晴れの日
おじいちゃん大変ねぇ、と誰かが言った。
それだけの事だった。当時幼かった自分にそう言った女が誰の親だったかとか、言われた自分が何歳だったかとかは思い出せないが、その言葉だけはハッキリ覚えている。
だから賢太郎は、源之助が苦労しているのだと思った。考えてみれば賢太郎の家庭を表面的にしか知らない赤の他人の言葉など何の信憑性もないのだが、とにかく当時の賢太郎はそれを鵜呑みにした。 自分の家庭環境が他と違うことに気付き始めている時期でもあった。
それから、賢太郎はわがままを言うのを止めた。ただ単純に源之助に迷惑を掛けたくないと思ってのことである。
始めは物をねだるのを止めようだとか、食べ物の好き嫌いをなくそうだとか、そんな事だったような気がする。苦手だったニンジンやら漬け物やらを食べると源之助が褒めてくれたし、自分がわがままを止めたと話すと誰かの親だった女も「おじいちゃん想いねぇ」と言ってくれたから、それが正しいのだと信じた。実際それは正しかったのだろうと思うし、良い子になれた気がした賢太郎はそれからも良い子でいようと思った。
そのうち、良いも悪いも黙っているようになった。
源之助は盆栽いじりや読書やもちろん家事も含め常に何かやっている人で、その何かやっている最中に声を掛けるのは邪魔だろうと気遣うようになってから、そうなった。何か言いたそうにしている賢太郎の様子を察して源之助は声を掛けてくれるが、嬉しい反面やはり申し訳なくも思った。見よう見まねで家事を手伝って失敗して、やっぱり何もしない方が良いのかと思うこともあった。
小学三年生の時、授業参観を知らせるプリントを源之助に見せずに捨てた。先に書いた通り源之助を気遣ってのこと……ではなく、実のところ賢太郎は源之助を授業参観に呼びたくはなかったのである。
その頃賢太郎はクラスにあまり馴染めていなかった。自分なりの良い子を貫く賢太郎は、親にねだって買ってもらった玩具を自慢する同級生が好きではなかった。自分が嫉妬しているとは気付かずにどこか見下し、一方的に嫌っていた。
それに、自分の家庭環境が他と違うことを晒されるようで悔しかった。一年生と二年生の時は授業参観の度に同級生から何故おじいちゃんが来るのかと聞かれうんざりしていた。それに答えられないのも悔しかった。
しかし、賢太郎は親の事を源之助に訊こうとはしなかった。何となく、訊いてはいけない事のような気がしたのである。源之助からも何も言わないので、あまり話したくない事なのだろうと子供ながらに感じていた。
捨てたプリントが何故か源之助に見付かって叱られた時、賢太郎は捨てた理由を言うことができなかった。言えば源之助が悲しむのが分かっていたから、親のない不満を自分の中に押し込めて耐えた。そうして源之助のために黙っているのに、その源之助から叱られているのが悔しくて泣きそうなったのも耐えた。
賢太郎はただ、本当に、優しかっただけなのだ。
人を気遣って自分を圧し殺しているうちに、自分をさらけ出すことを恐れるようになってしまった。
忍が初めて賢太郎の前に現れた日の夕食、忍は自分の境遇を語った。賢太郎と信頼関係を築くために自分を晒した忍。本当ならばあの時、賢太郎も自分のことを話すべきだったのだ。そうして信頼関係が築かれるはずだったのに、そうしなかった。出来なかった。自分を晒け出すのを恐れ、ただひたすらに自分を殺し続けた。
賢太郎は良い子だなぁ。
遠く、源之助の言葉が思い出された。
「動くな!」
風の音も吹き飛ばす忍の声に、賢太郎は顔を伏せたままビクリと体を震わせた。賢太郎は目元を片手で覆ったまま動いていないし、そもそも忍が賢太郎に向かってそんな言い方をするはずが無い。しかし賢太郎は、探丸とお姉さんに向かって発せられたその台詞が自分を責めているような気がした。
探丸もお姉さんもそれで動かなくなったのか、一時の沈黙のあと忍がため息混じりに口を開いた。
「まったく、協力と言うから任せてみれば、揃いも揃って勘違いしておられる」
勘違い? という探丸の声のあと、忍が続ける。
「賢太郎様が忍の事をどう思っているかなど、全くどうでもいいことでございます」
そこから忍の声が近くなったので、恐らくこちらを振り向いてしゃがんだのだろう。賢太郎はずっと俯いて目元を隠しているのではっきりとは分からない。
「賢太郎様」
忍に声をかけられても賢太郎は返事をしないし顔もあげない。風でジャケットの襟がへろへろ頬をくすぐっているがそれを正そうともしない。
賢太郎様、と忍が優しい声で続けた。少なくとも、怒ってはなさそうだった。
