いいや迎え撃つ。忍は体ごと振り返った。
そこに花畑の姿はなかった。探すよりも忍は跳び上がる。上階ベランダの底面に着地し、見ると真下からこちらを見上げる花畑と視線がかち合った。忍を引きずり下ろそうと花畑の手が伸びる。避けるか払うか。どちらでもない。忍は跳躍。真下に。目を見開く花畑の額に頭突きをかます。
「が」
鈍い音と共に花畑が声をあげた。よろめいたその頭を掴み、着地と同時に床を蹴って顎を狙い膝を打ち込む。これは手で防がれる。しかしまだ花畑は体勢が整っていない。
忍は腰を落とし息を吐く。
「ふ」
当て身。発条仕掛けのごとく跳び上がり、肩を下から抉るように花畑の鳩尾にぶち当てる。
「かぁっ……!」
花畑が唸りとも呻きともつかぬ声をあげた。当て身の衝撃に体が浮き上がる。懐の忍を睨み、同時に腕を伸ばし掴みかかった。
忍の掌打が鳩尾を捉える。花畑に掴まれるよりも速く、当て身で半身になっていた体勢から正面を向きその動きで掌打を繰り出していた。
突き飛ばされ一瞬浮いた足を床に擦らせながら、花畑は後方ベランダの手摺壁に衝突する。地鳴りのような音が轟き、振動を伴ってマンション全体に分散していく。
花畑が壁から剥がれ落ちるようにして膝をついた。
追い撃ちをかけようと踏み出した忍はしかし、一転して跳び退き姿を隠した。ベランダと繋がる部屋から人の動く気配がしたのだ。どうやら住民が起きてしまったらしい。
階を降り距離をとりベランダを変えた忍は、気配を消して身を潜めた。手摺壁に背を預け腰を落として息を吐く。
呼気が震えていた。
興奮すら覚える本気の手応えがあった。当て身に掌打。どちらも鳩尾、心臓に全力で打ち込んだ。常人が受ければ死に繋がりかねない危険な技だった。無論忍は殺すつもりなどない。相手が花畑だからこそ全力で打ち込んだのだ。
先程までいたベランダから、窓の開く音がする。音と振動の元を探しているのだろう。花畑も気配さえ消していれば同じベランダにあって見付かる事はないはずである。それとも既に他のベランダに移ったか。まさかあの攻撃を受けて直ぐに動けるものとも思えないが。
冷めた月明かりに生温い空気。震える呼気が耳障りなほど静かな夜。
忍は深呼吸1つで呼吸を整えた。
内臓への打撃は痛みが長く残る。花畑が回復する前に勝負を決めてしまわなければ、と忍は窓の閉まる音が聞こえ次第すぐに追撃に向かえるよう気を引き締め直し顔を上げた。
そして、目を見開いた。
墨黒の髪が揺れる。
忍は言葉を失い、敵を前にしながら構えることすら忘れてしまった。
手摺壁の上に、花畑が立っていた。揺れる前髪の隙間から白月の瞳を光らせ、口元に不敵な笑みさえ浮かべている。
死なないだろうとは思っていた。多少なら動けるかもしれないとも思っていた。
しかし、まさか追って来ようとは!
