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降下、あるいは崩落

 何が起きたのか分からなかった。

 突然、忍と繋いでいた手を誰かに払われ、直後に胸を蹴られ宙に押し出された。浮き上がる視界の中で忍が膝をつき、その前に立つ影がこちらを見ている事に気付いた時には、すでに賢太郎の体は鉄柵の上を越えていた。

 全身の皮が足先から裏返ってくるような寒気が賢太郎を襲う。それが高度214mの上空に投げ出されたからか、膝をついた忍の前に立つ影の怪談めいた雰囲気に怖気おぞけたったからかは分からない。口は開けているが自分が叫んでいるのか言葉を失っているのかも判断できないほどに混乱した。

 ゾ、と空気が下から上へ賢太郎を舐める。いや、正確には動いたのは賢太郎である。落下が始まったのだ。

 忍が立ち上がる。その前に立つ影が長い髪を振り乱し忍のこめかみに踵を叩き込む。忍の体が回転する。直撃ではない。椎茸の舞。回転しながら一歩退いて蹴りを躱し即座に反転、影の懐を抜けようと身を低くして駆ける。

 長い髪が風に乱れる。

 脇をすり抜けようとする忍の腹を影が蹴りあげる。忍は前方宙返り、蹴りを受け流す。着地の瞬間、流れるポニーテールを掴まれた。恐ろしい力で髪を引かれ後ろに倒される。受け身をとりそのまま後転し体を起こす。立ち上がった腹を突き刺そうとする蹴りを寸前で躱す。前に進めない。賢太郎が落ちる。

 しかし忍が影に阻まれている間に、探丸が駆け出していた。隙を見て賢太郎の元へ向かう探丸を、影は見向きもしなかった。

「賢太郎!」

 探丸が声をあげて、すでに屋上天板の水平線より下へ落ちようとしている賢太郎を追う。賢太郎の体は展望台からそう離れてはいない。探丸は鉄柵の下を潜り、両足の甲を左右の縦柵に引っ掛けぶら下がるようにして賢太郎に手を伸ばした。

 届くか探丸。

 後ろに倒れながら落ちていく賢太郎の手は元より届かない。靴先が探丸の指をかすって落ち、続いて安全帯のフックが素通りしていった。

「マジか! クソ!」

 膝を曲げ体を引き上げる。賢太郎に顔を向けたまま鉄柵を掴み引っ掛けていた足をはずし足裏を屋上のへりにつける。

 跳ぶか探丸。

 鉄柵から手を放し、同時に屋上のへりを蹴る。勢いつけて跳び降り賢太郎を追った。


 お姉さんは動かなかった。

 多少回復したとはいえまだ満足には動けない。下手に動いても足手まといになる。それよりも今は、突如現れた敵の正体を見極めなければならなかった。

 墨黒の髪。筆で引かれた線のように流れる長い髪は、そこに含んだ墨で背景を黒く塗り潰そうとしているかのように次々と方向を変えた。

 この女は誰だ。

 女には違いなかった。夜に溶け込む長袖の黒シャツに張り付くような細いズボン。背は高い。少なくとも忍よりは。

 女は執拗に忍を狙っていた。賢太郎を助けにいった探丸にも今距離をとって傍観している自分にも目をくれず、まっすぐに忍だけに向かっている。それも尋常ではない手数の多さだ。掌底、裏拳、後ろ回し蹴り、回し蹴り、胴回し回転蹴り、払い蹴り。その一連の動きがあらかじめ決まっていたかのように迷いがない。

 そしてそれを躱す忍もまた尋常ではない。椎茸の舞。もはや椎茸というよりも独楽こまのごとく素早く回転し千拳万脚せんけんばんきゃく絶え間なく迫る攻撃をすんでのところで躱し続けている。反撃の隙を探る余裕もない。まさに防戦一方。忍の額に汗が浮かぶ。女の連撃は止まる気配がない。