「確かに忍は、賢太郎様が忍を必要とされているか分からず不安を抱えておりました」
賢太郎はいつぞや忍がなにか言いかけて止めたのを思い出した。自分のせいで賢太郎の顔が曇っていると思い、わざわざ高めの束子を買ってまで笑いをとろうとした忍。あの時に忍がそういう事を気にしていると知ったくせに、賢太郎はその忍の不安を取り除くような事を言ってやらなかった。
「正直なところ、探丸の言ったとおり、忍へのお気持ちを問いただすつもりでもありました」
忍の言葉が胸に突き刺さる。
思えば、忍はずっと賢太郎からの評価を気にしていたではないか。お礼を言えばやたらめったら喜んで、少し顔を曇らせれば自分のせいかと落ち込んで。探丸に言われるまでもなかったはずなのに、忍の「答えなくて良い」という言葉に甘えて知らない顔をしてきた。
「しかし、それはもう良いのです」
忍がハッキリと言った。微笑んでいるのが分かるような優しい声だった。
「忍の事をどう思っておられようとも、例え嫌っておられようとも、忍は賢太郎様に尽くして参ります」
やはり賢太郎は返事をしないし顔もあげない。忍の言葉にまた甘えそうになっている自分が嫌だった。それじゃ駄目だと思いながら、どこかホッとしている。卑怯で情けない、そしてそう思いながらも、やはり何も言わない自分が嫌だった。
目元を隠す賢太郎の手に、そっと忍の手が触れた。
「忍はまず、賢太郎様の不安を取り除くことに尽力すべきでした」
忍の手が賢太郎の手を握る。
「賢太郎様、隠す必要などありません」
目元を隠す賢太郎の手を下げようとする。見られたくない賢太郎は、力を込めて抵抗した。
「隠さなくても、良いのです」
抵抗むなしく、ゆっくり賢太郎の手が下げられる。
その下の顔を見た忍が
「ああ」
と喘ぐような声をあげ、賢太郎を抱き締める。もう仕方ないので賢太郎は忍の肩に目元を押し付け探丸から顔を隠した。
ずびび、と鼻水をすすり上げる音。
賢太郎は泣いていた。探丸とお姉さんに責められ関係ないじゃないかという怒りだったりそれを口に出せない情けなさだったり忍に嫌われたかも知れない悲しさだったり恐怖だったり今だって泣いているのがバレて恥ずかしかったり、とにかく色んな感情が賢太郎の中で渦巻いて、それを全部抑え込もうとして、できなくて、次から次に目から溢れだしてくるのであった。
両膝をついて片腕で賢太郎の頭を抱き、もう一方の手を背に回す忍は、大丈夫ですよと言った。
「大丈夫です賢太郎様、何も恐れることはありません」
卑怯だ、と賢太郎は思った。忍は賢太郎の頭を抱いておまけに背中をトントンあやすように叩くのだから、これはもうどうしたって安心してしまう。賢太郎はなんとか声だけは抑えるが涙はダバダバ溢れてきて申し訳ないことに忍の肩をびっしゃり濡らす。
「泣きたい時は泣いたって良いのです。不満があれば言って良いのです。自分を抑えてばかりでは苦しゅうございましょう」
忍がそっと賢太郎の頭に頬を擦り寄せる。忍の体温が匂いが優しさがそこにあった。こんなに近くに忍がいて、自分を理解しようとしてくれている。今なら何でも言えるような気がしたが、喉が焼けたように痛くって声は出せそうになかった。
賢太郎を一層強く抱き、忍は続ける。
「晴れの日は笑いましょう、雨の日は泣きましょう。人間素直が一番でございます。曇って雨が降ってまた晴れて、心も天気も同じにございます」
ずびび、と鼻水をすすり上げ、賢太郎は忍の肩から顔を離した。忍もその頭と背から手を離し、俯いたままの賢太郎にポケットティッシュを差し出す。
受け取ったポケットティッシュから1枚抜き取り涙を拭いて、軽く鼻をかむ。鼻の奥がツンと痛いし、喉も何か刺さったような感じである。
口を開いて、観念したように深く息を吐く。
「はー……」
ちょっと震えているが声は出せそうだ。
「……あー、どうしてこうなったかな」
涙はとまり、濡れた目元は風に吹かれあっという間に乾いていく。
涙の跡を消そうとポケットティッシュから一枚引き抜こうとしたら、間抜けなことに誤って全部引っ張り出してしまった。
「あ」
つまんでいた一枚だけを残して、ティッシュは風に流され夜空に舞い上がっていく。いつの間にか雲は晴れていて、空には満月とも半月とも言えない中途半端に太った月が大きく輝いていた。地上の繁華街の明かりやタワーの端々で明滅する赤い光のせいで星は見えなかったが、月だけの夜空はサッパリしていてそれはそれで悪くない景色だった。
「晴れましたね」
と忍が言った。賢太郎と同じく月を見上げながら、新しいポケットティッシュを差し出している。まさかの二つ目である。