人体の急所である鳩尾へ二発も連続で打撃を受けながら、それでも平然と追ってくる者にいったい如何なる技が通用するというのか。
自信が揺らぐのを感じながら、しかし忍は立ち上がる。心なしか体が重い。
上階から窓の閉められる音が鳴る。
花畑が口を開いた。
蝋燭の火が揺れる。小皿のような火立てに立つこの蝋燭の直径が幾らかは知らないが、見たところあまり太くはない。それでいてまだ半分も燃えていないという事は、お姉さんが思っている以上に時間の進みは遅いようだった。
「まず1つ」
奥方が口元を扇子で隠したまま言う。
「主らをここへ使わしたのは誰か、答えてもらおうか」
お姉さんは額に汗を浮かべ固まっている。依頼主、という訳ではないが、それでも自分の背後にいる者の名前をあっさりバラすようでは忍者の名折れである。しかし抵抗しようにも、今も不気味に響いている歌声がお姉さんを縛り付けていた。これが歌声の効果なのか、単に自分が恐れて動けずにいるだけなのかは判断がつかない。
隣に座る探丸が口を開く。
「それは、困りましたね」
余裕のない顔に無理矢理笑みを浮かべて続ける。
「実は顔も名前も知らないもんで」
デタラメのようだが、実際スワノとはネット上の付き合いだけなのだ。スワノというハンドルネームが実名のはずもない。奥方に訊かれたところで隠すまでもなく、真実知らないのである。
探丸の答えに、奥方が笑い声をあげた。心の底から馬鹿にしたような嘲る笑いだった。
「ははははは! つまり何か? お主らは顔も名前も知らぬ者に言い付けられて、のこのことここまで使いに来たと」
何と間抜けな、と嘲笑に歪んだ目が二人を見下ろす。お姉さんは怒りに体を震わせたが、事実であるために何も言い返す事は出来なかった。
「さて」
奥方は笑みを消して閉じた扇子を探丸に向ける。
「馬鹿を言うなよ風賀探丸。この望月への使いも厭わぬ仲。昨日今日の付き合いではあるまい。本名でなくとも便宜上の呼び名があったはず」
教えた所で意味などないような気もするが、わざわざ隠す程の事でもない。なにより、この状況では素直に答える他選択肢はない。幸いなのは、その教える名が探丸が使っている『太くて固い』のようなふざけた名前でない事だろうか。
扇子を向けられた探丸も、言ってどうなるとも思えないようで、喉から投げ捨てるようにして奥方の質問に答えた。
「スワノ、というんですが。分かりますかね?」
少々挑発的な物言いだったが、奥方はそれに触れず扇子の先を卓に下ろして更に訊いた。
「スワノ……字はどう書く?」
片仮名です、と探丸の答えに奥方は扇子で卓を小突きながらスワノスワノと口の中で繰り返した。
たかだかネットで使われているハンドルネームで何が特定できるはずもない。お姉さんは奥方がスワノという名から何も得られないのを前提に、この場をいかにして切り抜けるか思案を巡らせていた。
体の自由を奪われ、相手を丸め込む口もない。奥方の言う通り、よくも何の準備も無しにのこのことやって来たものだ。
「ふ」
お姉さんは自身の間抜けぶりに自嘲を浮かべたが、聞こえたそれはお姉さんの物ではなかった。
奥方が笑っている。嘲笑ではない。呼気で蝋燭の明かりが揺れ幾分妖しくは見えるが、どうやら純粋に可笑しくて笑っているようだった。
「ふふ、ふ」
ついには扇子を拡げ顔を隠して笑い始めた。
「スワノ、スワノな、ふふ」
肩を揺らす奥方にお姉さんは目を丸くする。
同じく呆気に取られていたらしい探丸が、恐る恐る口を開く。
「おしり……」
お知り合いですか、と言おうとしたのだろう。しかし、それは奥方が扇子を閉じる音で遮られた。
パチン、と扇子が音を鳴らして閉じられたその瞬間、お姉さんは体が軽くなるのを感じた。術が解ける感覚である。耳を澄ますとお姉さんの体を縛っていたあの不気味な歌声も消えていた。隣の探丸も体の自由が利くようになったようで、拳を握って開いて動くの確かめている。
「よし分かった」
奥方の声に探丸と揃って顔を向ける。蝋燭の火が揺れる向こうで、奥方はそれまでにない柔らかい笑みを浮かべていた。
「娘の件、貴方たちに任せるわ」
唐突な事態の好転に、探丸とお姉さんは殆んど同時に声をあげた。
「は?」
「アンタさぁ」
花畑が口を開いた。手摺壁の上から忍を見下ろし、墨黒の長い髪を夜風に揺らしている。
ベランダに立ちそれを見上げる忍は、この女をどうすれば仕留められるか考えながら、花畑の言葉に耳を傾けた。
「アンタさぁ、あの主のどこが良いわけ?」