 この女は誰だ。

 お姉さんは考えた。女に見覚えはない。しかし何か引っ掛かる。知っている人間のような気がした。

 なぜこの女は忍を執拗に攻めているのか。もし巻物が目的なら狙うのは賢太郎だ。それなのに、まるでそれ自体が目的のように忍を攻め続けている。

 忍を知っている人間。それなら限られている。

 掲示板。

『いつやるの?』

 今日のこの日時を知りたがっていた。

『もう別れさせようよ』

 賢太郎と忍の関係を良く思っていなかった。

『主に個人的な感情抱いた挙げ句告白して廃業した間抜けが通りますよ』

 まさか、ただの嫉妬で。

 証拠はない。

 しかし、他にいない。

 八つ当たりのように忍をいつまでも攻め立てる女を見つめ、お姉さんはその名を呟いた。

「花畑……!」


 金属の摩擦音。激しく鳴り響き火花を散らす。

 探丸は賢太郎を背負いタワーの支柱を滑り降りていた。賢太郎に付けさせていた安全帯を剥がしとり、そのフックを片足で支柱に押し付けて減速している。タワーの形が末広がりで支柱が湾曲しているのと、強い横風が二人を支柱に押し付けるようにして吹いているのが幸いした。

 しかし、それで落下の勢いが完全に殺せるわけではない。時速は60㎞など裕に越えていて、このまま無事滑り落ちて着地したとしても、その衝撃は走っている車と正面衝突した方がマシと思えるものだろう。せめて下が土であれば幾らか衝撃も和らぐだろうが、それも叶わず二人を待ち構えているのはご丁寧に鋪装された固い煉瓦敷きの地面だった。

 探丸は風に乾く目を細め歯を食いしばっていた。ふとすれば上体が倒れてしまいそうなのを体を反らして支える。支柱からはみ出ぬようフックと繋がる紐を手綱のように操って向きを調整し、溶接痕や細かい傷に弾かれそうになるのを必死に足で押さえつけていた。摩擦によりフックは磨り減り、散らす火花が靴を焦がした。

 その背にしがみつく賢太郎もまた必死だった。恥もプライドも捨てて両手両足で探丸に抱きついている。耳元で唸りをあげる風がそれを嘲笑い、足元からつんざく摩擦音は命を削り取っていくようだった。

 タワーの中腹を過ぎて支柱の傾斜が緩やかになる。それでも気休め程度の減速にしかならない。

 猛スピードで地面に向かっていく。衝撃まで残り1秒か、一瞬か。

 賢太郎は先走った魂が一足先に体から離れようとするのを、しがみつく手足に力を込めて引き留める。様々な映像や音声や色彩が頭の中を駆け巡る。その走馬灯の行き着く先は一点の無色無音の冷たいイメージ。

 ――死。

「死なん!」

 探丸が声をあげた。フックごと支柱を蹴って後ろに跳ぶ。実際には減速しただけで、体は未だ死ぬには充分過ぎるスピードを持って落下している。

 そこから先は賢太郎の記憶に残らなかった。探丸が両足で着地した瞬間に衝撃と共に脳が揺さぶられ視界はかき混ぜられ肺の空気が全て押し出された。ひたすら暗闇の中で振り回されているような感覚。

 気がついた時には、タワーから数メートル離れた位置で誰かに抱えられていた。

 思い出したように息を吸い、自分を抱き抱える人物を見上げる。

「ん? この場合どうなるんだろ?」

 その人物は目元だけを開けた黒い覆面をしていたが、野太い声と体格の良さでどうやら男らしいというのはわかった。よく見ると覆面がそのまま服と繋がり全身を黒く覆っている。肩幅が広い。

 男は賢太郎の視線に気付いているのかいないのか、太い首を傾げて独り言を続けた。

「待機してたし良いか。良いのかな。あ」

 男が賢太郎に視線を落とした。

「すごいね」

 息を整えている賢太郎は返事をする余裕がない。

 男の視線がふいと違う方を向く。そちらに賢太郎も顔を向け、離れた位置でうつ伏せに倒れている人影、恐らく探丸であろうそれを見付けた。

 男が言う。

「太くて固いだ。男だし」

 ね? と同意を求める男の言葉の意味が分からないのは、内臓が悲鳴を上げているからでも、腕や脚が焼けたように痛むからでもない。頭痛も混乱も関係なく単純に男の言葉は賢太郎に理解できないものだった。