賢太郎は「うん」と答えようとしたが、かすれたような言葉にもならない声しか出なかった。
目元を拭いながら新しいポケットティッシュを受け取り、賢太郎はまた俯いて息を吐く。
「はー」
これまでの自分を思い出してまた自己嫌悪がぶり返してきたが、今はもう抑え込もうとは思わなかった。
「ごめん忍、なんか色々」
いいえ、と忍が首を振る。
賢太郎は涙を拭いたティッシュをくしゃりと握り潰して、本当はさ、と続けた。
「本当は、家事とか俺もやろうと思ってたんだけどさ、寝る場所も、あんな屋根裏じゃなくて、なんか、言えなくてさ」
支離滅裂になりそうな気がしたので、無理矢理「ごめん」と締め括る。
いいえ、とまた忍が首を振った。ティッシュを握る賢太郎の拳に自分の手を重ねる。
「賢太郎様の心根がお優しいのは、この忍よう知っております」
賢太郎は自分の手に重なる忍の手を見つめて、何故だかまた涙が出てきそうになって、誤魔化すように「あー……」と声をあげた。
「なんか他にも言わないといけない気がするけど、今言うとまた泣きそう」
ふふ、と忍が微笑んだ。
「慌てることはございません。忍はいつまでも待ちますよ」
賢太郎もつられてヘラっと笑い、大きく息を吸って顔をあげた。
目の前に、明滅する赤い光に照らされた忍の顔があった。潤んだ瞳を輝かせて微笑む忍に、賢太郎も照れ臭そうに笑って言った。
「帰ったらさ、全部話すよ」
きちんと話そう。昔のこと今のこと、自分のこと。何を思って何を考えているか。そして――
忍が花の咲くようにニッコリ笑う。
「はい」
――忍のことを、どう想っているか。
賢太郎はまた気が抜けたように笑い、鉄柱にもたれて胡座をかいた膝に手を置いた。
「よし、帰ろう!」
はい! と忍が元気よく返事をして立ち上がる。そして困ったようなわざとらしい口調で言う。
「しかし賢太郎様、ここにはなにやら私達の邪魔をする者がいるようでございます」
その奥で退屈そうに鉄柵に腰かけている探丸。お姉さんはどこにいるか分からないが、二人とも長いこと待ってくれたのでやはり根は悪い人ではないのだろう。まぁ、だからといって今から賢太郎の言う台詞が変わったりはしないのだが。
忍のわざとらしい言い方がおかしくって、賢太郎は笑いを漏らしながら答えた。
「ふは、うん。そうだそうだ。うん、忍」
はい、と頷く忍を見上げて賢太郎は言った。
「二人ともやっつけて、早く帰ろう」
「承知しました!」
元気よく返事をした忍は両手を左右にバッと広げて、まるで柏手を打つような……。
ってこれはまさか。
賢太郎は慌てて目を閉じ耳を塞いだ。
「猫騙気発掌! 光だけバージョン!」
早口に忍が言い両手を打つ。実際には手は当たっておらずこれが通常版と光だけバージョンの違いなのだが、まぁその瞬間には目も眩むどころか視覚を潰すような光が炸裂しているので、そんな手元の細かい違いを見るなんて不可能な話である。
ていうかなぜ今この技をやったのか。
疑問を抱きつつ、真っ白な視界がぼんやり回復するのを待つ。しばらくしてようやく夜の暗闇が見えてくると、目の前にいたはずの忍が消えている。代わりに少し離れてお姉さんか立っている。その奥に見える探丸は鉄柵に腰かけたままである。サングラスであの光は防げたのだろうか。
それはともかく忍の行方である。賢太郎はお姉さんと探丸が月明かりの方を見ているのに気付いて、自分もそちらの方を振り返った。
爛々(らんらん)と輝く楕円の月、その下。鉄柵の上に立つ1つの影があった。
「忍び忍んで15年!」
赤い光が明滅しているせいで分かりにくいが、そのコスプレ紛いの忍者服は今さらいうまでもなく絶対にピンクなのである。
「命捧げて主に尽くす!」
くるりと横に1回転。長いポニーテールが風に流れる。そして片足曲げて腰に手をあて顔の隣で横ピース。
「美少女くノ一! 忍取忍ただいま見参!」
残念ながら遠目だし赤い光の明滅であまりよく見えないが、たぶんウィンクもしているはずである。
「キラーン!」
効果音だって忘れない。
まったく見えん、という探丸の声が聞こえたのかどうかはともかく、忍は鉄柵の上に仁王立ちになり高らかに宣言した。
「さぁ! ここからは忍の独壇場にございます!」
という事でやっとバトルである。
ふぅ、やっと山場を1つ乗り越えた感じである。
シリアスで結構気を使って書いたので、もう次回からはババーンのべべーンと適当に書きたいのが正直なところ。
さてとにかく次回からは本文ラストにも書いた通りバトルである。
次回『オリジナル』
乞うご期待!
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