花畑が小馬鹿にするような調子で言い、忍がそれに眉をひそめたのを見て更に続ける。
「あんなの、ただの愚図で泣き虫なガキじゃないか」
「知りもせずに」
忍は思わず呟いた。花畑が動きを止めている内に有効な手を見付けなければと考えていながら、賢太郎を侮辱する言葉に反応せずにいられなかった。
「賢太郎様は優しいお方です」
優しいお方ねぇ、と花畑が呟く。小馬鹿にしたような口調はそのままだ。
「まぁ長いこと見てれば、良い所の1つくらいは見付かるよねぇ」
何か含みのある様子に忍は訝しむ。
「何か言いたげですね」
花畑が揺れる前髪をかきあげ、ニヤリと笑う。
「訊くけどアンタ、主以外に男は知ってるの?」
忍は理解出来ずに一瞬の間を開けたが、すぐに花畑の言いたい事を察した。
「私が賢太郎様を想うのは他に男を知らないから、という事ですか」
その通り、と花畑が声を出さずに笑う。
「よくある話さ。任務で離れる以外、忍は主に付きっきりだからねぇ。ずっと側にいれば情が移るし、それを恋愛感情と勘違いするのも珍しくはないのさ」
花畑の言う通り、同年代の異性に限れば、忍は賢太郎以外とは全く接点がない。ひっそりと賢太郎に付いて回る中で視界に他の男が入る事はあっても、よく知りもしない男など忍にとって人形も同然だった。それと比べれば良い所も悪い所も知っている賢太郎の方が何倍も人間味を感じられ、だからこそ忍は賢太郎に惹かれているのだ。
「わかるかい? アンタが抱いてるその感情は勘違いなのさ。他の男をよく知れば、あの主がただのガキだって気付くはずだよ」
なるほど、と忍は毅然とした態度で返す。
「確かに忍は異性との交流は全く少のうございます。人を見る目もまだまだ未熟。この先で心変わりする事もあるやも知れません」
しかし、と続ける。
「忍は今、賢太郎様が好きなのです。他に男を知らぬからといって、どうしてこの気持ちを否定できましょうか」
花畑の顔が段々と苛立ちを顕にする。前髪を掻き上げる右手を頭に留め、軽蔑の目で見下ろし忍の言葉を聞いていた。
「情が移っただけと誰に分かる術もございません。まして賢太郎様を知らぬ貴女にいったい何が分かるというのでしょう」
頬を震わせる花畑が、自身の頭に置いた右手に力を込めている。忍にはそれが怒りを抑えているように見えた。
そしてそう見えていながら、忍は花畑に言葉を投げ掛けた。
「主への想いが勘違いと言うならば――」
忍の言葉が花畑の琴線に触れる。
「――貴女の想いも、勘違いだったのでしょうか?」
花畑がくわと目を見開き右手を振り下ろし、声をあげた。
「知った風な口を!」
「それはお互い様でございます」
怒気が放出されるのを感じ、忍は身構えた。
女中の手によって蝋燭は下げられ、代わりに天井の電灯が点る。明るみになった部屋は庭に面した障子以外の三方ともが白い無地の襖であり、装飾や置物のない寒々しい程に白けた部屋だった。
電灯の明かりに目を細めながら、探丸が奥方に尋ねる。
「えぇと、それじゃあ娘さんの事は僕らに任せるということで?」
ええそうよ、と奥方。いつの間にか重々しい口調が砕けている。最初に聞こえた関西訛りは何処かへ消えていた。
「そのスワノ、ふふ、スワノさんが絡んでいるのなら、なるほど任せろというのにも合点が行くわ」
「……何者なんですか?」
お姉さんが口を開いた。聞いた所でおいそれと答える愚を犯すとは思えなかったが、奥方の態度を一変させたスワノという人物に興味を持たずにいられなかった。
「そうねぇ」
奥方は呆れたような笑みを浮かべて答える。
「そのうち自分から名乗るんじゃないかしら。相変わらず自己顕示欲が強いようだから」
ふふふ、と何やら思い出して笑う奥方に、お姉さんと探丸は困ったように顔を見合わせた。
月明かりに身を晒し、民家の上に立っている男がいた。
三角屋根の天辺に片足を乗せ、片手で円を作りそれを望遠鏡のようにして覗いている。覗く先は賢太郎のマンション、まさに忍と花畑の対峙している様子を、声も届かぬ遠方から見ているのであった。
「流石に口元までは見えんなぁ」
手の望遠を外し、屋根の天辺に直立してやれやれという風に広い袖の中で腕を組む。
「まぁ何にせよ、忍では捕らえられんだろうな」
そう言って音もなく前方の民家の屋根に跳び移り、亡霊のようにやはり音もなく屋根伝いにスタスタと進んで行く。
その様子が怪談めいて見えるのは、男を包む装束が、死人のそれのように白いからであった。
次回『推参(後編)』