 くそ、と声がした。見ると探丸が顔をあげてこちらを見ていた。

「受け止める役がいるなら先に言っとけっての!」

 語気は荒いが立ち上がらない。立ち上がれないのか。

 男は探丸の言葉を受けたのか受けてないのか、全く呑気な声で言う。

「まぁ結果的には同じだもんな」

 言いながら抱えていた賢太郎を下ろす。賢太郎は自分の脚で立とうとしたが膝に力が入らず、代わりに痺れるような痛みが走りその場に転がった。体を支えるために地面に手をつくと手のひらに痛みが走り、どうやらそこに擦り傷があるらしいことを知った。

 男が屈む。賢太郎がそれにハッとして顔を上げると、屈んだ男は賢太郎に向かって両手で印を結んでいた。

「ニンニン」

 いかにもなポーズでいかにもな台詞を言った男は、そこから蛙かバッタのように素早く宙に跳び上がる。賢太郎がそれを追って夜空を見上げた時には、すでに男の姿はどこにも無かった。

 薄暗いばかりの辺りを見回す賢太郎の耳に、探丸の呻くような独り言が聞こえた。

「今のはどっちだ……明太子か。くそ」

 見ると探丸は首だけでタワー上方を見上げている。

 そして忌々しく、呟いた。

「あのくそメンヘラが……!」


 忍はよろめき膝をついた。

「ぐっ…!」

 荒く息をつき目の前の女を見上げる。墨黒の髪を風に揺らす女。明滅する誘導灯に赤く照らされながら、それ自体が違う光を放っているかのような冷たい目で忍を見下ろしていた。

 女が膝をついた忍に手を伸ばす。

「待ちなさいよ」

 お姉さんの声に手を止め、顔を向ける。

「アンタ花畑でしょ。何のつもりよ、これ」

 女は手を引っ込め煩わしそうにお姉さんを睨んだ。

 その口から女のドスを効かせたような声が発せられる。

「なにって、色ボケ忍者にお灸を据えてんじゃないのさ」

 誰が、と忍が膝をついたまま唸った。唸りながら隙を突こうとうかがっているが、女はお姉さんに目を向けていながら突き刺すような気配を忍に放っている。今仕掛けても即座に反撃されるであろう予感があった。

 お姉さんが言う。

「なにがお灸よ。里の人間じゃあるまいし忍ちゃんは関係ないでしょ。アンタ、自分が主なくしたからって嫉妬してんじゃないの」

 色ボケはアンタでしょ、と続けたお姉さんの言葉に女が明らかに怒気を向けた。

「主も持てないド三流がっ!」

 この隙を逃す忍ではない。

 ふ、と息を吐く。片足を地に滑らせ女の足を蹴飛ばした。バランスを崩した所に伏せたまま身を捻り蹴りを叩き込む。下からの回し蹴り。忍の素脚が女の腹にめり込みその体をブッ飛ばす。

 追撃すべきではあったが、忍は立ち上がり女とは反対の方に駆け出した。賢太郎の落ちていった方向である。

 自分も落ちてしまいそうな勢いで鉄柵に飛び付き下を覗き込んだ。しかし流石の忍といえども200m下の暗がりにいる賢太郎を見分けるのは困難である。救急車の音もない事からとりあえず無事と見るべきか。探丸が飛び込んでいったが何とかできたのか。

 忍は親指と人差し指で作った輪をくわえて指笛を鳴らした。甲高い音が夜に響く。目立つが今は賢太郎の状態を知るのが最優先だ。

 お姉さんが叫んだ。

「忍ちゃん!」

 忍は振り返りざま蹴りを繰り出す。あと一歩の所まで迫っていた女がその蹴りを受け止める。足首を掴んで強引に忍を引き寄せた。

「くっ」

 頭突きかと身構えた忍だったが、女はギリギリまで顔を寄せただけに終わった。白い顔に際立つ赤い唇が歪む。

「安心しなよ。ちゃんと受け止める役は用意しといたから」

 殺しゃしないさ、と女が脅すように目を見開き笑みを浮かべる。

 忍は女の笑みを唾棄するように睨み返した。遠く探丸であろう指笛の音を耳にとらえる。探丸が無事なら賢太郎も無事だろう。内心胸を撫で下ろしながら、目だけは鋭く口を開いた。

「何者かは存じませんが」

 女を押し返す勢いで自分からもずいと顔を寄せる。

「賢太郎様を危険に晒したこと、必ず後悔させてやりましょう」

 その言葉に女はくつくつと笑う。

「バカ言ってんじゃないよ小娘が」

 笑いながら掴んでいる忍の足首をギリギリと締め上げる。

「主が危険に晒されるって事は、護衛がなっちゃいないって事だろう? 自分の未熟を棚に上げてんじゃないよ」

 ぐ、と忍は言葉に詰まった。

 女が空いている手を忍の後頭部に回す。

「もし私とアンタの二人だけだったら、主様は死んでたねぇ?」

 言いながら、邪魔になると知って服の下に納めていた忍のポニーテールを引っ張り出す。忍の足首を掴む手に力を込め言外に動くなと威圧する。

 ポニーテールを顔の前にもってきて、品定めするように視線で舐める。

「綺麗な髪だねぇ。髪型は主の趣味かい?」

 窺うように視線を忍に戻す。忍の目に動揺が走ったのを肯定と見るや視線に怒気を孕ませ声を落とした。

「切ってやろうか」

「離せっ!」

 怯えたように忍は叫び拳を握った。しかしその拳を突き出すよりも速く女が動く。引いていた忍の脚を押し戻し、逆にポニーテールを引いて忍の頭を下げさせた。横向きながら下がったその顔に女の膝が。

 鈍い音。

 女が笑う。

「守れないなら護衛失格だねぇ!」

 忍の呻き声。鼻を押さえる手が生温い液体に濡れる。血だ。濃い匂いが鼻腔に充満する。

 女が掴んでいた忍の髪と脚を放した。忍は鼻を押さえたまま距離をとろうと後退るが、後ろは夜景が広がり退がる足はすでに縁に掛かっている。

「役立たずのしのびは辞めなきゃねぇ?」

 嘲笑う女から逃げるように、忍はじりじりと鉄柵に沿って距離をとりながら応える。

「それは……」

 詰まって鼻声になっているのをフンと鼻息で血を吹き飛ばし、ついでに曲がっているらしい鼻を手で矯正して言い直した。

「それは貴女の判断するところではございません」

 女は距離をとる忍を視線だけで追う。あえて逃がし再び追い詰めようとする意地の悪さがあった。

 女が笑う。

「なら、主様に判断してもらわないとねぇ?」

 女の言葉に忍は足を止める。瞳に怒りの火を灯し意を決し低く呟く。

「……この場で討たねばならないようですね」

 一触即発の気配が場に満ちた。風が吹き荒れていながらも空気は張りつめ、互いに乱れる髪も意に介さず微動だにしない。

 その時、けたたましく非常ベルの音が鳴り響いた。足元、屋内からだ。

 女がチラとそちらに意識を向けた。

 瞬間、忍は動き出す。跳躍、回し蹴り。一跳びで距離を詰め同時に鞭の如くしなやかに女の胴を狙う。

 この時、初動は明らかに忍が先で、その蹴りも申し分なく、忍の中で間違いなく最速と思えるものだった。

 墨黒の髪が風に揺れる。

 女の両手が忍の蹴りを受け止める。受けきれなかった衝撃に一瞬体が崩れたが、足を広げ蹴り飛ばされる事なくその場に耐えきった。

 女の赤い唇が喜悦に歪む。掴んだ忍の脚を引きながら手元で捻る。関節を外そうとする動きを察し、忍は同じ方向に身を捻り難を逃れる。同時に地に手をついて捕られていない方の脚で女に蹴りを繰り出した。

 女の体が沈み頭上を忍の脚が空振る。忍は緩んだ女の手から脚を引き剥がし逆立ちのまま開脚回転。女は退かずさらに腰を落として躱す。反撃の気配。素早くたいを変えて迎撃しようと身を捻るが、それで回転の鈍った脚を女に掴まれる。わずか一瞬忍の動きが止まり、その鳩尾に女の拳が突き刺さった。

「くふ」

 呼吸が止まり胃が痙攣する。吐瀉物を撒き散らす事だけは何とか耐えたが、それで精一杯だった。

 衝撃と痛みに硬直した体に横から女の蹴りが叩き込まれる。成す術もなく逆さまのまま忍は蹴り飛ばされ、屋上を二転三転し鉄柵に激突し鈍い金属音を響かせた。

 非常ベルの鳴る屋内で人の動く気配があった。ベルの音が止まる。警備の人間だろうか。女もそれに気付いたのか、鉄柵に手をつき立ち上がる忍を追撃しようとはしなかった。

 女は愉悦に顔を歪めて

「無様だね」

 と言い、それから唐突に顔を手で覆い頭を振り、髪を振り乱して呻いた。

「あああああ」

 その一連の流れが理解できずにいる忍に構わず、何故か女の方が半ば逃げるようにして跳び退き鉄柵の向こうに姿を消した。下には賢太郎が、と思い忍は下を振り返ったが、どうやら探丸が派手な音を立てて滑り落ちたおかけで人がちらほらと集まっているようだった。衆人環視の中ならば手は出されないだろう。

「忍ちゃん!」

 呼ばれて顔を向けると、屋上中央の鉄塔の中、展望台屋内と繋がる扉からお姉さんが現れた。それで非常ベルと人の気配に納得し、忍はふうと息をついて崩れるように腰をおろした。声を出そうとして二、三度痛みにむせる。

「どうやら、救われたようでございますね」

 駆け寄ってきたお姉さんが屈み忍の肩をさする。

「大丈夫? ごめんね、勝手だけど無理だと思ったから」

「いえ、助かりました。恐らく続けたとしても……」

 忍は言葉を濁し、垂れてきた鼻血を尻ポケットから取り出したティッシュで拭う。血に染まったティッシュに視線を落とし、それを握り潰してお姉さんを見上げた。

「それよりも、あの女は何者でございましょうか。どうやら貴女は何か知っておいでのようでしたが」

 それは、とお姉さんが言葉に詰まる。事情を知っているだけに、この一連の出来事に多少なりとも責任を感じないでもなかった。

 しかし、話さないわけにもいかない。

 風の吹く屋上の端で、お姉さんはなるべく手短に語り始めた。


「そんなの、ただの嫉妬じゃないですか」

 賢太郎は思わず立ち上がりそうになった。しかし体は動かなかった。タワー足元に広がるベンチに座り、ぶり返してきた落下の恐怖に膝も声も震わせている。

「感情で動くんだよ、女は。馬鹿な生き物だ」

 並んで座る探丸は腹立たしそうに言いながらしきりに脚を揉んでいた。本人は大丈夫だと言っていたが、ベンチに移動するのにも立ち上がらず這っていたのでやはり脚は動かないようだった。

 体を硬化させることのできる探丸であったが、それをやったのは着地の瞬間のみで、直後には技を解いて自らクッションとして賢太郎を受け止めたために脚を痛めてしまったのだ。

 そこまでの事を賢太郎は理解しているわけではなかったが、助けられた事だけはわかっているので当然お礼は言ってある。探丸もわざわざ恩を着せるような事は言わず、賢太郎の礼を軽く流した後、殆んど独り言のように突如現れた女について語り始めたのだった。

 恋に破れ主の元を去った花畑を名乗るくノ一。その一方で、出会いこれから仲を育もうとする二人。賢太郎と忍である。その二人を花畑はどう思ったか。面白くはなかっただろう。

「嫉妬はともかく、まさかマジで手を出してくるとはな」

 探丸は舌打ちして脚を揉む手を止めて、ほぼ真上にそびえるタワーを見上げた。

 賢太郎もつられて見上げる。探丸が言うには途中鳴り響いた指笛は忍のものだから恐らく向こうも無事だろうとの事だったが、それにしては降りてくるのが遅い。

 辺りは探丸と賢太郎が落下した時の音でちらほら人が集まり、そのうえ警官まで現れなにやら聞き取りを始めているようだった。

 警官がこちらに来るまでにこの場所を離れたかったが、探丸は脚を痛めているし賢太郎もまだ膝が笑っていてまともに歩けそうになかった。

 賢太郎様、と前方の暗がりから声がした。忍である。どうやらお互い無事だったようだ。賢太郎はふうと息をついた。

 街灯の明かりの中に現れた忍は、賢太郎が大丈夫だと言うように軽く手を挙げたのを見ると、安心したように頬を緩ませながら歩を早めた。

「賢太郎様、よくご無事で」

 ああうん探丸さんが、と賢太郎が答える。それを全て聞くまでもなく忍は探丸の前に立ち、腿の上に置かれている探丸の手をとり両手で包み込むようにして握った。

 目を丸くして口を開けている探丸に、握った手を掲げるように深く頭を下げて言う。

「有り難う御座います。感謝の言葉も尽きぬところではございますが今は時間がありません。必ず近いうちに目に見える形での礼をさせていただきます」

 上擦った声が形だけでの礼ではないことを示していた。

 探丸は急上昇した株に戸惑ったように空いている手で頭を掻きながら返事をする。

「んん、まぁ一般人傷付けんのは忍者の名折れってのもあるしな。それに今回は俺らにも責任がある。気にしないでくれ忍ちゃん」

 それより、と探丸は頭を上げた忍の手をほどいてやりながら続ける。

「逃げられたか」

 その言葉に忍ではなく賢太郎がギクリとする。逃げられたという事は今もどこからか狙っているかも知れないという事だ。そういえばお姉さんの姿が見えないが何かあったのだろうか。薄暗い中にチラホラ見える人影が途端に恐ろしく感じられた。

 不安気に辺りを見回し始めた賢太郎とは逆に、忍はあっけらかんと得意気な顔で胸を張った。

「ふふん、惜しくも取り逃がしましたが、あの程度の者は忍の敵ではございません。深手を負わせ忍の実力を知らしめた故、もはや諦めておりましょう」

 その証拠に、と忍は自分の忍者服の肩を指し示した。

「あの女の血でございます。流血沙汰は少々やり過ぎかとも思いましたが、賢太郎様を危険に晒した報いと思えば当然かと」

 ふん、と鼻を鳴らす忍。少々早口だったような気もするが、口振りからするとどうやら心配無用らしい。でもあまり手荒な真似はしないで欲しいなぁ、と忍の肩の小さな赤黒い染みを見ながら賢太郎は思った。

 探丸が気の抜けたようにふんと鼻息を鳴らして、ベンチの背もたれに体を預けながら言う。

「まぁそりゃそうか。良かったな賢太郎くん、もう安心だ。今日は遅くまで悪かったな」

 言いながらバシバシと賢太郎の背中を叩く。賢太郎は痛い痛いと身をよじらせる。探丸の馴れ馴れしさは正直鬱陶うっとうしくもあったが、今はそのお陰で賢太郎は不安が紛れている気もするのだった。

「さぁ賢太郎様、警官の足止めをしていただいているうちに帰りましょう。補導歴など付いてしまっては源之助様に合わせる顔がございません」

 と忍が笑みを浮かべて言う。その向こう、薄暗い中に見える何やら話をしている人影は警官とお姉さんらしい。姿を現さないと思ったら時間稼ぎをやってくれていたのか。

 まぁ何はともあれ賢太郎も補導されたくは無いし、時間も時間で眠くなってきたような気もする。忍の姿を見て安心したからか、さっきまで震えていたはずの膝もいつの間にやら全く平気になっているのだった。

 ささ、と忍が催促するので賢太郎はベンチから腰をあげる。探丸を振り返って

「ええと、じゃあありが……」

 とうございました、と改めて礼を言い終わる前に忍がよっこいしょと軽々賢太郎を肩に担いだ。初めて会った時もそうだったが、なぜ主と慕っているのにこんな荷物のような運び方をするのだろうか。せめて背負ってくれないかぁと思う賢太郎だが、それはそれで情けない姿のような気がしたので黙っている。

「それでは失礼いたします。今日のお礼は又の機会に必ず」

 と忍は探丸に背を向ける。背に垂れている賢太郎が探丸と目があって、困ったような照れたような苦笑いを浮かべる。なにか一言挨拶しておこうかと思ったが、賢太郎が口を開く前に探丸が「忍ちゃん」と呼び止めた。

「あとで電話するよ」

 なにか含みのある言い方だった。

「助かります。この礼も合わせて必ず……」

「いいよいいよ、早くいきな。賢太郎くんが眠そうだ」

 二人のやり取りはよくわからなかったが、探丸の言う通り賢太郎は正直眠い。だいたい夜中の10時を過ぎていた時点でいつもなら寝ている時間なのだ。

「それでは失礼いたします」

 忍が改めて言って駆け出し、街灯の下から夜の闇へと飛び出した。背に垂れる賢太郎は揺れながら、街灯の下でベンチに座る探丸が遠ざかるのを見ていた。


 タワー下の広場から賢太郎を担ぐ忍が姿を消してしばらくして、ベンチに座る探丸の前、街灯の下にお姉さんが現れた。

「今の警察って腰低いのね。あっさりし過ぎてちょっと困ったわ」

 言いながら探丸の隣に座る。探丸は忍の消えた先に目を向けたままだ。

 お姉さんも視線をどこにやるでもなく正面を見つめ、考えるように膝に肘ついて続ける。

「……忍ちゃんにだいたいの事は話したわよ」

 そうか、と探丸は短く答える。頭の中では先程の忍のあっけらかんとした態度を反芻していた。忍は花畑を追い詰めたかのように言っていたが、当然それが嘘であることは見抜いている。賢太郎のために嘘をついていると分かったから、探丸は悩んでいた。

 ため息をついて言う。

「……どうすっかなぁ。里に報告するか?」

 私情で一般人に手を出すなど紛れもない御法度である。報告すれば必ず何らかの処罰を下すために動くだろう。

「忍ちゃんはその必要はないって言ってたけど……」

 お姉さんも悩むように答えた。

 里の人間が動けば解決は容易だが、それでは『忍が守りきれなかった』という事実が残る。事をおおやけにして里の手によって解決されれば、その経緯も里の者によって賢太郎に報告されるだろう。それは少なからず忍の評価を落とす事になる。賢太郎を安心させるためとはいえ忍が嘘をついたのは、自分でどうにかするという意思表示でもあったのだ。

 しかし、賢太郎からの評価を気にしている場合ではないだろう。己の意地やプライドで主を危険に晒すなどそれこそしのび失格である。それとも本当に自分でどうにか出来ると思っているのか。

「花畑の事は話したんだろ?」

 何となく確認する。お姉さんも考えながら片手間に答える。

「だいたいね」

「……忍ちゃんは何か言ったか?」

 聞くと、お姉さんが思い出したように小さな笑いをこぼした。

 嫉妬が動機だって教えたらあの子、と前置きして、呆れているような喜んでいるような声で。

「『ならば忍の負ける道理はありません』ってさ」

 その言葉に探丸も呆れて、思わず笑い声をあげた。


「あ、そういえば」

 走る忍の背中で賢太郎は口を開いた。歓楽街を迂回してホテル街の路地を抜け、マンションのある住宅街に入ったところだった。腕はぶら下げているのも間抜けなので忍の腹に回している。忍の肩に掛かる腹がちょっと苦しい。

「あの女の人の話、聞いた?」

 聞くと忍は走りながら答える。

「パフェ殿からだいたいの話は聞いております」

 お姉さんの名前はパフェというのか。そういえば探丸がそう呼んでいたような気もする。

 賢太郎は街灯の明かりが流れていく地面を眺めながら考える。

 だいたいの話を聞いたという事は、あの花畑とかいう女が襲ってきた理由も聞いているのだろうか。

「……主の人にフラれて、俺たちに嫉妬したらしいね」

 花畑とその主がどの程度の仲だったかは知らないが、そうなのだ、フラれる可能性だってあるのだ。帰ったら忍と色々話して最後に自分の気持ちを伝えるつもりだった賢太郎は、花畑の話を聞いて少し不安になっている。いや忍が賢太郎を嫌っているはずはない。はずはないのだが。

「そのようでございますね」

 心なしか忍が冷たいような気がする賢太郎。振り返っても忍は前を見ているので表情は分からない。仕方ないし首が疲れるので、また地面に顔を向ける。

「もしさ」

 訊かずにはいられなかった。このあと気持ちを伝えようとする身としては、少しでも忍の気持ちを知っておきたかった。

「俺が他に好きな人が出来た、って言ったら、嫉妬する?」

 他に、と言ってる時点で半分告白しているようなものだったし、よく考えると同じような事を前にも訊いている。

 忍は以前とは違う、照れているでも誤魔化すでもない、不安を煽るような長い間を置いて答えた。

「……忍は賢太郎様に仕える身でございますゆえ、そのような事は考えておりません」

 始めの頃から一貫している答えではあったが、この時賢太郎はどうにも、フラれたような気がしたのだった。



 次回『弐ちゃんねる~後手後手の話~』

 


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